洛中洛外 虫の眼 探訪


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寺町頭 / 鞍馬口から今出川まで
2008/05/12 17:47

 この記事は、インターネット検索で得られた情報に塩と胡椒を少々ふりかけて、絡めたものである。選ばれた材料は玉石混淆。選び方は編者の自由な連想に従ったものである。例えば、金森宗和(茶道)→安楽庵策伝(落語)→山脇東洋(医師)→野々村仁清(陶芸)→法燈国師(味噌・醤油)→俵屋宗達(絵師)と順々につながって行く面白さは、インターネット検索の早さの賜物である。読者には何の脈絡もなく見受けられるだろう。
 重要と思われる情報のURL(Uniform Resource Locator)は、適宜記しておいたので、実際に当っていただきたい。URLを記さずに無断で、編者に都合のいい部分だけを引用したものも多くあるが、ご容赦願いたい。ネット上の情報が、社会的にどのようなものとして受け取られるべきかについては、本文でも言及しているので、参考にされたい。通常の公にされた印刷物で参考にしたものは最後に列挙する。


目次
はじめに  出町柳駅  剣先    出町   出町妙音弁財天
出雲路   西光寺   上善寺   閑臥庵  天寧寺
西園寺   出雲寺   阿弥陀寺  十念寺  仏陀寺  
本満寺   幸神社   出町商店街 中原中也の下宿    
白梅図子  法性寺   カフェ「MAAM」
付録1:長久寺/大歓喜寺/慈福寺/光明寺
付録2:鴨川公園
付録3:史蹟石碑・道標
付録4:駒札ー名所説明立札
参照書目

はじめに

 寺町通り北の端、鞍馬口通から南、今出川通までを寺町頭と呼ぶ。この間に十を越える寺々が並んでいる。そのほとんどが通りの東側にあって、西に門を開いている。本堂の裏は墓地で名家の墳墓が多くある。墓地の境と賀茂川の堤防までの狭い空間には、かつて御土居が走っていた。今は民家がひしめいている。賀茂川の河川敷は市民の様々な活動場所、憩いの場所、散歩道であり、橋の下は住居でさえある。
 この河川敷を、高野川と鴨川の合流点の出町柳から出雲路橋まで、自然を満喫しながらゆっくり歩く。出雲路橋西詰めから鞍馬口通りを西に向うと、すぐ寺町通りの交差点である。この間にもう二つの寺に出くわす。寺町通を左折せず、もうすこし西に足をのばすと昼食にありつける。閑臥庵の普茶料理に満腹したら、いよいよ寺町通の墓巡りである。順々に丁寧に見て行く。出町の商店街の直前でちょっと寄り道、西に折れて神社に詣って、穢れを落とそう。商店街を冷やかし、ついでに今出川通りを越えて細筋をのぞいて、賀茂大橋を渡った所で一息いれるとよい。この辺りの鴨川左岸沿いにも寺が集まっている。これも覗いて流れ解散。
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画像

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柳の辻の出町柳駅
 出町柳駅は、京都市左京区田中上柳町、下柳町に跨がってある、京阪電気鉄道と叡山電鉄の駅名。京阪電気鉄道の改札口は北寄りの「叡電口」(上柳町)と、南寄りの「今出川口」(下柳町)がある。今出川通りの南側からが下柳町。賀茂川と高野川が合流して鴨川となる地点の東側に位置する。駅名の「出町柳」は所在地の町名「柳」に、賀茂川右岸の地名である「出町」を合成したもの。駅舎は地下にある京阪電鉄と地上にある叡山電鉄の駅が一体となった構造である。地上1階が叡山電鉄のホームと駅舎・京阪の入り口・バスターミナル、地下1階が京阪のコンコース、地下2階が京阪のホームである。
画像 今出川通りに出るまでの東側に、長徳寺、常林寺と正定寺の3つの寺が並んでいる。この三カ寺を「砂川の三軒寺」といった。かつてこの辺りの加茂川と高野川の合流点の東側は、西側と違って堤防もなく、上流から流れてくる土砂がたまり、川は伏流となって南下していた。この辺り一帯は河原の砂に埋まって、三つの寺は砂に囲まれた中に建っていた。長徳寺門前には地蔵堂と寒緋桜とまめ桜を掛け合わした「お亀桜」と称する真っ赤な花をつける桜の木がある。常林寺は萩の寺とも呼ばれ、秋に賑わう。勝海舟が京での定宿としていたことでも知られている。現在は今出川通りに門を構えている正定寺には皆川月華(註)のふすま絵があり、境内墓地に皆川家は立派な墓域を持っている。この墓地は今出川通りの喧噪のなかにあるが、緑の多い広々とした墓域が点在し気持ちのいい墓地である。一見の価値有り。
 今出川通りを南に渡った所に、法性寺がある。この寺は川端通りからちょっと奥まった所にありほとんど知られていないが、一見の価値のあるものが二つある。出町柳駅にもどってくる帰り際に見ることにする。
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註 皆川月華 明治25年、京都市上京区鞍馬口頭に生まれる。代々の医師である父は書を好み、母は南画を親しむという環境にあった。 明治40年、医師を嫌って画家を目指し、日本画家松本雅邦の弟子である徒兄の家に住み込み基礎を学ぶ。 明治44年、友禅などの染色図案を安田翠仙に師事し関西図案会に入会。大正3年、大橋商店に染織デザイナーとして入り、関西図案会を脱退し若手と共に研精会を立ち上げた。この頃より古代裂に興味を持ち、月華の号を名乗る。ろうけつ染めの皆川泰蔵は娘婿。
 祇園祭の菊水鉾は、元冶元(1864)年の兵火で焼失したが、一人の有志の熱意が実を結び,昭和27年に再興された鉾である。その装飾品は工芸染織家の皆川月華、皆川泰蔵、山鹿清華、日本画家の三輪晁勢、金工芸の小林尚など昭和の匠たちの協力を得てすべて新調され、その後も年を追うごとに装飾の数が増え、その充実の素晴らしさで「昭和新鉾」の壮麗さを誇っている。

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剣先
 賀茂川と高野川の合流点付近は、Yの字を描いており、二川のつくるデルタの舳先は、その形状から「剣先」と呼ばれる。剣先からあと、合流した二川は「鴨川」と称されるようになる。「途中」(栃生)に源を発す高野川はここで終わる。剣の切っ先にあたる部分には飛び石が設けられている。賀茂・高野双方にあり、剣先を跨いで対岸へ渡ることができる。飛び石は長方形の切石、何基かは大亀の形をしている。また周囲に都鳥(註)をかたどった石が散りばめられている。これらの石は河床掘削を防ぐための護床工事の一環として設置されたものだが、親水施設としての役割も果たしている。夏ともなれば老若男女を問わず、大勢が両サイドから渡っていき大混乱。じゃんけんぽんで負けた方が譲しかない。水量が多い時は途中から引っ返さなければならない。
 合流後の鴨川の最初の橋が不思議なことに「賀茂」大橋である。今出川橋と称する方が適当と思えるが。高野川の最後の橋が河合橋である。加茂川の最後の橋は出町橋とよばれ、直ぐ上流の加茂川に架かる橋は葵橋で、かつてはここを市電が通過していた。剣先が広がった東側は葵公園と呼ばれ、家庭裁判所につながる。ここの辺り一帯は三井家の別邸・庭園があった所。ここにあった何本かのケヤキの大木は、府立植物園前の道路に並木として移植された。家庭裁判所内に一本のケヤキ大木が残っている。
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註 都鳥 
 名にしおわば いざ事問はむ都鳥 わが想う人は 在りや亡しやと(在原業平 伊勢物語第九段)
伊勢物語では「都鳥」のことを「白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。」と説明していて、大きさや体の特徴、水面を泳ぎながら魚を食べている事などから、この鳥はユリカモメと推定されている。ミヤコドリ科のミヤコドリとは別。「都鳥」は都の鳥ということから、ユリカモメ(!)が1965年に東京都の鳥に指定された。

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出町
 大原女にとっての入り口。「京の七口」の一つ。七口は御土居の北から時計回りで、長坂口、鞍馬口、大原口、荒神口、粟田口、伏見口、竹田口、東寺口、丹波口の九口。大原口に柳の古木と「鯖街道」の碑がある。界隈には洛北の農家を相手とする商家が残っている。その一つがタネ源(天保年間創業)。この店の西側に国土地理院の一等水準点がある。この地点は海抜53.6m。樹木の苗や植木鉢が沢山置いてあり、営業妨害にならないように見ることは難しいそう。閉店になっても見えない、という珍しい代物です。国土地理院からIDとパスワードを習得して「一等水準点の記」を閲覧すると地目は「公衆用道路」となっている。京都の八番目の口は「八条口」、地下鉄「鞍馬口」で降車して鞍馬寺へ向かう観光者が絶えない、というのはよく耳にする冗談。
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出町妙音弁財天
 本尊として弘法大師筆と伝える青龍妙音弁財天画像を祀る六角堂がある。本尊の画像は琵琶の家元であった伏見宮家の守り神。地元の人が懇願して、宮家とともに東京遷都にはついていかなかった。京都人の中には日本の首都は京都であると言い張る人がまだいる。その論拠は、日本の首都が「東京」であるとは、どこにも書いてないということらしい。秘曲の伝授は、必ずこの「弁才天画像」の前で行われた。これは江戸時代の話だが、元々は、妙音弁財天画像は公家の西園寺家に伝わり大切にされてきたもので、鎌倉時代末に、西園寺公衡
(きんひら)の娘寧子(やすこ・広儀門院)が、第93代後伏見天皇の女后に輿入した際に、西園寺家の念持仏として持参した物と伝える。それ以降の歴代北朝の光巌、光明、崇光天皇と伝承され、崇光天皇から、皇子で伏見宮家の始祖となった栄仁(よしひと)親王へ伝えられ、伏見殿内にお堂が建立され、弁財天像を祀ったのが始まりという。こんな由緒ある像がこんな場末のお堂にあるはずはない。現在は、実物は相国寺の承天閣美術館に保管されている。
 河の怒りをもって人々をいさめる神様でもあった弁天さんは、水を守る神様として、琵琶湖の竹生島や、湘南の江ノ島など、水辺の聖地に祀られている。この地も加茂川と高野川の合流点。ままならぬは、鴨の流れと賽の目と比叡山の山法師。そのうちの一つをいさめることができた仏さんであり、都三弁天の一つである。他の二つは比叡山無動寺、京都御苑内白雲神社におわしいます。神木の二本のオガタマの木が目印。また、クロガネモチの大木もある。境内を横切れば今出川通りへ抜けられる。妙音弁財天のとてもいい案内が 出町の妙音弁財天 にある。
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出雲路
 平安遷都以前からこの地に居住していた出雲氏族に因む地名。古代出雲郷は、賀茂郷を押さえてきた鴨氏が、秦氏の進出に押されて、近辺地へ勢力を拡大していったのに押されて、奈良時代初期をもって活力を失い、其の後の京都の歴史から消えていった。近世は鞍馬口村と呼ぶ都市近郊の農村地帯であった。大正のはじめ頃までは、大原女や白川女のような「出雲路女」が市内へキリギリスを売りにいったという。同じ近郊農村から京の町にやってきた「桂女」は鮎や桂飴を商っていた。桂女は、他の商い女とは違い、巫女の女系家族であって、助産婦として出産に関わっていた。飴を商っていたのは、飴が重要な乳児の食であったことの名残こりと考えられている。そういえば「幽霊子育て飴」というのが未だに六道の辻で売られている。幼児に食べさせたのは、おそらく水飴であって、今のような切り飴ではなかったろう。出雲路女のキリギリスは風流のため。鳴く虫をカゴに入れて声を楽しむ風流は、平安時代にすでに貴族階層に流行していた。江戸時代の中期には「虫売り」が商売として成立していて、生類憐みの令で23年間売れなかった時があったという。出雲路女のキリギリス売りも古くから行われていたことだろう。
 出雲路橋のたもとの便所は数寄屋風外観の、清掃度、管理度共に最高点を得ている公衆トイレである。桜の大木を眺めながら用を足せる粋なものである。
 大文字も出雲路橋を行く人も
   松のつつみも冷たき月夜(晶子)
 この便所の前の河原は大文字を見る最高の場所、また橋からの眺めは、まさに山紫水明。頼山陽のいう「山紫水明処」はもうちょっと下流の三本木から東の眺めをいったもの。三本木はもと遊郭。特に夕方、出雲路橋の上からの北山の眺望は最高。啓蟄の日に、北山から舞いきたる雪の中、橋を渡るのも一興。明治中ごろまで橋がなく、鞍馬口通が川床を渡っていた。橋の西あたりを、鞍馬口あるいは出雲口ともいい、南北朝期から関が設けられ、通過する荘園年貢・商品・通行人から関銭を徴収していた。
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志波無桜碑
出雲路橋西詰の河原にある。明治38(1905)年6月に日露戦勝を記念し賀茂川葵橋より御園橋に至る両岸の堤防に桜楓を植えることが職員会議で発議された。教職員、生徒・児童の醵金と労力奉仕により,同年11月22日に桜樹2279本・楓樹735本の植付けを完了し、12月2日に桜楓樹植栽植付け完了記念式が挙行された。この碑はその植樹事業を伝えるものである。桜の下に多くの兵隊さんが死んだことは、まさに記念すべきことである。
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西光寺
 出雲路橋から鞍馬口通を少し西へ行った南側にある。門前の左、東側に地蔵堂有り。西側に「西光寺」と「雲井辯才天」と二面に記された石碑が、地中から掘り起こされたように傾いて立っている。西隣の寺町通りにある天寧寺との境はかって御土居が走っていたようで、こちらは洛外域。江戸時代の絵図には御土居堀際に「穢多村」、「非人小屋」が描かれている所が多く、1920年の京都府の史蹟調査報告にも、「此の付近(註:鞍馬口)土居に接して非人小屋の散在せるを見る」と書かれている。中村武生の「御土居ものがたり」(京都新聞出版センター、2005)にも「となりにいた被差別民」という一話を載せて、鞍馬口の「非人小屋」、「穢多村」の記述に言及している。
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上善寺
 境内地蔵堂に、深泥池の畔から盗まれた地蔵尊を祀る。京都六地蔵巡りの第一番。平安の初め小野篁が、一度息絶え冥土にいき、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦って、木幡山の一本の桜の大木から六体の地蔵尊像を刻み木幡の大善寺に祀った。平安後期に王城守護のため街道の入り口に六角堂を建て一体ずつ分置し、廻り地蔵と呼ばれていた、と言う話が伝わるが、「源平盛衰記」には木幡の里、四ノ宮河原、鳥羽の作り道、西七条 、蓮台野、深泥ヶ池、西坂本の七街道に地蔵を祀った話が伝えられている。後の京の六地蔵というのは、これらの地蔵尊が、江戸時代初期(?)に六地蔵(地名)の大善寺、四ノ宮の徳林庵、上鳥羽の浄禅寺、桂の地蔵寺、常盤の源光寺、鞍馬口の上善寺に祀られるようになったもの。現在も六地蔵巡りとして巡拝されている。ここの地蔵尊は、明治の廃物毀釈で深泥池の貴船神社から持ってこられた、と言う説もある。八月の地蔵盆には、盛大なお祭りが今も行われている。この日に合わせて、国の重要無形民俗文化財の一つ小山六斎念仏も行われる。元来、六斎念仏は、6斎日(8、14、15、23、29と晦日)に行われた邪気はらいの行事。
 境内墓地には、今出川(菊亭)家など旧華族の先祖累代の墓がある。菊亭は太政大臣までは昇れる家格。累代琵琶を家業とし、今出川に居住して、菊花を愛でた。川の今出川は鴨川からの分流、雲ヶ畑からの鴨川とは別の流れであったともいう。かつては、寺町通と相国寺付近を流れ、六条あたりまで南下していたらしい。今出川家と「今出川豆腐」との関連も取りざたされている。「今出川豆腐」というのは木綿豆腐をだし汁に酒を入れ煮て、醤油を入れ、味を調え、器に豆腐を盛り、だしで溶いた葛をかけ、砕いたくるみをのせたもの。
 また堺町御門で戦死した長州藩士入江九一他九名の首塚がある。いわゆる蛤御門の変、禁門の変、あるいは元治(甲子)の変と言われる幕末の争いでのこと。堺町御門の弾痕跡は今でも見られる。入江九一は松下村塾の四天王のひとり。この戦いで、御所や長州屋敷(長州藩留守居役が自ら火をつけた)から発した火は、北は御所から南は九条まで、東は寺町通から西は堀川通までに達し、家27,000軒余のほか東本願寺や仏光寺などが焼失。3日間燃え続け京の都は焼け野原となった。
 その他にも京都の名家の墓が多くあるがここの墓地にはいるには案内を請わなくてはならず、簡単には黙って入ることができないのは残念である。
 今出川通千本西入南上善寺町にも同名の上善寺がある。ここには、二文字屋お軽の墓がある。仮名手本忠臣蔵に登場する早野勘平の妻お軽のモデルと言われている。お軽(可留)は18歳で大石内蔵助の小間使兼側女として、討ち入りまで半年の間同棲、身ごもる。内蔵助はこのとき44歳。彼女は薄命で29歳で死去。二条寺町の版木屋二文字屋の庶子と言われている。島原中ノ町の娼家の女だったという説もある。法名は清誉貞林法尼。紫野瑞光院の過去帳に「清誉貞林法尼・正徳三年癸巳(1713年)十月六日年二十九往生・二条京都坊二文字屋可留・久右衛門妾也」とあるのが彼女だという。墓は千本今出川の上善寺にある。大分県国東町の安国寺には「お軽」の木像まであるそうだ。
 この2つの上善寺の関係は少々こみいっている。六地蔵巡りで知られる上善寺は、貞観5 (863) 年に比叡山延暦寺の慈覺大師円仁によって、現千本今出川の地に天台密教の道場として創建された。文禄3 (1594) 年に(千本今出川から)現在地(鞍馬口)に移転し、そのあとで浄土宗に改宗して現在に至っている。もう一方の、軽女の墓があることで知られる上善寺は「貞観5(863)年に慈恵の開基になる天台真盛宗の寺。(中略)文禄3(1594) 年に現在の地(註:千本今出川)に移りました。」(京都市上京区役所、「上京区の史蹟百選」より)、と解説されている。この二つを読み比べると理解に苦しむ。二つの上善寺の創建の年も移転の年も同じである。一方が、千本今出川から鞍馬口へ移転し、その跡地にもう一方が移ったと読める。現在千本今出川にある上善寺はどこから現地に移転したかは明らかではない。ということは、「荒廃した旧地に元上善寺として再建された」(京都市産業観光局観光部 観光企画課)とするのが穏当な所か。なお、鞍馬口の上善寺の四十代目住職は佛教大学の学長である。
 境内北側には、五所(御所)八幡が1920年頃にはまだあったが、いつ頃からか住宅地となって今はない。後柏原天皇の勅で、九州の五カ所(筑前、肥前、肥後、薩摩、大隅)の八幡を遠境だったのでここに還したという。
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閑臥庵
 中国風の門構えの黄檗宗の寺。本堂に唐仏師の手になる釈迦如来像を安置する。江戸時代に洛北貴船の奥ノ院から鎮宅霊符神を御所の北に遷座創建したのが当寺の始まり。この不思議な神様「鎮宅霊符神」は陰陽道の本尊と言ってしまえばいいのか。画像神仏混合でいえば「妙見大菩薩」と同体の神様。元々古代中国の天文思想を採りいれた道教の神で、風水思想から発展した陰陽思想等と共に日本に伝来した。北極星や北斗七星を祀る「北辰(ほくしん)信仰」や北辰信仰が仏教と習合した「妙見(みょうけん)信仰」とも結び付いて、十干十二支九星を司る総守護神となって方除け・厄除けの神として祀られている。奈良町の鎮宅霊符神社が最も知られているが、京都の町中でも、あちこちに密かに棲息している。名前から言えば、お守りやお札の神様。節分や七夕など星祭りはこの神様のお祭り。「北辰妙見鎮宅霊符神咒法」なんて表題の本があることからすれば、ちょっと胡散臭いが、画像この寺の鎮宅霊符神は平安時代の中ごろ円融天皇が陰陽師の安倍晴明に付託開眼させたと伝えられる由緒ある金銅像で、高さ四尺六寸の神像。また、後水尾院が鎮宅霊符神の遷座記念に植えたという桜は曙桜と呼ばれ、これに因んで、曙寺とも呼ばれる。この桜は近年枯死し、まだ植え替えには至っていないと言う。
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天寧寺
 曹洞宗。「額縁門」は観光の穴場。門を額縁に見立てたその中に比叡山が見える。京都市指定の天然記念物カヤの大木が聳えている。茶人金森宗和の墓(墓地の東北部、南面する五輪石塔二基のうちの右、左は室栄の墓)、剣道示現流開祖善吉和尚の墓、滋野井家累代の墓がある。
 ホームページは、 http://www.ne.jp/asahi/tenneiji/home/
画像 金森宗和は飛騨国を平定した金森長近の孫。勘当され、京都に隠棲。落語の始祖・安楽庵策伝は長近の弟。彼の墓は三条裏寺の誓願寺にある。誓願寺の墓地には、1754年(宝暦4年)国内初の人体解剖を行った山脇東洋の墓もある。宗和は陶工野々村仁清を見出したことでも知られ、また、飛騨春慶塗を生み出すのにも関わっていた。野々村仁清は、丹波の国、野々村庄(京都府南丹市美山町大野)に生まれた。丹波立杭窯と瀬戸窯仕込みのロクロと細工物の名手で、高尚優美な京焼の色絵陶器の成功者である。御室焼といわれた。墓所は鳴滝の妙光寺(村上天皇陵の隣)にある。妙光寺は、宋から味噌、醤油の製造法を我が国にもたらしたとされる法燈国師を始祖とする、というだけで「味噌、醤油の発祥地」を妙光寺とする早とちりもあるが、一般には和歌山県の由良が発祥地となっている。こちらには、法燈国師開山の興国寺がある。妙光寺は、今建仁寺にある俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が保存されていた寺ということでも有名。仁清の菩提寺は美山の蓮乗寺。生家も美山に残っている。もとに戻って、茶人宗和は作庭家でもあり、大原三千院の有清園は彼の作と言われる。
 天寧寺の第四世善吉和尚は、元神官で人を切って出奔して坊主になって人に剣を教えて人を切らせた人物。すなわち、善吉和尚こと赤坂弥九郎はもと鹿島の神官で、天真正伝香取神道流を修行して天真正自顕流を開いた十瀬長宗から剣を学び、人を切って国を出奔。出家して善吉と号して天寧寺の四世住持になったひと。隣に一時住んでいた鹿児鳥藩士の東郷肥前守重位に自顕流兵法の奥義を伝授した。東郷重位は薩摩に帰国し後、更に修行して一流を開き示現流と名乗った。示現流という剣術は、薩摩の幕府転覆活動において凄まじい惨劇を繰り返した。それは一撃必殺で、遺体の切り口を見れば、薩摩人の仕業とわかるほどの切れ方だったという。一撃をうまく受けたとしても、自分の太刀が脳天にめりこんで絶命している者も多かったそうだ。その遠因が善吉和尚につながっているとは…。
 滋野井家は平安末期に始まる神楽を家業とした公家。江戸時代には公澄・実全・公麗三代にわたって有職故実の大家を輩出した。公澄は有職故実四天王の一人。実全は病で35才の若さで死ぬ。公麗も49才の折りキノコ中毒で急死。公澄は長寿で85才まで生きた。
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西園寺
 西園寺家の菩提寺。創設時は、北山殿(金閣寺すなわち鹿苑寺)の地にあったが、足利義満が無心して室町頭に移った。200年後に今度は秀吉の命で、この寺町頭に移転した。西園寺家は江戸時代の初めに断絶している。
 明治、大正、昭和の政界に重きをなした西園寺公望は、2才の時、徳大寺家から養子に入り家督を相続した。パリコミューン時にソルボンヌに留学してフランス首相となるクレマンソーと親好を結ぶ。両家とも藤原氏の末裔。正妻はなく、新橋芸者玉八との間に娘、新をもうけた。彼女が長州藩主の毛利元徳の八男を婿養子にとって、家系はつながった。
 しかし、長男西園寺公一はゾルゲ事件に連座して西園寺家の相続権を放棄し、三男の不二男が家督をつぐ。この息子の西園寺裕夫が今の当主で、五井平和財団理事長。妻の昌美は白光真宏会の会長(教主?)、琉球王朝の末裔で、昭和40年白光真宏会の教祖五井昌久が養女に迎え、同49年西園寺裕夫と結婚した。真妃・里香 由佳の三女をもうける。以来、宗教法人白光真宏会は皇室、政財界、文化人、学者などとつながりをもつようになった。「五井平和財団」(WPPS: The World Peace Prayer Society)は白光真宏会の外郭団体で、故五井昌久氏の提唱した「May peace prevail on earth 世界人類が平和でありますように」と書かれた白いポールを世界中に建立している。当財団は文部科学省管轄の公益法人で、平成17年度文部科学省の交付金1億をもらっている。
画像 境内のちょっと小振りの梵鐘は、戦時中供出され岡山県の銅精錬所まで送られたが、溶解される直前に終戦となり出戻ってきた梵鐘という。その名残として、梵鐘側面に銅の質を調べるために抜き取った4つの穴が開いている。
 境内には妙音弁才天堂がある。先述したように元々西園寺家は、代々天皇や上皇に琵琶の秘曲を伝授していた琵琶の宗家の家柄であることから、西園寺では創建以来このように弁財天を祀っている。
 地蔵堂には北山の衣笠山麓にあった西園寺の功徳蔵院の遺仏と伝える「槌止め(つちとめ)地蔵」を安置する。「槌止め」とは「因果の教えを信じて、地獄に落ちるような悪事は打ちとめにして、極楽浄土に生まれるような善事(念仏)に励みましょう」ということ。この地蔵堂の内側の壁には地獄・極楽の図が描かれている。
 境内北西の隅っこには真っ白な寸胴の幹をしたクロガネモチの巨木がある。上京区の市民の誇りの木の一つ。高さ10m、枝張 9.3m_、幹周1.92m。
画像 境内墓地には下鴨神社の祠官で歌人としても知られる梨木祐之・祐為らの墓がある(写真右が祐之の墓)。共に江戸時代の歌人。祐之(1659-1723)は賀茂祭を再興した人物としても知られており、「日本逸史」という全40巻の歴史書を編纂している。また彼は江戸から京都へ向かう途中、東海道戸塚の宿で元禄の大地震(1703年)に遭遇し、その時の様子を「祐之地震道記」に書き残している。「戸障子、小壁へたへたと崩れかゝる。各起あがるにかなわず、座敷を這もこよふ。たまたま立あがらんとすれば、足をもためす、横に倒る。光行、祐之、頽かゝりたる戸障子を踏やぶりて、庭え飛びくだる」と立っていられないほどの揺れだったことがわかる。藤沢市文書館の「文書館だより文庫(ふみくら)」10号に「旅人が見た江戸時代の藤沢」と題して紹介されている。
 祐為は幼少の頃より和歌を好み、冷泉為村の門に学ぶ。一生に詠んだ歌は、十万首に達したといわれる
 幕末・明治の勤王家、女流漢学者の若江薫子墓がある。京都生。名は薫子(におこ)、号は秋蘭。岩垣月洲の門人。伏見宮家に仕えた修理大夫量長の娘。昭憲皇太后の養育に当る。「幕末維新の美女紅涙録」(中公文庫)に「皇后を教育した過激攘夷論者」として出てくる。岩垣月洲は日本のサムライが英国女王を人質にしてバッキンガム宮殿に立てこもるという奇想天外な漢詩を書いたその人。富岡鉄斎が漢学を学んだ先生でもあった。京都御苑の中、松に寄生していた珍しい桜がある。いまは本体の松が倒れたが、桜の方は元気に毎年花を咲かす。ここは京都学習所(今の東京の学習院の親)の跡である。倒幕思想に傾倒した公家たちの溜まり場であった。ここにたむろしていた一人が岩垣月洲、その門人が若江薫子である。
画像 境内南西部の大五輪塔の前方に若江家の墓が並ぶ。薫子の墓は西の端に位し、南面する。その面に「菅原薫子」とだけ刻す質素なものである(写真)。尊王攘夷を唱え、再三縛につくも、後志を得ず讃岐丸亀に隠れ不遇の中、明治14年10月11日に47歳で没す。丸亀玄要寺に葬られた。西園寺には若江家累代の墓があるため後に建立されたものと思われる。墓石の姓の「菅原」は、彼女の父若江量長がもと菅原氏であったことによる。森鴎外の「津下四郎左衛門」の中に薫子の事蹟が少々語られている。明治2年に寺町丸太町の角で、横井小楠を殺害した津下四郎左衛門を擁護し、裁判所に嘆願書を出した人物ということで取り上げられている。
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出雲寺
 西園寺の南、寺町通りより西へ入り込んだ小路の突き当たりにある。桜の名所となっている山科の毘沙門堂(護法山出雲寺)は、行基によって出雲路に創建された天台宗の五門跡の一つであり、現在もこの地に「毘沙門町」の町名に名を残しているが、度重なる戦乱により荒廃し、岩倉や大原などに移転し、寛文5(1665)年に現在の山科の地に再興されたものである。ここの出雲寺は浄土宗で、読み方もこちらは「シュツウンジ」である。旧称は念仏寺。奈良の郡山にも「シュツウンジ」と読む融通念仏宗の出雲寺がある。聖徳太子の創立と伝える。ここの出雲寺は文和2(1353)年良和上人の開創という。どちらも、もとの出雲寺とは直接関係はなさそうである。しかし、ここの本堂に安置する聖観音像は旧出雲寺観音堂の遺仏といわれており、上御霊神社内観音堂にあったものを、明治維新に際してここに移したと伝える。宇治拾遺物語巻第十三の八に「出雲寺別当、父の鯰になりたるを知りながら殺して食ふ事」という面白い話が載っている。参考のため、現代語訳を掲げる。

 住職の上覚は、ある夜、夢を見た。
 父親の先代住職がたいそう老いぼれて、杖をついて出てきて言うことには、
「よう、わしじゃ。おまえの親父だ。今夜はおまえに頼みがあって、出てきたのだ。
 わしは今、この寺の屋根瓦の下の雨水の溜まりに、体長一メートルのナマズになって棲んでいる。狭いし暗いし水も少ない。難儀なことじゃ。
 ところが、あさっての昼過ぎに大風が吹いて、このボロ寺は倒れてしまう。寺が倒れると、わしは水溜まりごとこぼれ出て、庭を這い歩く。するとガキどもが見つけて打ち殺そうとするから、おまえ、助けてくれ。そして、賀茂川に放してくれればありがたい。広々とした川で暮らせば、もう心細い思いをせずにすむ。琵琶湖に入ってのんびりもできるというもんだ。
くれぐれも頼んだぞよ」
 翌朝、こんな夢を見たよ、と家族に話し、どういうことなんだろう、などと言い合っているうちに、その日は暮れた。
 その次の日、正午ごろからにわかに空がかき曇り、おそろしい強風が吹きはじめた。人々は急遽、家を補強したりして慌て騒いだけれども、風はいよいよ激しさを増し、村里の家をすべて吹き倒し、野山の竹や木を折り倒して吹き荒れた。
 寺は、夢の話のとおりに午後二時ごろに倒壊した。柱が折れ、棟木も折れて、完全に潰れてしまった。すると、屋根裏の永年の雨水が溜まっていたところに、大きな魚がたくさん棲んでいたのが、どっとこぼれ出てきた。
 近所の者たちが桶を手に、魚を捕まえようと大騒ぎする。そのさなか、これまた夢のとおり、一メートルあまりの大ナマズが懸命にじたばたして庭を這い、上覚の目の前にやってきた。
 上覚はナマズが肥え太っているのに我を忘れ、手にした鉄杖をブスッとナマズの頭に突き立て、自分の長男を呼んで、
「見ろ、やったぞ!」
と得意顔。しかし、なにしろ大きな魚が暴れるので、そのままでは捕らえられず、結局、草刈鎌で鰓をかき切って殺し、ものに包んで家に運び込んだ。
 家では女房が、
「あら、このナマズ、あなたが夢に見た魚じゃないの。どうして殺したのよ」
 それを聞いて上覚は、ああ、そうだった、と思い出したが、もう仕方がない。
「おれはしょうがないヤツだな。ま、しかし、よそのガキに見つかったら、どのみち殺されたんだから......」
などと言って、
「赤の他人でなく、かわいい孫の太郎、次郎に食べられるのだから、さぞや嬉しくお思いであろう」
とばかり、ぶつ切りにして煮て、一家で食ったのである。
「いやあ、うまい。ただのナマズではないからなあ。先代住職の肉なればこそだ。さあ、お前たち、この汁もすすってみろ。ううむ、たまりまへんなあ」
 ところが、夢中で食べているうちに、大きな骨が喉に刺さった。ゲエゲエと呻くばかりで骨は取れず、苦しんだ末に、上覚は死んでしまった。
 その後、妻は忌み怖れて、ナマズを食べなくなったという。
あやしい古典文学の壺 Copyright 1998-2007 Zashikironin.)

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阿弥陀寺
 あちこちにありそうな名前の寺である。伏見大手筋にある大野家の菩提寺も阿弥陀寺である。ここは織田信長ゆかりの格式ある阿弥陀寺である。本能寺の変で信長親子が自刃したとき、織田家と深い親好があった清玉上人と言う人が本能寺裏の藪で荼毘にふし骨灰を集めて西陣にあった自寺に持ち帰り埋葬したと伝える。信長の後継者問題で遅れた葬儀では、棺の中には遺体の代わりに、沈香に彫刻された仏像が安置され、それが蓮台野で焼かれた。秀吉の力を誇示する葬儀であった。それを嫌って清玉上人は自分の寺で葬儀をすることを断ったと言う。その五年後の1587年に寺が当地に移ったとき、信長親子と森蘭丸以下百二十余命の墓もここに移された。
画像 当寺の塔頭帰白院の住職であった幻阿蝶夢(1732〜95)の墓がある。信長父子の南西、墓地の北よりの中央に12基の卵形の無縫塔が並ぶが、その列の南より4つ目。阿弥陀寺塔頭の帰白院の住職であったゆえ無縫塔を探せばよい。それだけでなく、ちゃんと彼の墓であることを示す石碑が前に建っている(下の写真)。摩耗して刻字はほとんど読めないが、寺田貞次著「京都名家墳墓録」によれば、表面に「禪蓮社詮誉幻阿量的法師」、台石に「帰白院十一世詮誉量的法師」「十二世青誉松童法子」と刻されていた。彼の後を継いだ12世は子供の時に亡くなったのだろうか
 蝶夢は芭蕉復興運動の中核的な役割を担った俳人。檀家の施しを受けるのを厭い、明和3(1766)年に住職を辞し,同5年岡崎に五升庵を結んで隠棲し、芭蕉の遺蹟顕影に務めた。岡崎法勝寺町の五升庵址には石碑が建つ。石碑には諸九尼湖白庵の文字も並んでいる。諸九尼(1714〜81)も俳人で,俗名は「なみ」。中原(なかばる)村(現佐賀県)庄屋永松万右衛門の妻であったなみは子宝に恵まれず、寛保三(1742)年、野坡(やば、芭蕉の高弟)門下の俳人有井湖白と駆け落ちし京に逃げ、湖白の片腕となって大坂俳壇立て直しに没頭。湖白の没後に剃髪し、諸九尼と称した。なぜ二つの庵が同じ場所にあったのか。野坡に対するなみの思い、芭蕉を敬う蝶夢の思いは表と裏のようにぴったり合い、二人は意気投合して京都の岡崎に隣接して、なみは「湖白庵」を、蝶夢は「五升庵」を設け、まるで母と子のように仲良く俳諧に明け暮れる生活をしたという。時になみは五十二歳、蝶夢は三十四歳であった(三善貞司、「なにわ人物伝 永松なみ」より)。
 境内には芭蕉と蝶夢の句碑がある。大津の義仲寺の翁堂内に蝶夢法師陶像を安置する。また境内の粟津文庫には彼が収集した芭門俳書、「芭蕉門古人真蹟」、彼の手になる伝記絵巻「芭蕉翁絵詞伝」(絵は狩野常信)の原本3巻を蔵す。右の図は絵詞伝の義仲寺の部分。
 この芭蕉翁絵詞伝の中で蝶夢は、芭蕉が「野ざらし紀行」で「二月堂に籠りて」という前書きに続いて「水とりや氷の僧の沓の音」と書いている水取の句の中七音を「こもりの僧の」として世に出した。直接的で明解な言葉だったため、またたく間に広まり、以後「籠りの僧」が定着し、常識になってしまった。三月堂裏の句碑は「籠りの僧」である(asahi.com マイタウン奈良2008年03月11日の記事による)。
 横道にそれたついでに記す。義仲寺の翁堂の天井に若沖の「四季花卉図」が残っている。石峰寺観音堂の天井画として描かれたものとみられている。明治の初めに観音堂が壊された際、古美術商の手に渡り、めぐりめぐって現在、義仲寺と信行寺(非公開、東山仁王門バス停前)に残ったという。「没後200年 若冲展」の図録に収録されていない作品であり、京都新聞の記事に「若冲の天井画 大津の義仲寺 傷みや退色進む」(2005年11月26日)と報じられた。しかし、2008年5月、デジタル技術で精巧な複製画を作成し、特殊な合板に印刷したものが作成され公開された(2008年5月9日、京都新聞)。
 元に戻って、阿弥陀寺の墓地には、伊藤若冲の同時代人である、儒者皆川淇園の立派な墓がある。墓地の南西の一角が皆川家の墓域で、淇園の墓碑銘文は弟子の松浦清山が記したものである。松浦清山は「甲子夜話」の著者で、平戸藩主だった文人である。淇園は、天明8(1788)年正月28日に画家の円山応挙、呉春らと一緒に、深草の石峰寺を訪れている。「応挙の案内で石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物した」と淇園はそのときの石像群のことを詳しく記しているが、その2日後、正月30日晦日、京都は大災に襲われた。京都市中の8割以上が灰燼に帰した天明の大火である。若冲も応挙も淇園も住居を失い、阿弥陀寺も火難に遭った。
 東海道の宿場の名物として全国に知られていた「姥ヶ餅」は、草津宿を代表する名物で、芭蕉も「千代の春 契(ちぎ)るや尉(じょう)と姥ヶ餅」とひねっている。その由来記「養老亭記」は淇園の手になる。また、富山県の高岡市に富山城で使われていた口径112cm、唇厚18cm、高さ197cm、重量2,250Kgの大きな「時鐘」があるが、この鐘面一杯に皆川淇園の筆になる銘が刻んである。高岡鋳物は、京都の真継家(まつぎけ:註)から鋳物師の免許を与えられていた鋳物師(いもじ)が鋤・鎌などの農具や鍋・釜等の日用品などの鉄鋳物を生産したのが始まり。江戸時代後期になると、銅鋳物の生産が盛んになり、釣鐘や仏像などが作られ、高岡鋳物の名で全国に知られていた。現在の日本三大仏の一つ高岡大仏は、高岡鋳物の伝統の粋を集めて製作された高岡のシンボル的存在である。
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註 真継家
 1153年 真継家の祖御蔵民部大丞紀朝臣元弘、領内の河内丹南鋳物師天命に鉄灯籠を作らせ朝廷へ献上す。禁裏悪風吹いても灯火消えず、近衛天皇御感の余り、河内丹南の鋳物師のみ鋳物業を独占専業とさせる。これにより真継家支配による全国鋳物師の統括が除々に浸透する遠因となる(高岡鋳物関係年表より)。
 真継家文書の源頼朝袖判御教書(名古屋大学所蔵)は戦国時代以降、朝廷権威を背景に全国の鋳物師(鍋・釜・焚鐘などの鋳造職人)を支配した朝廷官人真継家に伝来したもので、源頼朝が朝廷官人紀高弘に鋳物師支配権を認める内容の偽文書である。すでに「写」の存在が知られていたが,最近見つかった「原本」は、宿紙(天皇の意志を伝える綸旨などに使用される再生紙)を用いた点で、朝廷と関わる偽造者の文書認識を露呈したものである。真継家はこうした偽文書を駆使して戦国大名にも働きかけ,明治初年まで続く鋳物師支配の基礎を固めた。この文書にみられる貧弱な花押、かすれた筆線、また、武家の発給した文書でありながら薄墨紙を模した料紙が使用されていること、人為的なものと思われる「虫損」、これらから判断すると,後世になって偽造された文書であると考えられる。14C年代測定も,16 世紀から17世紀前半という年代を示した(小田寛貴ら「偽文書・写しの年代測定」より)。

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十念寺
 西山浄土宗の寺。ひときわ目立つのが本堂である。平成5(1993)年に竣工した近代的な寺院建築で、劇場やユニークな建造物を有す大阪の一心寺の高口恭行住職の設計による。住職がインタビューに答えて曰く:

記者: 檀家さんは突然今のこのようなコンクリートのお寺になってびっくりしてましたか?
住職君野諦賢さん:そうですね。面と向かって誰も何もおっしゃられなかったですけどね。ただ、あなた達もそうでしょうけど、「いす席」を非常に喜ばれましてね。同じ新しく建てるなら、と思っていろいろ仕掛けをしました。例えば、今いるこの部屋に「人天蓋」という飾り物が下がっています。これは御経を読む場所を表すもので、人天蓋が下がってきたら和尚さんの席になるし、また手動で巻き上げることができるんです。巻き上げてしまうと視界から消えますでしょ。そしたら部屋の仕切りを全部とっぱらって、ここでコンサートができる。今は、定期的にコンサートもやっているんです。御本尊もその前に電動でスクリーンが降りて隠れるんです
記者:まさに多目的ホールですね。


 境内墓地は近世名家の百花繚乱である。足利義教、高雲院、曲直瀬道三、施薬院全宗、海北友雪・友竹、鋳造師金座・銀座両家、徳大寺家一族、西洞寺時名、竹内式部、武田信発等々。

まずは将軍から。画像
足利義教 応永元(1394)年〜嘉吉元(1441)年
 嘉吉の乱で赤松満祐により暗殺された室町幕府第6代将軍。義教の墓を示す立て札等何もないので案内されないと絶対に見つけることが出来ないという。「万人恐怖シ、言フ莫レ、言フ莫レ」と評された如く嗜虐性を有していた。最期は祝宴の最中に暗殺された。これを「嘉吉の乱」という。将軍には4人の兄弟間でくじ引きをしてなったのだが、貧乏くじであった。深入りはやめよう。十念寺の彼の墓は小さな五輪塔である。

次いで皇族、
 高雲院は後陽成天皇の第七皇女というのもあれば、第十一皇子という説もある。天皇家の系譜であるぐらいだから、何人目かは問わぬ迄も男か女かぐらいは、はっきりしているものかと思ったが、そうではなさそうである。母はどの説でも一致している。掌侍の西洞院時子(平内侍勘解由小路局)である。生没年は1610〜1612年。わずか二歳。十念寺に建っている石碑には「後陽成天皇皇子」となっている。

次いで医者。
曲直瀬道三 永正4(1507)年〜文禄3(1594)年 
 元仏僧、還俗して医者になる。晩年の天正12(1584)年に豊後府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)。近世落語の祖とされる安楽庵策伝の「醒睡笑(せいすいしょう)」に織田信長に扇子二本をもって挨拶に行った時のことが載っている。醒睡笑にはこの他に何カ所も彼の頓知や笑い話が採用されており、彼の人柄が偲ばれる。甥の玄朔(げんさく)が二代目を継いで同じく道三を名乗ったので、彼は古道三と称した。道三汁というものがある。食事の後、食器についた飯粒やおかずの残りかすに白湯をさしたもので、これを飲むと長生きする。一種の養生法だが、これはこの二代目道三が言い始めたことらしい。古道三にも「代脈」という落語のネタになる逸話を残している。古道三の2著「黄素妙論」と「養生誹諧」を山崎光夫が解説/現代語訳した本「戦国大名の養生訓」(新潮新書)は大変面白いそうである。特に「黄素妙論」は。
 曲直瀬一族は江戸時代にも名医の家筋として栄える。幕末のころ、京都向日神社神主・六入部雅香の息子で曲直瀬家の養子となり家督を継いた道策は、大坂の難波新地で新選組に不当な言いがかりをつけられ、切り殺されている。画像十念寺の境内に入った右手、墓地に通じる通路脇に最近建立された顕影碑がデンと座っているが、墓地内の道三の墓は見つけ難い。中央にある西面する2つの大五輪塔の南のものがそれである。法名はほとんどすり切れており、右側面に「曲」の一字が刻されているのがわずかに判読できるのみである。寺田貞次「京都名家墳墓録」(山本文華堂、大正11年)によると、初代正盛より4代迄の法名が刻されていたようである(写真左)。一方、新撰組に斬り殺された曲直瀬道策の墓は、通常の四角柱で、西側の墓列の最西端に東向きである(写真右)。

施薬院全宗 大永6(1526)年〜慶長4(1599)年
 道三の門下生。天正年間に勅命を受けて施薬院使に任命される。施薬院は奈良時代光明皇后による創建以来、800年の時を経て完全に形骸化していたため、復興に尽くし、身分の上下を問わず病の人々へ薬を授けた。また医師でありながら秀吉側近としても活躍(火坂雅志著「全宗」小学館文庫、840円、画像小学館eBooks で315円で読める。なお、2009年1月スタートのNHK大河ドラマ「天地人」は火坂雅志原作である)。豊臣秀吉の侍医兼参謀として暗躍し、バテレン追放令にも関与。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では、唐沢民賢が演ずる施薬院全宗が登場している。その他にも映画、テレビにしばしば登場。出雲の阿国(NET, 1973)、お吟さま(東宝, 1978)、利家とまつ(NHK, 2002)など。
 一男一女の子がいたが、共に全宗より先に没した。そのため近江の三雲宗伯(秀隆)を養子とした。子孫は代々施薬院使を務めた。江戸時代の内裏図には,烏丸通中立売御門北側に施薬院という屋敷が描かれている。当時,ここには施薬院三雲氏が住み,市民に無料で薬物供与などを行っていた。施薬院とは今の国立病院の起源とされるものである。両人の墓は木造の霊舎内に安置されている。三雲家の先祖代々の墓もこの辺りに並んでいる。

次いで画家
海北友雪・友竹
 海北家は、天正1(1573)年の織田信長による浅井家攻略とともに滅亡。還俗して武門再興をめざすが、海北派の祖友松が、文禄2(1593)年、上述の施薬院全宗の茶会で画の才能を秀吉に認められ、画業に専念するようになったと推定されている。友松は「古田織部四哲」の一人。その子供が友雪、孫が友竹。友雪に清水寺の大絵馬があるが、以後海北派の絵師で絵馬に筆をとる者が多い。八坂神社には友竹の絵馬がある。海北友雪には祇園会山鉾巡行図も残っており、祇園祭の宵山には飾られて公開される。
 海北友竹は、松尾芭蕉が大和葛城で出会って感涙した親孝行の寡婦伊麻の肖像画を、松尾芭蕉の書の師である北向雲竹のために、わざわざ大和まで出向いて描いたというエピソードを残している(伴蒿蹊「近世畸人伝」)。北向雲竹の墓地は三条京阪の檀王法林寺である。
画像 墓石表面(右写真の左)には友松夫妻、友雪夫妻、友竹、友樵(友雪より七代目)の6名の法名が刻まれている。友松の墓は岡崎真如堂にもあり、こちらの方が知られている。また近くに友三、友徳の墓も独立してある。関係は友松−友雪−友竹−友泉−忠馬−友三−友徳−友樵の順。

次は商(匠)人
鋳造師金座・銀座両家
 金座は、徳川家康が京都の金匠後藤庄三郎光次に命じ江戸で小判を鋳造させた時に始まる。当初は江戸以外にも駿府、京都、佐渡、後には甲府にも置かれたが、後に江戸に一本化された。ただし、寛政3(1791)年に鋳造を停止された京都の姉小路車屋町にあった金座はその後も廃止されず、禁裏御用の金細工及び上方における金職人統制などを行い、後藤家の支配下で幕末まで存在していた。実際の鋳造は小判師と呼ばれる職人が担当した。幕府から金貨製造の許可を得た小判師たちは後藤家が居住する金座役宅の周辺に自宅を構え、品質や納期などすべてを後藤家が取り仕切り、自宅で作業した。小判師たちが鋳造したのは原判金だ。これが後藤の役宅で検定され、後藤家の極印(五三桐の打刻)がなされたものだけが貨幣として認められたのである。大判をつくっていた京都の大判座の後藤四郎兵衛家は別である。大判は、主に儀式、奉献、恩賞等の特別な用途に使用されたもので、一般の流通を目的としたものではない。江戸期の大判は、豊臣秀吉の制定した天正大判の構想をそのまま採用したもので、鋳造も家康の命を受けて、秀吉の配下で大判鋳造の特権を付与されていた後藤一族が行った。これを大判座と言う。大判座は幕府の鋳造機関ではあったが、金座、銀座のように常設されたものではなく、必要な都度、後藤家屋敷内に役所、吹所が設けられていた。さらに、分銅の製作及び取り締まりも,金座と後藤家に任されていた。江戸,京都,大阪に分銅改所が設置され,後藤家の極印のない分銅は使うことが出来なかった。
 銀座は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、京都の伏見城下に貨幣鋳造所を設立し、堺の両替商、湯浅作兵衛に命じて取り仕切らせた。極印方となった湯浅作兵衛は、徳川家より大黒常是(だいこくじょうぜ)という姓名を与えられ、これ以降大黒常是家は鋳造された銀貨に「常是」の略号を刻印して銀貨の極印と包装を担当した。このため、銀座で出された銀貨の包みを常是包と呼んだ。金貨は後藤包といった。後藤家と湯浅家は婚姻関係にあったらしい。この辺りのことは広瀬隆の「持丸長者」(ダイヤモンド社、2007年)にくわしそうであるが、未見。後藤家と湯浅家の墓も未見(ここにあるとしてのことであるが)。

次いで公家
徳大寺家
 清華家の家格(大臣家の上で摂家に次ぐ家格)を有する公家。江戸時代は同志社大学の構内にあった。西園寺家や三条家とは兄弟筋にあたる。笛を家業とした。
 徳大寺公純の子供が西園寺公望。公純は、井伊直弼による安政の大獄で「悪謀企画像策の者」として逮捕され、謹慎50日間を命じられた。和宮の徳川家茂降嫁に関しても反対。明治以後も攘夷派公家としての矜持を保ち、京都に留まった。たとえ身内の者であっても洋装の客に対しては決して会おうとはしなかった。のに、息子の西園寺公望のフランス留学実現に陰で奔走した。母方の末弘家を継いだ公純の四男末弘威麿は、財団法人立命館の設立者として学園理事となり、在職中に死去する1927年まで学園の運営に尽力した。公純の六男隆麿は、住友家の養嗣子に入り住友十五世をつぎ、隆麿を改め、住友吉左衛門友純と称した。画像洛北田中村徳大寺家別荘清風館で誕生した。すなわち、現在の登録有形文化財京都大学清風荘である。一時住友家が譲り受け大改修し、西園寺公望の別邸として提供された。公望もここで生まれている。住友銀行を開業。1926年死去
 墓石で古いのは徳大寺実久(1583年〜1616年)の五輪塔である(写真上)。彼は花山院定照の子で、徳大寺家に養子に入った。1609年におきた猪熊事件(侍従猪熊教利による女官密通事件)に烏丸光広らとともに連座した。次に古いのは徳大寺公信(1606年〜1684年)の五輪塔(写真下)。公信の母は信長の女で、こちらは品行方正、後光明天皇に飲酒の害を説いた人物である。

次いで尊王論者と勤王志士
竹内式部 正徳2(1712)年〜明和4(1768)年
 江戸時代中期の神道家、尊王論者。父は越後の医師竹内宗詮。新潟市に生まれる。通称は竹内式部。享保13(1728)年頃上京して徳大寺実憲の家僕となり、その才能を徳大寺公城に認められた。山崎闇斎門下の松岡仲良と玉木正英に師事して、儒学と垂加神道を学び家塾を開いた。若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の教義を教授したことから、宝暦8(1758) 年の「宝暦事件」で中心人物として重追放の処分を受けて京都を追放された。その後、明和4(1767)年山県大弐らによる画像「明和事件」の際、関与を疑われて八丈島に流罪となり、送られる途中に三宅島で病没した。100年後の明治維新の尊王思想運動の源。明治維新後に復権され正四位を贈られた。十念寺にあるのは位牌で、墓は明治42年に三宅島の大林寺に造られた。また、新潟市四ツ谷町の共同墓地には昭和8年に建立された墓がある。竹内式部寓居址の石碑が中京区麩屋町通丸太町西南角にある。十念寺には、彼に連座した徳大寺公城の墓の側に碑がある。彼に学んだ西洞院時名の墓も徳大寺公信の北にある。号は風月。「入道正四位下風月之墓」とだけ刻した質素な墓石である(右写真)。

武田信発
 幕末の勤皇志士。青蓮院宮諸大夫(中川宮家家臣)として公武合体に奔走した。母と下僕が暗殺されている。「中川宮家」は「青蓮院宮」が還俗したときの名前。
「この方(朝彦親王)は、青蓮院の門主としての最後の親王さんとなりました。朝彦親王のことは、青蓮院宮として、司馬遼太郎の幕末の小説にも書かかれているんですよ。勤皇の志士らが青蓮院にたくさん集まってきたんです。朝彦親王は、明治天皇の父、孝明天皇の信任が篤かったので慕ってきたわけです。」(現青蓮院門主の東伏見慈晃氏談)。彼も朝彦親王の周りに集まった勤皇志士のひとりであった。
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仏陀寺
 仏陀寺の名を知る人はほとんどいないだろうが、さすがに秦恒平は「誘惑」の中で口走っている:
「バスで帰る町々を槙子はいっそ無心に眺めていた。なにしに京都に来たかという不審が何度目か私を捉えていたが、槙子は閊(つかえ)の下りたよい顔をして光明寺、仏陀寺、十念寺などと寺町筋の寺々の名を見つけては口に出して言ってみる。(中略)西行庵(註)のわきをほそぼそ西へ抜けて行く砂利道には、笹の葉のさやさや鳴る静かさに隠れて、ひっそりと一軒二軒、束(つか)の間の宿を貸す家もあった。「やすんで、行こうか」 声がかすれて、そう言ったのかどうかも自分で聴えなかった。が、槙子は可愛い顎をくっと使って即座にウンと言った。確かに槙子はそう応えた。ウンというはずんだ返事がこの際いかにも私には解(げ)せなかった。だがふしぎと豊かで、愛らしい印象も強く残った。『誘惑』了……」(「すばる」1976年12月第26号,註:西行庵は円山公園の南裏)
 
 大蔵院と号する西山浄土宗の寺。天暦6(952)年朱雀天皇が当寺にて落飾、法諱を仏陀寿としたのにちなむ寺号とされているが、まもなく崩御となった事により康保4(967)年、村上天皇が兄上皇の仙洞御所朱雀院を仏陀寺とした。このため両天皇を開基と伝える。中世には万里小路春日(柳馬場丸太町付近)にあって勅願所となったが、数度の退転の後に、天正19 (1591) 年現在地に移ったと伝え、万治4(1661)年正月と天明8(1788)年正月の大火で類焼し、その後に再建された。本尊阿弥陀如来坐像は、高さ84.7センチ,異例の上品中生の説法印を結ぶ平安時代末期の定朝様の寄木造である。国指定重要文化財。
 仏陀寺はこのように由緒ある寺であり、今と違って戦国時代の記録にしばしば登場する。
 戦国時代初期の永正の錯乱(えいしょうのさくらん)という事件(註1)で、永正4(1507)年に三好之長の寓舎であった仏陀寺が香西元長に放火された。
 森蘭丸の兄にあたる森長可(1558〜1584:註2)は、信長に仕えて歴戦し、のち秀吉に仕え、武勇の評判は高かったが、彼は「宇治にある沢姫の茶壺と、山城仏陀寺にある台天目の茶碗を秀吉に差上げたい。もし、私が討死にしたら、母は秀吉様から領地をいただいて京にいるように。弟の千丸は秀吉様にお仕え出来るようにしてほしい」(天正12年、尾藤甚右衛門宛)と遺言している。
 また、天文21(1552)年正月、三好長慶と和睦した義輝が近江から入洛し御所に参内するのを言継が仏陀寺のヤブから見物した(山科言継「言継日記」註3)。
 などがインターネット検索で散見された。
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註1:永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、戦国時代の初期、永正4(1507)年管領細川政元が殺害された室町幕府・細川氏(京兆家)の内訌である。明応2(1493)年の明応の政変で10代将軍足利義材を廃立し専制権力を樹立した管領細川政元は子が無く、関白九条政基の末子の細川澄之、阿波守護家出身の細川澄元、備中守護家出身の細川高国の3人を養子にしていた。永正3(1506)年、摂津守護となった澄元が阿波勢を率いて入京し、その家宰三好之長が政元に軍事面で重用されるようになると、これまで政元政権を支えてきた内衆とよばれる畿内有力国人層と阿波勢との対立が深まる。この1年の間に京兆家の家督は政元から澄之、澄元、高国とめまぐるしく入れ替わった。
註2:森長可は松代三代城主。本能寺の変で織田信長公を守るために討死した森蘭丸の次兄。勇猛だった長可は、武蔵守だったために「鬼武蔵」という異名で知られていた。本能寺の変で蘭丸・坊丸・力丸の3人の弟を喪った2年後、豊臣秀吉公に属して参陣した小牧長久手の戦いで徳川軍と戦い、討死した(谷口研語、「森長可」、PHP文庫)。
註3:山科言継(やましな ときつぐ、1507年〜1579年)は、戦国時代の公家、歌舞音曲を扱う楽奉行として、尾張の織田信秀を訪問して、信秀や平手政秀以下の家臣団に和歌や蹴鞠の伝授を行って人脈を深めた。言継の人脈作りの才能は決して上の方ばかりに向けられた訳ではなかった。言継はその気さくな人柄で庶民とともに入浴する事もあり、また優れた医療知識をもって天皇や公家達のみならず、京の庶民に対しても治療を行って、しかも無理に治療費を取る事がなかったため、言継は庶民からも人気がある公家となった。晩年には山科家では初めて1569年に権大納言に昇進し、織田信長との交渉役としても活躍した。信長もこの年に二条城築城視察の帰りに山科邸を訪問している。日記「言継卿記」は大永7(1527)年から天正4(1576)年にかけての50年の長期にわたって記されており、当時の公家や戦国大名の動向が詳細に記されているだけでなく、彼自身が治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も残されており、現存する日本で最古のまとまった診療録であるとも言われている。(今谷明「戦国時代の貴族 言継卿記が描く京都」、講談社学術文庫、2002年)


 門前に朱雀天皇の守護仏である王城地祭地蔵を祀る地蔵堂がある。洛陽四十八願所地蔵尊の二十一番である。この四十八願所地蔵尊は江戸中期(寛文年間1661-73)に僧宝山が洛外の六地蔵以外で、霊験あらたかな市内の四十八カ寺の地蔵尊を選んでできたもの。先に見た西園寺の槌留(つちとめ)地蔵もその一つである。
 洛陽四十八地蔵のリストを掲げる。
画像

 この地蔵堂に籠って修行されている親切なお坊さんがいらっしゃるようである。

「仏陀寺は小さいながら由緒あるお寺です。お庭がきれいに手入れされているので、ついつい門をくぐりました。客殿の中をのぞいていたところお掃除中の若いお坊さんに呼び止められました。「ちょっとお待ち下さい」とお寺の沿革説明書をもってきて下さいました。帰ろうとすると再び呼び止められ、「こちらも見ていって下さい」と、門の脇にある小さなお堂に通されました。広さは4帖半くらいでしょうか、「こちらで現在修行しています」と説明が始まりました。見るとお地蔵さんを正面に修行のための仏具が配置されています(お地蔵さんは恐らく「朱雀天皇の守護仏である王城地祭地蔵」)。「ここに籠もって修行していると一般の方には奇異にうつるかも知れませんので、誤解されないように、こうして説明をしているのです。一般的には自分の修行の場は絶対に他人には見せたくないのですが。」と説明が続きます。30分ほどでしょうか、修行のこと、親から修行の機会を与えてもらったこと、教義についての基本的なこと、修行の色々な作法のこと、仏具の入手先と日々の手入れのことなどなど、一部は専門の方にしか分からないことまで色々説明して下さいました。通りがかりの観光客に時間を割いて貴重なお話を聞かせていただきました。」(「Nさんの絶景かな 京都そぞろ歩き」より。
 最近、仏陀寺の改修が行われたようである。本堂の裏の広大な敷地は、墓地が大きく削られ駐車場になっているが、「おかげで改修費用が出て、古い建物が残る」、とはうがった見方であるかもしれないが、喜ばしいことである。

「6/12, 2007「仏陀寺調査」友人からの紹介で、寺町上立売の仏陀寺の調査のお手伝いに向かいました。伝統構法の仕事は町家から堂宮や数奇屋にも広がりつつあり光栄です。本堂、庫裡、離れ、地蔵堂、鐘楼、門までそれぞれに手入れが必要と思われ、永く信頼にお応えできればと願います。」
「仏陀寺第一期改修工事(2007)寺町上立売のお寺の改修のお手伝い。本堂、庫裡まで6ヵ年計画。隠居部屋の水廻り、中門、地蔵堂の構造、本堂入口の洗い、門の扉の改修まで一期工事で終えました。年末には鐘をつかせて頂き、地蔵堂でのお勤めにも座らせていただきました。施工は熊倉工務店の渡文さん。」
(以上 末川協建築設計事務所(私註)の2007年 TOPICS より)
私註:末川協建築設計事務所の代表者の末川協は、白砂村荘の雅さんの従兄弟、即ち妙さんの甥


 墓地には馬淵会通と陽雲院の墓があると書いたウェッブサイトがある:
http://blogs.yahoo.co.jp/aruku42/7786850.html)
http://www.hal-kyoto.com/ki/kyosikai/q_and_a/ohaka/index.html
別のサイトには馬淵会通は天寧寺とある:
http://www.ritsumei.ac.jp/~mit03437/coe/heian/bunka10/bunka10_jyuka.htm
このサイトが典拠として掲げているのは、大正2年に寺田貞次によって著された名著「京都名家墳墓録」と岩波書店の「国書人名辞典」である。後書は前書を引用しているから、馬淵会通の墓が天寧寺にあるとしたのは寺田である。画像しかし、馬淵会通の墓は仏陀寺に現存している。墓は異形の五輪塔で正面に「馬淵会通 墓」左側面に「天保七丙申年五月廿九日卒」と刻されている。これは寺田の記す所でもある。ちょっと離れた所にある馬淵旭山の墓も同形である。今も馬淵家は続いているようで、真新しい「馬淵家先祖代々の墓」が背中あわせに建てられていた。
 一方、武田信玄の正室であった三条夫人 陽雲院の墓は、通常、埼玉の陽雲寺あるいは山梨の円光院にあるとされている。法号は陽雲寺では「陽雲院殿瑞昌芳秀大姉」、円光院では「円光院殿梅岑宋_大禅定尼」となっている。
(http://www.asahi-net.or.jp/~pv4r-hsm/rekisi1-2.html)。
 ここ仏陀寺にも「陽雲院殿諦誉快宗大姉」の法号が書かれた大きな五輪塔がある。陽雲院が京都三条家の出であるから、京都にも菩提を弔う墓があっても不思議ではない。いずれにせよこのような立派な五輪塔が建立されているだけに、それなりの人物の墓であろう。乞う、御教示。
 サイトの情報は受け売りで、しかも典拠が書かれていない場合が多く、鵜呑みにするのは危険である。特にブロッグは。「2008年2月29日はインターネット史に残る日となる」といわれている。それは、「ネット上の表現の自由が守られた記念すべき日」である。東京地方裁判所がインターネットのホームページの表現で名誉毀損罪に問われていた会社員橋爪研吾氏(36)に対して無罪判決を言い渡した。彼は「ラーメン花月」のフランチャイズ事業を営む「グロービート・ジャパン」を「カルト集団」などと批判したとして訴えられていた。彼が無罪となった根拠の一つに、ネットの特殊性で「個人が掲載した情報の信頼性は低いと受け止められている」というものであった。つまりネット上の書き込みは誰も本気で読んでいないから、従来ほど目くじらを立てる必要はないということであろう。個人レベルで十分調べて嘘と知ったうえで書かなければ、その範囲で表現の自由はある(紀藤正樹、「表現の自由」、Mac Fun, 2008年5月号)。ネット上の情報は信用すべからず! この文章も9割方ネット情報に依拠しているのでまじめに受け取らないでください。面白ければ、知的興味がわいてくれば、それでよしとして下さい。
 それはともかく、馬淵会通と陽雲院について簡単に記す。
 馬淵会通(1753〜1836)は平安人物志に儒家、文人画家の項目に名が出ている人物。俗称馬淵舎人、号嵐山、字仲観。儒学を斎静斎(いつきせいさい)に学ぶ。儒医としても知られていた。著作として「傷寒論斉子伝」全六巻がある。斎静斎は荻生徂徠の学統の儒者で、医学、神道にも通じ静斎学と称されていた。
 陽雲院は武田信玄の正室という。京都三条家から嫁いできた「秀姫」で、三条夫人としてよく知られている。信玄の死後、仏門に入り、転法輪三条陽雲院といった。97才の長寿を全うし埼玉児玉郡上里町金久保(註)の陽雲寺で死んだとも、50才で甲府市の円光寺で死んだともいわれている。
註:金久保(金窪)は信玄の甥信俊が家康から与えられた領地。
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本満寺
 1410年創立の日蓮宗の寺。天文年間(1532年〜55年)に現在の地に移り、後奈良天皇により勅願所となった。江戸時代には、日鳳が8代将軍吉宗の病気平癒を祈って効があったことから、以来、将軍家の祈願所にもなった。日蓮宗の寺は祖山(総本山身延山久遠寺 山梨県身延町)、霊跡(大本山)、由緒寺院(本山)、その他地方寺院と寺格が定められており、当山は京都の由緒寺院の一つ。
 法華宗は天文法華の乱(註)以前、京都のまちで一大勢力を形成し、町衆ばかりでなく多くの公家や戦国大名、武将までもが帰依し栄華を誇っていた。日蓮宗は歴史的な過程において、その教義の解釈や定義から複雑に多くの宗派に分かれた。その一つの日蓮正宗から新宗教系の信徒団体としての立正佼成会や創価学会などのグループが形成された。
 お題目は全て「南無妙法蓮華経」。京都五山送り火の一つ「妙・法」はこの南無妙法蓮華経の妙法である。地元の涌泉寺(ゆせんじ,松ヶ崎堀町)の寺伝によると,徳治2(1307)年松ヶ崎の全村民が、日蓮(にちれん)の法孫である日像(にちぞう)に帰依し法華宗に改宗、その時日像が西山に「妙」の字を書き、下鴨大妙寺の日良(にちりょう)が東山に「法」を書いたと伝えられている。江戸時代の中頃には、杭の上に松明を結んで点火するか、掘った穴に石を置いて火床を作って点火した。現在では、鉄製の受皿火床に割木を井桁状にして積み上げ点火されている。「妙」の火床は103基で縦横の最長は約100メートル、「法」の火床は63基で縦横の最長は約70メートルに及ぶ。
註:天文法華の乱は,天文5(1536)年、山門および南近江の守護六角(ろっかく)氏等が、京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした戦闘のこと。
 本満寺の境内の西、山門に向かって左側(北側)に本山本満寺妙見宮がある。ここは「洛陽妙見十二支めぐり」の第二番札所(丑:北北東)に当たり、出町の妙見様として人々に親しまれている洛陽二十八宿妙見の一処で、御神体は能勢妙見と同体とされている。ちなみに、洛陽妙見十二支とは、善行院(子:北)、本満寺(丑:北北東)、道入寺(寅:東北東)、霊鑑寺(卯:東)、満願寺(辰:東南東)、日体寺(巳:南南東)、本教寺(午:南)、法華寺(未:南南西)、慈雲寺(申:西南西)、常寂光寺(酉:西)、三宝寺(戌:西北西)、円成寺(亥:北北西)の12ヵ寺である。妙見菩薩は北極星・北斗七星を神格化し宇宙万物の運気を司るといわれ、鎮宅霊符神、玄武神として鎮護国家の守り本尊とされている。「洛陽妙見十二支めぐり」は 昭和61(1986)年に新たに発足し、御所を中心に12の恵方から構成されており、「子」より12寺を巡拝、御朱印を拝受し開運厄除を祈願する年寄り向けのレジャーとなっている。
画像 門をくぐった左手の庫裏の前には、すばらしいしだれ桜がある。その反対側鐘楼の前には、染井吉野の名木があり、本満寺は京都の知られざる桜の名所となっている。
 境内墓地に尼子十勇士(註1)の山中鹿之介の墓があることでも知られる。画像山中鹿之介の墓は京都だけでも他に三カ所ある。黒谷(金戒光明寺)墓地、南禅寺塔頭慈氏院と大徳寺塔頭玉林院の三カ所。ここの墓は、撰文によると、宝暦14(1764)年に山中氏の子孫が建立された。他の三つも、子孫が祖先祭祀のために建てたものである。玉林院の墓は、鹿之介の二男を始祖と仰ぐ大阪の鴻池家が建立しただけあって立派である。重要文化財に指定されている南明庵に位牌が安置されている。
 上月城の戦いで主君の尼子勝久(註2)は自害したが、鹿之介は自害せず、毛利氏に降った。しかし毛利輝元の下へ護送される途上の備中国合の阿井の渡し(岡山県高梁市)で謀殺された。そのため殺害現場である現在の高梁市の高梁川と成羽川との合流点付近の国道313号沿いに墓所があるが、観泉寺前住珊牛和尚によって胴体が埋葬された胴塚が、観泉寺墓地に残っている。首は備後国鞆の浦に在していた室町幕府15代将軍足利義昭や毛利輝元により実検が行われ、その後地元の人たちが手厚く葬った。その首塚が鞆の浦の静観寺山門前に現在も残る。さらに、鹿野城主であった亀井茲矩が、舅に当たる山中鹿介幸盛の菩提を弔うため、持西寺を現在の地(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野1306)に移して鹿野山幸盛寺とし、境内に墓を建てた。墓が建てられた時期に植えられたイチョウの木があり、現在では樹齢400年を超え、高さは40m近い巨木となっている。また講談などでよく知られた「願はくば我に七難八苦を與へ給え」の石碑が側に建っている。
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註1:尼子十勇士という呼称は後世に言われるようになったもので、同時代の史料には出てこない。
その名がはじめて出てくるのは延宝5(1677)年に記されたという通俗小説「後太平記」。その後、岡山藩士の湯浅常山が記した「常山紀談」(元文4,1739年)などにも登場し、明治末から大正初にかけて流行した少年文庫「立川文庫」でもとりあげられて流行、映画化されたことで定着した。しかし緒本によってもその十勇士の名はバラバラである。「常山紀談」では、山中鹿之介、薮原荊之介、五月早苗介、上田稲葉之介、尤道理之介、早川鮎之介、川岸柳之介、井筒女之介、阿波鳴戸之介、破骨障子之介の十名。「広辞苑(第三版)」では、山中鹿之助(介?)、秋宅庵之介、横道兵庫之介、早川鮎之介、尤道理之介、寺本生死之介、植田早稲之介、深田泥之介、藪中茨之介、小倉鼠之介の十名となっている。諸本共通しているのは山中鹿之介だけで、他は実在さえあやしい。すべて鹿之介にならって「介」でおわり、生死之介、尤道理之介、女之介、破骨障子之介などは駄洒落くさい。

註2:尼子姓は初期の室町幕府で影響を持った佐々木高氏(道誉)の孫、高久が近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。この姓の由来について一つの伝説がある。始祖が天女との間に子供をもうけ、やがて子供は天女の子供という意味から、天子(あまこ)という姓を名乗るようになる。しかし京にいる天子様(天皇)と同じ字は恐れ多いと、読み方はそのままに尼子という字に改めたという。戦国大名となった尼子氏は、尼子義久が毛利氏の攻勢に耐えきれず、永禄9(1566)年に毛利氏に降り滅亡した。その後、尼子氏の遺臣である山中鹿之介や立原久綱らは尼子一族の尼子勝久を擁立して織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興するが、天正6(1578)年に播磨国上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、鹿之介は殺されたため、尼子氏は完全に滅亡した。一方、義久とその兄弟は毛利氏に降った後安芸に送られて配流生活を送り、子孫は関ヶ原の戦いの後に毛利氏から知行を給されて長州藩に仕えた者、水戸藩に仕えた者などがいた。現在でもその子孫が断絶せずに続いている。全国の尼子氏の子孫・関係者は、今でも5年に一度一堂に会し集会を開く。


 武勇者だけでなく、日本画家の西村五雲や石造美術研究家の川勝政太郎両氏の墓もある。
画像 西村は明治から昭和初期にかけて京都画壇で活躍した日本画家。岸竹堂に師事,竹堂の没後竹内栖鳳に師事。明治45年に画塾を開き,大正2年に京都市立美術工芸学校教諭、同13年から京都市立絵画専門学校教授。山口華楊(私註)、麻田辨自の師。山口華楊監修、内山武夫解説の「西村五雲」(光村推古書院、1983)の序文には、「日常の何気ない事象の一瞬の動きをとらえて、宇宙の大きさを感じさせる。一個の草籠にも、路傍の一木一草にも、一点のおき方、一線の運び方によって限りない生命が託されている」とある。また、画商の株式会社イマジンの売り文句は「きわめて高い技巧と洗練された洒脱性とによって到達した画境に、夾やかさと華やかさ、そして動きを具えていた」とある。下の二図は彼の「赤き花と黒き蝶」(部分)と「油断大敵」という作品である。どちらの評が当っているのだろうか。
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私註:日本でカオスやフラクタル研究の先駆者である応用数学者の山口昌哉は華楊の息子。彼は非線型偏微分方程式の数値解析分野で業績を残した。研究の幅が広く、生物科学や社会科学への応用も積極的に行い弟子も多い。まとめて山口組と通称されていた。
(http://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~inaba/inaba_JAMB_NL_1999a.pdf)。


 川勝政太郎(1905年〜1978年)は石造美術を、わが国で最初に体系づけをし、調査研究を進めた人物。中京区の染色を家業とする旧家の独り子として生まれた。京都市立第一商業学校(京都市立西京高等学校)を卒業後、建築史の天沼俊一博士に師事し、古建築、石造美術について学んだ。昭和5年には史迹美術同攷会を創立し、雑誌「史迹と美術」を発刊、主幹としてその編集にあたる。そしてやっと、昭和18年に、京都帝国大学文学部史学科考古学専攻を卒業した異色の人物。
 彼のように京都に関する史実を調査し、社会に貢献した事蹟や事物を顕彰することを目的とする歴史研究団体である京都史蹟会の周辺に集った人たちには異色な人物達が多い(註)。
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註:京都史蹟会の周辺に集った人たち
呉服商千吉の当主西村吉右衛門は本業を番頭に任せきりで、史蹟顕彰事業にその生涯をかけて尽くした。彼は京都史蹟会の発起人で、財政的にも多大な貢献をした。小西大東(本名は笠原直治郎)は、五条御影堂前の京鹿子商の次男として生まれた。万巻の書物を読み、有職故実の学者として大正、昭和の大礼時には指導的な役割を果たした。一方では、京菓子や京扇子の図案や銘を考案したり、販売広告を手がけたりして、多才な京ブランドのプロデューサーとして活躍したという。「京都ブランド作り」は今に始まったのではなかったのだ。日本美術史・歴史考古学・金石学の藪田嘉一郎は、京都帝国大学史学科選科を中退後、東京至誠堂に入社。1932年奈良飛鳥園で「東洋美術」編纂に従事。その後、京都日出芸林社、美術印刷便利堂などを経て、1951年に学術図書出版「綜藝舎」を創立して京都の史蹟の啓蒙にもつとめた。日本の古代史に関心のあった松本清張は、1973年ごろに藪田と知り合い、往復書簡で古代史についてのさまざまな議論を交わしていた。子息の綜藝舎の舎主の藪田夏秋は「京の街中に生まれて、生涯を歴史とその周りの文化に傾倒し、金持ちにもならず、名誉も得ず、京洛に彷徨った父の生き様」と「綜藝舎」のホームペジに記している。一読の価値有り。
 西田直二郎は大阪生まれの京都帝大の史学科国史学専攻の第一回卒業生、ヨーロッパに留学し、帰国後京大教授となった。大日本言論報国会等の団体に関与、戦後、教職不適格者に指定され退官。1951年に解除、翌年京都大学名誉教授になった。西田は1932年に「日本文化史序説」を出版し、京大史学科国史学専攻を中核として「文化史学」の学風を確立し、戦前の京都学派の一つの学問的伝統を作った。彼の門下からは、「文化史派」とも称される歴史学、考古学、民俗学など多分野にわたって優れた研究者が輩出した。毎月最終金曜日の放課後に自邸の応接室を学生たちに開放して、文化史学やその周辺分野に関する話題を提供して議論をかわす「金曜会」という学術サロンをひらいていた。上述の藪田嘉一郎も彼の文化史学に影響を受けた一人である。当時、京大史学科には内藤湖南三浦周行喜田貞吉などの碩学がいた。さらに先に出てきた「京都名家墳墓録」の寺田貞次、「新撰京都名所圖會」、「昭和京都名所圖會」の竹内俊則も忘れてはならない。寺田の経歴は著名な民俗学者で日本風俗研究会の江馬努(京都一中、京大の同窓)が「京都名家墳墓録」に筆を執った序文に垣間みられる。竹内俊則は京都史蹟研究会後の京都史蹟会の中心人物で、京都国立博物館に奉職するかたわら京都の名所旧跡を探訪、一般向けの京都の史蹟紹介の著作も十指を越える。さらに、下御霊神社宮司の出雲路敬直は、道標を足がかりに京都を中心とした文化史や祭礼、有職故実を研究し、「上京の史跡百選」(上京区役所)のような著作を通じて市民に対する啓蒙に長年努めてきた。仏教、特に親鸞研究の泰斗赤松秀俊は、研究のかたわら、京都市内の社寺や史蹟の前でよく見かける将棋の駒をかたどった説明札の文章を手がけ、史蹟を訪れる観光者の啓蒙に尽くした。

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 本満寺境内の東の奥の墓地は一段高くなっており、外側の南北の狭い道路に面して高い石垣の上にさらにブロック塀が築かれている。この特異な景観は史跡には指定されていないものの御土居堀の痕跡である。南北の狭い道路は御土居の堀の跡である。上述の註にも記した西田直次郎が調査した1920年頃にはまだ御土居の薮が残存していた。墓地の高台の隅に白鷹弁財天を祀ったお堂があり、外側の道へ石の階段が降りている。下の道の両側はぎっしりと民家が軒を接している。画像その狭い道の一隅に十一面観音を祀ったお堂があり、その少し北には逆卍のお地蔵さんが祀られている。下の写真は御土居の高台から眺めた墓地である。仏陀寺と十念寺の甍が望める。
 そのかたわらには、速水流茶道の開祖速水宗達と速水家先祖代々の墓が集められている。速水流は、あまたある茶道流派の中で歴史を誇るものの一つで、江戸時代の後期、速水宗達によって創始された。宗達は、京都御所に近い釜座出水の地で代々御典医を営む家柄に生まれ、15歳の頃に裏千家八代家元一燈宗室に入門し、その後茶道の奥義を若輩にして極めた。また儒学を堀川古義堂に、和歌を小澤芦庵に学び、学者としても世間に広く知られていた人物。当代は七代速水宗楽。
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幸神社
画像一般に「こうじんじゃ」と呼ばれているが「さいのかみのやしろ」が正しい。本満寺の南、加茂川と平行に走っていた寺町通りが南北方向に折れ曲がる辺りから出町の商店街がはじまる。この寺町通りの道角に「幸神社」と大きく書かれた石碑が建っている。石碑の案内に従って西に入るとすぐ、北側に大きな鳥居を構えた神社がある。主神は猿田彦。古くは「出雲路幸神(こうしん)」あるいは「出雲路道祖神社(どうそしんのやしろ)」と呼ばれていた。道祖神は塞神(さえのかみ)のことで、外から来襲する疫神や悪霊を遮るために村境や街道辻、橋畔などに祀られた神である。「さえ」(塞)が「さい」になまり、「幸」の字をあてたのが当社の名前の起こりである。元々は、もっと東、加茂川岸に近い所にあった。また御所の東北にあたるので、鬼門を守る神としても崇敬されてきた。画像社殿の東北隅に御幣を肩に担いだ猿の像がある。左甚五郎の作と伝える。さらに、境内東北隅に「猿田彦神」と称する、男性の一物のかたちをした石神がある(右写真の左)。猿田彦神は古来生殖の神と言われてきたことの証である。また垣に囲まれた本殿の南東隅にも同じような石神がある(右写真の右)。これが御神体の「御石さん」(おせきさん)と呼ばれる石で、拝むと縁に恵まれて幸せが訪れるというが、この石に触れると祟りがあるとも伝えられていて厳重に祀られていて手が届かないのは幸いである。
 現代では「さえのかみのやしろ」はいつの間にか「さちじんじゃ」になって、幸福祈願に訪れる人も多い。ただし、幸福を得るのはそう簡単ではない。幸神社だけでは十分ではない。安井金比羅宮・幸神社・福長神社の三社に、正確にこの順番で参拝しなければならない。まず、安井金比羅宮で悪縁・悪運を断ち切らねばならない。ここには縁切り石があり、これに祈願して過去を捨て、次いで幸神社に詣って良縁を得て幸福になる。最後に福長神社に「福、長く続け」と祈願して、やっと幸福になれるという。
 狂言の「石神」には、夫と離縁したい妻がこの石神で占いをする場面がある。粗筋は「妻に離縁状を突きつけられて困った夫が、妻に内緒で仲人に相談に行く。そこへ妻が離婚を告げに来たので、夫は奥の間に隠れる。仲人は何とか思い留めようとするが、容易に納得しない。そこで仲人は、別れるか別れないかを、石神に決めてもらいなさいと妻に持ちかける。妻は石神の所に行き、先ずは「石神が上ったら別れます、上がらなければ今までの男と添います」と願掛けをして引くと石神は上らず。逆の願掛けをして引くと石神は上る。_それもそのはず、その石神は変装した男だった。_妻は、神を信じず引き直しをした事を神に謝り、場を清め神楽を舞う。その神楽の面白さに、石神に化けていた男は正体を現す」というものである。
 猿田彦神の石神の横に疫神社の小祠が鎮座している。疫神社や疱瘡神社は洛中洛外あちこちにある。天皇から庶民まで疫病が流行ることが大変恐れられていたことの証である。歴代の天皇は、悪疫の大流行に際して何回も改元をおこなっている。奥沢康正著「京の民間医療信仰 安産から長寿まで」(思文閣出版、1991)には10ヶ所以上もの疱瘡神を祀る社寺が紹介されている。画像その中には疱瘡石のような霊石を祀る立派な西院春日神社から、洛中洛外の境にある疫神を祀る小さな祠まで様々なものがある。この寺町界隈にも上御霊前通りを東に入った加茂川の土手近くに疫神の末菊大神の祠がある。「さえのかみ」とも深く関連しているであろう。柳田国男は「石神問答」において、関東地方や中部地方で見かける、石を御神体とした「石神(しゃくじ)」と云うのは、塞の神の転訛した言葉であろうと云う。これを承けて、谷川健一は「日本の神々」において宮中祭事の中にある御門祭(みかどまつり)に言及して、その中に現れる、櫛石窓(くしいわまど)、豊石窓(とよいわまど)の二石神は塞の神に外ならないと追論している。ところが、民間では、この石神は疫除・良縁・安産・子育てに霊験があるとして祀る。幸神社の石神と疫神社の祠もこうしたたぐいのものであろう。
 境内本殿前庭の右手にオガタマ(招霊、拝魂、小賀玉)の大樹がある。モクレン科のオガタマは春先に目立たない小さな黄白色の花を付ける。人目に触れ難い。果実は熟して赤い種子を露出するのですぐわかる。山口県大津郡宇津賀角山の日吉神社の境内には17本ものオガタマがあるという。まれに見るオガタマの大群落である。その中の最大木は根回5.30m、目通り周囲3.90mである。京都市内では、堀川今出川の白峰神社の目通り周囲2.70mのオガタマが最大である。不思議なことに、寺町頭界隈の民家にはオガタマがよく植えられているのを見かける。その中で最も立派なのが、上御霊前通りを西にちょっと入ったところの南側のマンションの玄関先にある。マンションが建つ前は大きな屋敷の中にあったものであるが、マンション建設に伴って伐採されなかったのは幸いである。
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出町商店街
 出町商店街は京都市上京区の北部、寺町今出川付近に位置する。最寄り駅は京阪電車の終点出町柳駅で、鴨川をはさんで対岸に位置する。「出町柳」という駅名は、冒頭にも述べたように、鴨川をはさんだ二つの地名「出町」と「柳」を重ねて作られたという。豊臣秀吉は都を「お土居」で取り囲み、鴨川左岸沿いに整然と寺院を並べた。出町は都の出入口のひとつ大原口(京の七口のひとつ)として栄えたが、河原へ拡がった町屋の地を守るために、寛文の大治水(1661−1673)で新しい堤防が築かれ、大原口には高野川の水流を防ぐために「マスガタ」が設けられた。これが「枡形」の謂れである。その後、寺町通の寺院は次々と移転し、町屋の地に変わっていった。宝永の大火(1708年)で焼失した立本寺が移転し、その跡地に桝形通が誕生した。桝形通の開通で、大原口は市場町として発展していく。
 若狭街道の終点として出町(桝形)は「鯖街道」の終着駅でもあり、若狭の海産物が馬の背に載せられて大量に運び込まれて、市が立つごとに様々な芸能者が集まる不思議な空間であったようだ。小浜で水揚げされた鯖は、80キロの道のりを越えて、翌朝には都の魚市に並べられた。今は、小浜から出町柳まで鯖街道(小浜→熊川宿→朽木→大原→出町)を一日かけて走る長距離マラソンが毎年行われている。
 現在も、出町商店街は「近隣型商店街」と呼ばれる商店街で、少し離れたところからも日常の買い物客が集まる商店街である。昭和の匂いを満載した昔なつかしい商店街である。滋賀県の安曇川の釣り宿のお爺さんの昔話によると、昔,京へ行く時はわらじを2足用意して,必ず出町へ買い出しに行ったという。自分とこの買い物だけでなく,近所の人に頼まれた物も紙に書いて買いに行った。八瀬や大原の人はまだ近い方で,滋賀県の奥でも京へ買い物に行くといえば出町だったそうだ。
 明治27年の「丑寅商売貰」には,現在もこの商店街に存在する店の名前が見受けられる。公設市場として栄えたのは,大正12年からで,当時は東北市場(桝形)と呼ばれていが、いつの間にか出町市場と名前が変わったようだ。御所のすぐそばという場所柄,公家や学者も多く住み,江戸時代から明治の頃までは,醤油や味噌,酒,油などの製造業も多く存在していた。また,砂糖の大きな問屋等もあった。19世紀末から高野川沿いの型染友禅が盛んとなり、出町は多くの友禅職工たちの生活も支えきた。戦中は寂しい限りで、桝形で店を出している所はなく,あっても配給をしている場所くらいだったが、戦後,出町広場にヤミ市が出現。食料品を扱う店が集積して商業地となり,昭和23年頃,振興組合法ができてから出町繁栄会となり,出町商店街として発展した。寺町通にちょっと入った所から,東を向いたら人の頭で何も見えないくらい活気にあふれていたという。昭和36年に総合衣料のセルフ岸本屋ができ,スーパー形式の店が幅を利かせるようになったが、まだまだ個人商店もがんばっている。
 20世紀の最初の年である1901年に京都電気鉄道が青竜町(出町)まで延長されターミナルのにぎわいも加わった。京都電気鉄道は、かつて京都市と紀伊郡(一部は伏見市を経て後に全域が京都市へ統合された京都府下の郡)において路面電車を運営していた私鉄である。通称「京電」といった。日本初の営業用電車を走らせたことで知られている。大正7(1918)年に市内における電車の運営統一を図る京都市に買収され、京都市電の一部となった。買収されるまでは、「京電」と「市電」(京都市電気軌道事務所、現京都市交通局)の二つが競合していた。なお、軌間は京都電気鉄道が1067mmの狭軌、市電が1435mmの標準軌であった。その間、寺町通りに市電の今出川駅が終点として開設され、さらに大正14年に京都電燈(現京福)が出町柳-八瀬間を叡山電鉄の名で開業するなど、出町は交通の結節点としても発展していく。その後、京阪との接続による大阪からの集客を視野に入れた鴨東線開通までの長い物語が始まる。京阪との接続のため出町柳三条間の路線申請が京都電燈によってなされたのが大正14年、京阪と京福が共同で「鴨東電気鉄道」を設立して初期の計画は、京阪の七条三条間の地下化とあわせて、平成元年10月にようやく66年後に実現をみた。その直前に京阪は鴨東電気鉄道を吸収合併している。叡電と京阪京都線の輸送力の違いから出町柳駅は、乗り入れでなく乗換駅となった。以上のような紆余曲折は、「長かった夢」と題して詳しく書かれている。
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中原中也の下宿画像
「居所かわりました
 ▲市内中筋石薬師上ル角 山本方
つまり今迄の所の直ぐ北
高い二階、東側の壁の上に
スペイン式窓がありますよ
壁はホラ、メーテルリンク好みの色と来る. . . . .
退屈の中の肉親恐怖
     ダダイスト中也」


 およそ2年間の京都時代に何度も引っ越した中原中也が最後に住んだ下宿屋が現存している。寺町通りと河原町通りの間の中筋を下がった一筋目の南西角の二階建ての家がそれである。二階にひさしの付いた窓が現存しているが、これがなぜスペイン式窓なのか。ダダイストの二十歳前の詩人の目には、板壁の黒茶けた色もメーテルリンク好みの色に映った。ここに大正13年10月から、マキノプロダクション(註)の大部屋女優の長谷川泰子と同棲し、すぐに上京する。代わりに正岡忠三郎(子規の二代後を継いだ人)が入る。中也の下宿には、下鴨宮崎町の農家の離れに下宿していた富永太郎が入りびたりだったという。富永23歳、中原17歳、泰子20歳である。中原は立命館中学4年生、富永は放浪中、正岡は京大の経済学部生。「喀血」のため京都の下宿暮らしに不安を感じて東京へ戻った富永の成功が中原の上京の欲望を駆り立て、もともと松竹の蒲田撮影所に属し、関東大震災で都落ちしていたに過ぎない泰子の希望もあって、二人してすぐに上京したのだろうと、大岡昇平は推測している(別冊文藝春秋大50号, 1956年3月)。中也が親しくした立命館中学の非常勤講師冨倉徳次郎と正岡忠三郎は東京府立第一中学の同級の友人、富永は一級上、という絡みである。一方、泰子とは永井叔を通じて知り合う。中也は京都の路上で「面白いですね」と放浪詩人でビオロニストの永井叔に声をかけて意気投合、広島から彼についてきていた泰子に引き合わされる。「家に来てみたっていいよ」と中也が大将軍西町の椿寺(地蔵院)の裏の下宿に誘ったという。
 ここに来る迄に、立命館中学に編入した当時は岡崎福ノ川町に下宿し、夏休み明けには、少し西に降りた聖護院の産婦人科医院(筆者の生まれた産院!)に移り、10月には小山上総町(かっての烏丸車庫、今の北大路駅)へとめまぐるしく変わっている(http://www.tokyo-kurenaidan.com/chuya-kyoto1.htm)。
 椿寺の裏の次は、手紙にあるように、中筋通りの最後の下宿の二軒南隣であった。中也が最後に下宿した家には、中川忠幸さんが昭和12年の暮れに越されてきて以来ずっと今日迄住んでおられる。向の角の家は川端康成さんである。
 生誕100年を機に、中也を愛好する人たちの会、NPO法人の京都中也倶楽部が、昨年末に発足した。今後、定期的に茶話会を開催し、また会報で公募した詩を発表する計画だという。4月には,有名なシダレサクラが満開の京都府庁旧館で「あの頃、中也がいた京都」展をひらいた。
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註:マキノプロダクションというのは正しくない。牧野省三が東亜キネマから独立してマキノプロダクションを設立したのは大正14年の6月である。牧野は北の天満宮の近くで千本座という芝居小屋を経営していたが、二条城に関西初の撮影所ができたとき、ここでのカツドウ制作を全面委託されたのが明治43年、その後撮影所は、法華堂、大将軍、等持院、御室と次々と移転していく。すべて京福電鉄北野線の沿線である。マキノプロダクションは御室で大正14年6月に設立された。従って、大正14年の春に東京へ去った泰子がマキノプロダクションの女優というのはありえない。おそらくその前の日活大将軍撮影所の女優ではなかっただろうか。牧野はここの所長をしていたが、自分の考え通りの映画を作りたくて独立した。これが等持院にあった牧野教育映画製作所である。しかし財政的に成り立たず東亜キネマに買収されたが、制作費を削られるなど不満を抱き再び独立し、マキノプロダクションを創立した。これが御室撮影所である。牧野省三がその生涯を賭けたといわれる「実録忠臣蔵」はここで制作されたが、フィルムは裸電球による失火で焼失した。市川右太衛門、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵がここからはばたいていった。二条城撮影所で坂東妻三郎と「目玉の松っちゃん」こと尾上松之助がデビューしている。尾上松之助の彫像が出町柳の加茂川と高野川に挟まれた葵公園にある。松之助の倹約家ぶりは有名であった。その生活は質素というよりはケチそのもので、舌を出すのもケチる「ケチ松」と称されたそうである。だが晩年には、学校や福祉事業に莫大な寄付を与え、その評価を改めさせた。大正15年に京都府に13,600円を寄付し、それで20戸の小住宅が建てられている。それが老朽化のため取り壊されることになり、松之助の名を後世に残すため、昭和41年2月、当時の京都府知事の蜷川虎三(1897〜1981)によってこの地に胸像が建立された。
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白梅図子
 中筋を南へ下がったあたりは、「白梅図子」といわれていた旧花街である。明治 8年に廃止された。明治5年の古地図には16軒のお茶屋が記載されている(註1)。また白梅図子は通りの名前でもある。上京や下京には○○図子と称する通りから通りへ抜ける細い道が沢山ある(註2)。白梅図子もその一つで、きれいな名前であるが実は「しらみ図子」といわれていたそうだ。たいそう貧乏な公家が住んでいて、いつもしらみをわかせて、ボリボリと体のあちこち画像を掻いていたらしい。それで「しらみ図子」といわれていたが、栄誉あるお公家さんには、それではあまりに失礼ではないか、ということで「白梅図子」に変えられたとか、下級の遊郭でお客がシラミをもらってくるのでそう呼ばれたとか、いやそうではない、白梅という絶世の美女がいたからとか、諸説紛々である。それはともかく、この図子は河原町通りと寺町通りをつなぐ道で、かつては河原町通りに「白梅図子」というバス停があった。河原町今出川と府立病院前のバス停のちょうど中程でけっこう乗り降りがあり、市電は停まらなかったのでこの界隈に住む人は便利であったことであろう。いつの間にか廃止された。
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註1 京都の花街 京都には現在、花街が5ヶ所ある。祇園、先斗町、宮川町、祇園東と北野天満宮近くの上七軒。京都には中世以来多くの遊里が散在したが、豊臣秀吉の統一政権が樹立されると、天正17(1589)年に公認された遊里二条柳町が誕生した。今は京都の中心部にあたる地域だが、当時は上京と下京の境界で、まだ町化が進行していない空閑地であった。 その後、二条柳町は公認の特権をもって発展するが、周辺の町化進行とともに、慶長7(1602)年、徳川政権から六条への移転を命ぜられた。六条柳町あるいは三筋町と称された。今の楊梅通り辺りである(ヤナギとウメが遊郭の隠されたシンボル)。この遊郭は全国的な名声をもったが、寛永17(1640)年に再び洛外の丹波口に近い朱雀野への移転を命ぜられた。正式には西新屋敷と称されたが、かなり早くから、島原一揆のような騒動にちなんで島原と呼ばれた。この島原遊郭は、江戸期を通して特権を付与され、その後、京内外に簇生し、散在した遊里を統制することになる。 島原以外の遊郭は、島原からの出稼ぎ地として位置付けられ、慶長期から幕末期にかけてその数は多数にのぼる。江戸初期にはすでに祇園、清水、下河原、北野上七軒に色茶屋(茶立女)があったが、寛文10(1670)年以後は、主なものをあげてみても、祇園外六町、先斗町、白梅図子、七条新地、内野新地、祇園内六町、二条新地、新三本木、五条橋下などが誕生している。この遊郭新地のうち四ヵ所は江戸後期に公許されるが、いずれも島原の配下にあって、群少の遊里を支配する形態をとる。これらの遊郭は、明治期に入ってかなり消滅したが、現在も花街として上記の5ヶ所が歴史を誇っている。
 明治から大正期に消滅したり廃止されたり、あるいは他のものに吸収された遊郭は、清水新地、辰巳新地、白梅図子、三本木、壬生、下河原、二条新地、墨染、五条橋下。売春防止法施行まで営業していたのは、五番町、七条新地(現、五条楽園)。売春防止法以後もあったのは中書島、さすがに昭和45年には廃止された(明田鉄男「日本花街史」雄山閣、1990年)

註2 上京区における図子の分布 図子というのは辻子とも書き、いわば横丁のような生活道路、大路小路の間をつなぐ短い裏道である。路地(ろおじ)のようなものであるが、行止まりになることはなく抜けられる路地である。秀吉の時代に、碁盤目の市中に縦の通りを増やしたので、町の区画がおおむね縦長になった。その区画を東西に横切る(あるいは途中まで入る)形で発生した細道を、図子と呼んだ。大きな寺社やお屋敷なら、表通りに囲まれた区画を使い切るが、町衆の生活では、
区画の中央部は使い勝手が悪く、無駄な空地になりがちだったからである。さらに縦(南北)に抜ける図子も生まれ、市中の町割りは細分化され、家屋の密集度が高まっていった。袋小路の路地の突き当たりを貫通させ、通路として開放した結果生まれた図子もある。
 江戸時代以降の大火やら再開発やらで、消え失せたり呼称が変わったりした図子も多いが、今でも町名や通り名にその名を残している図子が100ほどある。貞享2(1685)年刊の「京羽二重」には47、宝暦12(1762)年の「京町鑑」には80、文久3(1863)年の「京羽津根」には91の図(辻)子名が上げられている。現在、上京区だけでも60ばかりの図子がある。上京区役所のウエッブサイトでは、当時から都の中心で人が多く住んでいた証し、と誇らしげに語られている。

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法性寺
 今出川橋を東に渡って、川端通りを少し下がった所(下柳町)にある日蓮宗本圀寺派の寺である。猿畠山と号し、俗に「猿寺」と言われている。それは、日蓮上人が他宗の迫害を受けたとき白猿の手引きによって難を免れたことに由来する。
 境内の南西にある鐘楼に掲げる銅鐘は、鐘の表面に日月星、曲尺、枡、天秤、分銅、そろばんなどを陽鋳している他に類を見ない珍しいものである。日頃、「はかり」や「ます」や「そろばん」のおかげで利益を上げている商人が、この鐘の音を聞くことによって、報恩を思い出すようにと願って作られたものという。当寺では商売繁盛のお札を授与している。画像 もう一つ、境内の北側、居宅の間に挟まれた所に、ちょっと幅が広めの「番神宮」という粗末な祠がある。内には、坊主めくりでおなじみの「台付き」に座った小さな木の神像がぎっしりと並んでいる。説明を請うたところ「三十番神」というものだそうで、「ここのはたいしたものではないです。よくみうけられます」とおっしゃるだけでそれが何なのか要領を得なかった。帰って調べてみると、三十番神(さんじゅうばんしん)というのは、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗、法華宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。これは、京都に日蓮宗を布教しようとした日像が、布教のために比叡山の三十番神を取り入れたためである。また、吉田神道も天台宗や日蓮宗とは別の三十番神として「天地擁護の三十番神」「王城守護の三十番神」「吾国守護の三十番神」などを唱えた。画像不幸なことに、1868年の神仏分離のため、明治政府によって配祠を禁じられ、密かに持ち出され流出したものが多い。京都には古いものはほとんど見かけることはなく、昭和の代になって再建されたものが多い。本寺のものも戦前から戦後あたりの作という。
 伏見深草の瑞光寺(元政庵)には三十番神社があり、法華守護の三十番神と大黒天の三十一体を祭祀している。これは古く旧極楽寺薬師堂に現存していたものといわれている。またその近くの宝塔寺にも三十番神を祀る祠がある。この寺は延慶年間(1308-10)、日像上人によって日蓮宗に改宗した寺で、日像上人は康永元(1342)年に妙顕寺で寂したが、当地において荼毘に付されている。三十番神を布教の手段とした日像上人との関わりから大切に残されてきたのだろう。
 木造でなく図像の三十番神もある。最も有名なものは、熱心な法華信者であった長谷川等伯が上洛する前、まだ能登にいたときに描いた一幅である。永禄9(1566)年、26才の作で重要文化財となっている。富山県高岡市大宝寺所蔵。
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カフェ「MAAM」 
 もう出町柳駅は目と鼻の先である。川端今出川の東南に京阪電車の「今出川改札口」がある。ちょっと、「MAAM」ででも一息入れよう。お疲れさまでした。コーヒー画像でも飲んで元気が戻れば、ちょっと葵公園迄足を伸ばして、「目玉の松ちゃん」に挨拶してみて下さい。MAAMで結構ライブやっているみたいです。オーナーは元ジャズマン。ライブジャンルはカントリー、ジャズ、ハワイアン、オールデイズなど。電話は075-771-3190、 定休日は水曜日。営業時間11:00〜18:00 が喫茶、軽食。ライブは19:00pm 〜 23:00pm (with 1 drink)。ライブのスケジュールは 確認のこと。
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付録1:長久寺/大歓喜寺/慈福寺/光明寺  
 冒頭の案内地図には掲載したが、本文中で言及しなかった寺がいくつかある。それらの寺について判明していることを簡単に記しておく。

長久寺 この寺だけは寺町通りに東に向いて門を閉ざしている。墓地はどうも西光寺の墓地に接してその南側にあるようだ。ボーイスカウト京都第4団は、長休寺の住職が京都で4番目に結成したボーイスカウト隊である。

大歓喜寺 なかなか由緒ありそうな寺である。大歓喜寺は、京都の門跡尼寺の最上位である大聖寺門跡の歴代の門跡が奉られている非公開の小さな寺であり、皇女尼僧たちの命日には、宮内庁によって非公開の追悼式が行われている。ここの墓地には、後水尾天皇の皇女の永享女王(えいこうじょおう、1657年〜1686年)が葬られている。得度して永享と称し、大聖寺宮と号した。寛文年間(1655〜1672)、大和国法華寺を兼管し、天和2(1682)年に紫衣を許された偉い尼さんであった。
 ここに「中世日本研究所 女性仏教文化史研究センター」なるものがおかれている。これはコロンビア大学の中世日本研究所の姉妹団体として2003年に設立されたもので、その経緯は、2001年、中世日本研究所所長のバーバラ・ルーシュが、大聖寺の花山院慈薫門跡を訪問した折に、大聖寺の菩提寺である大歓喜寺の空き家となっていた庫裏を、事務所およびセンター設立準備室として使ってはどうか、との申し出を受けて設置された、ということである。
 路地奥の民家が立て込んだ中に庫裏だけがあり、こんな所にこんな由緒あるお寺があるとは、誰もが見落としてしまう、たたずまいである。

慈福寺 セブンイレブンの真正面に慈福寺、南隣に光明寺、さらにとなりに阿弥陀寺と続くが、ここは紅葉が見事らしい。面会謝絶の非公開寺院で詳細不明だが、洛中洛外図屏風の左隻第5扇中上に「ちふくじ」が描かれている。これが当寺かどうかは不明。門前に「江州横田川御出現 洛北第十一番正観世音菩薩 此次上之町不動堂」の石柱が建っている。

光明寺 通称寺名は抱留之弥陀。鎌倉時代の仁治(1241)年、武人で歌人でもあった宇都宮頼綱(後に出家して法名は実信房蓮生)が、長野の善光寺から飛んで来たという見事な阿弥陀如来像が宙に浮かんでいるのを夢に見て目を覚まし、念仏を唱えながら自分の袈裟で包み込み、抱き留めるようにして得た阿弥陀如来像が、その没後に高野山奥の院千手谷の光明院へ移され、200年以上も安置されていたが、天文5(1536)年に至り、縁あって宗鎮和尚がこの地に寺を建てて祀られた。ということでこの阿弥陀を抱留之弥陀と称していたものが、お寺の通称寺名となったものと言われている。現在、この寺は少林寺拳法の道場にもなっているようで、光明寺の提灯の後ろの門柱の表札には金剛禅総本山少林寺 京都京極道院とあり、門下生を募集する張り紙がある。
 光明寺と言う同名の寺号は全国にあまたあり、ここ京都市だけでも数寺ある。また寺号の頭に冠をかぶせた名前の寺もいくつかある。参考までに、有名なところでは、黒谷の今戒光明寺、相国寺塔頭の大光明寺や地名を載せた栗生光明寺などが上げられる。京都では、同名の寺院の混乱をなくすため、檀家や近所の方達が日頃の会話で使っている愛称や俗称がいつしか通称寺院名として定着し、本名より広く知られている寺院が多くある(註)。東山の蓮華王院を三十三間堂というのは典型的な例である。京都駅でタクシーに乗り、運転手に行き先を「光明寺」と告げても車は発車できないかも知れないし、思ってもみない光明寺へ連れて行かれることになる。そこで「だきとめの(あ)みださん」と告げれば、「ハイ承知しました」という返事が返ってくるはずである。
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註 通称寺 京都市内の寺院数は約1600と言われている。京の町中で古い歴史を刻み、町衆の信仰に支えられ育まれ、人間と同じように姓名よりも「○○ちゃん」と愛称で呼ばれるようになった寺院も多い。昭和59年、通称で知られる京都の寺院が所属宗派を超えて結集し、「通称寺の会」を結成した。会では「通称寺奉拝納経帳」を発売し、地元の京都新聞社も小冊子「京の通称寺散歩」を発刊した。上記の「通称寺の会」に参加していない「通称寺」も多数存在する。その幾つかを下に掲げる。寺院だけでなく神社で通称を持ったものもある。その例も少しだけ掲げる。むしろ通称の方が行き渡っていて本名と思われているものも多いのではないだろうか。下鴨神社や上賀茂神社の本名をすらすらと言える人は少ないだろう。

京都の寺と神社の通称名
古知谷        阿弥陀寺  左京区大原古知平町
問答寺        勝林院   左京区大原勝林院町
蛇道心寺       摂取院   左京区大原長瀬町
皇城表鬼門      赤山禅院  左京区修学院赤山町
すずめ寺       更雀寺   左京区静市市原町
小町寺        補陀洛寺  左京区静市市原町
松ヶ崎大黒さん    妙円寺   左京区松ヶ崎東町
銀閣寺        慈照寺   左京区銀閣寺町
大文字寺       浄土院   左京区銀閣寺町
干菜寺        光福院   左京区田中上柳町
真如堂        新正極楽寺 左京区浄土寺真如町
永観堂        禅林寺   左京区永観堂町
熊谷堂        蓮池院   左京区黒谷町
紫雲石        西雲院   左京区黒谷町
くろ谷さん      金戒光明寺 左京区黒谷町
赤穂義士の寺     本妙寺   左京区仁王門通東大路東入ル
囲碁本因坊の寺    寂光寺   左京区仁王門通東大路西入ル
五大力さん      積善院   左京区聖護院中町
百万遍        知恩寺   左京区今出川通東大路東入ル
椿寺         地蔵院   北区大将軍川端町
金閣寺        鹿苑寺   北区金閣寺町
千本えんま堂     引接寺   上京区千本通盧山寺上ル閻魔町
千本釈迦堂      大報恩寺  上京区五辻通千本東入ル
大雅寺        浄光寺   上京区寺之内通千本東入ル
猫寺         称念寺   上京区寺之内通浄福寺西入ル
釘抜き地蔵      石像寺   上京区千本通上立売上ル
鳴虎         報恩寺   上京区小川通寺之内下ル射場町
湯たくさん茶くれん寺 浄土院   上京区今出川通千本西入ル
人形寺        宝鏡寺   上京区百々町
清荒神        護浄院   上京区荒神口通寺町東入ル
抱き留の之弥陀    光明寺   上京区寺町今出川上ル
やす寺        松林寺   上京区智恵光院出水下ル
西陣聖天       雨宝院   上京区智恵光院通上立売上ル
出水の毘沙門さま   華光寺   上京区出水通六軒西入ル
ひょうたん寺     福勝寺   上京区出水通千本西入ル
だるま寺       法輪寺   上京区下ノ下立売紙屋川東入ル
妻取地蔵       祐正寺   上京区下立売七本松東入ル
泉式部寺       誠心院   中京区新京極通六角下ル
染殿地蔵       染殿院   中京区新京極四条上ル
倒蓮華寺       安養寺   中京区新京極蛸薬師下ル
空也堂        極楽院   中京区蛸薬師通油小路西入ル
革堂         薬師院   中京区寺町通竹屋町
こぬか薬師      薬師院   中京区釜座通二条上ル
ほてい薬師      大福寺   中京区麩屋町通二条上ル
六角堂        頂法寺   中京区六角通東洞院西入堂前町
寅薬師        西光寺   中京区新京極通蛸薬師上ル
蛸薬師        永福寺   中京区新京極通蛸薬師下ル
赤門さん       正覚寺   中京区裏寺町通蛸薬師下ル
ひでんさん      神泉苑   中京区御池神泉苑町東入
矢田地蔵       矢田寺   中京区寺町通三条上ル
三十三間堂      蓮華王院  東山区七条通三十三間堂廻町
八坂塔        法観寺   東山区八坂通下川原東入ル
八坂の庚申      金剛寺   東山区下河原通八坂鳥居前下ル
きゃらかんさん    青龍寺   東山区下河原通八坂鳥居前下ル
六道さん       六道珍皇寺 東山区大和大路通四条下ル
子安観音       秦産寺   東山区清水1丁目
めやみ地蔵      仲源寺   東山区四条通大和大路東入ル
六はらさん      六波羅蜜寺 東山区五条通大和大路東入ル
日限地蔵       安祥院   東山区五条通東大路東入ル
血天井の寺      養源院   東山区三十三間堂廻り町
那須の与市さん    即成院   東山区泉涌寺山内町
今熊野        観音寺   東山区泉涌寺山内町
丈六さん       戒光寺   東山区泉涌寺山内町
洗い地蔵       寿延寺   東山区大黒町通松原下ル
雪舟寺        芬陀院   東山区本町
烏寺         専定寺   東山区本町
筆の寺        正覚庵   東山区本町
嵯峨釈迦堂      清凉寺   右京区嵯峨釈迦堂町藤ノ木町
生の六道       薬師寺   右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町
関通さん       転法輪寺  右京区龍安寺山田町
うっさん       大龍寺   右京区梅ケ畑高鼻町
沙羅双樹の寺     東林院   右京区花園妙心寺町
水子供養寺      念仏寺   右京区山ノ内宮前町
人麿寺        西光院   右京区仁和寺街道御前通東入ル
大根焚寺       了徳寺   右京区鳴滝本町
世継地蔵       上徳寺   下京区富小路通五条下ル
栗鳩堂(粟島堂)   宗徳寺   下京区岩上通三哲上ル
猿寺         正行院   下京区東洞院塩小路下ル
お西さん       本願寺   下京区堀川通花屋町
お東さん       本願寺   下京区烏丸通七条上ル
苔寺         西芳寺   西京区松尾神ガ谷町
鈴虫の寺       華厳寺   西京区松室地家町
桂地蔵        地蔵寺   西京区桂春日町
花の寺        勝持寺   西京区大原野春日町
なりひら寺      十輪寺   西京区大原野小塩
嵯峨虚空蔵      法輪寺   西京区嵐山虚空蔵町
大悲閣        千光寺   西京区嵐山中尾下町
竹の寺        地蔵院   西京区山田北ノ町
東寺         教王護国寺 南区九条町
中書島の弁天さん   長建寺   伏見区柳町
日野薬師       法界寺   伏見区日野西大道町
深草聖天       嘉祥寺   伏見区深草坊町
元政庵        瑞光寺   伏見区深草坊町
桜寺         墨染寺   伏見区墨染町
伏見大仏       欣浄寺   伏見区西桝屋町
油懸地蔵       西岸寺   伏見区下油掛町
苅萓堂        誓祐寺   伏見区上鳥羽鍋ケ淵町
恋塚寺        浄禅寺   伏見区上鳥羽岩ノ本町
腹帯地蔵       善願寺   伏見区醍醐南里町
桃山善光寺      竜雲寺   伏見区桃山毛利長門東町
六地蔵        大善寺   伏見区桃山町西町
大石寺        岩屋寺   山科区西野山桜馬場町
山科聖天       双林院   山科区安朱稲荷山町
牛尾観音       法厳寺   山科区音羽南谷
四ノ宮地蔵      徳林庵   山科区四ノ宮泉水町
山科西御坊      山科別院  山科区東野狐藪町
山科東御坊      山科別院長福寺  山科区竹鼻サイカシ町
河合神社       鴨川合坐社宅神社 左京区泉川町
下鴨神社       賀茂御祖神社 左京区泉川町
上御霊神社      御霊神社   上京区上御霊前通烏丸東入ル
上賀茂神社      賀茂別雷神社 北区上賀茂本山町
建勲けんくん)神社       建勲たていさお)神社  北区紫野舟岡町
わら天神       敷地神社   北区天神森町
蚕の社        木島坐天照御魂神社 右京区太秦森ケ東町
花山稲荷       花山神社   山科区西野山欠ノ上町

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付録2:鴨川公園  
 出町から出雲路橋までは鴨川の河川敷を歩くのがいい。賀茂大橋から出雲路橋迄1 Kmちょっとの間、前方に折り重なる北山の峰々を望み、右に比叡山から大文字山にかけての東山のなだらかな山並みを見ながら、水辺の緑地を散歩できる。
 京都市北区雲ケ畑中畑町の出合橋で雲ケ畑川は左岸に中津川を迎え、名を賀茂川と改める。ここが一級河川鴨川の行政上の起点でもある。その後、鴨川は鞍馬川と合流後、北区上賀茂で京都盆地に出る。上賀茂神社、下鴨神社脇を南南東に流れ、葵橋、出町橋を過ぎて加茂大橋手前で高野川と合流する。1964年公布、翌年施行された河川法により、起点よりすべて「鴨川」の表記に統一されているが、通例として、高野川との合流点より上流は賀茂川または加茂川と表記される。
 この河川敷が現在のように美しく整備されるようになったきっかけは、昭和10年の集中豪雨で鴨川が氾濫したことである。この時以来、河川の大改修工事によって高水敷が整えられ、鴨川公園と呼ばれるようになった。南は丸太町橋あたりから、北は柊野にかけて、河川敷には芝生地や運動広場、ベンチ、トイレ、植栽された低灌木(トベラ、ウバメガシ)等が点在し、堤防上にはサクラやマツ、カエデ、アキニレ、ムク、エノキなどの老並木が繁っている。
橋の名前に一つ面白い名前がある。「賀茂川通学橋」。この名の由来は次の通りである。
 上賀茂神社より北の賀茂川の両岸の柊野(ひらぎの)は、かつての愛宕郡の上賀茂村北部と西賀茂村北東部からなり、上賀茂神社領に田畑が開かれて発展してきた地である。柊野の地名は、昔は柊が一面に生え繁っていたことに由来し、京の七野に一つに数えられているともいう。近年の宅地開発の進行による人口急増にともない,昭和55年、上賀茂学区西北部(旧柊野地域)と大宮学区北部(川上地域以北)が合併し,賀茂川を挟んで両岸に学区が広がる柊野学区が誕生した。小学校建設に際しては、土地高騰の折、敷地確保にたいへんな苦労があり、候補地が転々とするなか、地元の方が土地を提供され、昭和54年に現在地に上賀茂小学校柊野分校として発足した。更に翌55年,大宮学区の通学区域変更により、西賀茂地域との合同による新しい学区が編成された。この間,西賀茂地域からの通学路を確保するため、通学橋が建設され、これが橋の名前となった。上賀茂神社より北、柊野堰堤(註)の間に、賀茂川には庄田橋、志久呂橋、通学橋が架かるほか、平成2年に西賀茂橋が完成し両岸を結んでいる。
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註 柊野堰堤
柊野堰堤(ひいらぎのえんてい)」は鴨川の滝、とも呼はれ、涼しげに落ちる水と深い淵は夏には大勢の川遊びの人を惹きつけている。淵に飛び込んでその醍醐味を味わうカッパも多数出現する。また、堰堤という人工物はまず時代劇に馴染まないものだが、ここは頻繁に用いられるロケ地である。必殺仕事人ではしばしば出てくる。堰堤は二段になっていて、この段差の中で役者が派手な立ち回りをやる。堰堤下段の真ん中には巨岩が鎮座していて、この岩がうまく演出に使われ、テレビを見ていて農業用水取水のダムだなんて気付く人はあまりない。

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付録3:史蹟石碑・道標
 冒頭のあんない地図に5カ所の石碑を記した。北から志波無桜,出雲路鞍馬口、幸神社、鯖街道、大原口。京都市内にある史蹟石碑・道標についての詳しい情報は京都市歴史史料館情報提供システム「フィールド・ミュージアム京都」にある。これは、(1)名称 (2)史跡石標・道標の画像 (3)解説(史跡石標のみ) (4)所在地 (5)位置座標(緯度と経度) (6)建立年 (7)建立者 (8)寸法 (9)碑文 (10)碑文の大意 (11)調査年月日 (12)備考 (13)位置図の以上の13項目からなり、まれに見る貴重なデータである。上記5つのうち志波無桜以外の4つにの石碑についてはこのデータベースに掲載されている。以下にこれらのデータを掲げる。志波無桜については本文参照。

出雲路鞍馬口
出雲路鞍馬口は,京都と諸国とを結ぶ主要街道の出入り口である京の七口の一つ。出雲路口ともいう。京都から上賀茂・幡枝・市原・二瀬を通って鞍馬に至る鞍馬街道の起点にあたる。室町時代には,ここに関所が置かれていた。この石標は鞍馬口を示すものである。
所在地 北区出雲路立テ本町/N35°02' 06.3", E135°46' 5.9"
建立年 昭和45年 建立者 京都市
寸 法 高107×幅18×奥行18cm
碑 文 [北東]出雲路鞍馬口 [南東]昭和四十五年三月 京都市
調 査 2002年2月4日

幸神社道標
所在地 上京区寺町通今出川上る東側/N35°01' 38.3", E135°46'14.0"
建立年 昭和10年 建立者 坂田清次郎・橋本音吉
寸 法 高158×幅28×奥行28cm
碑 文 [西] 危除 幸神社 縁結 [南]西半町
[東] 坂田清次郎 昭和十年一月建之 橋本音吉
調 査 2003年11月4日

鯖街道道標
所在地 上京区河原町通今出川上る東入/ N35°01'37.6",E135°46'24.3"
建立年 平成13年
建立者 出町商店街振興組合
寸 法 高175×幅36×奥行36cm
碑 文 [西]鯖街道口 従是洛中 [東]相国大龍書之
[南] 小浜からの、いくつもの峠越えの道のうち若狭街道がいつしか
「鯖街道」と呼ばれるようになりました。若狭湾でとれた鯖に
塩をふり、担ぎ手によって険しい山越えをして、京の出町に至る
この食材の道は、今に息づく長き交流の歴史を語り続けます
[北] 于時平成十三年九月吉辰建之 出町商店街振興組合
調 査 2002年2月4日

大原口道標
所在地 上京区今出川通寺町東北角/N335°01'33.5", E135°46'14.7"
建立年 慶応4年 建立者 須磨屋伊兵衛他18名
寸 法 高168×幅41×奥行40cm
碑 文 [東] 下かも 五丁 比ゑい山 三り
東 吉田 十二丁 黒谷 十五丁
真如堂 十四丁 坂本越 三り
(下に並べて) 須磨や伊兵へ 金屋久兵へ 八尾や与助 出石や
熊吉 大和や常七
[南] かう堂 九丁 六角堂 十九丁
南 六条 卅五丁 祇園 廿二丁
清水 廿九丁 三条大橋 十七丁
(下に並べて) 丹波や安兵へ 同 与兵へ 新米や幸三郎
[西] 内裏 三丁 北野 廿五丁
西 金閣寺 三十丁 御室 一り十丁
あたご 三り
[北] 上御霊 七丁 上加茂 三十丁
北 くらま 二り半 大徳寺 廿三丁
今宮 廿六丁 慶応四辰年四月
(下に並べて) 近江や太四郎 竹本天喜 丹波や市兵衛 亀や正五郎 若さや常次郎 山城や市兵へ
調 査2002年2月25日
備 考
京都市登録史跡/碑文以外に西面下端に「不」字に似た几号水準点が刻まれている。『京都の道標』収録
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付録4:駒札ー名所説明立札
 京都には,寺院・神社・旧跡等数多くの史跡名勝の由来,沿革,みどころ等を説明する、将棋の駒をかたどった駒札(正式名称は名所説明立札)があちこちに見られる。京都市が管理している駒札には二種類ある。より古い日本語だけのものと、英語、韓国語、中国語の簡単な説明を併記した新しいものの二種類である。古いものが風化して読みづらくなると、順次後者のものに替えられているようだ。過渡的に両方が併存している場合もある。京都市が管理している駒札の記載内容等については「京都の駒札」に詳しい。
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参照書目
別冊太陽 京都古地図散歩、平凡社、1994
別冊太陽 中原中也 魂の詩人、平凡社、2007
ラパン 特集 京都ちず巡り、ゼンリン、2000
文藝春秋(第86巻,第5号) もうひとつの京都、文藝春秋社、2008
上京・史蹟と文化別冊 上京区の史蹟百選、上京区役所、1999
京都げのむ 特集みやこきわめぐり、京都コミュニティデザインリーグ、2006
西田直二郎 京都史蹟研究 御土居、吉川弘文館、1961
伴蒿蹊ほか(宗政五十緒校注)、近世亀畸人伝・続近世亀畸人伝、平凡社、1972
安楽庵策(鈴木棠三訳)、醒睡笑 戦国の笑話、平凡社、1964
中村武生、御土居ものがたり、京都新聞出版センター、2005
秋里籬島、拾遺都名所図會(日本図絵全集二期第二巻)、日本随筆大成刊行会、1928
秋里籬島(竹村俊則校注)、新版都名所図絵、角川書店1976
森谷尅久、千宗室監修、京都の大路小路、小学館、1994
森谷尅久、千宗室監修、続京都の大路小路、小学館、1995
大岡昇平、中原中也、角川書店、1974
竹村俊則、京の墓碑めぐり、京都新聞社、1975
竹村俊則、昭和京都名所圖絵 5洛中、駸々堂、1984
寺田貞次、京都名家墳墓録 上巻、下巻、山本文華堂、1922
日野巌、植物歳時記、法政大学出版、1978
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カテゴリ:洛中洛外

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