(続)あとがきにかえて — 要約と補足
6 城安寺辻子
城安寺辻子は、天部村の東沿いの畑道であったものと考えられる。この畑道は、寛永六(1629)年に伏見から移転してきた城安寺とともに、その東沿いに七軒町、南西海子町、北木之本町、進之町が開町した頃から、町家が軒を並べるようになり、その道の様相は変わってきた。
それ迄は、三条通から天部村東南端付近にあった天部村東口までの道に過ぎなかったものが、町通の前段階の辻子と認識され、城安寺辻子と呼びならわされるようになったのだろう。しかし、依然として、古門前町通までは貫通せず、高畠町南西端、との境で行き止まり、袋小路の辻子であった。
その様子を、華頂要略附録第拾六に収録されている「粟田地志漫錄」(元禄十一戊寅三月上旬 並河惟忠序)掲載の町家絵図から作成した絵図を右に掲げる。
現在でも巽町東南端で行き止まりのままである。その理由としては、多分に地形的なことがあったのではなかろうか。下の図は、この辻子の先端部(巽町の東南端)で崖上に落下し、古門前町通り下っていることを、現在の国土地理院地図で断面図を描き示したものである。城安寺辻子が接している南の三条保育所は大げさにいえば絶壁の上にあるといえよう。

この辻子の道巾は、七軒町以南で拡張されてきた。その経過図を右に示す。
元禄九(1696)年に城安寺前が拡張されている。
また、七軒町南西端と天部部落内の鎮守の森、大将軍神社の東北端の角で道巾が食い違っていることがみえる。下右の写真に見えるいうに、現在でもいまだにこの食い違いは残ったままであるである。

7 綿屋辻子
綿屋辻子は、以下に述べる衣屋辻子、紙屋辻子、ふたつの杓子屋辻子、酢屋辻子などの屋号を冠した辻子である。源右衛門辻子もおそらく陶工の名に由来していると思われ、この範疇に入るだろう。これ迄に見てきた寺社の名を冠した辻子、超勝寺辻子、正栄寺辻子、城安寺辻子 などと違って、いずれもその名の由来を詳らかにするのが困難な辻子である。
「粟田地志漫録」の境内民家明細書の七軒町の絵図をみても、そのものずばりの「綿屋」らしき民家は見えない。南北に細長い2軒の民家に挟まれた、三条通から孫橋通に至り要法寺の門前の溝で行き止まりで、要法寺辻子は呼ばれていない。寺社の名を冠した辻子の多くは、そ寺門に沿って付いている道路で、辻子の突き当たりが寺門とはなっていない。要法寺の表門は孫橋通に面しており、新高倉通が門前を沿って走っているが、まっすぐに三条通に出られるわけでなく、一旦西に折れて、溝を避けて金台寺辻子から三条通へ出ることになる。下の絵図は華頂要略附録18の御門跡領にある「法皇寺境内并天部村知恩院境内等境目」と称される絵図の該当部分である。

要法寺は、宝永五年(一七〇八年)京都大火では類焼し、その後東山三条のこの地に移転した。その時に新高倉通も開通したものであり、それ以前は綿屋辻子は畑道へ続いていたものと思われる。綿屋辻子自身は、七軒町が開町した元禄の頃からの呼称であろうが、二軒の民家の裏口からの出入り以外に意味のない、取り残された畑道である。
江戸時代の地誌や絵図に取り上げられることも少なく、管見の限りであるが、「文化増補京羽二重大全」(文化8[1818]年)にその名が見えるだけで、「粟田地志漫録」の境内民家明細書の七軒町の絵図の以外には「綿」が「𥿻[きぬ]」となってはいるが、寛延2(1749)の洛中洛外図絵図「四座雑色分担支配地繪図」にすぎない。
8 分木辻子
分木辻子の名は、もとこの地が田畑であった頃の字名に由来したもので、すでに天正年間(1573年~1592年)に「分木」の名が渡辺水帳(渡辺家は青蓮院宮の坊官でこの地域一体に所領を有していた)に見られる。「分木」というのは一本の水路から,用水を二つの区域や村に分ける際にとられる、分岐の技術的手段の一種で,分水点に目盛木を立て,その高さによって分水を行うことである。
下の「粟田地志漫錄」の分木町の町家絵図を見ると、分木辻子の大部分が暗渠(「石フセミソ」と記載)になってはいるが、北端の暗渠になっていない部分で、黒い線で描かれている用水路の分岐がみられる。

この用水路の水は旧白川の水路から取水されたもので、辻子に沿って三条通を越えて、古川通沿いを南下し、現在の白川に放流されている。その源は白川であり、この南への分岐点よりちょっと北で、現在の白川へ放流されている水路も見られる。
白川の用水路全体が見られる絵図を作成した。この図は、下敷きとして、「法皇寺境内并天部村知恩院境内等境目」(華頂要略附録18所収)を用いて、これに、「當今圖」と「分木町之圖」(華頂要略附録21所収)の水路を書き加えたものである。
古川町通を南下して現在の白川に放流された水路の他に、白川から天部村東口を結ぶ水路もあったことがわかる。

9 衣屋辻子
衣屋辻子は今小路町から三条通南裏に至る辻子である。三条通のほとんどすべての町が、三条通の両側町を形成している中で、今小路町は大井手町と三条通を町境とする片側町である。これは、粟田地誌漫録によれば
『今小路町は、知恩院末御領なりし時、今の保徳院の辺に在りし在家なり。(慶長8年の)知恩院創造之時、今の白川橋の西に遷し、今小路町と名付しとなり』(京都坊目誌下京第八學區之部の今小路町の町名起原の項による)
とあることから、大井手町と三条通を町境とする片側町として開町したことになったのであろう。同書町家絵図でも、大井手町と今小路町は「大井手町 北 今小路町 南片町」として一括して扱われている。

この今小路町の由来から、衣屋辻子の名の由来も何となく分かる。京都案内人のブログにあるように、知恩院領内に住んでいた村人がこの三条白川の地に移され、その見返りに知恩院の僧侶の僧衣を染めて仕立てて商う商家街が形成され、衣屋辻子と呼ばれた、という憶測もできよう。但し、江戸時代後期の絵図にはその様子は見えない。
10 紙屋辻子、
粟田地志漫録附録第20巻「粟田口町家之明細 第貳」で大井手町・今小路町を見ると、『紙屋ノ辻子 舊友古ノ辻子』とあり、三条通にも『祐古辻子』の記載が認められる。
さらに、この「大井手町 北 今小路町 南片町」の絵図名左の書き入れに『享保五(1720)年記云 祐古ノ圖子道幅五尺四寸ノ野道ト云』とも記載されている。

また華頂要略59巻(粟田口村雑記第一)の粟田口圖子小路名目には、紙屋の辻子ではなく『ゆふこのずし 北 畑道』と記載されている。これを記した舊記には年号は記載されていないという。
これらからすると、「紙屋辻子」と呼ぶようになったのは。18世紀後半以降ではないかと思える。実際、寛延2(1749)年の洛中洛外図絵図 一名「四座雑色分担支配地繪図」に、『ユウコノツシ』が見られる。
冒頭の大井手町・今小路町周辺の絵図を見ると、紺色で塗りつぶした町家、石泉院町の二軒、町家番号四番と十五番にそれぞれ『元 紙屋彌兵衛』、『元 紙屋十三郎』とあり、大井出町の町家番号十五から十七は『紙屋嘉右衛門』となっている。石泉院町の開町は明和3(1766)年であり、以前は田畑の字名であったことからすれば、このころから、畑道同同然だった「友古ノ辻子」付近には、紙を扱う商家が集まり始めて「紙屋辻子」と呼ばれるようになったのであろう。現在も続いている三条通大井手町の紙商「紙嘉」は元禄時代の創業というから、「紙屋辻子」の由来とは直接関係はなかろうが……。
中世中頃以降、地方製紙業の勃興著しいものがあったと云う。紙の最大の需要地であった京都には、地方の紙問屋から齎らされた紙類は、三条通にあった「紙嘉」のような紙商を通じて、武家や公家の間に、また庶民の日常の用紙としても用いられていたのだろう。その需要を満たすために、石泉院町の開町後は、ここにも紙商が集まってきたのでは、というシナリオが出来上がる(次項「金剛寺辻子」の[註]書きも参照)。
11 金剛寺辻子
例によって粟田地志漫録附録の「粟田口町家之明細」の五軒町之圖を見ると、標題の脇に『北側の道アリ金剛寺ノ圖子ト稱ス道巾一間一尺一寸』とある。北の堀池町の町家明細絵図を見ると、この
辻子の抜け先は、白川の水車小屋である。

金剛寺の正門は三条通に開いている。この辻子は金剛寺の西塀沿いの細道で、僅かに東側の堀池町の二軒の小さな家屋だけが頬を向けているだけである[註]。まさに畑道の名残りでで、『堀池町に通ずる小徑を金剛寺辻子の字あり。』と京都坊目誌にある通りの小径であった。
応仁の乱で荒廃していた金剛寺がこの地に再興されたのは慶長七(1602)年のことである。正徳三(1713)年に本尊が修復され、享保十五(1730)年に漸く本堂が建立され、現在に至っている。

[註]この家の一軒は、文政八(1825)年には紙屋であったことが、堀池町の町家明細の説明から知れる。この辺までも紙商が立地していた。
右の三軒は、現在では「並河靖之七宝記念館」に変貌している。
12 西の杓子屋辻子
前項末尾の並河靖之七宝記念館の「並河家」を探索して行き当たったのが、「西の並河家」である。そこで、華頂要略「本編巻第四三 門下傳 諸家第二」に西の並河家の図面が載っており、並河家の西沿いの小径に「杓子屋辻子」と記載されているのを発見した。
六代目靖栄の代の記事に、
『文化九年[1812]八月十三日 此度居宅造替ニ付表側地面東西六間五寸南北壹間之場所返上仕往還ニ相成未申[南西]之方ニ而東西一間六尺三寸南北北間半之場所拝領願御聞濟』
とあり、掲載されていた図面には、『御用地 𣏐子屋辻子』と明記された小径がでている(下図右)。
この図面では並河家南半分しか見られないが、寛保二(1742)年の二代目共樹の項にはもう少し広い範囲の図面がある。それは、依願により宅地を賜ったときの図面で、三条西町から並河家西沿いの尊勝院藪地の間を抜けて尊勝院に行き当たる小径が描かれ、これに「辻子」と明記されていが、まだ「𣏐子屋」の名称は現れていない。

辻子突き当たりの東側に青蓮院の裏口の門が描かれており、入ったすぐ南手は「御乳人[乳母]屋敷」とある。
西町の町家明細絵図には三条通から並河家沿いに小径が描かれているが通り名は記載されていない。西側の尊勝院薮地は「定恵坊」となっている。

この西の杓子屋辻子の名の由来について意味深い記事が、井上頼寿「京都古習志」にある。青蓮院へ年末の二十七日、歳暮の御祝儀に、他の産物に混じって杓子を差し上げていた。鞍馬寺は青蓮院の末寺的存在でもあったことからすれば、鞍馬の住民が青蓮院へ杓子を歳暮の御祝儀の一つとして、差し出していたその差し入れ口がこの辻子であったから、杓子屋辻子と呼ばれていたのかもしれない。確証はない。
現在この杓子屋辻子の南半分が痕跡として残っていが、三条通南裏から北に入る袋小路の路地で三条通に突き抜けていない。
明治時代初期に、民家明細書所収の西町の圖の一七番の宅地と合体して、粟田口町の名士で三條小鍛冶宗近の顕彰碑の唱導者として名を残している 山本祐山の所有地となったものと思われる。
西の杓子屋辻子と東の杓子屋辻子とは、何の関連もないものでありここでは西から述べてきた地理的な位置関係から、東の杓子屋辻子は夷ヶ坂辻子の次に記すことにし、「(続)あとがきにかえて — 要約と補足」はここで一旦終わりとする。新たに「(続々)あとがきにかえて — 要約と補足」を、「天王辻子」から始める。
6 城安寺辻子
城安寺辻子は、天部村の東沿いの畑道であったものと考えられる。この畑道は、寛永六(1629)年に伏見から移転してきた城安寺とともに、その東沿いに七軒町、南西海子町、北木之本町、進之町が開町した頃から、町家が軒を並べるようになり、その道の様相は変わってきた。

その様子を、華頂要略附録第拾六に収録されている「粟田地志漫錄」(元禄十一戊寅三月上旬 並河惟忠序)掲載の町家絵図から作成した絵図を右に掲げる。
現在でも巽町東南端で行き止まりのままである。その理由としては、多分に地形的なことがあったのではなかろうか。下の図は、この辻子の先端部(巽町の東南端)で崖上に落下し、古門前町通り下っていることを、現在の国土地理院地図で断面図を描き示したものである。城安寺辻子が接している南の三条保育所は大げさにいえば絶壁の上にあるといえよう。


元禄九(1696)年に城安寺前が拡張されている。
また、七軒町南西端と天部部落内の鎮守の森、大将軍神社の東北端の角で道巾が食い違っていることがみえる。下右の写真に見えるいうに、現在でもいまだにこの食い違いは残ったままであるである。

7 綿屋辻子
綿屋辻子は、以下に述べる衣屋辻子、紙屋辻子、ふたつの杓子屋辻子、酢屋辻子などの屋号を冠した辻子である。源右衛門辻子もおそらく陶工の名に由来していると思われ、この範疇に入るだろう。これ迄に見てきた寺社の名を冠した辻子、超勝寺辻子、正栄寺辻子、城安寺辻子 などと違って、いずれもその名の由来を詳らかにするのが困難な辻子である。
「粟田地志漫録」の境内民家明細書の七軒町の絵図をみても、そのものずばりの「綿屋」らしき民家は見えない。南北に細長い2軒の民家に挟まれた、三条通から孫橋通に至り要法寺の門前の溝で行き止まりで、要法寺辻子は呼ばれていない。寺社の名を冠した辻子の多くは、そ寺門に沿って付いている道路で、辻子の突き当たりが寺門とはなっていない。要法寺の表門は孫橋通に面しており、新高倉通が門前を沿って走っているが、まっすぐに三条通に出られるわけでなく、一旦西に折れて、溝を避けて金台寺辻子から三条通へ出ることになる。下の絵図は華頂要略附録18の御門跡領にある「法皇寺境内并天部村知恩院境内等境目」と称される絵図の該当部分である。

要法寺は、宝永五年(一七〇八年)京都大火では類焼し、その後東山三条のこの地に移転した。その時に新高倉通も開通したものであり、それ以前は綿屋辻子は畑道へ続いていたものと思われる。綿屋辻子自身は、七軒町が開町した元禄の頃からの呼称であろうが、二軒の民家の裏口からの出入り以外に意味のない、取り残された畑道である。

8 分木辻子
分木辻子の名は、もとこの地が田畑であった頃の字名に由来したもので、すでに天正年間(1573年~1592年)に「分木」の名が渡辺水帳(渡辺家は青蓮院宮の坊官でこの地域一体に所領を有していた)に見られる。「分木」というのは一本の水路から,用水を二つの区域や村に分ける際にとられる、分岐の技術的手段の一種で,分水点に目盛木を立て,その高さによって分水を行うことである。
下の「粟田地志漫錄」の分木町の町家絵図を見ると、分木辻子の大部分が暗渠(「石フセミソ」と記載)になってはいるが、北端の暗渠になっていない部分で、黒い線で描かれている用水路の分岐がみられる。

この用水路の水は旧白川の水路から取水されたもので、辻子に沿って三条通を越えて、古川通沿いを南下し、現在の白川に放流されている。その源は白川であり、この南への分岐点よりちょっと北で、現在の白川へ放流されている水路も見られる。
白川の用水路全体が見られる絵図を作成した。この図は、下敷きとして、「法皇寺境内并天部村知恩院境内等境目」(華頂要略附録18所収)を用いて、これに、「當今圖」と「分木町之圖」(華頂要略附録21所収)の水路を書き加えたものである。
古川町通を南下して現在の白川に放流された水路の他に、白川から天部村東口を結ぶ水路もあったことがわかる。

9 衣屋辻子
衣屋辻子は今小路町から三条通南裏に至る辻子である。三条通のほとんどすべての町が、三条通の両側町を形成している中で、今小路町は大井手町と三条通を町境とする片側町である。これは、粟田地誌漫録によれば
『今小路町は、知恩院末御領なりし時、今の保徳院の辺に在りし在家なり。(慶長8年の)知恩院創造之時、今の白川橋の西に遷し、今小路町と名付しとなり』(京都坊目誌下京第八學區之部の今小路町の町名起原の項による)
とあることから、大井手町と三条通を町境とする片側町として開町したことになったのであろう。同書町家絵図でも、大井手町と今小路町は「大井手町 北 今小路町 南片町」として一括して扱われている。

この今小路町の由来から、衣屋辻子の名の由来も何となく分かる。京都案内人のブログにあるように、知恩院領内に住んでいた村人がこの三条白川の地に移され、その見返りに知恩院の僧侶の僧衣を染めて仕立てて商う商家街が形成され、衣屋辻子と呼ばれた、という憶測もできよう。但し、江戸時代後期の絵図にはその様子は見えない。
10 紙屋辻子、
粟田地志漫録附録第20巻「粟田口町家之明細 第貳」で大井手町・今小路町を見ると、『紙屋ノ辻子 舊友古ノ辻子』とあり、三条通にも『祐古辻子』の記載が認められる。
さらに、この「大井手町 北 今小路町 南片町」の絵図名左の書き入れに『享保五(1720)年記云 祐古ノ圖子道幅五尺四寸ノ野道ト云』とも記載されている。


これらからすると、「紙屋辻子」と呼ぶようになったのは。18世紀後半以降ではないかと思える。実際、寛延2(1749)年の洛中洛外図絵図 一名「四座雑色分担支配地繪図」に、『ユウコノツシ』が見られる。

中世中頃以降、地方製紙業の勃興著しいものがあったと云う。紙の最大の需要地であった京都には、地方の紙問屋から齎らされた紙類は、三条通にあった「紙嘉」のような紙商を通じて、武家や公家の間に、また庶民の日常の用紙としても用いられていたのだろう。その需要を満たすために、石泉院町の開町後は、ここにも紙商が集まってきたのでは、というシナリオが出来上がる(次項「金剛寺辻子」の[註]書きも参照)。
11 金剛寺辻子
例によって粟田地志漫録附録の「粟田口町家之明細」の五軒町之圖を見ると、標題の脇に『北側の道アリ金剛寺ノ圖子ト稱ス道巾一間一尺一寸』とある。北の堀池町の町家明細絵図を見ると、この
辻子の抜け先は、白川の水車小屋である。

金剛寺の正門は三条通に開いている。この辻子は金剛寺の西塀沿いの細道で、僅かに東側の堀池町の二軒の小さな家屋だけが頬を向けているだけである[註]。まさに畑道の名残りでで、『堀池町に通ずる小徑を金剛寺辻子の字あり。』と京都坊目誌にある通りの小径であった。
応仁の乱で荒廃していた金剛寺がこの地に再興されたのは慶長七(1602)年のことである。正徳三(1713)年に本尊が修復され、享保十五(1730)年に漸く本堂が建立され、現在に至っている。


右の三軒は、現在では「並河靖之七宝記念館」に変貌している。
12 西の杓子屋辻子
前項末尾の並河靖之七宝記念館の「並河家」を探索して行き当たったのが、「西の並河家」である。そこで、華頂要略「本編巻第四三 門下傳 諸家第二」に西の並河家の図面が載っており、並河家の西沿いの小径に「杓子屋辻子」と記載されているのを発見した。
六代目靖栄の代の記事に、
『文化九年[1812]八月十三日 此度居宅造替ニ付表側地面東西六間五寸南北壹間之場所返上仕往還ニ相成未申[南西]之方ニ而東西一間六尺三寸南北北間半之場所拝領願御聞濟』
とあり、掲載されていた図面には、『御用地 𣏐子屋辻子』と明記された小径がでている(下図右)。
この図面では並河家南半分しか見られないが、寛保二(1742)年の二代目共樹の項にはもう少し広い範囲の図面がある。それは、依願により宅地を賜ったときの図面で、三条西町から並河家西沿いの尊勝院藪地の間を抜けて尊勝院に行き当たる小径が描かれ、これに「辻子」と明記されていが、まだ「𣏐子屋」の名称は現れていない。

辻子突き当たりの東側に青蓮院の裏口の門が描かれており、入ったすぐ南手は「御乳人[乳母]屋敷」とある。
西町の町家明細絵図には三条通から並河家沿いに小径が描かれているが通り名は記載されていない。西側の尊勝院薮地は「定恵坊」となっている。

この西の杓子屋辻子の名の由来について意味深い記事が、井上頼寿「京都古習志」にある。青蓮院へ年末の二十七日、歳暮の御祝儀に、他の産物に混じって杓子を差し上げていた。鞍馬寺は青蓮院の末寺的存在でもあったことからすれば、鞍馬の住民が青蓮院へ杓子を歳暮の御祝儀の一つとして、差し出していたその差し入れ口がこの辻子であったから、杓子屋辻子と呼ばれていたのかもしれない。確証はない。

明治時代初期に、民家明細書所収の西町の圖の一七番の宅地と合体して、粟田口町の名士で三條小鍛冶宗近の顕彰碑の唱導者として名を残している 山本祐山の所有地となったものと思われる。
西の杓子屋辻子と東の杓子屋辻子とは、何の関連もないものでありここでは西から述べてきた地理的な位置関係から、東の杓子屋辻子は夷ヶ坂辻子の次に記すことにし、「(続)あとがきにかえて — 要約と補足」はここで一旦終わりとする。新たに「(続々)あとがきにかえて — 要約と補足」を、「天王辻子」から始める。
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