洛中洛外 虫の眼 探訪

<洛中洛外虫の眼探訪 貼り雑ぜ帳 11> 


づしづくし
1 出雲寺辻子 2 かせが辻子 3 妙覚寺前辻子新発見 4 扇ノ辻子

 
 
づしづくし 4 扇ノ辻子

「京町鑑」の上御靈前通の最後に、次のようにある。

 『▲扇町 叉一名○扇の辻子とも云
 此町北側に大應寺と云禪宗有此地古悲田院此所にありし今洛東泉涌寺に移す叉此大應寺に後花薗院御陵今に有隣長教寺浄土宗此町西の辻天神辻子にて行當也』

 現在この「扇辻子」と呼ばれた通りの北側、古の悲田院跡には「扇町児童公園」があって、その名を残しているが、坊目誌には、次のように記されている。

『町名起源 不詳。始め扇ノ辻子と呼べり[元禄四年西陣地圖]』

 「元禄四年西陣地圖」というのは、見つけられなかったが、江戸時代の地図をいくつかあたってみた。位置は、いずれも小川の西で本法寺と大應寺に挟まれた通りで、名前の多くは「あうぎづし」。「西陣扇丁」や「扇子丁」といったものも見受けられた。天神辻子(下天神町)に行き当たるのも「京町鑑」に見えるとおりである。問題は、町名の由来である。少し、ない知恵をしぼってみる。
1扇辻子絵図集

 この辻子の北側は「京町鑑」にあるように悲田院が応仁の乱で荒廃し、1646(正保2)年に東山泉涌寺内に移された。その後、「西陣天狗筆記」の西陣絵図を見ると、大應寺とその東に、1634(寛永10年)創建の長教寺が、北西には、従来からあった水火天神が立地し、辻子沿いに町家も散見される。南側には、1590(天正18)年にこの地に移ってきた本法寺が描かれている。
2小川頭:洛中洛外図屏風 これは江戸時代の風景だが、もう少し古い16世紀中葉の景観[注1]を、国立歴史民俗博物館所蔵の洛中洛外図屏風歴博甲本で、小川頭あたりを見てみる。何を商っているのかわからないが店屋の並んだ人通りのある道が描かれている。小川を渡る東西の道が件の辻子とは、同定できないが、この辺り迄、洛中の賑わいがあったことがわかる。この筋の南側に「南御所」とあるが、これは尼門跡寺院の一つで、その始まりは足利義満の室である日野康子が、1397(応永4)年以降に住んだ北山第南御所の別邸である。康子の歿後、ここはそ崇賢門院(後円融天皇の母)に譲られ、寺院となった(ウィキペディア「大慈院聖久」)。この寺院が大慈院で、明治維新後、南隣の宝鏡寺に合併された。
 少し時代の下がる上杉本の洛中洛外図屏風では、南御所の北側に「やうていゐん」が描かれている。坊目誌を開くと下天神町の項に、
『妙花院ノ址 下天神町東側の角に當り。扇町南側に跨がる。[古圖]禪宗。開基不詳。尼僧地にして華族の女性住職す。興亡の日不詳。』
とある。さらに、この南に隣して「保安院」があったと記している。扇辻子辺り迄、尼門跡寺院が連なっていたようだ。このあとに本法寺がやってきたのである。
 それはともかくとして、室町時代には、小川頭まで洛中の賑わいがあったことは間違いないだろう。洛中洛外図屏風歴博甲本を見ると、「こ川」と記された貼札にある小川沿いで、上立売通から南の賑わいは、格別である。右岸沿いに軒を連ねている商店のなかで「扇屋」の多いことに目を見張る。上立売通から元誓願寺通の間に、扇を店先に並べている店を六軒も数え、それぞれの店の入口には、屋号を染め抜いた暖簾がかかっている。山科教言の「教言卿記」には、小川の扇屋として布袋屋や大黒屋の名が挙がっているし、誓願寺辺に加賀祐賢という扇屋が居たことも知られている。さらに、一条小川辺に川内屋,善阿弥,鎌倉屋などの扇屋があったようだ。
 歴博甲本に描かれている扇屋は全部で11軒、その半数近くが小川の元誓願寺通から北、500m足らずの間に描かれており、小川がいかに扇屋筋であったことがわかる。となれば、その北端、小川頭辺の辻子を「扇辻子」と称するわけの一端があるといえないだろうか。
3小川の扇屋
(上図をクリックすればZoomifyが作動して、拡大・移動できます)

 もう一つ、穿ったわけもある。扇座を構成していた扇製造にたずさわる町衆の多くは、狩野元信など後に名を成した絵師[注2]を含めて、法華宗の同信関係で結ばれていた。狩野元信の墓のある日蓮宗不受不施派の中心的寺院であった妙覚寺が、小川頭に移転したのは天正11年、移る前は二条衣棚辺りにあった。当時の妙覚寺は、洛中洛外図屏風上杉本の右隻第五扇の下に描かれている。場所は南北を三條坊門(御池)と二条に、東西を室町と西洞院とに囲まれた一画の中である。この丁度東向いの室町通りに「扇屋」がある。妙覚寺が移転した時、この扇屋も付いていったので……、とあらぬ想像(創造)をしてしまった。参考迄に、洛中洛外図屏風上杉本を写しておく。
4妙覚寺と扇屋 5扇屋・室町二条2


[注1]洛中洛外図屏風歴博甲本の景観年代
 「くはうさま」すなわち幕府が、足利義満らの営んだ「花の御所」の位置ではなく、細川氏一族の館の北にならぶ位置に描かれている。この御所は、1525(大永5)年に造営されたことが明らかで、景観年代の上限を決める指標となっている。時の将軍は第12代義晴。(「歴博」第145号
[注2]扇絵師 狩野元信
 元誓願寺通の小川通と新町通間の中程から奥は「狩野辻子」と称されていたが、ここには狩野元信が住んでいたと伝えられる辻子である
 洛中洛外図屏風歴博甲本の左隻5扇の下に絵師の姿が描き込まれいるが、異論もあるようだが、この人物が当時50歳の狩野元信とされている(小島道裕、「洛中洛外図屏風歴博甲本の制作事情をめぐって」、国立歴史民俗博物館研究報告、第180 集、2014)。
6描かれた狩野元信

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<洛中洛外虫の眼探訪 貼り雑ぜ帳 10> 

づしづくし 3 妙覚寺前辻子新発見(<御霊辻子>とも)

「京町鑑」の上御靈前通の項に、次のような記述がある。

『○室町西入貳丁目
 ▲繼孝院町 俗に○けいこ町といふ此町に則繼考院と云天台宗有寺領六十
 八石此西の行當は妙覺寺此寺元室町二條に有し今なを其町妙覺寺町とよぶ
 慶長年中清蔵口小川に移す
 ○此繼孝院門前少し下り西入町
 ▲上禪昌院町 叉一名○妙覺寺前とも云
 此町北側に則妙覺寺有日蓮宗也此町の西の辻下ル所を
 ㋟下禪昌院町 叉一名○本法寺前町とも云
 此町西側に本法寺と云日蓮宗有』(下線は筆者による)

 下に示した「寛永後万治前洛中絵図」を参照にしながら、京町鑑の上の記事を読むと、「妙覚寺辻子」と名づけてしかるべき「通り道」が浮かびあがる。
妙覚寺前辻子寛永後万治前洛中絵図
 上御霊前通りの繼孝院町を西に行き、新町通りを渡った所で妙覚寺の塀に突き当たる。塀沿い少し下がって西に曲がると、道の両側は、妙覚寺と妙顕寺の土塀に挟まれ、町通りとは到底云えない殺風景な通りとなる。150m程西に行った北側に妙覚寺の山門がある。この辺りから小川通までの南側には、町家が立て込んだ一画となり、この中に禪昌院がある。寺の入り口は西側の小川通で、禪昌院町は古くから開かれた町である。応仁以前の開地と京都坊目誌(上京第二學區)にある。秀吉の命で、妙覚寺がこの地に移ったのは天正11年、妙顕寺は天正12年である。
妙覚寺前辻子<元禄>洛中絵図 このように見てくると、新町通から小川通に抜ける通りの東側、妙覚寺の山門辺り迄は、天正以降に開通した、「○○辻子」と名づけるにふさわしい通り道ではなかろうか。多くの江戸時代の絵図では「妙覚寺前丁」あるいは「上禪昌院丁」と記すが、「<元禄>洛中絵図」だけは、明確に「妙覚寺辻子」と記載している。
 典拠は記載されていないが、京都坊目誌首巻の小川頭の項に次のように出ている「御霊辻子」というのが、この辻子ことだろう。
『實は油小路少し西。寺之内の北にあり。天正年中開通する所なり。北は御霊辻子 [堀川西にて扇町通]南は曲折して射場町に通ず。頭とは其極端を云ふなり。寺町頭。新町頭。大宮頭の類なり』

 今は妙覚寺の南東一画に民家が食い込み、当然のことながらこの辻子はずっと昔に町通に変貌してしまっている。ただし、通り両側の町屋は、両側町を形成することなく、この通りが町境になっている。
現在の妙覚寺前

<洛中洛外虫の眼探訪 貼り雑ぜ帳 9> 

づしづくし 2 かせが辻子

 「京町鑑」の室町通の項に次のように出ている。その位置は明確である。

『▲森之木町 此町西側大泉寺と云東門徒有
 ○此森の木町に東へ行く所
 ㋵御霊中の町
 ○同町西へ入
 ㋵薮の内町
 ○此やぶの内町西へ行當少し南へ行叉西へ入
 ㋵西園寺町
 ○此西園寺町に北へ行所を
 ▲後藤堪兵衛町
 昔将軍足利義教 …中略… 細川右京大夫勝元居館なりしよし申傅)
 ○右西園寺町の西町
 ㋵東岩栖院町
 ○其西町
 ㋵西岩栖院町 かせが辻子ともいふ
 ○上御霊前上ル
 ▲竹屋町』

1かせが辻子の位置図

 上に現在の地図上に旧町名を入れたものを示すが、この図上で「森之木町から容易にかせが辻子に辿り着くだろう。御覧のように「京町鑑」では、上御霊通北裏通の新町通と衣棚通の間を「かせが辻子」と呼んでいる。「岩栖」から「がんせい」とも、「賀世伊」とも云った。
 「づしづくし1 出雲寺辻子」で問題にした足立の著作や「史料京都の歴史」、酒瓮斎の京都カメラ散歩では、これ又奇妙なことに、『室町通上御霊前一筋北の辻を室町通西裏(衣棚通か)まで西行して、そこから上御霊前通まで南下する鈎形になった辻で、竹園町・岩栖院町、継孝院町と玄蕃町の境界を通貫している。』としている。明らかに京町鑑でいう位置と違っている。多くの江戸時代の絵図とも、その位置が異なっている。二三の例を下に示す。
2かせが辻子・四つの絵図

 辻子名に関しては、絵図の多くは「かんせい」としている。「岩栖」に由来することは明らかである。以前にも「辻子と辻君」の稿でも問題にしたのだが、京町鑑の「かせが辻子」や雍洲府志の「賀世伊辻子」の由来を知りたいものだ。
 現在の「かせが辻子」風景は、『天狗筆記「西陣絵図」片手に辻子巡り 岩栖辻子と後藤辻子 界隈探訪』に載せています。足利のいう辻子の辻子たる所以を今も通の北側で見られます。

<洛中洛外虫の眼探訪 貼り雑ぜ帳8> 

づしづくし 1 出雲寺辻子

 「京町鑑」の上御靈前通の項に次のように出ている。

『○此町(内構町)南側
 ▲和泉神町 叉本名○出雲寺辻子
 古出雲寺とて大伽藍のありし舊地也故にしかいふ 中頃出雲寺町といひしがいつの頃よりか文字も書誤りし也』

1(和泉神町)寛永後万治前洛中絵図「出雲寺辻子」が記載された絵図にお目にかかったことはないが、「寛永後万治前洛中絵図」には、内構町の中程から南に枝分かれし相国寺に通じる小径が描かれている。その他にも、多くの江戸時代の絵図にはこの小径は描かれているが町名の記載は見られない。ただ一つ、1714〜21年の状況を表すとされている「京都明細大絵図」には「泉神町」と記されている。2和泉神町・京都明細大絵図筆描された洛中図の最古の屏風である「京都図屏風」(1621〜24頃に作成されたといわれている)には、「いずみ町」と読める記載がある。
 「京都坊目誌」の上京第二學區上御霊前町の項に、
『因に云ふ本町西部より相國寺境内に通ずる小径あり。出雲町叉出雲の辻子と呼ぶ。維新後自然廢道と爲る。[道址存す]明治四四年此所より南に新道を開けり。』
とある。
3和泉神町・京都屏風 「京都市の地名」(日本歴史地名大系27、平凡社、1979)には、この坊目誌の記事を引いて「出雲の辻子」と出ているが、これは京鑑の「出雲寺辻子」とは別物で『出雲寺辻子は、上御霊前通の烏丸~室町で、内構町を通貫している。』のが出雲寺辻子であるという見解がある。
『平凡社刊「京都市の地名」の「上御霊前町」項には「相国寺境内へ通じる小路を《出雲の辻子》とよんでいたが、明治維新後廃道となり、明治44年(1911)に当町より南へ新道を造成した。」とあります。しかし、特に典拠が明記されていません。
4辻子位置図・足利 上出雲寺の南にあったとされる下出雲寺は、後の室町時代に創建される相国寺の近くに位置したようです。したがって、多分「出雲寺辻子」と「出雲の辻子」は別物と思われるのですが、はっきりせず何とも悩ましいことです。』(酒瓮斎の京都カメラ散歩

 著者は典拠を記していないが、これは、出雲寺辻子の場所を「内構町」として図示した足利の第34図「京都の辻子の位置」5出雲寺辻子位置推定(藤岡謙二郎編「現代都市の諸問題」158頁、地人社、1966)あるいは、足利編「京都歴史アトラス」(中央公論社、1994)所収の図(右に該当部を示す)によったものと思われる。足利は「京町鑑」に則って描いたとしているから、誤比定だと思う。
 右の最後の図は、廃道となった辻子の位置を、「寛永後万治前洛中絵図」から推定して、現在の地図上に書き込んだものである。かつての出雲寺辻子を突き抜けた先に、現在では、相国寺の塔頭慈照院がある。この寺と出雲寺の関係について、「雍洲府志」に次のようにある。
『上出雲寺は伝教大師の創する所にして、而る後、上御霊の神宮寺となす。今、寺は絶ゆ。民家となり相国寺の中、慈照院に属す。』(黒川道祐著、宗政五十緒校訂、「雍洲府志」(上)、130頁、岩波文庫青484-1、岩波書店、2002)
 このことからしても、出雲寺辻子が、かつての出雲寺に行き着く小径として出来たであろうことがわかる。
 出雲寺辻子の位置に関して、もう一つ奇妙なことは、貼り雑ぜ帳 6に掲載した「上京区域における辻子の分布」にある④出雲寺辻子の位置が烏丸通りの東になっていることである。この地図は、元は京都市が編纂した「史料京都の歴史 7 上京区」(平凡社刊)に図3として掲載されたものであるが、これは明らかに間違いであろう。



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<洛中洛外虫の眼探訪 貼り雑ぜ帳7> 


貼り雑ぜ帳
山神草子 2 ふご下し いろいろ 3 虫の眼文庫 4 2016年の巨樹
名所圖繪に見る「鏡石」 6 突抜と辻子の分布地図 
づしづくし 1 出雲寺辻子



紹介
 『<突抜>考:歴史地理学的史料批判』

大阪府立大学 社会科学論集, 1981, 第11・12合併号, p.17-40,1981年3月31日


高橋・足利論争
 辻子とは何かという説に高橋康夫氏の説がある。この説は、足利氏によって、『論語読みの論語知らず的な史料の読み方』とこっぴどく返り討ちを喰ったもので「辻子その発生と展開」という論文に見られる、「辻子=新道=突抜」と云う説である。(史学雑誌 八六の六、三七頁〜七八頁、一九七七)。
 彼は『新道、新地は辻子そのものと考えて大過ない』とし、その注書きに
『突抜は辻子の形態的特徴を、新道は辻子の新開道路としての特徴を、それぞれ強調した用語であると考えられる。すなわち、辻子の語義の分節を意味している』
と書いている。

 高橋氏は、同論文の冒頭で、足利氏の論文「京都の辻子について」(藤岡謙二郎編「現代都市の諸問題」地人書房、一九六六年 所収)で記載された
『辻子と町との違い、つまり辻子は単に道であって、それに向かって町(家並)・寺(寺並)大邸宅等がその主要な頬(簡単にいうと正面)を、しかもかなり独占的に向けているという道以外のものにつけられた名称である』
という結論、即ち『町通りでない通り、町通りになる前の段階の通り』という説に噛み付いて、『私見によれば全くの誤りである』と書いている。
 彼は、鬼の首でも取ったように、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」中の一文『此所の辻子へ二人をつれてゆく。辻子は江戸でいう新道なり』を挙げている。しかし、この一文の前後を読めば、辻子が町通りでないことが明白である。
 弥次さん喜多さんが清水の陶器造りが軒を並べている往来から、三条に宿を取らんとして夕暮れ時に道を急いでいる途中で、小便桶と大根を荷なった「小便買」が、中間二人を脇道へ連れて行く件に「辻子」がでてくるのである。

『此山内を下り行くさきに、清水焼の陶造、軒をならべて往来の足をとゞむ、此所の名物なり。
  天道のめぐみもあらんすゑもの師、大日やまのつちを製せば。
かくて其日もはや七ッ頃とおぼしければ、急ぎ三條に宿とらんと道を早め行く向より、小便桶と大根を荷ひたる男、
「大根小便しよ、 大根小便しよ。」
「ハヽヽヽ 唐茄子が笛をふいた見せものは見たが、大根が小便するのは、ついぞ見た事がねへ。」
「あれが、大根と小便と取替にするのだろう。」
「おつきな大根と小便しよ、小便しよ」ㇳ呼んで行くこなたより、お中間らしき、しみたれの男が二人、
「コリヤ、コリヤ、わしら二人がこヽで小便してやろが、その大根三本おくさんかいな」
「マア、こち来てして見さんせ」ㇳ此所の辻子へ二人をつれてゆく。辻子は江戸でいふ新道なり。彌次郎北八これを見て、どうするのだ知らんと後よりついて行き、立止まり見れば……』(有朋堂文庫「東海道中膝栗毛全、五三九頁 一九三〇)
とある通りである。
 『論語読みの論語知らず』と「辻子再論」で評した足利氏は、よりわかり易い言葉で、辻子の定義として『町通りでない通り、町通りになる前の段階の通り』という、最初の論文「京都の辻子について」の定義よりも、もう少し広い巾を持たせた定義を行っている。そして、辻子とは何かを解く鍵を与えてくれる「京町鑑」の一文を挙げている。
『松原通六道より一町程東北へ行筋俗にくちなわの辻子とて北は安居御門跡前へ出る筋今悉く町となる』
 高橋氏が取り上げた掲げた「東海道中膝栗毛」の一文『辻子は江戸でいう新道なり』との段差は大きい。要するに、人が行き交う通り道の名称として、なぜ「辻子」が使われてたのか、という問題意識がないと、史料の上っ面しか読めず、せいぜい「新道は辻子の近世的な表現であって、新道=辻子である」という意味のない結論しかいえないのである。
 突抜とは何かということでも同様、足利氏に軍配があがる。以下、若干の私見を交えて「突抜」に関する足利氏の論文を紹介する。

「突抜」とはなにか
 辻子に比べれば、通りの意味合いで、突抜という言葉自体は分かり易い。大路、小路・町通り・筋・辻子・新道・坂など何種類もの通り道を言い表す名称があるが、通り道に「突抜」という名称が付けられたのはなぜか。どんな意味があるのか、という問題をまじめに取り上げた人は、これまた、足利健亮氏である。彼の大阪府立大学「社会科学論集」第十一・十二合併号(森杉夫先生退職記念号、一九八一年三月)に載った「突抜考 歴史地理学的史料批判」(同誌一七頁〜四〇頁)の論旨に沿って、「突抜」の歴史地理的な内実は次節で見るが、結論は簡単である。既存の街路の先を、他の街路まで突き抜くという営為によって命名された道のことである。この簡単明瞭な結論に達した彼は、次のように述懐している。

『以上、いかにも子細なテーマをとりあげたにもかかわらず、突抜とは、既存の道(それは長い道でも、ごく短い袋小路でもよい)の先端を延長させ、他の街路に、直線的であろうと直角にであろうとを問わずつなげるという、その「突き抜く」営為によって名を得た道のことであるとの結論にいたるまでに、これほどの紙数を費やさなければならなかった』

 『突抜=辻子』という高橋康夫氏の見解に対して、多くの史料を批判的に読み解き再構成するという、根気のいる長い仕事を通じて見えてきた、それこそ「突抜る」という営為によって得られた結論である。
 これに対して高橋氏からの反論はなかった。少なくとも三年しても頬っ被りされたままであった。一九八四年に足利氏が公刊された「中近世の歴史地理」(地人書房、一九八四)の中に収められた「突抜考」には、原論文にない次のような一文が、高橋氏の見解を引用した後にさりげなく挿入されている。

『結論を先に記しておくと、右の解釈は乱暴で、且つ誤りである』

 これは、高橋氏が「辻子 その発生と展開」で足利氏の辻子に関する説に対して『私見によれば全くの誤りである』と書いた仕返し、しっぺ返しである。
 しかし、そうは考えない人もいる。ドイツ文学研究者の鈴木潔氏は、「メモ帳 -- 抄録、覚え (その十三)」のなかの「辻子とは?」で次のように書いている。

『高橋論文は、辻子の生成を普遍的な都市化現象に位置付ける試みだったので、辻子の歴史的定義を問題にした足利論文とは視点が異なり議論がかみ合わなかったのではないか。街区の発展に必要となる道路と見る立場からすれば、「単なる通過の為の道として起源したその道が、道があるという便利さの故にその両側に家並みをさそい、やがてその辻子の両側が町と呼ばれるようになった」とまとめるのは話が逆で、それが〈氏の結論は私見によればまったくの誤りである〉という言い方になったのかも知れない。』とし、
『いずれが事象を正しく捉えているのかは門外漢の容喙するところではないでしょう。しかし若い理系の助手に〈結論は私見によればまったくの誤りである〉と批判されたとき、十歳年長の助教授が〈皮相的な史料の読み方〉〈論語読みの論語知らず的な史料の読み方〉と、いささか感情的な応対をしなければ、歴史学と建築学の有意義な議論が成り立ったのではないかと残念な気がしないでもありません。』と結んでいる。

 しかし、単に視点の違いとはいい難い。「突抜」に関する両者の見解を率直に読めば、高橋氏の突抜に関する見解が誤りであることは、門外漢にもはっきりと分かる。特に、秀吉による市中町割の改造と「突抜」との関連については、高橋氏の見解が誤りであることは明白である。高橋氏が[洛中絵図および京都の地誌、とくに京町鑑に拠る]として述べた結論は、次に引用する通りであるが、足利氏は、高橋氏が典拠としたと同じ史料「洛中絵図」と「京町鑑」を用いて、これが明らかに間違いであることを明示している。高橋氏の説は、「結論、先にありき」で「嘘をついた」といってもよいくらいである。

『(秀吉の)街区再編成の中心事業であった市中町割の改造は、天正十八年に立案・実施され、ふつう短冊型の町割といわれているが、平安京の規模に基づいで町割を整理し、寺町—高倉間、堀川以西、押小路以南の地域に半町ごとに南北の小路を通したものである。この新たな地割の実施された部分は、人口・町家の少ない地域であり、京都の将来像を考慮して、整然とした町区画となるように改造が行なわれたと考えられることが注目に値しよう。ところで、この新たに開通された南北の通り、およびそこに成立した町は、一般に「突抜」、「突抜町」と呼ばれていた[注として、「『洛中絵図』および京都の地誌、とくに『京町鑑』に拠る」とある]。だから、秀吉による市中町割の改造は、「突抜」を開通し、そこに整然と「突抜町」を開発することを構想したものであると言い換えることができる。』(高橋康夫「辻子 —その発生と展開—』、史学雑誌、八六巻六号、七二頁〜七三頁、一九七七)

 少し長くなるが、足利氏の見解とそれにいたる道筋の件を引くと、

『最後に、冒頭で「はたしてそうか」と問うた一〜二の問題[筆者註 突抜は辻子と類似した語義・形態を持っていること、秀吉の市中町割りの改造は突抜を開通することの二点]についての解答を記して、本章を結ぶようにしたい。はたしてそうか、と問うたのは、一つは突抜は辻子(図子)と語義・形態が類似しているという見解に対してであった。結論からいうと、それは乱暴もはなはだしいものといわざるを得ない。突抜は、突き抜くという営為、あるいはせいぜい突き抜いたという営為の結果が名称となったものであるのに対し、辻子(図子)の本義は、本書第一部[道路名称としての「辻子」考証]に詳説したように町又は町通りでない状態の道ということで、両者は全く無関係の観点から命名されたものである。すなわち語義はまったく異なる。次に形態であるが、突抜はその名からして「袋小路」ではあり得ないのに対し、辻子は袋小路であるかないかはまったく問題外で、袋小路である場合も、通り抜け道である場合も、どちらの状態もあり得る。従って形態も無関係といわざるを得ない。
 ただ、実態には或る共通点がある。突抜は既存の道路のネットヮークのほかに新しく開かれた道であるから、当然、町通り化するまでに時間を要する。その間は町通り以前の段階にあるのであるから、実態において辻子と異ならない。時々突抜が辻子の別称を持つのはそのためであって、それは語義や形態が類似しているからなどというものではない。しかし、どちらかといえば右の問題はまだ些細である。大きな問題は秀吉による市中地割の改造と突抜とがどのように関係するかであると思う。
 その問題を考えるためには、秀吉の、天正一八年における京都市中の改造 ―― 方一町区画の中央を割る南北新街路の疎通という改造が、どの範囲に及ぶものであったかを正しく把握しなければならない。  周知のとおり、それを知る基本史料は、『小田原記』や『中昔京師地図』の中に記された、 「京極以西、高倉以東、又堀川西、押小路以南之類、皆毎半町有南北街路」という一節である。既に再三引用したこの文章には、むろんその前にもその後にも重要で興味深い文章が続いており[藤田元春「平安京変遷史」スズカケ出版部、昭和五年、が、早い時期にこの史料を引用し、検討している。]、それら全体でどのようなことがわかるかという厳密な考察を、歴史地理学的な手法を用いて行なわなければならないという課題があるが、それについては他日を期することにして、ここでは右の引用箇所のみを切り離し、その範囲内での論議にとどめることとする。前章で詳記したことなので、簡単に割り切って述べよう。右の引用史料が示す範囲というものは、京極・押小路・高倉の三街路で囲まれた第七九図Aの部分、そして堀川・押小路の二街路より南西のBの部分の二地区である にすぎず、それ以外ではないということである。そして、そうであるとすると、――すなわち天正新街区設定のその計画区域が、第七九図中のA・Bの範囲にとどまったとすると、結局新設街路は図中に点線で示した五本にとどまり、事業規模としては意外に小規模であったと見なければならないように思うが、そうした評価の間題は今はさておき、焦点を「突抜」との関係にしぼろう。
1第79図(足利 図に明らかなように、「突抜」の諸例は、ほとんどすべて、街区改造計画区域をはずれている。わずかに一つ、事例③の亀屋突抜がA区域内にあるが、これはたびたび触れたように、堺町通全体の別称などでは決してなく、四条付近の一区間の名称にすぎないものであった。実は、このあたりのことに関して、藤田元春氏は、先にも引用した『小田原記』の他の箇所、「天正以前戦国ノ時ノモノ有之云、故天正十八年、京師町割時、如御幸町堺町等一町半、各不貫一通云」との一節をとりあげ、読み下しにくいとしながらも、
「これは前から家があったから、天正十八年の京の町割の時に、御幸町や堺町のごとくに、一町の半 分の処にすべて一通を縦に通さなかった。所によっては一町の四角な町ができ、所によっては半町ご とに縦の町ができたといふ大意であらう。現に堺町でも綾小路で突当ってゐて、南北に通った筋になってゐないのである」
という解釈を述べている。恐らくそうであろう。亀屋突抜は、そういう「残った正方形街区」を割るために、北から南への堺町通のいわば「勢い」をもって、その延長上に後に開かれた街路区間と見るのが、最も納得がいく。
 かくして、突抜と秀吉の天正街区改造とは、まったく何の関係もないものであることが判明した。突抜はむしろ、比較的広域に亘る市街地改造区域外のところの、いわば個々的でかなり場当たりな一種の市街地再開発の街路として、秀吉時代以後に、つまり近世にあちこちに形成されてきたものといって誤りない。その点に関しては、辻子に類似する。
 そのようにわかってきたならば、次には例えば、辻子とか突抜とかのいわば虫食い状に正方形街区を乱してきた街路部分を消してみるなどといった試みが意味を持つことになろう。そういう作業をすることによって、天正期には手をつけられなかった正方形街区の拡がりなどといったものが、一層原形に近く復原できたりするであろう。
 以上、「突抜」は「つきぬく」という営為が街路名化したものであること、その名を持つ街路区間は本来極めて短区間であること、秀吉の事業などとは無関係であること、秀吉の事業と無関係であると明示できたことによって、都市史及び都市の歴史地理を誤って編む危険を一つ防げること、などを指摘し得たと思うので筆を擱く。』
(足利健亮「中近世都市の歴史地理」、二一四頁〜一七頁、地人書房、一九八四)

 かくの如く、都市計画学者の発想は、図に一目瞭然の事実を無視した「絵に描いた餅」である。引用された史料に目を通されていたとしても、それは『論語読みの論語知らず」と揶揄されても仕方がない読み方だろう。それとも、引用史料を掲げたのは、単に権威付け、「虎の威」を借りただけのことであったのか。
2足利健亮遺影 ちなみに引用された「洛中絵図」は宮内庁書陵部のものとされている。

 定年退官を約半年後に控えて、一九九九年八月に逝去された足利健亮氏の先駆的業績は、金坂清則が継承し、さらに多くの突抜、辻子地名を収集、同氏の辻子・突抜説を補強されている(「京都の地名検証2」一五七頁〜一六七頁、一九五頁〜二〇五頁、勉誠出版、二〇〇七)。このことを記して、高橋・足利論争を締めくくり、「突抜」とは何か、足利氏の論に従って紹介する。

突抜はどのようにしてできたのか
 足利は、宝暦十二(一七六二)年に著された「京町鑑」から十九個所の突抜事例を見いだし、さらに、中井家旧蔵「寛永後万治前洛中絵図」(京都大学図書館蔵)から拾い出した七個の突抜を補い、京都市内の突抜をほぼ網羅した復原図を作成した。金坂清則は、これにもう一例、二七個目の清和殿(清和寺)突抜町を追加している(出所の記載はない)。
 この図に記載された突抜の中で、現在も町名として「突抜」の名を残しているものは、七つの「突抜町」(⑯釈迦突抜町、⑰甲斐守突抜通、⑱突抜町、⑩釜座突抜町、⑧衣棚突抜町、⑭御寺内突抜一・二丁目)と、①元真如堂突抜、⑤仁王門突抜町、⑨木之下突抜、⑪天使突抜通(天使突抜一〜四丁目)、⑭社突抜町、⑲六角越後突抜町(越後屋突抜)に由来する町である。
 図に示した中に四ヶ所、数町の長さに亘る街路区間の名称として突抜の名称が使われている。③の亀屋突抜=堺町通、④因幡堂突抜通=不明門通、⑪天使突抜通(天使突抜一〜四丁目)=東中筋通、⑫和泉殿突抜=醒井通の四ヶ所である。これらの「突抜」の呼称は、「京町鑑」の記事を読む限りでは長い街路区間をさしているが、寛永十九(一六四二)年前後の時期の状況を示す「寛永後万治前洛中絵図」と照らし合わせ、同時期の「京羽二重」(一六八五)や「雍州府志」(一六八四)の記事を鑑みると、元来はそうではなかったことを、足利は見いだしている。元々は、ほんの一町区間の街路の名称として用いられていた(下図中に示したa、b、c、d)ものが、数町の長さの全街路区間に拡大したものである。
 例えば、「京羽二重」巻一の堺町通の説明に、『此通(堺町通)禁裏南の御門すぢ也二条通の下にては材木町通四条辺にて亀屋の突抜と云う』と、亀屋の突抜が四条辺りの短い区間の名にしぎないことをはっきりと指摘している。
 名称の変化も見られる。大堀突抜が因幡堂突抜に、藤西突抜が和泉殿突抜になっている。いくつかの「突抜」が「突抜町」と変化していて、「突抜」の両側に町屋が立て込んで人が行き交う「町通」に発展したことも知れる。これは辻子の場合に見たことと同じである。
3TsukinukeMap1

 以上の点を考慮して、「寛永後万治前洛中絵図」の街路網をベースに、突抜の原形と考えられる区間をと名前を記入したのが下に掲げた図である。即ち各「突抜」の原形と考えられる区間を記入した図である。この図を子細に見ると「突抜」のありよう、突き抜け方に大きく分けて二つあることがみえる。
4TsukinukeMap2

 例えば⑱の「突抜」と⑫の「藤西突抜」を見てみると、前者は下立売通をまっすぐに西へ突き抜けているのに対して、後者は醒ケ井通の北延長上にあるとはいい難い。醒ケ井通より東にずれて作られている。現在もそうなっている。
 ⑱の「突抜」は下立売通の西端に近い一区間である。下立売通は平安京の勘解由小路に相当する街路であったが、西の方は早くから衰退し藪や野に帰し、街路は消滅していた。そのため、下立売通から西の洛外に出るには、御前通に突き当たって、いったん北行して一筋北の上ノ下立売通御前から西へいかねばならなかった。上ノ下立売通は「嵯峨大路」と呼ばれていた街路で、御土居を抜けて洛外へ出る嵯峨口丹波道に通じていた。これらのことからして⑱の「突抜」は『下の下立売通御前以西が、東から御前通まで達した主要街路のいわば勢いを以て、ある時その先へ突き抜かれた区間であったにすぎないことを憶測させるに足る。』と足利は書く。突き抜けた先は行衛町、平安京の西靱負小路、現在の天神道に該当する。「京都坊目誌」上京第十学区の突抜町の項に、『元西之京東突抜町と云』とあることからすれば、さらに西へ突き抜ける勢いがあったことを思わせる。実際、後に詳しく眺める「〈元禄〉洛中絵図」(国際日本文化研究センター所蔵)には、東突抜の先、御土居際まで続いている街路区を「西突抜」と記載している。この西突抜が東突抜以後の延長部か、あるいは、同時に突き抜けたものが、後に区分けされたものかは、今では知る由がないと、足利は述べている。 
5東・西突抜

 それはともかく、このように既存の道の先端の延長という営為によって突抜の名を有する街路ができたと考えられるものには、⑨木之下突抜、①真如堂突抜、②常磐井殿突抜、⑳大原口突抜、③亀屋突抜、⑧衣棚突抜、⑩釜座突抜、⑪天使突抜がある(地図上では青色で示した)
6藤にし突抜 これに対して、既存の道の延長ではないタイプの突抜がある。その典型的な例が、⑫の「藤西突抜」である。右の現在の地図にも見えるように、醒ケ井通が南から勢いで突き抜けたという説明ではすましえない筋違いがある事例であると、足利は見る。
 この事例は、平安京以来の方一町の街区が卓越する地区にある。拾い上げれば、つぎの十四例、地図上で赤色の街区で示した、⑥相国寺(鹿苑院)突抜、⑦近衞突抜、⑫藤西突抜、⑭社突抜、⑮寺内突抜1&2丁目、⑯釈迦突抜、⑰甲斐守突抜(松の下町突抜)、⑲越後突抜、㉑御霊突抜、㉒志かやの突抜、㉓本能寺突抜、㉔骨屋町突抜、㉕みこく殿突抜(三石突抜)、㉖稲荷町突抜である。
 現在でもこの筋違いとなっている街区は市中に数多く残っていることに気付く。どのような営為でこのタイプの突抜ができるのだろうか。足利は次のように説明している。

 『方一町街区の中央部は、周知の通り次第に空洞化し、京都が城下町としての色彩をおびる時代には、そこが多く武家屋敷として活用された。内側に武家屋敷があるということは、云うまでもないことであるが、そこに達する通路が通じていることである。その通路は、若し武家屋敷等、方一町区画内部を充たしている施設が退転し、そこに町が浸入しようとする時、今まで通路のなかったむこう側の家並みを突き抜けて方一町区画を「割る」街路を成立させるいわば誘い水になり得る。其の過程を考えると、明らかに既存の道(袋小路が一般的)の段階と、それの延長、すなわち突き抜きを行う段階との二段階が認められるのであり、かくして、一町か、せいぜい一町あまりの短い道に過ぎないにもかかわらず。「突抜」の名を有することになったのである』
 ここで彼は、突抜前段階の状況の例として、⑰甲斐守突抜の南側の方一町の区画に水野日向守の屋敷がのある例を出している。この図は「寛永後万治前洛中絵図」から採られたものであろう(下左図)。
 この方一町の区画を「割る」営為は、実際行われたのだろうか。江戸時代には割れなかったようで、おそらく、一九二八年の「京都市街地圖 : 大典記念」(昭和三年一〇月五日印刷、昭和三年一〇月一〇日発行、縮尺六〇、〇〇〇分ノ一)で初めて地図上に現れてたといえよう。水野日向守の屋敷の西沿いに設けられた突抜であるが、もう「突抜」の名を付けることはなくなっていた。今の名は橋本町である。
8水野日向守屋敷突抜 7水野日向守屋敷

 足利は最後に『以上のように考えることによって、私は「突抜」と云うものを理解し得た』と感慨深く締めくくっているが、私にはもう一つ納得出来かねる点がある。それは次のようなことである。
 足利が区画を割るタイプの突抜として挙げている大半の突抜は、市中にあるが、市中周辺部の、寺社の名を冠する三つ突抜、⑭社突抜 、⑥相国寺(鹿苑院)突抜、㉑御霊突抜の三つは、方一町の区画を割る突抜とは云い難い。足利が二つのタイプのどちらにも分類していない鍵形の突抜「妙蓮寺突抜」をも含めた第三のタイプを,立ててはいかがなものだろうか。
 社寺の境内の通路から既存の街路へ突き抜ける、あるいは境内を突き切る、境外沿いに既存の街路を繋ぐといった営為によってできた突抜というカテゴリーを。
9妙蓮寺突抜10突抜タイプ3

糾ノ森・御所突抜写真 私は、このようなタイプの典型的な突抜を二つ知っている。その一つは下鴨神社と糺森のあいだを突き抜けて下鴨本通と下鴨東通を繋いでいる道、もう一つは、京都御苑の砂利の中を西から東へ、烏丸通りと寺町通を結んでいる突抜自転車道。この蛤御門から京都御所の南側を通って清和院御門に抜ける土道を何と呼ぼう。
11糺ノ森突抜
13御所突抜

突抜補遺
15丸屋町・山崎町突抜 京都の市中で拾い出せる、「突抜」の数は、「辻子」の数程多くはない。足利が数えた二六で、ほぼ尽くされているといえよう。しかし、二、三の落ちこぼしはある。金坂清則は,一ヶ所出所を明らかにしないが「清和殿突抜」を追加している(京都地名研究会編「京都の地名検証2」所収、二〇五頁,二〇〇七)。
 これに加えるとすれば、「丸屋突抜」と「山崎突抜」がある。いずれも高瀬川から河原町通へ出るために設けられた「突抜」である。一七六二(宝暦一二)年の「宝暦町鑑」は、山崎町の説明中に『此町京極佐渡守殿屋敷有真中に舟入有』とあり、「寛永以後万治以前京都絵図」にすでに出ており、足利の取りこぼしと思える。土居の外でもあり、ちょっとタイプの違う突抜故に意識的に除かれたものかも知れぬが。

 足利も詳しく調べているように時代によって名前が変わったり、区間が伸びたりした突抜は多い。足利が作成した二つの地図を見比べれば、その概要は知れる。
 ⑪天使突抜を例にとってみよう。「京町鑑」では、高辻通から魚棚通までの五町の区間が天使突抜通というと、次のように記す。
『高辻より南は天使突抜通といふ叉魚棚下ル町より東中筋と云』
 しかし、「寛永後万治前洛中絵図」では、「京町鑑」や後期の絵図、例えば、一六八六(貞享三)年刊行の「新撰増補京大絵図」などが「船屋町」と記す一町区間に「天使突抜船屋町」とあり、それ以南の四町が「天使一町目」から「天使四町目」となっていて、「突抜」の語は入っていないことに気付く。現在では「天使突抜一町目」からてんしつきぬけ「天使突抜四町目」となっているが、足利は「突抜」と称したのは、はじめは北端の一町のみであったと推測している。
 国際日本文化研究センター所蔵の、内容年代が一六九三(元禄六)年と推定されている「〈元禄〉洛中絵図」でも、「船屋町」の区間に「天使ノ突抜」とあり、その以南が「天使一丁目」から「同四町目」となっている。一丁目と二丁目のを東西に通じる筋の東側、堀川までの区間には「突抜横町」と記載されている。
 この地図でもう一つ注目すべき点は、「天使四町目」以南、魚棚通から七条通までのの四区間は「天神突抜一丁目」から「同四町目」となっている。「新撰増補京大絵図」では「天使ノ突抜」である。足利が参照した「寛永後万治前洛中絵図」でも、ちょっと読みづらいが、「天使つきぬけ…」と読めなくはない。
 題簽に『寛文八年申十二月/洛中洛外絵図』とある「洛中洛外絵図」(国立国会図書館デジタルコレクション)でも同様である(上図左)。

 足利は、元来は街路のごく短い区間の名称であったものが、時代とともに「突抜」の本意がわからなくなって、街路の長い区間を指すようになった例をいくつか挙げているが、もう一つそのような例を挙げておく。
18すは突抜 一七七八(安永七)年刊行の「京圖名所鑑」に、他の絵図や地誌類ではお目にかかったことのない「すハのつきぬけ」というのが記載されている。天使突抜から東へ六筋行った地点から、南へ魚棚通あたりまを指している(下図参照)。ちょうどこの筋は、㉔骨屋町突抜から始まり㉕みこく殿突抜をこえて魚棚通までを行っているようだ。ちょうど南端が諏訪町であるから、「すハのつきぬけ」というのは大変適切な名称である。現在の「諏訪町通」とされている街区である。諏訪町通は「すわちょうどおり」ではなく「すわんちょうどおり」と訛って読み、的場通(昔の横諏訪町通)との交差点付近にある諏訪神社に由来する名である。
 「寛永後万治前洛中絵図」で「志かやのつきぬけ」と読める突抜名称については、「寛永一四年洛中絵図」では「しほ屋のつきぬけ」となっている。東西に走る三條通の「塩屋町」へ突き抜けていたことに由来する名称といえる。前出の「〈元禄〉洛中絵図」では「塩や突抜」と記載されている。
 現在の町名は「猩々町」。寛永版平安城東西南北町並之図に「せうじやう酒や丁」と見え、「京雀」「京雀跡追」も「猩々酒やの町」と記す。宝永二年洛中洛外絵図に現町名が見えるという(角川日本地名大辞典・旧地名編)。町名の由来は,「京雀跡追」に,往時,当町西側に猩々を家の庇にかかげて看板としていた酒屋があったことによるとある。
19大宮西之つきぬけ 一六八六(貞享三)年に刊行された「新撰増補京大絵図」に、大宮通りから西一筋目の、丹波口から七条口の間に「大宮西のつきぬけ」というのが見える。 ⑮寺内突抜1&2丁目のことである。「京町鑑」には次のような記述が認められる。
『▲丹波街道町 此町南の辻丹波街道也則丹波口と云但此丹波海道より南は一貫町通とは呼ばず其故は是より南は西六条御寺内にて御支配の境有
○御寺内突抜一丁目 …』
 天正一九年西本願寺の移転後,元和以後その西側に寺内町として開発された新町で、町名は北方から同寺の境内に入る要口であったため突抜の呼称がついたと、次のように「京都坊目誌下京第一六学区之部」に記されている。
『▲突抜一丁目 一貫町通丹波口下る町をいふ。寶暦町鑑には丹波街道一丁目とす。開發元和以後にかゝる。
町名起源 はじめ新町と呼ぶ。舊本願寺境内にして北方より同寺の境界に入る要口たり。故に突抜の稱ありという。』

京都図屏風該当部分 最古の洛中絵図である一六二四(寛永初)年の「京都図屏風」を見ると、一貫町通を構成する九町のうち西本願寺寺内の四町(丹波街道町、突抜一丁目町、同二丁目町、大宮町)はすでに形成されていたことが確認できるという。さらに、六条通以北の一貫町通は一六七〇(寛文一〇)年に開通し、六条通を南限としていたともいう(杉森哲也「近世京都の年と社会」三四七頁〜三四八頁、東京大学出版会、二〇〇八)。従って、一貫町通の六条以北が、より南へ突き抜けてできた道とはいえない(右図)。
 洛中の西南のはずれという場所柄からして、この突抜は足利のいう第二のタイプ、一町区画を割る営為でできた突抜でもなさそうだ。先述した第三のタイプ、寺社の境内を突き抜ける営為で出現したタイプとしておこう。

突抜分類地図
 先に言及した詳細不詳の「〈元禄〉洛中絵図」は、町名が大変読み易く、しかも足利がいう突抜の原初的な形態をよく伝えている絵図である。この絵図を下敷きにした突抜所在図を作成した。本絵図の時代考証は他に譲り、ここでは、足利が取りこぼしたものも含めて、突抜を三つのタイプ
〈Ⅰ〉既存街路の先端を伸ばした通路
〈Ⅱ〉一町区画を割った通路
〈Ⅲ〉寺社境内を突き抜けた通路
に分類して、名称の上に『〈Ⅲ〉⑭社突抜』の様に記載した。ただし、前節「突抜補遺」の冒頭に述べた「丸屋突抜」と「山崎突抜」は、その他として、この三つのいずれにも分類せずにおく。⑪bis突抜横町も同様である。
 さらに、「天使突抜」の原初的な形態は、「船屋町」の部分だけだったこと、南に続く四町に「天使突抜一丁目」ではなく「天使一丁目」のように「突抜」を欠いていることから、当初は、広大だった天使社(現五条天神)の境内を突き抜けた営為によってできたのが「天使突抜」と考え、「天使一丁目」等は、「突抜」とは関係なく、もとから天使社の門前町としての名称と考え、タイプⅢに分類した。一方、「〈元禄〉洛中絵図」に記載されていた「天神突抜」は、〈Ⅰ〉に分類したが、その典拠はとくにない。博学の御教示を待つ。
突抜分類リスト縦書き

虫眼鏡で突抜を 以上の諸点を考慮して格子線を入れた「<元禄>洛中絵図」上に、突抜所在地を示した「突抜所在地図」は次の二つの形式で細部を見ることができる。
 左の図をクリックすれば、地図上の虫眼鏡を移動させて細部が見られます。
 下の図をクリックすれば、Zoomifyで作成された拡大・移動ができる地図で見られます。ブラウザーとしてはFirefoxがお勧めです。
元禄洛中絵図
swf版はこちら



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