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洛中洛外 虫の眼 探訪

づしづくし 39 近衛殿辻子 

づしづくし 39  「近衛殿辻子」
            くらの辻子はくらの辻子の誤り?

 宝暦の京町鑑にも大正の京都坊目誌にも、近衛殿辻子の名は見えない。ところが、京町鑑の類いの最初のものとされている1665(寛文5)年の浅井了意著「京雀」には、「巻五 北から南へ横町筋」の ○五辻通の項につぎのように出ている。

『からす丸西へ ○聖ご院殿町 むろ町通西へ ○鍋町の辻子 ○御靈の辻子 ○近江殿辻子 ○本阿彌途子 ○やまとのづし ○石やの辻子 ○あくゐ通南へ 五辻町 此町の後北のかたにかんやの辻子とて西東只一町の辻子ありその町の東はあぐ院通西は智恵光院通にて行當也
○一色町 ○西五辻町 ○ふろや町 ○伊丹町 ○柳町 此西は北野天神東の鳥居七間茶屋の前に出る也須磨の町通の末とひとつに出合なり』

 この「京雀」記載内容は、1654(承応3)年の「新版平安城東西南北并洛外圖」と見事に呼応している。下にその対応を図にしたものを載せた。

1:新板平安城東西南北町并洛外圖と京雀の

 1678(延宝6)年の「京雀跡追」も同様で、1715(正徳5)年の「都すゞめ案内者 下」では、五辻子通[いつつじとをり]の項に『▲このゑ殿づし』とある。
 上図に見えるように、室町通から西へ大宮通までは、辻子が連なっている。いみじくも、1685(貞享2)年の「京羽二重」の五辻通の説明に
 『此筋大宮より東へ室町通まで入組の辻子あり』
と記している。
 江戸時代初期のいくつかの絵図でも、近衛殿辻子と記載されていたものが、時代が下がるに連れて「近衛殿北口町」と記したものが出てくる。早くは、寛永後万治前(1624〜1658)の洛中絵図が「近衛殿北口町」である。その他にも、宝永二年洛中絵図(1705)や1714~1721(正徳4~享保6)年頃の京都明細大絵図には、「近衛殿辻子」ではなく「近衛殿北口町」となっているが、どちらかと言えば、公的な絵図で、一般に売られていた絵図では「近衛殿辻子」のままで流布していたようだ。例えば、新撰増補京大絵図(1686)、〈新板増補〉京絵図(1709)、増補再版 京都大繪図 乾 (1741)、名所手引京圖鑑綱目(1754)、京図名所鑑(1778)などみな「近衛殿辻子」である(これらの絵図へは Kyotos からアクセス可能である)。
2:近衛殿北口町 「近衛殿北口町」の町名は現在も残っている。同志社大学新町校舎の臨光館沿いの道を西に突き当たり、北へ折れた所から小川児童公園の南東角で左折し小川通に出る裏道の両側が近衛殿北口町である(右図赤枠内)。
 この町名で京都坊目誌に当たると次のような記述にであう。

『▲近衛殿北口町 上立賣より一筋南、小川東入曲折せる所より南に[近衛殿]表町、兼康町に續く。』

とある。
 ところが、近衛殿辻子(近衛殿北口町)が、『小川児童公園の南を東行して、突き当たりの同志社新町校舎の西側から南下、今出川通に至る小路』とする見解が流布しているが、この道の今出川から北一町分は古くから兼康[安]町あるいは金突町と呼ばれていた町で、ここまでは近衛殿辻子は延びていなかった。
 足利健亮氏が、「京都の辻子について」(藤岡謙二郎編「現代都市の諸問題」ps.156-179, 地人書房, 1966)に、寛保元年の「増補再版 京都大繪図 乾」によって、近衛殿辻子が今出川通まで延びているとする地図を提示されたことで、それ以降この比定説が、安易に踏襲され定着してしまったようである。管見したものを挙げれば、「史料京都の歴史7 上京」(平凡社、1980)、「京都の歴史アトラス」(中央公論社、1994)、「京都の地名検証 2」(勉誠出版、2007)、インターネット上で代表的なものは、「辻子 ー近衞殿辻子ー: 酒瓮斎の京都カメラ散歩」がある。
 実際に京都大絵図を見てみると、左下に示したように、今出川通から北一町分は、「かね安丁」となっている。明らかに足利氏の勇み足といえよう。参考までに、貞享3年の新撰増補京大絵図の該当箇所をその右に載せるが、ここでは「金突丁」と記載されている。
3:兼安町と金突町

 坊目誌は、近衛殿北口町の説明の後に、町名起原として次のように続けている

『町名起原 始め近衛殿の通用門有りし所なり。[割注:今尚少許の地
は近衛公爵の有なりと]今俗に此所を目くらの辻子と呼ぶ。舊時此町は上中筋組親町、十二ヶ町の一にして古町たり。』

 本来なら、『舊時此所を近衛殿辻子と呼びたり』と書かれてしかるべきなのに、『今俗に此所を目くらの辻子と呼ぶ』とはどういう謂れがあるのだろうか。
 近衛殿北口町の東側にあった近衛殿の糸桜は夙に有名で近衛殿櫻御所とも呼ばれていた。となると、「めくら」は「さくら」のもじりではないかと疑いたくなる。坊目誌の著者ではなく「俗」によるもじりではないかと。
 京都町奉行所の与力であった神沢杜口の随筆「翁草」に『○京師西陣火の事』と題して、1730(享保15)年の西陣焼けのことが書いてある。その中に、

『安楽小路一町程上り候処、同北側光照院宮は残る。南側焼く。近衛殿桜御所焼く、桜辻子焼く、小川通下る二町程南側焼く、…』

と、上立売室町西入ル呉服商大文字屋五兵衛家の台所より出火した火事によって類焼した西陣の町々を詳しく書き留めている。この中に桜辻子が近衛殿と小川の間に記載されている所を見ると、この辻子が、件の近衛殿辻子であることが分かる。
 翁草以外に「桜の辻子」と記した史料は、見つけられなかったが、おそらく、当時は俗に「桜の辻子」と呼ばれていたのだろう。となると、「めくら」が「さくら」のもじりという連想も許されよう。
 さらに、「桜の辻子」と呼ばれた別所があったことが、混乱に拍車をかける。それは、現在「桜井町」と呼ばれているところで、智恵光院通の五辻通と今出川通の間を「桜井辻子」と呼んでいたが、江戸時代の地誌や絵図で「桜の辻子」と記載されたものがいくつかある。例えば「京羽二重」の○洛中辻子の中に、次のようにある。

『紋屋の辻子 大宮どおり五辻より一町北のすぢにしへ入ところ
 ……
 聖天辻子 大宮とどおり紋やの辻子のにし上るところ
 櫻の辻子 右しやうでんの辻子の南の町なり』

 1714(正徳4)年の「都名所車」や、1715(正徳5)年の「都すゞめ案内者」も同様である。
 1741(寛保元)年の絵図「増補再版 京都大繪図 乾」を見ると、明らかに智恵光院通の五辻通と今出川通間に「さくらのつし」とあり、1686(貞享3)年の「新撰増補京大絵図」上でも、これを「桜のつじ」としている。
 ところが、他の多くの絵図では「桜井辻子」である。その一例として、1705(宝永2)年の「洛中絵図」を右に示す。
4:桜の辻子
 「桜」と「桜井」、どちらが正しいか。5:桜井辻子「桜井」が正解である。
 中古京師内外地圖には、文明(1469〜1487)頃の連歌師「桜井基佐」の邸宅が、中昔京師地圖には、「サクラ井」が描かれている。
 京羽二重織留巻之四には○靈泉の項にある「橘次井」の説明に

『西陣五辻の南さくら井の辻子にあり傳云金賣橘次末春が宅地なりと此
井大にして水また清冷なり源のよしつね橘次にしたがひてあずまにくだりし時此所より首途したまふと也』

6:中昔京師地圖と中古京師内外地圖

とあるように、桜井町(桜井辻子)には、今も首途八幡宮がある。 
 これだけ史料が揃っているにもかかわらず、酒瓮斎の京都カメラ散歩の「辻子 ー櫻の辻子ー」では、「桜の辻子」を「桜井の辻子」と同じものとはせずに、桜の辻子を

『五辻通の、浄福寺通と智恵光院通の間を東西に通っている・・・と見ています。そして、位置としては一色町と五辻町を通貫していると考えます。』

とする。同じ「京羽二重」の記述によって得られたの結論というから、ちょっと頭をかしげたくなる。

 最後に、「近衛殿辻子」ではなく、「近衛辻子」と呼ばれた町があったことを書き留めておく。場所は、「京羽二重巻一」の洛中辻子の項に『近衛辻子 今出川どをりしん町にしへ入所なり』とある。「都名所車」や「都すゞめ案内者・下」の洛中洛外辻子の異名の項にも出てくるる。
 往時から、此の「今出川新町西入ル」所は「弁財天町」と言われていた地で、すでに1572(元亀3)年の「上下京御膳方御月賄米寄帳」には小川組十町の1つとして「弁才天町」と見える。
 京都坊目誌では、町名の由来を室町幕府の第9代将軍足利義尚の小川御所の鎮守だった弁財天の祠としているが、角川日本地名大辞典(旧地名)の「弁財天」の項では、「府地誌」の引用で東北院内の弁天堂の旧址としていいる。いずれにせよ「近衛」との関連は、何も見えてこない。宿題としておく。

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づしづくし 38 入江辻子

づしづくし 38  「入江辻子」

 京町鑑の○新町通の項に

『○上立賣下ル
 ▲入江辻子 此町東側等三時知恩寺といふ比丘尼御所有則入江殿と云西側は近衛殿櫻御所是世に近衛殿の糸櫻といふは此所の事也』

 上立賣通の項にも、横から見た入江辻子が書かれている。
『○同町[上立賣頭町]西方下ル
㋟入江辻子 此町東側に三時知恩寺宮様有御宗旨淨土入江御所とも稱す』

 京都坊目誌には上京第二學區之部の上立賣町の項に

『▲上立賣町 上立賣町通室町西入より新町迄、及び新町通上立賣下ル字入江辻子を併せ稱とす。開通年月詳ならず。
 町名起原 …… 入江辻子は近古無邊町と呼び、當時離町たり。明治元年當町に編入す。元禄二年刊京羽二重織留巻六に入江圖子に彫物師彦兵衛あり。因に云ふ上立賣通北側に舊時筑前福岡藩黒田氏の邸あり。1:入江辻子比定享保十五年六月二十日晝午の刻、同氏の用達大文字屋五兵衛方より火を失し、公卿邸宅、社寺及民家三千七百九十戸、西陣の機織基三萬臺を焚く。被害西方に及び北野に至。俗にに西陣燒けと稱す。』

 入江辻子のあった所は、新町通の上立売通から中御霊図子町までである。戦中に建物疎開で拡張された新町通の東側の歩道にあたる(右の地図)。
 この拡張された新道は、上立売通から東北方向に折れて、衣棚通に通じている。しかし、新町通の名称は、上立売通で筋違いになっていた旧来の幅の新町通が受け継いでおり、北東に伸びた新しい拡張された上立売通より北の部分を、地元の人は「新新町通」と呼ぶこともあるという。

入江辻子の七不思議
その1 入江辻子の名の由来
 1711(正徳1)年に刊行された、白慧の「山州名跡志」の巻二十一に次のように記載されている。

『○三時知恩寺 在新町通上立賣南 所地入江辻子。此故稱寺號入江殿 寺門西面 宗旨浄土 院主尼公[割注:宮家 皇女] 三時冠號、及開祖未考』

 ここにあるように、「三時知恩寺は入江の辻子に在るから「入江殿」と称する」となっている。しかし、坊目誌の三時知恩寺の説明の中には

『[割注:寺傳に創立の地は 伏見の里入江の地]入江は地名也』

とあり、前後の関係が全く逆である。
 実際の所はどうなのか、三時知恩寺の由来をみると、

『順徳帝御代俊芿上人、宗朝より将来之善導大師御自作の尊像、土御門・順徳・後堀川三帝江御戒師の砌、右之像を被献、宮中ニ御安置あらせられしに、夜々光明を放ち、霊験伊ちじるし、其後年月おへて、入江内親王[見子内親王]此尊像を深く御信心ましまし、乞受て、伏見之里入江ちよ処に、仮の庵を結び給いて、朝夕の御看経等遊ばされ奉りしとなん』(三時知恩寺文書所収「入江殿由らい之事」)

とあり、その後入江内親王は、現在の元真如堂町(西洞院一条)にあった祟光帝の御所入江殿を賜り、覚窓性山(室町幕府3代将軍足利義満の娘)を開基として迎え、自らは二世となり寺号を知恩寺としたと伝える(以上平凡社「京都市の地名」による)。
 やはり坊目誌に見えるように「入江」は伏見の地名に由良しており、「入江辻子」は、入江殿がこの地に移って来た時以来の名称であろう。
 白慧は、本名を坂内直頼という元武士で、その後浪人となり、京都に移り住み山雲子と号した近世前期の著述家である。現在、山雲子作と目される作品は26作あるが、そのうち3分の1近くの8冊が好色関係の本である。その他は啓蒙書、注釈書があるが、地誌は山州名跡志1冊である。詳しくは、陳羿秀著 「山雲子の著作について」(近世文藝 99巻 , ps.1-12, 2014)を。
 黒川道祐「雍州府志」の三時知恩寺の項にも『入江辻子にあり。故に、入江殿と称す』と明記してある所を見ると、白慧は単にそれを踏襲したものであろう。
 坊目誌がいうように、入江辻子の「入江」は、「入江殿」を介した伏見の地名に由来したとするのが妥当である。巨椋池の入江に因むともされている。

その2 入江辻子の発祥の時期
 入江辻子の名称は、入江殿が当地へ移転してからのことであるのに間違いなかろうから、問題はそれがいつかということである。 
 諸説がある。一説には、室町末期の正親町天皇の頃(在位1557~1586)に現在地に移ったという。確かに、1566(永禄9年)8月29日、『亥下刻火事、[中]御霊通子より火出、東西二町、ふへうたんのつし入江殿、畠山のつし竪横二町、及び二百間[軒]焼了』と言継卿記にあるから、おそくとも、この頃までには、入江殿は当該地に移っていたことは確かである。言継卿記巻一冒頭の1527(大永7)年正月十五日の正月の御礼参りのリスト中に既にでている。『次第不同』とあり、場所も明記されていないが、移転後の入江殿とみてよかろう。
 1520年代に画かれたとされる現存最古の「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」には、2:入江御所ボヤ騒動近衛邸の北側に現在の上立売通に門を開いて描かれている。さらに、同志社大学の歴史資料館のホームページの「発掘物語」掲載の渡辺悦子氏の「外伝第2回 : 文献屋の本満寺探索・最終回」という記事に、典拠は記されていないが、
『1506(永正3)年正月24日、近衛殿の向かいにある入江御所でボヤ騒動があった』
と記載されている。この典拠は、陽明文庫に所蔵されている近衛尚通の日記、「後法成寺関白記」のその条であろう(右)。
 これから見れば、15世紀に遡れることは間違いなさそうだ。
 「応仁記」には『先西大路ヲバ安富民部丞元綱入江殿ノ西ノ釘貫樫ト打テ其勢三千計ニテ堅ム』や『先一番に誉田甲斐庄平三首ノ衆凡千計ニテ入江殿ノ門ノ前ニ西ヘ向テヒカエタリ。』3:入江殿移転などとあり、これに拠って、1467年から始まった応仁の乱より早い時期に移転していたものとも考えられる。
 なお、応仁記の成立時期として、現存する写本の注記に大永3年(1523年)の記載があり、大永3年ともされる。
 さらに、安藤希章著「神殿大観」によれば、1425年(応永32年)までには現在地に移転したと記しているが、典拠はなく、ちょっと俄に信じ難い。
 「京都市の地名」では、これまた典拠を示さずに『文明十八年十一月十三日に焼失したが再建され、後に新町上立売に移っている』とあり、これが正しければ、1486(文明18)年以降ということになる。これは、応仁記の記述とは矛盾する。
 参考のために、応仁の乱前の京都の姿を描いたとされる中古京師内外地図と乱後を描いた中昔京師地図での入江殿の位置を比較した図を右に掲げておく(右)。

その4 三時知恩寺 
「三時知恩寺の名称は、後柏原天皇の在位中(1500-1526)からで、宮中での六時勤行は行い難いとして、昼間の晨朝・日中・日没の三回を当寺で行うように勅命が下り、勅命により寺号も「三時知恩寺」(22と改められたことによる」というのが通説となっている。
 しかし既に、実隆公記の文明年間(1469〜1487)の初期の頃かもしばしば「三時知恩寺」の名は見える。例えば、1475(文明6)年正月21日や8月9日、12日の条に、
『廿一日 丁未 天陰、今朝於南隣有朝食、自禁裏五會法事讃之事被尋仰、申出三時智恩院御本進上之、及晩下姿持参了』
『九日 壬辰 秋霖吹霽朝日朗出、細字彌陀経進三時智恩院[割注:花光院四七日也]了』
『十二日 乙未 天霽寒気甚、爲燒香三時智恩院了』
とある。
 
 室町時代前期の万里小路時房 (1394~1457) の日記「建内記」の1441(嘉吉元)年5月28日の条には「三時知恩寺(院)」の記載が認められる(下左)。
 さらに遡り、近衛家文書と萬山編年精要には、1415(応永22)年3月1日に三時知恩寺住持だった足利義満の娘覚窓仙が入寂したことを伝える記事さえに出ている(下右)。
4:建内記(141-5-28) 5:三時知恩寺

その5 字入江辻子
 坊目誌の表現「新町通上立賣下ル字入江辻子」は、洛中にあっては、ちょっと奇妙である。京都の町は道路を挟んだ両側の家々が一つの町を構成し、東西の通りの場合は横町、南北の通りの場合は竪町と称される。立売町は、竪町の入江辻子と横町の立売町とが合わさって一つの町を構成している。そのため入江辻子に「字」が冠せられたのだろうが、本来なら立売組の一枝町として、親町に従属するにしてはいても、「入江図子町」と表記されても不思議ではないのだが。

その6 無邊町
 坊目誌にある「無邊町」という呼称は、1665(寛文5)年刊「京雀巻三」の新町通の説明の中にある。

『…… この町筋の北のかしら町は上立賣通下がる ひがし行[がは]入江殿なり。その町をば無邊町といふ』

 さらに、1678(延宝6)年刊「京雀跡追」の地の巻でも、

『この通の北のかしらは上たちうり通り下ル丁也 ひがしかわはいりえとの也。その町を無邊町といふ』

とある。
6:入江辻子の表記の違い 1686(貞享3)年の「新撰増補京大絵図」では、この「無邊丁」が使われている(元禄版でも踏襲)。他の絵図では1705(宝永2)の「洛中絵図」と1714(正徳4)〜1721(享保6)頃の「京都明細大絵図」に「入江殿門前町」とあるが、その他管見の限りではすべて「入江(殿)つし」である。
 この無邊丁の由来は全く分からない。
 「京雀」の著者浅井了意もまた、元武士で浪人身分に零落し、生活のため文筆を生業とし、晩年になって出家している。仮名草子作家として知られている人物である。東本願寺に末寺本性寺に住し、昭儀坊釋了意と名乗り、通俗的仏教教化の書も多く著している。となると「無邊丁」も鵜呑みにするわけにはいかない。

その7 伊勢殿構町
 「上下京町々古書明細記」所収の「天正二十年四月改古書物之抜書」の中の「同改 枝町当時離散町名之分」に
『…
 一 伊勢殿構町[割注:「新町上立売下ル処、当時入江殿図子     
   町、但伊勢殿構町一条千本東へ入ル処ニ替地]
 …』
に書かれている。
7:伊勢殿構町 割注の意味する所がよく分からない。入江殿図子町が「一条千本東へ入ル処ニ替地」となって 伊勢殿構町となったということだろう。
 坊目誌などでは「伊勢殿構町」の由来として『天正年中聚楽隆盛の時、伊勢兵部少輔此の地に占居す。町名之に起る』と記すが、「構」が付いているのはなぜだろう、
 山田邦和「京都都市史の研究のp.176(吉川弘文館, 2009 )に京都では8:上京の惣構南北朝時代頃から堀を持つ邸宅、つまり「構」をそなえた邸宅が出現し、それが戦国時代にはいると、一つ一つの邸宅を囲む堀が拡大・連結されて地域全体を囲む「惣構」に発展していった、とある。また、高橋康夫「京都中世都市史研究」(思文閣出版, 1983)第四章にも詳しく書かれている。その規模は想像する以上におおきい。町家なら何軒も立てられる規模であった。
 移転先に立てられた伊勢兵部少輔の居城にもこのような「構」に囲まれていたのではなかろうか。それが伊勢殿構町の呼称となったと思える。
 入江殿図子町が、なぜ替地となって、聚楽第の北西の地に移転したのだろうか。入江殿図子町の東側は入江殿がほぼ中央を占め、西門があった。通りの西側は近衛殿桜の御所の裏にあたっており、図子町といっても、替地を被るような町家はそう多くなかったはずで、その跡地は何に利用されたのだろうか、不思議である。これも、「構」構築にともなう移転だったのだろうか。
9:本満寺跡の遺構 実際、近衛殿の南に建立されたと伝えられる「本満寺」の推定地で、15世紀後半から16世紀前半代に埋没した南北方向の堀が、同志社大学新町校地内遺跡の発掘調査で検出されている(「同志社大学第1従規館地点(推定本満寺跡)・発掘調査中間報告」)。『幅1.8m以上、深さ平均87cm前後、長さ23.7m以上。北端はわかりましたが、南端はトレンチ外にのびるため不明』とあります。この「構」構築のためとはいわぬまでも、その可能性が考えられないこともないだろう。
 その結果、「入江殿図子町」という町は消えたが、「入江殿辻子」という通りだけは残り、坊目誌に記載されている「字入江辻子」にとなったのだろう、としたい。

その6 入江殿丁
10入江殿の町名2つ その7で取り上げた文書「同改 枝町当時離散町名之分」の中の一項に、

『一 入江殿町[割注:納屋町上り木下突抜町西へ入横筋今古木町ト云]』

とある。その場所については、冒頭の地図を参照のこと。
 ここにも入江殿があった筈はない。1730頃以前の江戸時代の絵図には、「入江殿丁」、それ以降は「古木町」となっている。
 古木町が、以前は「入江殿丁」と呼ばれていたのはなぜだろう。これも不思議な話である。



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づしづくし 37 竹屋辻子

づしづくし 37  「竹屋辻子」

 京町鑑の○堀川通の項に

 『寺之内下ル
  ▲竹屋町 いにしへ竹屋殿といへる舊地ゆえ號す當時北半町南半町二町にわかる俗呼で竹屋辻子ともいふなり。』

 京都坊目誌上京第四學區之部の▲竹屋町の項に同様のことが書かれている。

 『堀河通寺之内下るより、上立賣上るまてを云ふ。開通年月を詳にせす。
 町名起原 開坊の始め華族竹屋家[割注:竹屋は藤原氏にし て日野の種族なり]此地にあり。町稱之に起る。世俗竹屋ノ辻子と呼ふ[割注:延寶町鑑]。其後竹屋町南半町、北半町となる[割注:寶暦町鑑]』

1:堀川・懐宝京絵図安永3(1774) 堀川は竹屋辻子南端の上立売通を東に流れていたが、右の1774(安永3)年の懐宝京絵図にも見られる如く、堀川通は、何故かその一町北の寺之内通から始まる。竹屋辻子は堀川が流れている堀川通にあるのではない。
 明治になってからの地図ではあるが、ちょっと気になるものがある。 
 1881(明治14)の京都區組分細圖の該2:京都區組分細圖明治14(1881)当部分を見ると、堀川は東西町からはじまっている。ここは寺之内通であり、「芝ヤクシ丁」とある所が上立売通である。この地図上の「寺之内」と「竹ヤ丁」の記載位置は一町ばかり南により過ぎてはいるが、堀川通は上立売通より北、東西丁(寺之内通)から始まる。
 このような詮索は、竹屋辻子とは関係のないことであるが、詳しくは「堀川源流考」で言及している(第二章「幻の堀川」)。
3:歩道上の竹屋辻子 疎開跡地の整備で堀川通が拡幅されたのは1953年である。その結果、今や竹屋辻子は、堀川通の東側の歩道に過ぎない。上図の青線は、1927年の京都市明細図(縮尺1/1200, 長谷川家住宅所蔵)から写し取った竹屋町通と、その西側の歩道上にあった「芝の辻子」(現在の芝之町通)である。
 上述の「幻の堀川」では、芝の辻子の東沿いに、二股川の支流が流れていて、芝の辻子の南東、上立売通で堀川の本流に合流していたことになっている。

 本題の「竹屋辻子」に戻ろう。
「京都市の地名」(日本歴史地名大系27, 1979, 平凡社)の竹屋町の項では、

『寛永14年(1637)洛中絵図に「北竹屋町 南竹屋町」とみえ、以後この呼称が多いが、承応2年(1653)新改洛陽並洛外之圖などに「たけやのづし」とある』

とみえる。管見の限りではあるが、20個の江戸期の絵図中、11個が<たけやのづし>で、残りが<竹屋丁>の記述となっていることからすれば、一般に<竹屋町>が多いというわけではなく、混用されていたといえよう(右表)。
4:江戸期絵図での <たけやづし> と <竹屋丁> の混用状況 5:竹屋辻子絵図類

 一方、宝暦の京町鑑で俗称扱いであった「竹屋辻子」は、それ以前の京鑑の類である京雀(1665)、京雀跡追(1667)、京羽二重(1685)、洛陽洛外手引案内(1694)、都すゞめ(1715: 延寶の京町鑑の新改正増補版か)では「竹やのづし」だけが記載されている。
 時代が下がった、1838(天保9)年の京町小名鑑では、竹屋辻子ではなく、堀川通の項には「北竹屋町、南竹屋町」があらわれている。しかし、1863(文久3)の花洛羽津根では、辻子のリスト中に竹屋辻子が掲られていて、竹屋丁の記載は見られない。
 1620年代の京都図屏風に、既に「竹屋町」が現れている所からすれば、この通りは既に町通として、町家が軒を連ねていて、ある程度の賑わいもあったのだろうが、報恩寺の裏手で、一筋西の芝の辻子の間に、二股川の支流が流れていることから想像すれば、江戸時代を通じて、辻子当時の景観と大きく変わらなかったのではなかろうか。
 「竹屋」の名称は、「竹屋殿」に由来するというが、竹屋家がいつ頃からこの地に屋敷を構えたのだろうか。江戸時代以前のことだろうから、絵図類もなく、町鑑の類いにも手掛かりらしきものは書かれていない。
 1753(宝暦3)年に森幸安が、応仁の乱後の戦国時代の情景を描いた往古図をみると、名前は記載されていないが、「芝ノ辻子」の一筋東の通りが、位置的には「竹屋辻子」に該当するが、名称の記載はない。この通りの開通は、おそらく応仁の乱後まで遡れるのではないか。あるいはそれ以前にまで遡れるかもしれない。その前の中古京師内外地圖にもそれと思しき道路が描かれている。
6:中昔京師地図 7:中古京師内外地圖

 残念ながら、いつ頃に竹屋殿が出現したのか、その手掛かりは皆無に近いが、竹屋家初代の竹屋兼俊は室町時代の公家で、生年は不明だが、1447年に死去、その後4代目竹屋光継(1479 〜1540)の代で一旦断絶している。
 言継卿記に竹屋光継の名がが現れている。近衛尚通(1472〜1544)の日記「後法成寺関白記 」にも光継の名は現れているが、残念ながら居所の記載はない。
 光継の代で一旦断絶した竹屋家は、江戸時代になり、広橋総光の次男の光長(1596~ 1659)によって中興された。たぶん、その頃には、竹屋家は「竹屋辻子」にではなく相国寺突抜に屋敷を持ったものと思われる。京羽二重巻五の官位略輔に光長の次男光久(1625-1686)61歳が「相國寺前西へ入 百八十石」とあり、又、寛永版の京羽二重には、光久の養子光忠(1662-1725)が「相國寺つきぬけ 御領百八十石 従三位」と出ている。
 1802(享和2)年の内裏図には竹屋殿が、公家町の南西、閑院宮の北にあって、幕末までその位置を替えていない。しかし、それ以前は何処にあったかはわからない。
 竹屋辻子がいつ頃からあったかを探る、もう一つの手掛かりは「讃州寺」である。山州名跡志巻之十七に次のような記述がある。

『松丸殿町 ……、又町號一名讃州寺町。是始ノ號トイヘ共、今尚相共ニ呼也。昔此寺アリ。衰微ニ至テ易地。堀河通ノ北 竹屋辻子ウツス。後又移鷹峯千束之普明庵。…』

 松丸殿町は、現在は讃州寺町(西洞院一条下ル)という。ここから讃州寺が竹屋辻子に移転したのはいつか。これについては岡佳子「玉林院所蔵讃州寺関係文書について」(京都市歴史資料館紀要第9号, ps.95〜126, 1992)のなかで、次のように書かれている。

『その[秀吉の洛中改造の]余波は所領にのみ受けたのだろうか。讃州寺が創建の地を離れ北竹屋町に移ったのもこの時期ではなかったかと思われる。ちなみに讃州寺周辺の百万遍、誓願寺、真如堂など上京の寺院がそれぞれに寺基を移動させられているのがこの頃で、讃州寺も秀吉の洛中改造に伴い寺基を移動した可能性が高い』

 この論文では断定はされていないが、山州名跡志の記述と合わせて考え、秀吉の洛中改造で讃州寺が「竹屋辻子」に移ったということであるとすれば、それ以前に「竹屋辻子」の名称がすでに存在していたといえよう。
 山州名跡志にあるように、讃州寺は、鷹峯千束の大徳寺玉林院が所持する普明庵に、1652(慶安5)年に移った。その折に玉林院から出された寺屋敷の寄進状案、北竹屋町の町年寄・脇年寄の請書が岡佳子「玉林院所蔵讃州寺関係文書について」に紹介されている(付記の①・②と写真)。
 それによると、寺屋敷が北竹屋町中の会所に下されたことがわかる。その規模は、讃州寺が、1622(元和8)年に「蔵珠院」に住持職と寺領を譲渡した文書の中に、『屋敷三間口可有候』とあり、平均的な町家程度のものであった。
 室町時代に一町の境内地を有し、洛中洛外図にまで描かれていた創建当時の讃州寺の面影は、北竹屋町時代には全く残っていなかったようである。当時既に「竹屋辻子」は、町通の賑わいを持つようになって、北・南竹屋町と名を変えていた。秀吉の洛中改造で得た替地の規模からすれば、この通りに軒を接していた町家の一つで、会所にふさわしい場所に位置していたのだろう。
8:戦国期京都都市図(部分) しかし、戦国時代の「竹屋辻子」はそうではなかった。高橋康夫氏が復原した戦国時代の京都都市図を見ると、「竹屋辻子」は、構の堀・土塀の内にはあったが、町組として組織されていなかったことが分かる。この頃から天正にかけてが、「竹屋辻子」の時代だったといえよう。
 江戸時代になって京都の町組は、その代表者であった町代が幕府の末端役人化することにより、幕府の行政組織に組み込まれ、再編成された。この編成替えは1666(寛文6)に完了したが、その結果、竹屋町の北部は上西陣組の寺之内四町組に、南部は下西陣組の大北小路組に属した。共に古町と称した(京都坊目誌上京第四學區之部の▲竹屋町の項)。
 竹屋辻子は、江戸時代にはれっきとした古町、「北竹屋町」「南竹屋町」として、存在していたのに、俗称「竹屋辻子」がずっと使われてきたのはなぜだろう。それは、一続きの町が、北と南とで別の町組に編成されたことによるといえるのではないか。この通りを、『上西陣組の北竹屋町通と下西陣組の南竹屋町通』と呼ぶより『竹屋辻子』で通した方が何となくそぐわしく感じられる。いっそのこと、「竹屋図子町」とし、同一の町組に属した方が良さそうであるのに、そうはならなかったのには、なにか理由があったのだろうか。その頃には、讃州寺の移転跡が北竹屋町の会所となっていた。
 東西町も、寺之内四町組と大北小路組に二つに分かれて編成されている。寺之内四町組と大北小路組の確執が臭うが、……。

付記
①玉林院宗助讃州寺跡屋敷寄進状写
讃州寺此方へ引移申ニ付、蹟之古屋敷北竹屋町中之会所ニ永代遣申処実正也、以来違乱申者於有之者拙僧相済可申者也、為後日如件、
  慶安 壬辰 八月朔日       玉林院内
                     宗助
年寄                行事
 九兵衛 喜右衛門 賀兵衛 清三郎  市兵衛
北竹屋町中 まいる

②北竹屋町中讃州寺跡屋敷請書
 一、讃州寺其方へ御引移被成候ニ付、跡之屋敷町中之会所ニ被下奉忝存候、跡之屋敷ニ寺庵取立申間敷候、為後日如件、
 慶安五年    北竹屋町中
9:北竹屋町中讃州寺跡屋敷請書  辰ノ八月朔日  年寄
           九兵衛(花押)
          脇年寄
玉林院内       喜右衛門(印)
  助蔵主様    同 
           賀兵衛(印) 
          同 
           清三郎(印)
          同 
           市兵衛(花押)



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づしづくし 36 安楽光院辻子

づしづくし 36  「安楽光院辻子」

 室町幕府引付史料集成中の「徳政雑々記」の一つに、次のような書札の控えがある。
 『對成田藤八郎借用料足一貫文事、爲百卅文錢上來之旨言上之條、任徳政御法被棄破候□也、恐々謹言、
      八月廿八日 
 安楽光院圖子 教一坊』
(桑山浩然校訂「室町幕府引付史料集成 下巻」p.54, 近藤出版, 1986)

 内容は、安楽光院圖子に住んでいる教一坊が、成田藤八郎に借りた一貫文に対して、百卅文を納めたから、「分一徳政令」(借銭の十分の一を幕府に納入するという条件で債券・債務関係の契約破棄を認めるという令)により債務を破棄する奉書の下付が決まったことを伝えるものと思われる。10万円借りて、1万3000円の分一銭を幕府に納めて、借金をパーにすることが認められたというのである。 
 この文書の発行年は、1547(天文16)年というから、時代は「落日の室町幕府」と言われた戦国時代。室町幕府の諸機構のうちで戦国末期まで名実ともに存続したのは政所(財政・裁判官庁)のみであった。そのお陰で、「安楽光院圖子」の存在が知れる。
 問題は、その地が何処だったかということであるが、手掛かりは「安楽光院」しかない。江戸時代初期の地誌である「雍州府志」(黒川道祐、1686[貞享3]年)を繰ってみると、三ヶ所に安楽光院があったことが記されている。京極北、安楽小路、泉涌寺の三ヶ所である。京極北(寺町今出川の北)の所には次のような説明がある。

『光明寺の北にあり。泉涌寺の中、安楽光院と同寺たり。はじめ、上立売北、安楽小路にありて、十二光院の一員たり。近世、この処に移る。泉涌寺において、また、これを建つ。』
(原文:在光明寺北與泉涌寺中安楽光院爲同寺始在上立賣北安楽小路而爲十二光院之一貟近世移る此斯處於泉涌寺亦建之)

 安楽光院は泉涌寺と寺町に併存した時期があったようだが、これで三ヶ所の前後関係の大筋は知れる。雍州府志にいうところの近世とは、室町幕府以降と考えれられるから、冒頭の文書に出てくる安楽光院圖子は、戦国時代すでに上立賣北安楽小路にあった「安楽光院」の名に由来する辻子だろう。この時代に焦点をあてて、安楽光院の歴史を少し紐解いてみよう。

●安楽光院小史
 遠く平安時代の1099〜1101(康和年中)に、藤原基頼が、現在は上京区安楽小路町と言われる辺りに私宅を構え、持仏堂を建立た。持明院と号し、邸宅は持明院殿と呼ばれた。安楽光院は、1124〜1126(天治年間)にその子の通基が、持明院邸内に九品仏を安置する御堂を建て、安楽光院と称したのにはじまる、と寺伝にある(「安楽光院事」京都大学貴重資料デジタルアーカイブ)。その後、持明院殿は、後高倉、後堀河、後嵯峨天皇の仙洞御所に使われ、安楽光院は勅願所となった。
 鎌倉時代、安楽光院では、祖皇の国忌・御願がしばしば修されていたが、1353(文和2)年2月4日、随身所より火を発して持明院殿の施設の大半を焼失した。安楽光院は、破損が激しかったものの幸い焼け残ったが、本尊が盗失するなどで、次第に荒廃していった(川上貢「日本中世住宅の研究」p.142, 中央公論美術出版, 2002)。
 その後、1356〜1361(延文年中)に律院として、安楽光院は再興され、皇室の菩提所として存続していた。1465(寛正6)年、1474(文明6)年、1475(文明7)年と1487(長享元)年に炎上の記録が見られる([付記史料]の①〜③)。1482(文明14)年12月7日の後花園天皇の十三回忌の御懺法講に際して、『安楽光院は、いまだはかはかしい造營にもおよばず、長講堂はことの外に破壊したれば、おりふししかるへき所なきによりて、安禪寺殿にてこれをおこなはる』と二条義基が「よろつの御法」に記している事を見ると、安楽光院の存続は危ぶまれる状態だった。
 この後、いつ頃再建されたか不明だが、1470年〜1490年の文明から長享にかけて、安楽光院は公家の寺として存続していたことは、安楽光院が、林光院領加賀国横北郷の年貢を、一向宗徒の力を利用して掠め取ろうとした一件に関して、「蔭涼軒日録」などにその名が出てくる事から伺い知れる([付記史料]の④〜⑧)。
 かように、細々と寺基と寺領は伝領されていたらしく、1500(明応9)年12月、善悌上人にあてた後柏原天皇綸旨による安楽光院住持職補任状([付記史料]の⑩)が、泉涌寺に残されている。1497(明応9)年3月に、同じ善悌上人にあてた後土御門天皇綸旨による泉涌寺住持職補任状([付記史料]の⑨)が、泉涌寺に残されていることからして、近世初頭のある時期は、泉涌寺住持が安楽光院住持を伝領した事もあったようである([付記史料]⑪〜⑭)。しかし、安楽光院は、泉涌寺とは別の洛中にある末寺で、もともと寺領の伝領も別の存在だった[注]。

[注]
秀吉と家康のときの泉涌寺宛朱印寺領の中には、安楽光院の寺領は含まれず、家康以来、別朱印で寺領高120石を安堵されている。ちなみに、泉涌寺の石高は600石強であった(赤松俊秀編「泉涌寺史」p.324, 法蔵館, 1984)。

 安楽光院が、確実に洛中に存在した事は、1520年頃から1550年前後の景観年代を有する3つの洛中洛外図屏風のうちの2つ、町田本東博模本に安楽光院らしき寺が、描かれていることからわかる。場所は、光照院[注]の北で、寺之内通までの一画を占めて、光照院同様に、安楽小路に門を開いている。
 町田本では、光照院と安楽光院の間に小路が通じていて、両寺の間を現在の挽木町通から安楽小路に抜けている、まことに辻子らしい辻子である。これを、「安楽光院辻子」といわずに何と言おう。

[注]光照院
 
現在も安楽小路町にある尼門跡寺院。常盤御所とも呼ばれ、山門脇に、「持明院仙洞御所跡」の石標が立っている。1356年、後伏見天皇皇女・進子内親王により、室町通一条北に建立された。応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失したが、1477(文明9年)頃に後土御門天皇から安楽小路に寺地を賜わって以来、現在までこの地にある。
 1998年に建立された「持明院仙洞御所跡」の石標の西面に、建立者の名前として「光照院門跡 田中澄俊 恵聖院門主 中島真栄」の名が見えるが、恵聖院は、宝鏡寺門跡が兼務する大慈院の付属寺院で、宝鏡寺境内北西部にあった(現在この地には、1919年に再興された慈受院がある)が、現在は、光照院境内にある。瑞華院ともいう。 恵聖院と瑞華院は「一院両号」で、住職が広橋家の時は恵聖院と称し、日野家の時は瑞華院と称したという。


1:町田本・安楽光院辻子

2:東博模本(復原模写)・安楽光院

 戦国時代に、洛中に安楽光院が、光照院と隣り合わせに存在した事は、言継卿記の新年の挨拶廻りの記事からも十分に窺い知れる([付記史料]の⑮〜⑳)。
 例えば、1567(永禄10)年正月23日の条には、

『○方々少々禮に罷向、路次々第 ……、次南御所江参、瑞慶院留守之間申置了、次寶鏡寺殿今御所御盃賜之、次入江殿、光照院殿、安樂光院、庭田、甲州之武田、各留守云々、石泉院[見参]、……』

とあり、1570(永禄13)年正月13日の条にも

『○方々少々禮に罷向、路次次第、……、寶鏡寺殿[御盃賜之]、南御所[瑞花院(酒有之)、慶勝庵、長住庵、慶福庵等]、總持寺殿[御盃賜之]、御喝食御所疱瘡御煩云々、入江殿[御盃賜之]、石泉院、飯尾加賀守、同三郎、光照院殿[御盃賜之]、安樂光院、織田三郎五郎[下國□]、……』

と、光照院と安樂光院はいつも、前後してすぐ近くに記されている。
 この安楽光院は、1573(元亀4)年4月4日の信長の上京焼き討ちで焼かれている。この事は、イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見したルイス・フロイスの1573年5月27日付け、都発信書簡に、この時焼かれた主な僧院は次のごとし、として番号を付して20ヶ寺を掲げている([付記史料]の㉑)。その中の番号11が「anratqvoyn」(安楽光院)である(松田穀一・川崎桃太訳「フロイス 日本史4」p.300, 中央公論社, 1978)
 しかし、ついに安楽光院は、秀吉の洛中諸寺院の寺町への移転政策により、平安時代から居続けてきた安楽小路の地から追い出され、京極今出川の北に新寺地を得て移転した。しかし、移転後も寺運は安定せず、1634(寛永11)年から、住僧の澄玄和尚が中心となって、泉涌寺への移転工事が始められ、来迎院の西隣に本堂・方丈・庫裏等を建立して再興し、翌年1635(寛永12)年に移転した。寺観は相当整備されたが、明治5年以来大いに破損し、同18年来迎院と合併した(赤松俊秀編「泉涌寺史」ps.324〜325, 法蔵館, 1984)。
 泉涌寺でのその地も、荒廃していた善能院の敷地となり、残っていた少しばかりの建造物も善能院の再興に用いられたという(碓井小三郎「京都坊目誌 下京之部 坤」p.547, 京都叢書刊行會, 1916)。
 明治新政府の王制復古の潮流の中で神仏分離・神道国教化の動きから廃仏毀釈への進展により泉涌寺が蒙った打撃は、一連の上地策、朝廷や幕府から受けていた保護の停止によって、相当なものであったようだ。安楽光院も、明治政府によって息の根を止められたと言えようか。

●安楽光院辻子は、何処に
 川上貢著「日本中世住宅の研究」(中央公論美術出版、2002)によれば、持明院殿敷地規模は、東西長さは現行尺で175間(約318.2m)で、平安京町割りの二町半、南北も東西行の長さと同じ二町半、従って方二町半の大きさを占めていいて、その中に寝殿等の主要施設を持ち、その南に大きな池を構えた南庭、西側には、南に安楽光院、北に広義門院御所があったという。
 この三つの施設が一つの郭内に共存していたことを考えると、その敷地が方二町半の面積を有していたとしてもさほど不自然でない、荘園所領からの所得がこのような施設の経営維持を可能にしていたのだ、という。
3:持明院比定(川上) それはともかくとして、敷地の南限は上立売通(毘沙門大路)とし、西の境界を現在の安楽小路町の西端(現在の光照院の敷地の西限)とし、ここから二町半東に、即ち[寺之内通より南の部分の]室町通の東寄りの柳原通(寺之内通より北の部分の室町通は柳原通というらしい)に東の境界を比定している。右にその範囲を現在の地図上に赤線で書いた。
4:持明院比定(大野) ここでの大きな前提は、西限を、安楽光院の旧地と考えられる現在の光照院敷地に求め、その西限、即ち安楽小路町の西限としていることである。しかし、素直に東限を下の室町通に設定すれば、西限は、小川通の一つ東の挽木町通になる。この道は、小川通を上立売通から真直ぐ北に延長した通りに当り、古の西大路通に相当する通りではなかろうか。
5:持明院路次 森幸安が描いた、応仁元(1467)年から天正14(1586)年までの120年間の京都の変遷を投影した往古図、「中昔京師地圖」を見てみると、持明院が占めていた地の南西部には、南側に光照院が、その北に細々と続いていた安楽光院の名が見える。この図の中に、川上が持明院比定の手掛かりにした、応仁以前に書かれた公家の日記、「民経記」、「明月記」、「園太暦」と「薩戒記」[注]に記載されている持明院への行き帰りの路次を、それぞれ黄、青、黒、及び赤と色分けにして書き入れてみた。

[注]

 民経記 鎌倉時代の公家広橋経光(1213~1274)の日記
 明月記 鎌倉時代の公家藤原定家(1162〜1241)の日記
 園太暦 南北朝時代の公家洞院公賢(1291〜1360)の日記
 薩戒記 室町時代の公家中山定親の日記(1401~1459)の日記


 結果を見れば一目同前、西が西大路、東は室町、北が北大路、南は(上)立売(毘沙門堂大路)で囲まれた方形の領域が持明院の敷地であり、応仁の乱後に再開発されたこの土地は、中央西よりに安楽小路が南北に通され、この道に面して西側に光照院と安楽光院が立地し、この両寺で安楽小路西側の約三分の二を占めていたといえよう。
 問題は、北大路と西大路を何処に比定するかという点であるが、川上は⑤の園太暦の日記に出てくる「柳原南行」を重視して、室町通より東に東境を比定しているが、現在の道路網からも見て取れるように、室町通は、寺之内通の南北で筋違いになっており、この北部が柳原通だったと見れば、園太暦の日記の「柳原南行」と矛盾するわけではない。二町半という規模から考えて西境の西大路は、挽木町通となり、北上してきた小川通の延長路となる。
 南境は現在の上立売通に異論はなかろう。ここから二町半となる北限は、現在の町名である上・下木下町、畠中町(久齊辻子)、道正町北部を貫通し、妙顕寺境内を抜け、小川通に出る筋となる。それこそ大昔には、北大路と呼ばれていた大路が貫通していたのだろう。
 さて、本題に入ろう。安楽光院辻子は何処にあったのだろう。候補地は、中昔京師地圖に描かれている安楽光院の外周に限られるだろう。そのうち、光照院と安楽光院共に安楽小路に門を開いていたと言うから、この路ではない。東側に光照院と安楽光院の裏塀が続き、西側には細川勝元・政元親子の館がある西大路面も、とうてい辻子とは呼べそうにない。となると、安楽光院の南側か、北の塀沿いの西大路から安楽小路に抜ける東西の小路が候補として残る。
 洛中洛外図屏風の町田本には、光照院と安楽光院の間、即ち安楽光院の南沿いに小路が覗いていた。安楽光院の北側が道路(北大路)に面していない中昔京師地圖の描写とは齟齬があるが、町田本に描写されている光照院と安楽光院間の横道が、安楽光院辻子であった可能性は極めて大である。
 しかし、この結論には難点が一つある。町田本で見る限り、この通りに民家はなさそうである。冒頭の安楽光院辻子に住所を持っていた教一坊さんは、何処に住んでいたのだろうか。
 町田本に描写されている安楽光院の北側は、けっこうな人通りが見え、辻子というより町通といえよう。この町通の東北に「大心院」が描かれていることからすれば、絵師は、この街路を北大路のつもりで描いている。中昔京師地圖の安楽光院は、もっと狭く、北面は北大路に接していない。安楽光院の北塀沿いに小路があって、その北側には民家が軒を連ねていた可能性もある。とすると、この北側の一軒に教一坊さんが住んでいたというシナリオができあがり、これが、安楽光院辻子の第二の候補となる(下図参照)。
6:辻子候補
 洛中洛外図屏風と中昔京師地圖に於ける安楽光院と光照院の配置の違いによって安楽光院辻子の場所がどう変わるかを現在の地図上に投影した図を下に示す。
 下図から容易に分かるように、洛中洛外図屏風の配置が正しいとすれば、安楽光院辻子は現在の寺之内通の一部分で、今も残っている事になる。一方、中昔京師地圖の配置が正しいとすれば、安楽光院辻子は、かつて道正庵があった前の通り、現在の道正町を西へ行った所がそうであり、現在は妙顕寺境内に埋没してしまっている。妙顕寺が、現在地に移って来たのは、1584(天正12)年で、豊臣秀吉の命による。また秀吉によって、持明院ゆかりの地から安楽光院辻子まで消されたことになる。
7:配置の違い

 寺之内通に吸収されたのか、妙顕寺に埋没してしまったのか、どちらがもっともらしいのか、迷う所である。
8:写真・安楽光院辻子(寺之内通) 寺之内通の辻子だったとおもわれる部分の現在の光景(右の写真)は、道幅も狭く、かつて辻子だった時代を思わせる雰囲気が十分ある。
 右の写真は、東端の新町通(安楽小路)から西を写したものである。奥の北側(右手)に見える白壁の所は、通りの中程にある妙顕寺塔頭の泉妙院である。この地は、江戸時代の画家・工芸家の尾形光琳と弟の陶工・絵師の乾山など、尾形家の菩提所だった妙顕寺の興善院旧跡地である。ここにある現在の尾形光琳の墓は、酒井抱一によって1819(文政2年)に建立されたものである。詳しくは「泉妙院:徘徊の記憶 - ウェブリブログ」と牧野宏子「抱一の光琳乾山権影資料」(成城国文学, 6, ps.65-75, 1990)を参照。

●寺町時代の安楽光院と辻子
9:京町鑑・▲歡喜寺前町 1762(宝暦12)刊の京町鑑に、ちょっと誤解を招きそうな記述がある。○寺町通の歡喜寺前町の項に

『▲歡喜寺前町 即此丁に歡喜寺と云禪寺有寺領四一石六斗餘 其隣安楽光院といふ四宗兼學の寺あり其となりに東へ行辻子あり下加茂へ行道也南に慈福寺其南光明寺その南阿彌陀寺いづれも淨土宗なり(以下略)』

 なぜ誤解を招くかと言えば、秀吉の政策で寺町に引っ越してきた安楽光院は、安楽光院小史の節に書いたように、1635(寛永12)年に泉涌寺に再移転した。京都坊目誌には『元禄の末年[1704年]、東山泉涌寺に写す』(第九學區之部 ○慈福寺の項)ともあるが、いずれにせよ、宝暦の「京町鑑」が書かれた頃には、安楽光院は寺町にはなかった筈である。江戸時代の絵図に当たってみると、安楽光院が泉涌寺に移転した跡地の一画に、寺町通から御土居を突き抜けて、下加茂へ通じる道ができたようである。
 管見した江戸時代の絵図での安楽光院と辻子の記載状況をまとめると、次の表のようになった。表から見て取れるように、元禄末から宝永にかけて当該の辻子が開通したようで、その頃には、安楽光院は泉涌寺に移転していたが、跡地はしばしの間、安楽光院と認識されていたようである。移転前、移転中(泉涌寺・寺町併存時)、完全移転後の3つの時期の代表的な絵図、表中に青色の網かけをした三つの絵図の該当部分を掲げておく。
10:表・寺町時代の安楽光院と辻子

11:三つの代表絵図例 安楽光院が泉涌寺境内に退転した跡に開通した辻子を「安楽光院辻子」と呼ぼうと言う向きもある(酒瓮斎の京都カメラ散歩「辻子 —安楽光院辻子—」)。その理由として『辻子名の多くがそこに接して所在する寺社や殿舎の名称を冠して命名されているのが通例であるから』というが、その意味では、「安楽光院の辻子」とは呼び難い。
 実は、本名は「安楽光院切通」である。1702(元禄15)年11月に作成された「御土居繪圖」にその名が出ている。その絵図を実見した西田直二郎の記述する所を見てみよう。

『鞍馬口道の地點にてこの竹林また土堤となりて南方に進む。幅員極めて狭く漸く四間を算ふべし。なほ、西方、廣幡大納言の邸の裏にて二分し、これより兩者は複雑なる形状の下に略々合相並びて走り、大聖寺の邊にて兩者ともに小斷積あり。安楽光院切通[この切通は元禄六年新たに開く所なり]より南方、慈福寺、光明寺等の背後を通過し、阿彌陀寺境内、(下略)』
(西田直二郎「京都史蹟の研究」p.378, 吉川弘文館, 1951)

 現在の地図上に御土居跡を書き込んだ、中村武生「御土居堀物語」(京都新聞出版センター, 2005)の248頁圖34をコピーしたものを下に掲げる。
12:現在の地図上の安楽切通の図

 安楽光院切通は、鶴山児童公園と慈福寺の間の賀茂川堤防上の加茂街道へ出る道に相当している。多分、この鶴山児童公園が安楽光院の跡であろう。戦後までも、ずっとこの地は空き地のままであった。
13:安楽切通・賀茂川筋絵図 さらに、京都市立歴史資料館所蔵「賀茂川筋絵図」にも「安楽切通」の名前が記載されている。
 この絵図は、鴨川の「寛文新堤」建設に伴って作成された絵図で、作成年代は1670(寛文10)年頃であると考えられてきたが、最近、吉越らによって、1758(宝暦 8)年以降、1762(宝暦12)年までの比較的短い間とみな してほぼ間違いはないことが判明している(吉越 昭久ほか「賀茂川筋絵図」の作成年代確定と災害とのかかわり」, 京都歴史災害研究 第 7 号 ps.57〜60)。
14:安楽光院切通1879 明治になると、「新道切通」の名称が現れる(右図)。
 以上の検証から、 1762(宝暦12)刊行の京町鑑が、「辻子」と呼んでいる新道は、「安楽光院辻子」ではなく「安楽光院切通」と呼称すべきものであり、実際そのように呼ばれれてきたことが判明した。
 ただ、一つ指摘しておきたいことは、洛中から御土居を通り抜け、賀茂川を横断して、洛外の集落へ通じる道筋を「辻子」と称した例が多々あるということである。
 その一つが、清蔵口・新町頭から、御土居を通り抜け、賀茂川を横断して、上賀茂神社の社家町に通じる道筋は「南辻子」と呼称されてきた。現在は社家町内で「南大路町」となっている。これが古くから維新後まで「南辻子」と呼ばれていたことは、上賀茂神社に残されている多くの絵図類で確認できる。
16:川成図1663 参考のために、1663(寛文3)年と1869(明治2)年の2つ絵図の該当部分のコピーを掲げる。
 御土居と賀茂川を突抜け洛中と洛外を結ぶ道筋を何と呼んでいたのか、本稿では深入りせずに、またの機会に、「南辻子」以外も探索し紹介したい。

[付記史料]
①親元日記 1465(寛正6)年12月6日
15:籍図写し1869「安楽光院炎上」

①bis 実隆公記 1486(文明6)年11月11日(2019.3.2 追記)
「安楽光院之内、子刻計炎上、但則打滅々々、珍重々々」

②長輿宿禰記 1475(文明7)年2月20日
「今夜子一点焼亡、安楽光院境内在家火出、無程安楽光院焼失…」

③実隆公記 1487(文明7)年12月11日
「初夜時分有火事、自武田被官南升居所辺云々、安楽光院以下入江殿前小家悉焼失、(下略)」



③蔭涼軒日録 1488(長享2)年5月6日
林光院領賀州横北郷、御寄進以来致本役、請取在之、無相違之処、自安楽光院掠給勅裁、「不経公儀、相語一向宗、本役百貫文仁五千疋増分契約、剰相残領家方年貢配当、一向宗十員、于今押領、言語同断子細也、然間度々雖被成、御奉書、承引不仕候、御動座刻、為郡幷地下逐払一向宗、如先規可致院納候由注進候処、尚以安楽光院致奸訴云々、此趣早々可預御技露候、恐惶敬白、
卯月十九日              瑞  智在判
      蔭涼軒
       侍衣禅師

④蔭涼軒日録 1488(長享2)年9月28日
彼在所御寄進林光院以来七十年、地頭領家為直務、安楽光院公用百貫文事者、自寺家一致其沙汰処、近年号本役無沙汰、以勅裁地頭領家具押領、百貫文加増、五十貫取之、剰其余分地下番頭十員切クレ、任雅意之条、為上意可預御成敗之由、雖経公義、于今不事行、寺家愁訴也、


⑤蔭涼軒日録 1488(長享2)年10月10日
二階堂安楽光院之取次也(中略)以皆安楽光院可為理運之計略有之

⑥守光公記 1515(永正12)年2月5日
卯永正十二、二、二
あんらく光院りやうよこ北の事は、せんゆう寺のぶぎやう、りんじを申いだし候つる、そのゝち一みちもきこしめし候はず候、いかゞ候事候やらん、きとあひたづねられて候て、申され候べく候よし申とて候、かしく、
ひろはしの中納言どのへ

⑦守光公記 1515(永正12)年5月26日
就安楽光院領賀州横北郷事、為禁裏様御門跡様被仰越之間、涯分国人堅被申付候、重々無疎略申談侯趣、可預御技露候、猶不存如在候、此旨先為私得其意可申之由候、恐々謹言、

 五月廿日    下間左衛門大夫
            頼 慶 判

  菱 田 

⑧後土御門天皇綸旨(宿紙) 1497(明応6)年2月17日
 泉涌寺住持職事、可奉祈宝祚長久者、
 天気如此、仍執達如件、
   明応六年二月十七日    右少弁(花押)
   謹上 善悌上人御房

⑨後柏原天皇綸旨(宿紙) 1500(明応9)年12月20日
 (包紙上書)
 「謹上 善悌上人御房      右少弁奉」
 安楽光院住持職事、可奉祈宝祚長久者、
 天気如此、仍執達如件、
   明応九年十二月廿日    右少弁(花押)
   謹上 善悌上人御房

⑩正親町天皇綸旨(宿紙) 1567(永禄10)年5月21日
(包紙上書)                 
「泉涌寺衆僧中        左中将重規」
今度長海妄語之曲事難遁其科、可任寺法之由、既被成
勅裁詑、安楽光院住持職事、為本寺衆中、可計中入之旨、
天気所候也、仍執達如件、
永禄十年五月廿一日    右中弁(花押)
泉涌寺衆僧中

[冒頭に表装している包紙上書は、本号のものではない。]

⑪正親町天皇女房奉書 1567(永禄10)年10月6日
(端裏書)
「仰 永禄十・十・六」
御くたりいつころにさたまり候やらん、くやうさた候つる事とものすえよく、中納言とのへ申おかれ候への御事にて候、又せんゆう寺ゑ一日りんしをなされ候ぬつるやう、あんらくくわうゐんの事、しさいある御寺の事にて候ヘハ、まうこちうたうのはかいのものなとハ、一日もあしをためさせ候ましき事にて候、ちうちの事、ほん寺としてはやくはからひ申入候へのよし、おほせられ候つるか、いまたとかくさたも候ハぬ候、ゆたんくせ事にて候、きと申つけ候やうに、ほん寺のちうちやくしやになおかたくおほせきかせられ候へく候、御寺とももうしきままゝになり行候へきと、なけかしくおほしめされ候事にて候、よく心して申とて候、かしく、

 くわんじゆ寺一位とのへ

⑫正親町天皇綸旨(宿紙)1568(永禄11)年11月21日
(包紙上書)
泉涌寺住持明韶上人御房    左少弁光豊
泉涌寺并安楽光院・悲田院住持職之事、任先例、可令存知給之由、依
天気、執達如件、
永禄十一年十一月廿一日  左中弁(花押)
長性上人御房

[冒頭に表装している包紙上書は、本号のものではない。]


⑬後陽成天皇綸旨案 1568(文禄2)年6月12日
(端褒書)
「照珍上人御房書 一通」
上書ニ如此     御書出日野殿
照珍上人御房    右中弁資勝

泉涌寺丼安楽光院・悲田院住持職之事、任先例、可令
存知給之由、依
天気、執達如件、
文禄二年六月十二日      右中弁在判
(追筆)
照珍上人御房 「天覚宗師依如此御書出、□□□、」

<言継卿記より>
⑭1546(天文15)年正月15日
○方々禮に罷向、所々次第不同、… 入江殿[御見参一盞]、安樂光院、光照院[御見参一盞]、瑤林庵[御見参一盞]、細川右京大夫、寶鏡寺殿[御見参一盞]、南御所[一盞有之]、…

⑮1563(永禄 6)年正月13日
○上邊少々禮に罷向、南御所[瑞慶院にて酒有之]、瑤林庵[留守]、光照院[御留守]、安樂光院、近衛殿、御兩所御留守、…

⑯1567(永禄10)年正月23日
○方々少々禮に罷向、路次々第三福寺、…、次南御所江参、瑞慶院留守之間申置了、次寶鏡寺殿今御所御盃賜之、次入江殿、光照院殿、安樂光院、庭田、甲州之武田、各留守云々、石泉院[見参]、…

⑰1568(永禄11)年正月 9日
○朝飡以後上邊へ罷向、供衆同前、路次次第、…、寶鏡寺殿[方丈御盃]、今御所留守云々、入江殿[御盃賜之]、安樂光院[酒有之]、光照院殿、石泉院、…

⑱1570(永禄13)年正月13日
○方々少々禮に罷向、路次次第、…、寶鏡寺殿[御盃賜之]、南御所[瑞花院(酒有之)、慶勝庵、長住庵、慶福庵等]、總持寺殿[御盃賜之]、御喝食御所疱瘡御煩云々、入江殿[御盃賜之]、石泉院、飯尾加賀守、同三郎、光照院殿[御盃賜之]、安樂光院、織田三郎五郎[下國□]、…

⑲1576(天正 4)年正月10日
○上邊少々禮に罷向、次第不同、…、總持寺殿[御盃賜之]、南御所[瑞花院酒有之]、次寶鏡寺殿[御盃賜之]、次光照院御留守云々、次入江殿[御盃賜之]、安樂光院、翠竹道三[貳十疋送之]、同玄朔、…

⑳フロイス1573年5月27日付け、都発信書簡
 上京でのこの時[1573(元亀4)年4月4日]焼失した主な僧院は次のごとし、として番号を付して二十を掲げている。
  ……
10 xibanoyaquji 芝の薬師
11 anratqvoyn 安楽光院
12 daixinyn 大心院
13 foqióin 宝篋[鏡]院
14 minaminogoxo 南ノ御所
  ……


紙飛行機
ご意見を

づしづくし Part 4 上京区中心部(総論)

づしづくし Part 4  上京区中心部

 Part 4では、小川通を南北の中心軸とした、上京区の辻子の最密集区域を歩く。北は寺之内通、南は一條通り、東は新町通、西は堀川通を限りとする南北850m、東西400mの範囲である。参考のために、Part1からPart3と今回の対象区域を上京区全体の中に位置づけた地図を下に示す。
1:上京区辻子区画割り

 この地域では辻子が山ほど見いだせるだけでなく、いずれも起源の古いものばかりである。ほとんどは応仁の乱後、洛中が賑わいを取り戻す中で開通した辻子といってよかろう。驚くべきことは、このエリアの道路網は、現在のそれとほとんど変化していない。京都人にとって、「先の戦争」というのは、「応仁の乱」というのも、無理からぬ言い草である。そのおかげで、江戸時代初期の洛中絵図で同定できた辻子は、すべて、その位置を現在の地図上で確認できる。
 下の左の地図は、寛永後万治前(1624〜1658)の洛中絵図の道路網をトレースした図中に、諸史料から見いだせた辻子名を記載したものである。これを現在の地図(2018 Google:ZENRIN)上にオーバーラップさせて描いたものをその右に載せたが、赤で線引きした洛中絵図の道路網と現在の道路網はほとんど重なっている。

2:洛中絵図(寛永後万治前)道路網と辻子 3:現在の道路網上での辻子比定

 この区域の中心軸となっている小川通は、小川そのものは暗渠になったが、道筋自体は全く重なっている。北の寺之内通と南の一条通も然り。細い辻子のほとんどは、江戸時代と同じ位置に見いだせる。ただ、現在の新町通、堀川通と今出川通の幹線道路は、拡幅と部分的な経路変更がなされている。
 道路網としての唯一の大きな違いは、元誓願寺通と今出川通の間が繋がっていなかった油小路が20世紀になって繋がった点がである。
 このエリアに見いだせた辻子は全部で20。以下、これらを北から順にその起源をさぐってみる。そのなかで、「御霊殿辻子」については、Part 2の「づしづくし 22 御霊の辻子 さまざま」の中で、中御霊辻子と一緒に詳しく述べたので、Part 4 では、19ヶ所の辻子を巡ることになる。

 江戸時代以前の洛中の街路網を知る唯一といってよい史料は、洛中洛外図屏風である。そこに描かれている寺社、公家・武家邸宅の廻りの路や町屋が軒を接する間の小路を子細に眺めてみると、上記の江戸時代の絵図に記載されている多くの街路と、相対的な位置関係は変わっていないことに気付く。ということは、当然、洛中洛外図屏風においても、いくつかの辻子が描かれているのである。下に示したのがその数例である。
4:辻子寸描

 そこで、町田本(歴博甲本)と上杉本の2つ洛中洛外図屏風をとりあげ、寺社や公家・武家邸宅の名前を手掛かりに、図中に街路名を書き込んでいった。もちろんその街路名は、屏風が描かれた当時に呼ばれていた名前と同じものばかりではなかろう。雲を描いて隠された部分も多く、画家の洛中洛外を見る視点(奥行き方向の線が左上がりの町田本、上杉本はその逆の右上がり)によって制約を受けていたり、寺社や公家・武家邸宅の誤配置、大きさの誇張による街路の省略・間隔の縮小等々、街路名を特定するに当たっては、様々な注意が必要であるが、相対的な位置関係を優先し、「エイ、ヤー」と決めたものもある。その結果は、両屏風合わせて、19の辻子のうち、戒光寺辻子、狼(実相院)辻子と堀川沿いの竹屋辻子、富田辻子、だいうすの辻子の5つ以外、すべて図中に見いだせた。次に示す図が、町田本(歴博甲本)の該当個所に辻子名を赤で書き入れたものである。その下が上杉本に書き入れたものである。寺社や公家・武家邸宅名並びに現在の道路名は,黒字で書き入れた。両図ともクリックすれば、「Zoomify」を使って伸縮・移動自由自在に閲覧できる。
6:洛中洛外図屏風(町田本)2〜6扇 S

5:洛中洛外図屏風(上杉本)2〜6扇 S

 辻子名の由来とその通路が開通した時期については、辻子各論で論じることにし、ここでは、単に、江戸時代の洛中図との対応のために便宜的にその名称を割り当てたに過ぎないことを断っておこう。最後に、この辻子同定図作成で考慮した諸点を箇条書きにしておく。

 1)上立売通から寺之内間は、両屏風とも、細川殿がおおきく占領しており、細川殿と光照院の間を「安楽光院辻子」とするのは、少々おこがましい。町田本では、一応、細川殿と光照院の間を安楽光院辻子とし、その東の光照院の西沿いの新町通の延長に当たる道を「安楽小路」と記載したが、上杉本では記さなかった。それは、小川通の延長が、安楽光院辻子であるはずなのに、細川殿の正面にぶつかっているためである。おそらくこれが正しく、当時は安楽光院辻子存在しなかったのだろう。細川殿以前にはあったのか、それとも、細川殿が無くなってからできたのか、詳細は今の時点では不明としておく。

 追記(2018年12月26日)
 実は、安楽光院辻子は南北路ではなく、東西路である事が判明。町田本の光照院の北に「安楽光院」が描かれており、これと光照院の間を安楽小路に抜ける小路がある。これを「安楽光院辻子」としたい。詳しくは次回のづしづくしで述べる。

 2)水落辻子の一筋西にあった「実相院(狼の)辻子」は、実相院に由来する名であるが、実相院は当初、1397年頃、北区紫野上野町付近にあった。その後、上京区実相院町に移っている。しかし、応永年間(1394〜1428)の1411年頃に、兼務寺院の岩倉大雲寺の塔頭・成金剛院の地へ移り、里坊として旧地に残った館も、応仁の乱で西軍に押収され焼失。1546年の兵乱によっても焼失した。その後、衰微した。町田本、上杉本が描かれた当時、存在感はもうなかったようで、里坊も辻子も描かれていない。それこそ狼でも出そうな明地と化していたのだろうか。

 3)上杉本で「本満寺辻子」と同定した南側に本満寺は描かれていないが、この地(新町今出川上ル)にあった本満寺は、1536年の天文法華の乱により焼かれ、一時、堺に逃れ、1539年に現在地(寺町今出川上ル2丁目鶴山町16)に移されたというから、最も早い今谷説の上杉本の景観年代である1547年当時でさえ、本満寺辻子だけが残されていたのある。町田本には見当たらない。

 4)「今町通」は元誓願寺通の一筋北の東西路であるが、当時は、この部分で油小路が開通しておらず、今町通は堀川通から小川通まで貫通していた。現在では、堀川通から油小路までである。この通りは早くから開けていたものと見え、町通として賑わっていたようだ。その様子が、上杉本で、店頭に魚を並べている「魚屋」の描写から見てとれる(下左)。開通当時は「今辻子」だったかもしれない。
 上右に掲げた上杉本の画像は不鮮明で魚屋とは見とれない向きもあろうが、「東博模本」と呼ばれる江戸時代の模写本(の模写)で同一個所を見ると、実に鮮明に魚屋が2軒描かれている。参考のために下右に掲げる。

7:今町の魚屋(上杉本) 8:魚屋(東博模本)

 5)町田本の描写では、「元誓願寺辻子」の小川を越えた先が、誓願寺の正面に突き当たるが、これは誓願寺の北に「しばやくし」(極楽寺)が割り込んだためである。しかし、「しばやくし」は堀川の川向こう、右岸にあってしかるべきで、これは誤描写と考えた。なお、高橋康夫氏は、この極楽寺を真如堂(真正極楽寺)とされているのには、理解に苦しむ(「京都中世都市史研究」p.365、思文閣出版、1983)。同氏の「洛中洛外」p.162の図1では、右隻5扇の右上に「真如堂」と明記されているのだからなおさらである。
 上杉本では、左隻3扇中段に「しばやくし」の甍が描かれている。この位置は上立売通堀川西入ルの地で、今も「芝薬師町」の町名が残っている。

 6)「革堂之辻子」を、百万遍と革堂(行願寺)の間に描写されている、当時有名だった、「(一条)ふろ」の南側か北側か、どちらの筋に同定するかまよって、上杉本では南の、町田本では北の筋とした。革堂の南沿いの道とするのが妥当と思えるが、両屏風とも風呂屋と革堂の境に隙間はなく、屏風が描かれた当時は、この辻子は存在せず、風呂屋が退転してから、この敷地内に辻子が通されたと勝手に考えて、両屏風で違えて同定しておいた。

 7)革堂之辻子の一筋北にあった「戒光寺辻子」は、戒光寺に由来する名であるが、戒光寺は、上杉本では右隻1扇の下段、東寺左上方に描かれている。ここは創建の地で、その後小川誓願寺の南に移っている(京都坊目誌上京第八學區之部の戒光寺町の項)。戒光寺辻子が見当たらないのは、おそらく、まだ当時この地に移転していなかったからだろう。1548(天文17)にはまだ創建の地にあったことが知れる史料がある(今谷明「京都・1547年」ps.166〜168, 平凡社, 2003)。移転後の1590(天正18)年に、京極の東三条の北に再移転している。となると、この地に戒光寺が存在したのは半世紀足らずの間である。今も、その名とともにその「辻子」が残っているのは驚きである。

9:刀の辻子入り口 8)袋小路の「刀の辻子」は、上杉本の該当個所(新町通の一条通と武者小路の間)では、その入り口らしき風景が新町通から覗ける。そこには一人の女性が座り込んでいるように見え、いかにも袋小路の辻子らしい佇まいである。しかし、町田本では、新町通の一条通と武者小路の間の西側は、町家が軒を接して連なっていて、その何処にも辻子の入口は見当たらない。存在したけれど画家は無視して描かなかったのだろう、と勝手に想像しておく。

 9)上杉本に描かれた「ほうまん寺」を「本満寺」と考えて、これを誤描写とするもの(例えば、高橋康夫「洛中洛外」p.202、平凡社、1988)もあるが、ほんまん寺は本満寺のことではなく、今昔物語など多くの旧記に出てくる大峰寺か愛宕修験関係の寺名と考えて、誤描写とせず、この寺の背後の南北の筋を大峰辻子と同定した。町田本には寺は描かれていないが、当該場所には、町家が南北に連なった風景が描かれていることからしても、この筋を「大峰辻子」と同定して間違いないだろう。
10:大峰辻子(町田)

 10)堀川沿いの「竹屋辻子」、堀川通に抜ける「富田辻子」、「だいうすの辻子」の3つについては、屏風にそれらしきものさえ認められない。両屏風とも、小川通より西の描写が寸詰まりで、辻子どころか、堀川の川筋さえ所々に見え隠れするだけで、まともに描かれていない。

 以上のことを含めて、より詳しくは次回以降の辻子各論で探ってみたい。先ずは北の「安楽光院辻子」から始める。