洛中洛外 虫の眼 探訪

2012年 如月

2012年2月表紙

【表紙】『うらめしやわが隠家は雪隠か、来る人毎に紙おいてゆく」と歌った仙崖の書画は、その在世中から相当の価値が認められていたらしく、みんなにせがまれて、ほとほと閉口しながらも、人が頼めばしようこともなしに筆をとった。
 「老人六歌仙」と題された書画を三つ見つけた。上の老人達である。画賛は、三つともほとんど差異はない。順番が違うか、心が「曲がる」のが「ひがむ」になっているくらいである。上の表紙にある三ヶ所三様の六老人の集まり、左中央右上右下のスケッチをクリックしてみてください。これ以外にも、下に写したように「慾深くなる」が「口よだれくる」にかわっているのもあるようだ。

虫の眼文庫目録 しわがよる ほぐろが出きる 腰曲がる
 頭がはげる ひげ白くなる
 手は振う 脚はよろつく 歯はぬける
 耳は聞こえず 目はうとくなる
 身に添うは 頭巾 襟巻 杖 目鏡
 たんぽ をんじゃく しゅびん 孫の手
 聞きたがる 死とむながる 愚痴になる
 出しゃばりたがる 世話やきたがる
 くどくなる 気短かになる 淋しがる
 心はまがる 口よだれくる
 又しても同じ噺しに子を誉める
 達者自まんに人いやがる

鶴乃子そして最後に、この版では

 仙崖は物書役でなけれども
 人がたのめばしようこともなし

と結んでいる。これは、博多の銘菓「鶴乃子」を考案した石村萬盛堂の二代目石村善右氏が生前に残されていた原稿を、ご子息の僐悟さんや筑紫豊氏の尽力で出版されたSenngai 4「仙崖百話」(文献出版, 1980)に記載されていたものである。著者の石村善右氏は、仙崖に劣らず立派な人であった。「仙崖百話」の第三十二話で、
『仙崖は学問に志す人に向かって、こう言った。
「博学強記にして智慧なきは、なお盲者の燭をとるが如く、ただに自己に無益なるのみならず天下の笑いとする」
 所謂、秀才と称する人種は真の智慧を会得することが甚だむずかしいものである。
 法律学者が増えるに従って犯罪は多くなり、いくら経済学者が増えても世の中ちょっとも楽にならない。科学者が賢くなり過ぎると死の灰をふらす。(以下略)』
とある。
 最後の一節は辛辣である。善右氏が引かれた仙崖の言葉は「智慧なき学者は天下の笑い」であったが、善右氏は「それだけですない、ひどいことをやる」と言い切っておられる。ただし、仙崖も、
『文字の學は多しと雖 知眼明らかならざれば 猶盲者の燭を執るがごとし 益なくして害あり 奚能く彼の岸に到らんや』
と別の一幅に賛していることを付け加えておく(右上の図)。



 
洛中洛外糞尿譚   番外 汲み取り昔語り
 平安時代から出発して江戸時代まで書き継いできた洛中洛外糞尿譚が中断して久しい。最後の「宇治茶の香りと京の下肥」はまだ江戸時代の話であった。予定では、あと少々江戸時代の話が続き、次に幕末から明治維新、明治・大正時代、昭和へと続けるつもりである。最後に自分の経験した汲取式便所の話で終わりとしたいと思う。
 今回も本題はちょっと中休みで、京都の町で見聞きされた汲み取りにまつわる昔語りを3つ紹介する。単に資料を集めて、その解説とともに掲載しただけの代物である。
 その一つは五色豆の「豆政」の三代目の角田憲治さんのかたり話。これは、名編集者八木岡英治氏が聞き取られたもので「雨の夜明けの物語」に収録されている。二つ目は『育児の百科』(岩波書店)で知られた松田道雄さんの思いで話。彼の膨大な著作の一つ「花洛―京都追憶―」(岩波新書 青945)に載っている話である。このおふた方の話は汲み取ってもらう方からのもの語りであるが、三つ目は、汲み取る方からのかたり話で、筆者が西山の大原野灰方の長尾さんから聞き取った時にメモである。

『肥ェ、肥ェーっ』 
豆政 2 伝説の編集者といわれる八木岡英治氏が「豆政」の3代目角田憲治から聞き出された聞書き「町に流れたこえ」の中に出てくる一節である。これは、京都の記録(全六巻)の別巻として絡められた聞書集「雨の夜明けの物語」の最後の「その四 町の人」の、そのまた最後に収録されている。
松岡 本の大路小路 京都の記録(全六巻)の存在は松岡正剛の「本の大路小路」で紹介されていて知った。「このシリーズはめったに手にはいらない」で始まり「こんな京都の写真、最近見ない。」で終わる紹介文の挑発に乗って、このシリーズの全巻を手に入れたのだが、これには、松岡の紹介文にはないおまけの別巻が付いていた。写真はないが本巻と同じ大きさのB5版で、260頁余が全部聞書きで埋っている。最初が祇園の老妓吉勇の「雑魚寝の夢」で、最後が当該の聞書きで、「町に流れた声 絶滅した京都への回想」と題されている。ここまで読み続けてやっと「肥の声」」の話がでてきたのである。この章の冒頭からここに至るまでを下に抜き書きした。「町に流れた声」にでてくる「声」は子供の頃、見聞きしたものもあり、とても面白い。「町に流れた声」の全文を参考のため別途掲載したので角田翁の声を読んでみてください。


 『先年、わたくし長患いしまして、ねておりましたときにも、しみじみ思うたんですが、近年は京の町に、人の声がきかれんようになりました。ほんま、さびしいですわ。そら車の音、スピーカーの音、機械の音はよおけありますけど、人の声ちうもんがありません。そうどす、物売りの声どすな、はよ言うたら。ま、そればかりとは限りませんけど、これがわれわれ京に住むものの近ごろの言葉でいうたら生活感覚、いいますのかなあ、季節感とも深う重なって、そら思うたよりだいじな役してた、と言えるのやないかしらん、思います。なにごとでも、そうでっしゃろけど、無うなってみてはじめて、ああ、あれはほんまは大切にせんならんものやったのやなあ、とようよう腑におちるもんです。今、京都はどんどん、壊さはってますけど、無うなってしもてから、ああえらいことをしてしもうた、いうことになりますのやろな。
 物売りの声どすか、そら、いろいろあります。ぎょうさん来ましたで。まず白川女、花売り。箕を頭にのせて、花をいっぱいのせて、まあ仏花が多いのんどすが、うちィも持って来ておりました。今でも来ることは来よりますがリヤカーを引っ張って得意先に黙って届けるだけどす。むかしは振りで、流しとった。番茶もいっしょに売っとりました。
 (はな、番茶、いりまへんかあァ)
いうて来ますね。
 (おはなどうどす。おはないりまへんかア)
とも言います。これが一日のはじまり。レギュラー・メンバーの一番早いの、このごろのように寒いときですと、吐く息がパッパッ見えましてねえ。これは大原女とちごて、花売りは粋どしたねえ。白い手拭、頭にかぶって、白い手甲、脚絆。お腰(腰巻き)も白でした。三巾前垂をからげてこのお腰を見せますから、じっさいに若嫁さんやら出とったんで、ちょっと色気あったんですねえ。むちむちした、みずみずしい躯がみえたり。これは北白川から出てくるので、昭和の初年ごろまでが盛んだったのやありまへんか。大原女とよう混同されますが、こっちの方は衣裳も違いますし、柴なんかあんまり売れまへんから、もっと早うに無うなってましたなあ。夏のころになると、番茶のほかに、はったいのこ(麦こがし)も、いっしょに持って来てました。それから順にいうたら、近在のお百姓はんが下肥をあつめに来ましたなあ。
 (肥ェ、肥ェーっ)
それから
 (水菜ァ、蕪ァ、しょんべんしようィ)
と言ってくる。それは、水菜や蕪としょうべんを代えましょう。まあ物々交換ですわな。
肥の長大(大八車)のまんなかに籠をおいてそこに野菜を積んでまして、汲ましてもろたお礼にひと東くれるわけですわな。これはだいたい持場がきまっておりまして、借家をようけ持ってる家主さんとこへは年に一ぺん、お米何升とか、もち米何升とか、お礼にもってきよりました。これは大正のかかりで、しまいでしたか、昭和になってからはそろそろお金をとりよったようですなあ。』


 角田翁が語られた内容もさることながら、何と見事に、町中の京言葉を紙に活字として吸い取られていることか。さすがに名編集者の誉れ高い八木岡氏だけのことはある。全集「現代文学の発見」の編集の中心にいた八木岡氏が、全集の別巻「孤独のたたかい」に解説を書いているが、そこに次のような彼のプロフィールが載っている。
『1911(明治44)年 京都府に生まる。京大文学部卒。1年上に大岡昇平がいたが、終戦後彼の最初の小説の原稿依頼者として相会うまで顔を見たこともなかった。学校に関する一切のものを嫌悪し、一種無頼の放浪に青春を徒費した。容易に小説の形をとりうるごとき文学に疑いをもち、23才にはじめての作品『終り』を小さな同人誌に発表、一部の評価を得たが、そのまま長い闘病の生活に入る。戦時下、文学のなすべからざるを知り、編集者の道をえらび中央公論社、NHK、戦後ふたたび中央公論社へ。のち季刊文芸誌『作品』を主宰し、文学における新しい熱源の所在を模索した。文学と自己に課することあまりに多く、余事に韜晦する傾きがある。今は出版社に身を寄せ、『全集・現代文学の発見』に熱中している。』 
 ここで紹介した全7巻の「京都の記録」の別巻の末尾に彼のあとがきがある。その中から聞書きの苦労話と思しき部分を下に抜粋した。どのような文脈の中で綴られたのか、誤解を招いてしまうことを恐れて、あとがきの全文を別に絡め手おいた。

 『昭和の早いころ、人は見たであろう、京都の町を、辻から辻へ、背をこごめて歩きまわる痩せ犬のような学生を。三十年後、学生は老い、同じように空虚な眼と重い背中を負って歩いてゆく。違っているのは肩に食い込んでいる重い鞄があることであった。鞄にはテープレコーダーが入ってい、テープの数は三十本以上におよんだ。ここに収録できなかった方々がたくさんある。お詫びしなければならない。
(中略)
 それからこの本に限って言えば、ここに書かれた文字は(会田さんのを除いて)断るまでもなく、私が自分のペンで書いたものであるから私個人の責任である。聞きちがえも多いだろうし、人の話というものは古往今来、対話者の間の瞬間の出来事らしい錯誤によって構成される。また話をそのまま文字にして読めるものでもなく、書き手の悪さが必ず割りこんできて、話者はどちらかといえば迷惑をこうむっておられる側なのだ。もしお叱りいただくことがあったら、ぜひ私に言っていただきたい。しかし人間の事は、すべて時の浄化作用の下にある。往事茫々、流れ去ったことはすべて夢である。雨の夜明けの寝ものがたりである』


『しょんべあるか』
 これは、松田道雄氏のお母さんが、見事な大根を積んだ車を引いていた男に、一本いくらかとたずねたときの、男の返事である。「花洛―京都追憶―」(岩波新書 青945)に載っている話である。
 松田道雄氏は茨城県の利根川の支流に沿った水海道に1908(明治41)年に生まれた(八木岡氏の3つ年上)。生まれて6ヶ月した翌年の4月に京都にやってきた。父が、京都大学の狂犬病研究室の主任に命じられたからである。
 最初は聖護院山王町の借家住まい、1年ほどして東丸太町の仲小路に引っ越している。彼は幼児期の大半をこの界隈で育った。その後1914(大正3)年の春、父が烏丸通に面した蛸薬師下がったところに「松田小児科診察所」を開業したので、裏の貸家に家族共々引っ越した。
 「花洛」の大半は、京都の町中、中京の明倫小学校時代の思い出を綴ったものである。この中に汲取のことが少々出ている。下に掲げる『しょんべあるか』が綴られている部分は、聖護院時代のもので、母親から聞いてい話である。彼の思い出とともにいろいろ資料にあたって、東国と京都の風習の違いが書かれている。

 『京見物の祖父母をおどろかせたものに、京都の女の人の排泄の異様な姿がある。
「女が立ってしてんだよ」そういった祖母のみたものは、私も知っていた。花売りのおばさんが、急に路上で塀に背をむけ、膝をまげずに上半身をふかく屈したとき、はじめなにをするのか、わからなかった。
 京女は優雅なものときめている東国の人間に、その情景は衝撃だったのだろう。すでに享和二年に曲亭馬琴は「軒旅漫録」に「女児の立小便」という項をもうけていっている。
 「京の家々かわやの前に小便たごありて、女もそれへ小便する。故に富豪の女房も小便はことごとく立て居てするなり。ただし良賤とも紙を用いず。妓女のみふところ紙をもちて便所ヘゆくなり。月々六斎ほどづつこの小便桶をくみに来るなり。或は供二三人つれたる女、道はたの小便たごへ立なから尻をむけて小便するに吐るいろなく笑ふ人なし」
 姿勢がおかしいばかりか、排泄されたものを京都の人が珍重するらしいのが、東国の人間には奇異たった。
 十返舎一九は「東海道中膝栗毛」で弥次郎兵衛と喜多八とが清水寺から三条の旅宿にいく路上で小便たごと大根とをになった男が
 「大こん小便しよ」とふれてあるいているのに、であう話をかいている。
 その場で小便をして大根をもらおうと、京男が二人、道路からひっこんだ場所にたごをおいてもらって放水するが、その量では大根三本にたりないといわれる。それをきいた喜多八が一本分がとこ、たすけてやる。
 江戸っ子の十返舎一九には、京都の人間がひどくけちくさくみえたのだろうが、これも江戸と京都との近郊農業のちがいである。京都近郊では、大根と菜とには、肥料に小水しかつかわなかった。小水だけあつめるのに、町にたごを配置したのが、京女に特別の姿勢をとらせることになったのだろう。
 「皇都午睡」にも「さても小便を寵愛するは京の事也」という書きだしで、「膝栗毛」のさきのくだりにふれたあと、
「大坂にても適々往来の小便桶へ、婦人の小便する事、老婆幼稚の者は人目も恥ねど、若き女の小便するふりは余り見るべき姿にあらず。江戸は下女に至る迄も小便たごなければ、よん所なくかはしらねど、皆厠へ行ゆえ是だけは東都の女の方勝くじ也」
とかいてある。ここに勝敗をもちだすのは偏見だ。近郊農業に協力して容器の高さに応じただけだ。
 母は京都にきたころ、このかわった風習にまごついた話をよく聞かせてくれた。聖護院の家の前に、みごとな大根をつんだ車がきたので、母は一本いくらかとたずねた。車をひいていた男は、家の中をのぞきこんでいった。
「しょんべあるか」』


馬琴旧宅 ここで引用されている曲亭馬琴の「軒旅漫録」や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や西沢一鳳の「皇都午睡」などは、すでに、洛中洛外糞尿譚 の「下肥文化東西比較」で取り上げた江戸時代の資料であるが、明治の終りから大正にかけてもまだ、京・町中の風習に、関東からやって来た人の耳目を驚かせるものがあったのだ。なお、右に掲げた古い繪葉書は馬琴の麹町旧宅である。古い巨樹の絵はがきを集めたアルバムのなかに混じっていたのを偶然見つけた。馬琴が自宅の汲取に多大の苦労をしたはなしは、<厠から馬琴の家を覗く>に書いた。
 『近郊農業に協力して容器の高さに応じただけだ』と女の立小便を擁護しているのは特筆に値する。肥え取りを野菜の振り売りと間違う話で「しょんべあるか」と母から聞いたと記憶しているが、角田翁の話にも出て来たように、小便だけを集めてまわっていた人がいたことの証で、東海道中膝栗毛の話もまんざら作り話ではない。
 烏丸蛸薬師下るに引っ越してからの思い出に次のようなものがある。

『車道には砂利が敷いてあった。車輪に踏みならされて路面は固かった。でこぼこがあって雨の日には水溜まりになった。
 車では馬車がおおかった。四輪だが前輪は小さく、後輪の輻の中央に鉄の鎖がさしてあって、車軸がゆれるたびチャリンチャリンと鳴った。馬車をひく人は馬の手綱をとって先にたって歩いた。よく荷のかげにかくれて、車の後部にとびのって、後向けに腰かけるのだが、すぐみつかってしかられた。
 農家がひいてくるのは牛の車で二輪だった。肥桶をのせているのがおおかった。
 夏にひでりがつづくと、市のマークをつけた赤茶色の水槽をのせた撒水馬車が通った。これは御者台に人がのっていた。タンクをつんだ水撒き電車も通った。
 家畜にひかせる車がおおかったから車道にはいつもその排泄物がみられた。排泄の現場もみせられた。』


滝田ゆう 死亡記事 このくだりは、滝田ゆうという漫画家の名作「寺島町奇譚」にしばしば描かれている情景を彷彿とさせるものがある。「寺島町奇譚」の主人公「きよし」が過ごした東京の下町を描いたの数コマを下に掲載したが、それと上の松田氏の小学校時代の追憶とをくらべると、時代の差は感じられない。昭和7年生まれの滝田ゆうは、松田が小学生時代を過ごしたはころの京都の下町の情景を知っているわけではないのに、何か共通するものがある。「下肥文化」とも言うべき時代が終戦後までしばらく続いていたといえるのではなかろうか。昭和に入ってからすぐ、有料で汲み取っていく時代が来たのではあるが、近郊農業にとって町家から出てくる屎尿は、化学肥料全盛時代が到来するまで有用な資源であり続けた。
滝田4

滝田ゆう「寺町町奇譚 第10話 カンカン簾」より


滝田5
滝田2
滝田1

以上3コマは滝田ゆう「寺町町奇譚 第9話 えんがみみとんがった」より


『こえとくい』
 京都西山の大原野灰方の長尾さんは、京都の町中に肥の得意先(こえとくい)を5、6軒もっていて、三日に一度は京都市内の烏丸五條辺りまで肥汲みにいっていた、という。
 大原野は山陰街道の南、背後に大原山(小塩山)負い、前方東に乙訓の広野を望む西高東低のなだらかな傾斜段丘地からなり、竹やぶが生い茂る間に農家が集落をなして散在する牧歌的な農村地帯であった。
 長尾さんは、ここで米・タケノコをつくり、裏作には麦と菜種を栽培し、大麦を、農協を通じて朝日ビールにおさめていた。9ヶ月かけて育てた麦が5俵で1 万円程度だったと記憶されている。
 14才のときに父が脳溢血でなくなって以来、男手一人となり、女ばかりの一家をこうして支えて来た。そのため、三日に一度は下肥を求めて京都市中まで出かけて、汲取りをしていた。
 当日は、朝の5時に家を出発して、得意先のある市中には9時頃に着いた。それから何軒か汲み取って、帰りは重い担桶を引いての段丘地へ上って行かなければならなかった。行きしなよりもっと時間がかかったことは間違いない。日の短い冬場は日の沈むのを見ながら、夏場はきつい西日を浴びながらの帰宅となったことだろう。
 道筋といえば、向日町から久世橋を渡って吉祥院、九条通りを大宮まで行き、そこから北へ烏丸五条あたりまでいった。時にはもっと北東の錦の柳の馬場あたりまで足を伸ばした。
汲取ルート 昭和20年代の後半で1架(2樽)50 円くらいもらっていたと記憶しておられる。昭和27年で汲取はやめて、化学肥料に転換した。使っていた牛は7 万円で売って耕耘機を14 万円で購入した。
 農業以外にも勤めに出るようにもなった。昭和37年の28才のときから40 才まで三菱製紙の印画紙製造工場で3交代勤務に出ていたし、昭和46 年4月に開設された立石電気の社員寮(3棟150 名)の管理人として、当初より長らく勤めてきた。いまでも寮生の同窓会に招待されるくらいであると、ちょっと自慢げであった。

 『本格的に汲取、やるようになるまで、といっても親父が死んでから、今の中学生の年頃から汲取にずっと出ていたんやが、それまでに、戦争中に通ってた小学校の校庭を耕やして、畑にしていたんやけど、そこに入れる「こえ」を、下の、もっと生徒の多かった学校まで、酒の樽を引いていって、もらいにいったことがあった。それが汲取りやったはじめや』
 『唐橋のガードは牛に禁物やったな、市電がギーギーいってカーブをまがるさかい、その音にびっくりして、怖かったんかもしれんけど、牛が跳びはね全速力で走り始めよった。まあ、馬みたいに「ギャラップ」をはじめてよって、も~う、おさえるのに必死やったで。前を駈けてた、一緒に汲取にいってた仲間の車にぶつかってようやく止まったや。ほんまにどうしょうかとおもったで。』

ここまで臭いがただよってくるかと思うほどの熱べんであった。

『昭和29 年頃のと思うんやが、 バタコでしょんべん取りにいってるときの写真がこれや。 化学肥料になってからも、「共同つぼ」いうのがあってがあって、朝鮮人の人がそこへ下肥を運んできて、いれとったなあ。それから、和歌山の密柑農家のひとに、配給の化学肥料を横流しして、下肥を使うこともあった。 そんなこと思い出すさかい、昭和の30年代になってもまだ汲取もしてたんと違うかいな。
 こえ入れとく野つぼかいな。たたき灰と石灰で作ってた。そうやなあ、50ℓ暗い入る大桶6 架、天秤棒で前後に担いだのが1架や。そやさかい6 架ゆうたら12 桶やなあ。それが3 回分入るほどの大きさや。結構大きかった。薄暗なって、道に迷って狐にだまされ、野つぼに浸かって「え~湯や」とかなんとかゆうてたちゅう話もあるさかいな。
 こえだけやなしに台所排水も溜めて肥やしにしてた。それを「すいか」というんや。何処でもやってたやろ。今は何でもすぐ下水道に流してるけど。』

以上『 』でくくった部分は、長尾さんの口から出た通りではない。筆者のかってな語り口で、メモにあったことを含めて創作したものであることをお断りしておく。どの部分が創作かが分かるように、メモ書きを添付しておく。
メモ/長尾聞き取り



工事中だった「洛中散策 粟田口界隈」の続き
     「3鍛冶神社と4尊勝院」ができました。


 
フクシマ以後 『脱原発依存』症候群
 フクシマの事故後、当然のようにいわれ始めた「脱原発」。それ以外にも「減」とか「卒」とかを冠した原発が新聞の紙面に踊っていたが、最近は『脱原発依存』が定着してしまったきらいがある。何か官製用語っぽい分かりにくい日本語である。
 最初にこの表現を目にした時、『「脱原発」依存』と読んでしまい、何の意味かよく分からなかったのである。あまりに「脱原発」ばかりいわれているので、その依存症を皮肉った表現ではと思ってしまった。それが『「脱」原発依存』と読むのだと気がつくのに一ヶ月以上かかったのであるから、老人ボケもいいとこ、である。「反原発ボケ」といってもいいかも知れないが。
 以下は、反原発原理派の「反原発ボケ」の所以を書く。そもそも原発依存を強いたのはだれか。依存するしかない構造を作り出したのはいったい何なのか。そうしておいて今度は、そこから脱せよとのたまっている。官も民も新聞も。
 「脱依存」であるから、依存しなければ原発はあってもいいのである。そこで、まず原発輸出が公認される。次に、石油や石炭では電気料金があがる、適当に太陽光発電や風力発電と原発の電気を混ぜた方がいい、将来自然エネルギーへ移行するまでは、原発をつなぎにすればいい、というわけで既存原発の運転が再開され、元の木阿弥「原発依存」構造が復活する。
 次にくるのが、原発新設である。既存の原発は遠からず寿命が尽きる。それに替わるものぐらいは作らねばと。それだけの理由では弱いとなれば。殺し文句の「停電するぞ」でもって、もっと原発を建設しようということになる。
 一方、脱原発派は、自然エネルギーの電気、太陽光発電や風力発電を大規模に建設することで原発から脱せられるといい、近年の原油の需要増と価格高騰で、原油に代わる資源として広大なオイルサンドがあるともいう。また電気自動車が奨励されている。
 どちらもどちらである。原発は「放射性廃棄物」の問題を抱えたままであり、大規模な太陽光発電は、半導体製造に伴う公害や、未だ顕在化していないが、大量の太陽光パネルの廃棄のことなど、環境要因にも目を向けなければならないし、風力発電の騒音はすでに問題となっている。オイルサンドの開発にいたっては、すでに先住民の土地を奪い、環境破壊をもたらしている。欧米では開発が緒についたとたんに反対の声が上がっているのはもっともである。 ナショナル ジオグラフィック誌の記事とビデオを下に付録として転載しておいた。いい記事だと思う。NGM Japan のロゴナショナル ジオグラフィック誌の日本版のロゴに、「私達は、まだまだ、知らない」という語句が入っているように、まだ日本で話題になることは少ない。
World Energy Consumption ではどうすればいいのか。語られるべきは、『脱エネルギー依存』であり、『脱原発依存』ではない。右の新聞記事中のグラフにあるように、30年前の1980年代の世界のエネルギー消費量は現在の半分である。昨今、地球温暖化を理由に炭酸ガス排出をめぐって先進国と発展途上国の綱引きが行われているが、先進国はCO2排出削減に原発をとか、人口一人当りのエネルギー消費量CO2枠の取引など姑息なやり方をやめて、大幅なエネルギー消費の削減をしてその一部を発展途上国に回してはいかがなものか。エネルギー消費の不均衡な構造は右の図から一目瞭然である。この不平等なエネルギーの消費構造は、国家間だけではない。昨年来のアメリカでの「格差デモ」で顕在化したように、先進国の国内に置いても。心のレストラン必要以上のエネルギーを消費している富裕層と暖をとるのもままならない貧困層との二極化が進行している。フランスでも、暖房費と家賃を払うと日々の糧も買えなくなる人たちが、施しを受けて口凌ぎをしていることが、冬になるとしばしば報道されるいでいる。
 世界はエネルギー消費の削減と同時に、生存権として平等にエネルギーを需要できる社会に向かうべきだ。



付 録
オイルサンド表紙
文=ロバート・クンジグ 写真=ピーター・エシック(ビデオはここ)
ナショナルジオグラフィック/日本語版 2009年3月号より

 カナダでは、油成分を含む砂「オイルサンド」の大規模な採掘が進む。富も環境汚染も生む、この新たな燃料資源の実態に迫った。

 黒くて粘り気が強く、冷えると固まるタール状の油。そんな扱いにくい物質を含んだ砂岩が、オイルサンド(油砂)だ。大量の水と燃料を使って砂から油を抽出すれば、ガソリンなどの原料となる「合成原油」をつくれるが、かつては生産コストや環境負荷の高さから採掘が見送られていた。だが、近年の原油の需要増と価格高騰で、原油に代わる資源として開発が本格化している。広大なオイルサンド鉱床が横たわるカナダのアルバータ州で、その実情を追った。
 アルバータ州北部を流れるアサバスカ川の近くに、先住民居住区の一つ、フォートマッケイがある。ここで生まれ育ったチペワイアン族のジム・ブーシャは、1963年のある日の出来事をはっきり覚えている。
 当時7歳だったブーシャはその日、祖父に連れられて、村の数キロ南の森に仕掛けておいた狩猟用の罠を調べに行った。この森は、カナダの国土の3分の1以上を占める北方針葉樹林の一部で、当時はまだほとんど開発の手が及んでいなかった。州政府が砂利道を整備するのは何年も先のことで、当時この村に向かうには、ボートか、冬場は犬ぞりしか交通手段がなかった。
 フォートマッケイに暮らす先住民、チペワイアン族とクリー族は、外界からおおむね孤立して暮らしていた。ヘラジカやバイソンを捕らえ、アサバスカ川で魚を釣り、森でクランベリーやブルーベリーの実を集めるという伝統的な狩猟採集生活をする一方で、ビーバーとミンクを罠で捕獲し、毛皮を売って現金収入を得ていた。フォートマッケイは小さな毛皮の交易地で、当時は電気もガスも水道も電話もなかった。村にこうした文明の利器が入ってきたのは1970、80年代になってからだ。
 とはいえ、少年だったブーシャが変化を肌で感じるようになったのは、1963年のその日、ミルドレッド湖近くの、祖父がよく罠を仕掛けていた動物の通り道に着いたときのことだった。「こうした道は、何千年も前からあったものです」。昨年の夏、フォートマッケイにある広々としたオフィスで、ブーシャは話してくれた。
 「ところがその日行ってみると、いきなり森が開けて、目の前に広大な伐採地が広がっていました。70年代になると開発がさらに進み、祖父の丸太小屋も取り壊されてしまいました。事前の通告も話し合いも、一切ありません」
oilsand2 それがブーシャとオイルサンド業界との初めての出合いだ。開発は90年代末以降、急ピッチで進み、アルバータ州北部のこの一帯の風景を大きく変えた。ブーシャ自身も、先住民居住区の首長となり、オイルサンド業界にサービスを提供する地元の経済団体「フォートマッケイ企業グループ」の会長も務めて、この業界とは切っても切れない関係にある。
 かつて森があった一帯は、今では大規模な露天掘りのオイルサンド採掘場となっている。ここではカナダ最大の石油会社シンクルードが、高さ20メートル近くもあろうかという電動ショベルでオイルサンドを掘り出し、80℃程度の熱湯(場合によっては苛性ソーダ)をかけて、砂に付着した粘っこいタール状の油を抽出している。この油は「ビチューメン」と呼ばれている。
 採掘場のそばには、煙突から炎を上げる設備がある。これはアップグレーダー(改質装置)と呼ばれ、ここで粘性の高いビチューメンに熱と圧力を加えて、「シンクルード・スウィート・ブレンド」という商品名の合成原油を生成する。この工程を「改質」という。こうしてようやくできた合成原油は、パイプラインでアルバータ州の州都エドモントンやオンタリオ州、米国の石油精製施設に送られる。
 採掘場の近くには、ミルドレッド湖よりもはるかに大きい、面積10平方キロの人工貯水池がある。ビチューメンを抽出する過程で出る有毒物質を含んだ排水や泥は、この池にためられる。池を囲む砂の堤は、砂の量では世界のダム湖の中でも最大級の規模に達している。
 この地でオイルサンドを採掘しているのは、シンクルード社だけではない。ブーシャのオフィスから半径35キロ圏内に6カ所の採掘場があり、日量75万バレル近い合成原油を生産している。開発は今後さらに進む予定だ。オイルサンド層が地下深くにある場所では、パイプを通して地下に大量の熱い蒸気を注入し、ビチューメンを流動化してポンプで汲み上げる「油層内回収法」という技術が使われる。
 オイルサンド業界は、2008年だけでもおよそ1兆8000億円、過去10年間では4兆5000億円以上の建設投資を行ってきた。2008年の秋に原油価格が急落するまでは、数年間でさらに9兆円が投じられ、2015年までに生産量は倍増し、そのほとんどは、新たに建設されるパイプラインで米国に輸出されると予想されていた。経済危機で多くの拡大計画が凍結されたが、長期的にはオイルサンド産業は今後も成長を続けると見込まれている。
 国際エネルギー機関(IEA)が昨年11月半ばに発表した報告書では、2030年には原油価格は1バレル120ドルに達すると予測されている。オイルサンドから合成原油をつくるには多額のコストがかかるが、原油価格がこのレベルで推移すれば、十分採算がとれる。

1バレルとるのに土砂4トン掘削
oilsand3 いま地球上で、アサバスカ川流域ほど急速に人工的な“浸食”が進んでいる場所はない。地表近くにあるオイルサンドを採掘するには、まず木々を切り払い、土砂や泥炭といった表土を取り除かなければならない。1バレル(約160リットル)の油をとるのに、表土を平均2トン掘り出し、さらにオイルサンドを2トン採掘する。その後、数バレルの熱湯をかけてビチューメンを砂から分離し、改質する。
 この工程で出た汚染水は、貯水池に流す。今ではこうした貯水池の総面積は130平方キロ(洞爺湖の2倍弱)に及ぶ。昨年4月、500羽ほどのカモの群れが、渡りの途中で貯水池に飛来し、油にまみれて死ぬという悲劇が起きた。
 オイルサンドから1バレルの合成原油を得る過程では、サウジアラビアの油田で同量の原油を採掘するのに比べ、3倍以上の二酸化炭素(CO2)が排出される。世界全体のCO2排出量にオイルサンド産業が占める割合は0.1%足らずと、今のところ地球温暖化に大きな影響を及ぼす量ではない。しかし、多くの環境保護活動家は、オイルサンドの開発をこのまま進めれば、それ以上に環境負荷の大きいオイルシェール(油頁岩:ゆけつがん)開発や石炭の液化事業といった、非従来型石油の開発に道を開くことになると警告する。
 「北米にとっても世界にとっても、オイルサンドをどうするかで未来が変わります」と、カナダの環境シンクタンク、ペンビナ研究所のサイモン・ダイヤーは話す。「代替エネルギー開発に本腰を入れるか、非従来型石油の開発を進めるか。たった1バレルの石油を得るために、4トンもの土砂の掘削をいとわないという事実が、採掘しやすい石油が枯渇しつつあることを物語っています」
 フォートマッケイ先住民居住区は長年、オイルサンド業界に抵抗を試みてきたが、はかばかしい成果は得られなかった。今はオイルサンド開発を逆に利用して、地元でできる事業の幅を広げようとしているのだと、ブーシャは話す。
 先住民居住区は失業率が5%未満。医療施設のほか、3LDKの公共住宅を100戸建設し、格安の家賃で地元の人々に提供している。川の対岸に広さ3300ヘクタールの第一級のオイルサンド地帯も所有し、主体的にオイルサンド開発を行うことも検討している。

何もかもけた違いの採掘現場
 アサバスカ川がなければ、オイルサンド産業がこの地域に押し寄せてくることもなかっただろう。この川が何千万年もの間、オイルサンド層の上に堆積した膨大な量の土砂を浸食したおかげで、鉱床が地表近くに(場所によっては地表に)分布するようになった。oilsand4アサバスカ川の流れがフォートマッケイに差しかかる辺りでは、暑い夏の日には、川岸の土手から黒い油がしみ出して、川面に浮いていることがある。初期にこの地に入った毛皮の交易人も、先住民がカヌーの防水にこの油を使うのを見たと報告している。
 ビチューメンは、室温では糖蜜のようにどろりとした状態で、気温が10℃以下になると、硬質ゴムのように固くなる。だが、もともとは液体状の原油で、アルバータ州南部でこの100年近く地下深くから採掘されてきた原油と同じものだった。地質学者によれば、何千万年も前に、この原油を含む地層が北東の方向に押しやられ、同時に地表近くに押し上げられたという。
 原油を含む層が地表近くに移動すると、層内の温度が下がって、細菌が盛んに繁殖するようになる。この細菌の働きで原油の軽質分が分解され、重質のビチューメンが残ったと考えられている。
 アルバータ州政府の推定では、州内の三つの主要なオイルサンド地帯(その中ではアサバスカ川周辺の埋蔵量が最大)には、現段階でコスト的に回収可能な原油が1730億バレル眠っている。「世界的に見ても膨大な量です」と、1967年にアサバスカ川岸に第1号の採掘場を建設したサンコア社のCEO(最高経営責任者)リック・ジョージは言う。2003年に米国の石油専門誌が原油の確認埋蔵量にアルバータ州のオイルサンドを加えると、カナダは一躍サウジアラビアに次ぐ世界第2位の産油国となった。
 オイルサンドから石油を得る工程は単純だが、その規模は半端ではない。採掘場で活躍するのは巨大な電動ショベルだ。ショベルには一枚の重量が1トンという、硬化処理をした鉄鋼の歯がついていて、年間を通じて昼も夜も休みなしに黒っぽい砂岩を掘っている。この歯は1日か2日で摩耗してしまうため、そのたびに溶接工が新しい歯に取り替える。
 掘り出された砂岩は、超大型ダンプカーに山と積まれ、続々と破砕機に運ばれてくる。そのディーゼル燃料だけで、1時間に190リットルも必要だ。アサバスカ川流域では、こうして毎日100万トンもの砂岩が採掘され、20万トンの湯を使ってビチューメンが抽出されている。その後、ビチューメンは改質装置で約480℃まで加熱して100気圧以上の圧力をかけるか、水素を加えて、より軽質な油に転換される。

黄金を鉛に変えるようなもの
oilsand5 こうした何段階もの処理を経て、オイルサンドはようやくガソリンなどの石油製品に精製できるようになる。生産にかかるエネルギーは膨大だ。しかも、1730億バレルの可採埋蔵量の80%前後は地下深くにあり、油層内回収法で大量の蒸気を注入して採掘するため、最大で露天掘りの2倍ものエネルギーが必要になる。
 熱湯や蒸気をつくるエネルギーの大半、そしてビチューメンの改質に使う水素は、天然ガスから得られる。天然ガスは、燃焼時に大気中に放出される炭素などの汚染物質が最も少ない化石燃料だ。だから、オイルサンド業界は、最もクリーンな化石燃料を使って、最も汚れた油をつくっている、つまりは黄金を鉛に変えているようなものだとの批判もある。
 環境を考えれば、この主張にも一理あるが、経済の視点から見ると正しくないと、アルバータ州のカルガリー大学の物理学者でエネルギー専門家のデビッド・キースは話す。1バレルの合成原油からは、その生産に投入された天然ガスの約5倍のエネルギーが得られる。液状であることも大きなメリットだ。オイルサンド利用は経済的には問題はないと、キースは言う。
 化石燃料から出る炭素の多くは、自動車の排気ガスとして放出される。採掘段階から自動車のガソリンとして燃やされるまでのCO2排出量で見ると、オイルサンドは従来の石油よりもせいぜい15~40%多いだけだ。それでも、生産・消費の全過程を通じて排出量が多ければ、環境面で不利ということになり、オイルサンドのイメージも悪くなる。
 昨年6月、アルバータ州政府のエド・ステルマック首相は、この問題に対処する計画を発表した。州の予算を1300億円以上投じて、排出される炭素の地下貯留技術を開発するというのだ。計画では、2020年までには、同州の炭素排出量の増加にストップがかかり、2050年までには、2005年レベルより15%低下するとされている。それでも、温暖化防止に必要とされる削減量には遠く及ばない。
 ステルマック首相は、オイルサンド開発ブームに「ブレーキをかける」ことだけは断固として拒否してきた。オイルサンドは、州経済だけでなく、カナダの国家経済にも大きな恩恵をもたらしているからだ。
 アルバータ州の人々は、原油価格の変動の影響をもろに受けてきた。1980年代に急落したときには、州経済は10年間も低迷にあえいだ。オイルサンド地帯は州全体で14万平方キロ近く(北海道本土の面積の2倍弱)にも及ぶ。州政府は、そのうち採掘可能な3512平方キロのすべてを含む、50%前後の土地をすでにリースしている。環境に与える影響などを理由に、リースした土地の開発許可申請を却下したケースは今のところ一件もない。

森林や川、人体への影響は?
oilsand6 アルバータ州環境当局の生物学者プレストン・マキーカーンとともに、私はヘリコプターに乗り込んだ。上空から見ると、オイルサンド開発がアサバスカ川流域に残した爪跡は一目瞭然だ。風がある日には、砂利を運ぶトラックが巻き上げた砂ぼこりが、巨大な塵の雲となり、採掘現場のかなりの部分を覆っている。こうした“雲”は、ほかにも数ヵ所見える。かなたでは、シンクルード社とサンコア社の改質装置の煙突から、蒸気と煙、ガスの炎が上がっていた。まるで悪魔の工場のようなその不気味な光景に、私は呪縛されたように見入ってしまった。
 もっとも、採掘場がある一帯は、すぐに視界の外へ消えていった。川の上を低空飛行すると、浅瀬をわたる若いヘラジカがびっくりしたような素振りを見せる。ヘリは北に進路をとり、ほぼ手つかずの広大な森林地帯の上を飛んだ。
 カナダの北方針葉樹林帯は総面積500万平方キロ(日本の面積の13倍強)、その75%前後は未開発だ。オイルサンドの採掘場の総面積は、現在420平方キロ。その開発で消えた森は、カナダの森林全体の0.01%にすぎない。だが、油層内回収法が普及すれば、今よりもはるかに広範囲に影響が及ぶだろう。
 「大きな政策変更がなければ、今あるような針葉樹林は数十年で失われるかもしれません」と、カナダの森林保全に取り組むピュー財団のスティーブ・カリックは訴える。
 環境当局のマキーカーンに言わせると、最も気がかりなのは貯水池だ。排水を貯水池にためるのは、アサバスカ川への廃棄が法律で禁止されているからであり、採掘場で再利用するためでもあるという。茶色の泥水が排水パイプから流れ込むと、重い砂の粒子はすぐに沈み、貯水池のまわりに堆積する。これが池を囲む砂の堤となる。抽出されずに残った油分は水面に浮かび、粘土や泥の細かな粒子は、何年もかけてゆっくり底に沈んで、軟らかい泥となる。この泥は、ナフテン酸、多環芳香族炭化水素(PAH)など有毒物質を含んでいる。
 何もしなければ、こうした貯水池が完全に干上がるまでには何百年もかかる。採掘権を得るために石油会社が州政府と結んだ契約では、貯水池の埋め立てが義務づけられている。だが、作業は遅れていて、埋め立てが完了した池はまだ1カ所もない。
oilsand7 その中でも特に悪名高いのは、サンコア社の1号池だ。地面から100メートルの高さにそびえる砂の堤に囲まれて、アサバスカ川を見下ろす高さにまで汚泥がたまっている。過去には、この堤からの水漏れが確認されている。2007年にオンタリオ州のウォータールー大学の水文地質学チームが数理モデルを使って計算したところ、毎秒2リットルの汚染水が川に流れ込んでいるおそれがあることがわかった。
 州政府は、アサバスカ川の汚染は人為的なものではないと主張している。川やアサバスカ湖の付近にできた三角州で検出される有害物質は、自然にしみ出したビチューメンから出たものだというのだ。
 確かに、採掘場よりも下流では、川はオイルサンド地帯を貫いて流れている。ヘリが川面の数メートル上まで高度を下げると、マキーカーンが指し示す先に、岸が黒く染まり、水面に油が浮いている所が数カ所あった。「下流では多くの金属の含有量が増えますが、これは岩石の浸食による自然な現象です。三角州の堆積物に含まれているPAHも、オイルサンド層が川で浸食されてもたらされたものです」
 採掘場の下流のアサバスカ湖畔にある先住民居住区、フォートチペワイアンの住民はもちろん、政府としがらみのない科学者も、こうした主張には懐疑的だ。「これほど大量の砂や油を掘り出して、影響が出ないわけがない」と、魚と水質汚染の関係に詳しいオンタリオ州クィーンズ大学のピーター・ホドソンは訴える。
 カナダ環境省の調査では、魚への影響が確認されている。アサバスカ川の支流、サンコア社の採掘場を通るスティープバンク川で1999年と2000年に調べたところ、採掘場近くで捕獲した魚は、ビチューメンが自然にしみ出している場所付近の魚に比べて、有毒物質を分解する肝臓の酵素の働きが5倍も活発だったという(この酵素の活性は汚染の指標として使われ、有毒物質にさらされると高くなる)。
 2006年、フォートチペワイアンの診療所で毎週診察を行っていた内科医のジョン・オコナーが、ここ数年に胆管がんの患者を5人診たと、ラジオのインタビューで証言した。胆管がんは、肝臓から胆汁が流れる管にできるがんで、発症率は通常10万人に1人程度だ。フォートチペワイアンの人口は1000人前後だから、統計的には患者が1人出ることもめったにないはずだ。
 だが、オコナーが診た5人の患者のうち2人は、生体組織検査で胆管がんであることが確認された。あとの3人は、生体検査を実施する前に亡くなったが、同じ症状を示した。オコナーがラジオ番組で発言したおかげで、多くの人々がこの問題に関心をもった。

自由市場が出した答えとは
 ジム・ブーシャの少年時代に話を戻そう。森にオイルサンド開発の波が押し寄せてきた、ある冬の夜のことだ。ブーシャ少年は30キロ離れた町までお使いに行き、犬ぞりで祖父の家まで1人で帰る途中だった。気温は氷点下20℃。月明かりの下で、雪の中に白いライチョウの群れがいるのを見たブーシャは、50羽ほどを射止めて犬ぞりに積み、家に持ち帰った。
 それから40年経った今、彼は白いアディダスのシャツと白いチノパンツ姿でオフィスの椅子に座り、その晩祖母の顔に浮かんだ誇らしげな表情を思い出す。「あんな世界がずっと続くものと思っていました」
 2007年にペンビナ研究所がアルバータ州で実施した世論調査では、環境への懸念が解消されるまで新たなオイルサンド開発を凍結すべきとの考えに、71%が賛成した。一方、州政府のステルマック首相は、同年の石油業界の会合で、政府が自由市場に介入することに対して消極的な姿勢を示した。「この問題は、自由市場で解決されるべきだ」
 だが自由市場は、強制されない限り、採掘場が自然や人に及ぼす影響を考慮しない。政府が介入しなければ、オイルサンド開発が気候変動に与える影響も気にしないだろう。ブーシャは、森という生活の糧を失った先住民に新たな生計手段を与えるために、そして、ライチョウ狩りを知らない子どもたちが未来に希望をもてるように、オイルサンド業界に協力してきた。
 そんな彼にも、見返りとして失ったものがあることはわかっている。「将来の環境を考えると、現在のニーズをどこまで満たすのかはとても難しい問題です」とブーシャは話す。
 アルバータ州北部では、その難題の解決は自由市場に委ねられた。目先の利益しか考えない自由市場は、どんな答えを出したのか。アサバスカ川の現状が、それを物語っている。



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