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洛中洛外 虫の眼 探訪

<洛中洛外虫の眼探訪 づしづくし>

づしづくし 34  「円覚寺辻子」円覚寺の表でなく、裏の道

京町鑑の寺町通の項に
 
1:円覚寺辻子地図 『▲下塔之檀町
  此南半町ばかり南にて行あたり少し東へ入又南行所を
  ▲圓覺寺辻子 この南の横町は今出川通也』
 
と明確にその場所を記述している。と同時に▲竹屋町のところに

 『▲竹屋町 本名柳風呂町といふ此町に圓覺寺と云東門徒有』

と記述している。圓覺寺と圓覺寺辻子の位置関係を現在の地図上に示せば右のとおりである。つまり、圓覺寺辻子は圓覺寺の裏通で、西側は同志社女子中学校・高等学校の塀が続いている。
 ところが、京都坊目誌では、上京第九學區之部の柳風呂町の町名起原の中に次のように記している。

『町名起原 不詳。維新前一名竹屋町と呼ぶ。華族竹屋氏の持地あり。[割注:明和(1764〜1772)の頃]又圓覺寺の辻子とも云へり。』

明和の頃(1764〜1772)には、圓覺寺の辻子は圓覺寺の表門が面する(頬を向けている)辻子ということになる。しかし、京町鑑の明和8(1771)年刊行の後摺版でも、圓覺寺辻子は圓覺寺裏の下塔之檀町にあると記されている。さらに、明和前後の町絵図、増補再版 京都大繪図 乾(1741、寛保元年)と京図名所鑑(1778、安永7年)でも同様に、圓覺寺辻子は下塔之檀町の南半町に記載されている。
2:「京町鑑」 明和4(1767)後摺本

3:エンカク寺づし・増補再版 京都大繪図乾寛保元(1741) 4:エンカクシ・京図名所鑑安永7(1778)

残念ながら、坊目誌には「明和の頃」の典拠を記していないが、上記の状況証拠からすれば、何らかの誤解があったものと思われる。同書には、明和の頃以外は、どうだったのかについても、言及されていない。
 「辻子」の一般論からすれば、「家並みを付属させていない道」、「通に面していない二寺の間の道」といった辻子の性格(足利「中近世の歴史地理」p.22, 地人書房, 1984)からして、圓覺寺の前の通りである柳風呂町(竹屋町)を圓覺寺辻子と呼ぶ筈はない。
 実際、管見の限りではあるが、江戸時代の絵図もすべて、柳風呂町を圓覺寺辻子としたものはない。ところが、例によって、酒瓮斎は次のように書いている。

『円覚寺辻子
 今出川通寺町の西、二筋目を北行する小路で、塔ノ段通まで。
 幸神町・柳風呂町・革堂内町を通貫しています。
 『京町鑑』は、「圓覺寺辻子 此南の横町は今出川通也」とあります。
 辻子の名前は、柳風呂町にある円覚寺(真宗)に由来する。』
(「辻子 −円覚寺辻子・桝形笠屋ノ辻子と周辺−」、2012年10月)

 酒瓮斎は、引用している京町鑑の文章から、前半部分は無視して、都合のいい後半部分だけを抜いている。実際、柳風呂町の南も今出川通へ出るのだから。辻子の持つ本質的な性格を理解していないと、このような手前勝手な解釈をしでかしてしまうのである。 
 それはともかくとして、それではいつ頃から圓覺寺辻子と言う名称が現れたのかをさぐってみる。
 辻ミチ子氏の「封建制の地固めとなる天部村」(京都部落問題研究資料センター, (2008年度 第一回部落史連続講座 2)の資料に掲載されていた円覚寺文書に

『当寺建立ハ、慶長七年順西開基也。順西生国ハ、江州野洲郡小篠原村苗村民部、法名正斎ト申候[苗村大明神子孫也](中略)天部蓮沢寺、正林寺、法泉寺先住ハ、江州ヨリ正誓ニ付テ登ル皆ナ苗村ノ家来。円覚寺開基ハ惣領、正誓ハ二男也。夫故蓮沢寺末ニ付ク』

とあから、1602(慶長7)年以前ではあり得ない。1677(延宝5)年の「新改内裏之図」では、「鷹司殿下屋敷」が北半分の敷地を有し、南半分は町地と記載されているが、ここに円覚寺の記載はない。
 1686(貞享3)年の「新撰増補京大絵図」を見ると、下塔之檀町と柳風呂町(竹屋町)の間には、円覚寺はまだなく、そこには1683(天和3)年に右大臣に昇進した鷹司兼煕の屋敷が『鷹司右府教御下やしき』と書き込まれている。
 ところが、新修京都叢書第二所収の「京羽二重」の巻四に、東本願寺下の洛中道場の最初に『寺町一町西今出川上ル柳ふろの町 圓覺寺』と掲がっている。京羽二重は「新修京都叢書第二」の野間光辰の解題によると、刊記には「貞亨二乙丑歳 九月吉日」とあるが、実際は1691(元禄4)年以後1697(元禄10)年頃までの後摺である。1683年から1697年の間に円覚寺は、当該の地に移転してきたものとすいていされる。従って円覚寺辻子は、それ以降の名称ということになろう。

6:新撰増補京大絵図1686(貞享3) 5:1677(延宝5)年の「新改内裏之図」

7:元禄9(1696)新撰増補京大絵図 上限の1683年は、もう少し下げられる。「新撰増補京大絵図」の1691(元禄4)年版を見ると、「鷹司右府教御下やしき」に代わって「松平讃岐守」の記載が見え、まだ円覚寺は現れていない。さらに同絵図の1696(元禄9)年版でも、まだ「松平讃岐守」である(左の絵図)。さらに、1699(元禄12)年版でもそのままである。記載事項が、正しく更新されてきたという前提ではあるが、円覚寺が来たのは1699年以降ということになる。
 坊目誌に、1708(宝永5年)の大火で円覚寺は類焼しているとある(下の大火図参照)。その直後の宝永6年の「内裏之図」では、「円覚寺」の記載は見られない。8:円覚寺・宝永大火図

 9:西尾市岩瀬文庫所蔵の「〈新板/増補〉京絵図」しかし、同じ年の「宝永六丑年正月吉辰」の刊記がある、西尾市岩瀬文庫所蔵の「〈新板/増補〉京絵図」には、円覚寺の記載はないが、「ゑんかく寺ノづし」は、しっかりと記載されている(右図)。
 上記の「内裏之図」では、1716(享保元)年以降の後修には、二条殿の東側に「円覚寺辻子」が現れていることを付け加えておこう(下図)。

10:内裏之図宝永6年刊享保修

 以上の考察からすれば、円覚寺自体が、何時この地にやって来たのかは明確することができなかったが、「円覚寺辻子」という呼称は、遅くとも18世紀初頭から、使われ始めたと結論できる。


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づしづくし 33  「笠屋の辻子」「竪」か、「横」か?

 京都坊目誌上京第九學區之部の三栄町の項に
 『○三栄町 寺町通一筋東今出川一筋[北][割注:枡形 とも]上る町を云ふ。寶永五年開通する所也。[割注略]
 町名起原 元立本寺の境内にして、町地となる[筆者註:宝永五年の大火で類焼した立本寺は内野へ移転した]に及び立本寺跡三丁目と呼びしが、明治二年十一月、三丁目の三字を採り、新に今の名を下す。本町一に枡形笠屋ノ辻子と字す』

 京町鑑の「○寺町より東之部」には、立本寺跡一帯の町々の記述は、次の通りである。

1:立本寺跡町名(京町鑑)『○枡形本満寺裏門通下ル ▲三町目 
 ○此南の辻東入町 ㋵新幸神町
 此町東の辻は御車道と云其東大原口とて鴨川へ出る
 此通の西の町 ㋵二町目
 ○今出川上ル ▲壹町目  扨又本満寺裏より南へに筋目今出川通也
 ○此町北側 ㋵百萬遍町 一名御幸通と云 同町南側 ㋵手馬通
 寺町通より東へ三筋目本満寺裏門通升形下ル ▲新生洲四丁目
 ○今出川上ル東側 ▲俵町
 ○同町西側 ▲高倉町 此町南の辻今出川通にて行當る
 寺町より東へ四筋目本満寺裏門通升形下ル東側 ▲荒神町
 ○同町西側 ▲治右衛門屋敷
 ○其南東西兩側 ▲浄華院町 右是まで壹丁の内也
 ○今出川上ル北方東側 ▲革堂町
 ○同西側 ▲廬山寺町』

2:立本寺跡地の現在の町名と町域 現在の道路地図に上記の町名を起こしてみたものを上に示す。右は、現在の町名と町域である。京町鑑には、坊目誌が「三町目」の別称としている「枡形笠屋ノ辻子」は出ていない。また、坊目誌が、現在の枡形商店街である今出川通一筋北を「枡形」としているのに対して、京町鑑は、「枡形本満寺裏門通」あるいは「本満寺裏門通升形」と書いている。
 坊目誌でいう「枡形笠屋ノ辻子」というのは、管見の限りであるが、江戸時代の京町鑑の類いや洛中絵図には出てこない。唯一、内裏圖の範疇の絵図で、1837(天保8)年刊行の「禁闕内外全圖」というのに「カサヤノツシ」という記載が見られる。
3:笠屋の辻子・枡形/禁闕内外全圖 坊目誌のいう笠屋ノ辻子は南北(竪)路であるが、禁闕内外全圖のそれは、東西(横)路である。現在の枡形商店街そのもの、京町鑑の「二町目」と「新幸神町」の二町である。
 さらに、「枡形」という地名は本満寺裏門通(本満寺ヨコ丁)の東に「出町御枡形」として記載されている。
 本来、「枡形」とは、城郭への出入口の一形態で,方形空間を囲んで築かれた石垣でつくられた空間で、鍵形に二つの門が設けられていて、敵の直進をさまたげ、勢いを鈍らせるためという。江戸時代のはじめに制定された宿場でも、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入口には必ず枡形が設けられ、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたものである。
4:枡形・賀茂川筋絵図 立本寺跡の空間が、今出川口や下鴨口から、直接に今出川通を経由して洛中に入れないような形態になっていることから、これを出町の枡形と称したものと思われる(右図参照)。
 立本寺移転後の枡型の土地開発に先だって東西、南北2本の路がもうけられ、この区画は4分割され、それぞれに町が形成され始めた。この2本の街路は、当初辻子と認識されていたものと思われる。このように大きな一区画が辻子によって東西・南北の路で四分割され、町が形成された古い例、室町時代の例がある。
5:にし東の辻 これは、後小松院仙洞御所跡の敷地に形成されたもので、「づしづくし 28 橘辻子」の中で詳しく見た。南北を正親町(中立売)通と一條通、東西を東洞院通と烏丸通に囲まれた方一町の区画を、4分割する十字に交わる東西・南北の路は、当初、それぞれ「きたみなみの辻子」「にし東の辻」[注]、と称されていた。その南北の辻子が後で「橘辻子」という名を持つようになった。

[注]辻の語義はその語源から現代語にいたるまで一貫して「道路が十文字に交差する所」を基本とすると考えてよいが、今の「にし東の辻」の場合には「にし東の」という形容句があるために辻の意味に解することはできないであろう。したがって、辻子の意味を表すのに辻と書いた混用の事例であると考える他はない。つまり「にし東の辻」とは「にし東の辻子である。」(高橋康夫「京都中世都市史研究」p.194, 思文閣史学叢書,1983)

 この一例から類推すれば、枡形の4分割する二本の道も、当初は無名の辻子であったのが、ある時期から、その一方が「笠屋の辻子」と呼ばれるようになったのだろう。後世、それが竪(南北)の路をいうのか、はたまた横(東西)の路を指していたのか、混乱が生じた結果、坊目誌と禁闕内外全圖の違いが出てきたのではなかろうか。坊目誌が「枡形笠屋辻子」の典拠を記していないのは残念である。

6:銅鐫新刻内裏御絵図 後小松院仙洞御所跡と立本寺跡の町地形成に際して違っていたのは、立本寺北辺にも辻子が通されたことである。後小松院仙洞御所の北は一條通であったから、この必要はなかった。それに対して立本寺の北には本満寺が接してあったから、この境界に通路が必要だった。それが、後に「本満寺裏門通」とか「本満寺横丁」と称された道路である。この道路が町通になる前には、「辻子」と認識されていたと思われるふしがある。「掌中雲上抜錦 全」という題簽を持った1866(慶応2)年刊行の内裏図中の当該道路に「辻子丁」と記されている。右にその銅鐫新刻版の内裏御絵図(慶応四年刻)での該当個所を示す。





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づしづくし 32  「虱の辻子」
1:さかや町虱ノ辻子
 京町鑑「寺町より東之部」の▲堺町の項に

 『此邊惣じて下藪の下と云ふ此町南の辻を西へ寺町まで壹町餘の所を
 さかや町 俗に○虱辻子と云ふ』

 また、▲加茂口町の項の最後に
 
 『寺町の東の通北は今出川より南は虱辻子まで凡三町  ほどの間を▲中筋』

とある。この二つの文章の間に、今出川通から虱の辻子まで、中筋周辺の町々の名が記されている。京町鑑の記述を追ってみる。

2:中筋の町々 『▲中筋 ○今出川下ル ▲左馬殿町 ○其南通寺町東へ入る ㋵突抜 ○其東町 ㋵横町 ○右左馬殿町の南町西側 ▲榮町 同東側 ▲大黒町 此南の辻東入町も此町へ付。此町南通寺町東へ入所より二町程を ㋵中筋 其南の町西側 ▲新松屋町 同東側 夷之町 此東西の壹町を猪熊町とも云う。此町南の辻虱辻子にて行當り也。
寺町より東へ三筋目、北は今出川通より、南は荒神口まで ○今出川下ル ▲大宮町 此町東側○伏見宮様御殿有。此町南の方にては西裏町へ付也。○其南 ▲堺町 』
 (読み易いように句読点を入れた)

 以下冒頭の記述に繋がる。土地勘がないと少々分かりづらい記述である。街路網だけを描いた地図上に、記載内容を起こしてみたのが左の図である。極めて簡潔で整然とした記述であることが分かる。
 虱の辻子は、「さかや町」のことで、河原町通から西、寺町通までということになる。京都坊目誌上京第九學區之部▲新夷町の項には、次のように記されている。

『▲新夷町 中筋通石薬師下る町を云ふ。開通上に同し[1693(元禄6)年]。本禪寺横通より本町にかけ俗に白梅ノ辻子と云ふ。
町名起原 始め白梅ノ辻子[割注:安永刊本京町鑑に 虱の辻子とあり]は新松屋町、夷町の二町たり。元新松屋町は元松屋町通丸太町下る所にあり。元禄十六年九月、所司代邸擴張により、之を上地し替地として、此地を與へ之に移轉せしむ。夷町は安永四年猪熊丸太町の南にありし、人家を此に移し、夷町と號す。明治二年二月、二町を合併し新夷町とす。安永以来此地に煮賣茶屋と唱へ遊女屋あり。慶應前後太た繁華を極む。明治三年三月一日禁止と也、同四年二條新地出稼の名義を[得]て遊女茶屋渡世公許ありしも、下級遊郭の故大に衰徴し[割注:明治五年の圖に 茶屋十六戸あり]、同七年廢止せしめ、普通の民家となる[割注:白梅の俚穪は開肆の頃、白梅と呼べる 美形の賣女ありて、一時人口に喧傳す]。』

 京都坊目誌の冒頭の記述からすれば、白梅辻子は、中筋の「本禪寺横通」より一町ばかり北の部分をいうことになる。京町鑑では横(東西)の筋であったが、ここでは竪の筋となっている。 
 両説をあわせて、『1992(元禄5年)の寺町の大火後[注]に、真如堂など六ヶ寺が移転した跡地に、翌年開通した「切通」の一つが、虱の辻子と呼ばれ、安永頃から夷町界隈が遊女街となって、逆T字型の街路全体が白梅辻子と呼ばれるようになった』としておこう。つまり、虱の辻子は切通の名称、、白梅辻子は遊女街の名称といえよう。
 
[注1]元禄5年の寺町の大火
 続史愚抄の元禄六年六月十九日の条に
『真如堂[割注:八月、仏体遷 座等の事あり]、東北院、極楽寺、迎正寺、来迎寺等を洛東に移す。叉、法正寺、正迎院等を鴨川の東岸に移すと云う[割注:巳上、去る元禄五年十二月一日火に遭う故なり]
 
 上記の京都坊目誌が、夷町の移転してきた年代を、1707(安永4)年とするが、これには疑問が残る。この元ネタは、1872(明治5)年から1873(明治6)年までに京都府勧業掛が作成した上京、下京、伏水の遊廓についての調査書「京都府下遊廓由緒」であろう。そこには次のように書かれている。

『新夷町、一名白梅之図子ハ、元新松屋町ト夷町之二所ヲ合シ号ル所ニシテ、新松屋町ハ元禄十六癸未九月迄、松屋町通丸太町下ル所ニ候処、幕府用地ニ相成、夷町ハ安永四乙未年迄猪熊通丸太町下ル所ニ候処、是叉、幕府用地ニ相成、孰レモ当時之場所エ移住致シ候由。新松屋町、夷町共、新地引移之砌ヨリ、端々ニテ渡世難儀之訳ヲ以、煮売茶屋差許相成、右渡世仕来候由[割注:記録アリ]。
御維新後、明治三庚午三月、新夷町煮売茶屋共、遊女屋ニ紛敷致渡世、一旦差留候処、同四月、二条新地出稼之筋ヲ以、遊女屋渡世差許候事。同年閏十月、傾城町支配出店出稼等相廃、其町組々ニ限、茶屋遊女屋共会社為ニ
取結方及布告、規則帳為差出候事。(中略)同年同月、芸者ト唱来候分ハ、茶屋商社ニテ取締方及布告候事[割注:新夷町ニハ芸者無レ之]。』

坊目誌の記述全体が、これを要約したものと判明する。
 それでは、夷町が移転してきたのはいつか。「文化増補 京羽二重大全」の二巻には、
3:夷町・京羽二重大全二巻『所々新家地
元禄十六年
 寺町新如堂跡新家地
   扇町     要町     米屋町
   大官町    左馬殿町   大こく町
   夷町     猪熊町    新松屋町』

とあり、新松屋町ともども、1703(元禄16)年の真如堂跡の新家地のリストに名を連ねていることからして、夷町も新松屋町同様、1703(元禄16)年に移転してきたと見るのが妥当だろう。
 それを裏付ける文書がある。「中御霊裏町」文書の一つで、「史料京都の歴史 上京」の京極学区 87 「新松屋町、夷町、松植町のなりたち」(ps.166〜168)の部分を読むと、先ず冒頭に、新松屋町が元禄16年9月に移転したことが記され、次項に

 『夷町之儀は、往古猪熊丸太町下ル町ニ住居罷在候処、八拾七年以前、御所司様御屋敷御用地ニ被召上、当町へ御替地被下置、夷町と相唱申候』

と、夷町は87年前に移転したと見える。「史料京都の歴史」のこの部分には日付がなく[注2]、いつからの87年前なのかが問題であるが、読み進むと『七拾一年以前亥年四月、山口安房守(直重)様御在役之砌』という一文に出くわす。山口安房守(直重)が東町奉行であったのは、1713(正徳3)巳年から1721(享保6)丑年である。この間の亥年は1719(享保4)年である。この年が71年前というから、この文章が書かれたのは、1790(寛政2)年であると判明する。。従って、87年まえ夷町が移転してきたのは、1703年、まさに元禄16年、新松屋町と同じ年である。

[注2]不親切極まりないこと
「史料京都の歴史 上京」の京極学区の63に「中御霊裏、真如堂辺りの新地の茶屋営業が町の努力で続けられる」と題して掲載されている「中御霊裏町」文書がある。これには、冒頭に「寛政二年十一月」の日付がはいっている。この掲載部分には「(中略)」があり。この中略部分が、実は京極学区の87として掲載されているものと思われる。従って「87年前」云々というのは、寛政2年を基準にしてということは、涙なく分かるのである。ところが、「史料京都の歴史 上京」には、63と87として掲載されている文書が一体のものであることは何処にも断ってない。不親切極まりないといえよう。

 虱の辻子(白梅辻子)を南限とした、旧真如堂など七ヶ寺の移転跡が、どのように遊女街として発展していったか、江戸時代の絵図で見ておこう。まず、火災前の絵図として、寛永後万治前洛中絵図(1624〜1658)の該当部分をトレースした図を下に掲げる。
4:真如堂火災前

 本禪寺以下の寺々も類焼したようだが、この地で再建されている。火災翌年の1993(元禄6)年の「(元禄)洛中絵図」を見ると、まだ、整地されずに明地のままである。
 1705(宝永2)年の「(宝永)洛中絵図」には、区画整理がなされ、二つの切通が開通している。北の石薬師通から東に開かれた切通が正定院切通で、南の一本は、本禪寺北沿いの切通で、法性寺切通とされている。いずれも御土居から河原町通へ抜けている。この南の一本が「虱の辻子」にあたる。その南の浄華院と廬山寺の間に単に「辻子」と記入されている切通(廬山寺切通)がある。これは既に元禄洛中絵図に現れていて、宝永までに「辻子」として認められる街路になったのであろう。次に見る宝永5年(1708)の大火直後の「京都明細大絵図」にも「辻子」と記載されているが名前はまだない。それが1831(天保2)年の改正京町繪圖細見大成では、浄華院と廬山寺の間は遺迎院が占めていて、この辻子は消滅しているかの如く思えるが、これは誤りで、遺迎院は廬山寺の南、中御霊社との間にあった。
 次の「京都明細大絵図」は、1714〜1721(正徳4〜享保6)年の内容年代を持つとされているおり、この絵図では、真如堂明地となっていた所にもう一本切通しが開かれたことが分かる、ただし図中に「左馬殿丁」とあるのは、間違いで、京町鑑にあるように左馬殿丁は中筋今出川下ル所の竪町である。
 このことは、次の1741(寛保元)年の「増補再版 京都大繪図 乾」でも確認できる。この切通は「横丁」となっている。この絵図では、本禪寺北側の切通には、「さかや丁」の名が付いている。これが、1762(宝曆12)年の京鑑にみえるように、後に「虱ノ辻子」と呼ばれたものである。
 1778(安永7)年の京図名所鑑でも「サカヤ丁」であるが、時代が下がった1831(天保2)年の改正京町繪圖細見大成では、「俗白梅ノ辻子」と見える。安永以降のいつ頃からか、「白梅辻子」と俗称されるようになったのだろう。
5:白梅図子界隈変遷

 この名称は、1885(明治18)年の京都區組明細圖(改正新版)にも見られるように、明治・大正になってからもずっと用いられていた。
6:白梅図子バス停 1924(大正13)年に開通した京都市電河原町線(今出川・丸太町間)の開通当時の停留所の一つが、「白梅図子」であった。1928(昭和3)年の「京都地圖:改正新案改正」に見える通りである(下段右端の地図参照)。
 この停留所はいつの時期かに廃止され、それに代わって、1977年まで京都市バスの停留所名として残っていた。それも、市電河原町線と同日の1977年9月30日限りで廃止されてしまい、今では、近所の人の中でも、どの筋が白梅辻子だったかをはっきりと憶えるている人はいなさそうだ(「白梅図子はどこに?」)。

 最後に次回の予告を。
 京都坊目誌にもう一ヶ所「白梅辻子」の名が出てくる。首巻之五の「竪町通 寺町東」の項に

『笠屋辻子通 北は鶴山町横道に起こり、南は白梅辻子に至る。今出川以南を中筋通と稱す。宝永五年開通する所なり。名稱起源詳ならず。』

 笠屋辻子は、上記記載の場所と開通時期から分かるように、宝永の大火により大半を焼失して、現在地(上京区七本松通仁和寺街道上る一番町107)に移った立本寺の跡地に開発された町地の辻子の一つである。次回はこの今出川の北、出町の辻子について語る。



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づしづくし 32  公家町に消えた 高倉辻子  復活ならず

1:宝永2洛中絵図 落首に「見渡せば京も田舎となりにけり芦の仮屋の春の夕暮」と書かれた宝永の大火(1708年)直前の1705(宝永2)年に刊行された洛中絵図を見ると、高倉通は丸太町をこえて、半町程北に延びて西に折れ、間之町通に抜けている。この鍵形の路は「高倉辻子」と記されている。
 その下のの大火後の1714〜1721(正徳4〜享保6)年頃の洛中絵図「京都明細大絵図」に見るように、この路は公家町に取り込まれ、明地となって消えてしまった。
 この辻子はいつ頃開通して、いつから高倉辻子2:京都明細大絵図と呼ばれるようになったのだろうか。
 17世紀の中頃、寛永後万治前ころの洛中絵図(1624〜1658)を見てみると(その下の左)、この辻子は頂妙寺の門前に通じており、また、元和6、7年か寛永元年に作成されたといわれている筆書きされた最古の洛中図には「門前町」と記載されている(その右)。
 1665(寛文5)年刊行の「京雀」(浅井了意)の高倉通の項には
『この筋の北に頂妙寺とて日蓮宗の寺ありて行きあたる故に世の人頂めう寺どうりといふ』
3:寛永後万治前洛中図とある。
 これより少し後の17世紀末の1693(元禄6)年の洛中絵図では、頂妙寺は移転しており、同所は公家町に転用されていたにもかかわらず、高倉通は、まだ「頂妙寺通」と呼ばれていたことが分かる。正徳の「都すヾめ案内者」や宝曆の京町鑑でも、『高倉通 又長めうじ通ともいう』とか『○高倉通 ○頂妙寺通とも云』とあ4:元禄6年洛中絵図る。
 「高倉辻子」の呼称は、頂妙寺の移転後、宝永の大火までのわずかな期間に使われていたようである。この鍵形の小路がいつ頃できたのかをさぐるために、頂妙寺がこの地へやってきて、去っていった経緯を少々追ってみよう。

頂妙寺寺地の変遷
 日蓮宗京都二十一箇本山の一つ頂妙寺は、現在では、鴨川の東、仁王門通に面してある。通り名は当寺の仁王門に由来するという[注1]。ここに落ち着くまで、洛中洛外を転々としてきた。
 1473(文明5)年、日祝(日常8世)が上洛し、檀越の武将・細川勝益(?〜1502)の篤い帰依によって寺地の寄進を受け、頂妙寺を開山した。当時の寺地は南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現在の柳馬場通)、東は富小路通に至る地であった[注2]。
 その後、1509(永正6)年、10代将軍・足利義稙の命により新町通長者町に移る。ついで、1523年(大永4)年には、12代将軍・足利義晴の命により、高倉中御門に移転し、法華宗洛内法華二十一箇本山の一つになる。中御門通は現在の椹木町筋に当たる。
 1536年(天文5年)の天文法華の乱で、他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後1542年(天文11年)、後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下し、頂妙寺は1546年、高倉中御門の旧地に伽藍を再建した。
 1573(天正元)年、信長の上京焼打ちにあった。フロイスの1573年5月27日付の書簡のなかに掲げた20ヶ寺の焼失寺院名リストの19番目の「chómennji」が頂妙寺のことだと思われる(松田,川崎訳「フロイス 日本史4」p.302、中央公論社、1978)。寺地は鷹司新町に移されたという。
 織田信長の命により、浄土宗と法華宗の間で行われた1579年(天正7年)の安土宗論には頂妙寺から三世日珖が臨んだが破れ、日蓮宗は詫状二通を書かされ、以後の布教を禁じられる。寺地はそのままであったとみられている。
 1584年(天正12年)には豊臣秀吉の命により、布教を許され、愛宕郡田中村に於いて、寺禄21石7斗を附される。1587(天正15)年、秀吉の寺移転計画で、また高倉中御門に移った。
5:豊臣秀吉許状扁額

 そして最終的には、江戸時代の1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転させられ、今の所は落ち着いている。。1675(延宝3)年の大火で焼失し現在地に移転したともいうが、細谷理恵・浜中邦弘「延宝三年京都大火―日記史料に見るその状況―」(同志社大学歴史資料館館報第13号、18頁、2010)に詳しく述べられているように、 延宝三年の大火で類焼したのは、内裏より北であり、頂妙寺のあった場所は被災していない。
 延宝改元の原因となった1673(寛文13)年の大火で焼失した諸御所・公家屋敷の拡張・再建のために立ち退かされたというのが妥当ではないか。 
6:公家衆町割惣指図 参考までに、1673年(寛文13年)以後で1675(延宝3)年の大火以前の公家町を描いたものと思われる「公家衆町割惣指図」の該当部分を右に掲げる。これに見えるように、頂妙寺は既に移転しており、そこには公家屋敷が立地している。しかし、「門前町」といわれていた鍵形の道筋は残り、これが後に「高倉辻子」と呼称されたものと考えられる。
 冒頭で見たように「高倉辻子」と称されたのは1708年の宝永の大火までの、わずか四半世紀に過ぎないが、この辻子は、遅くとも頂妙寺がやってきた1523年(大永4)年には開通していたことだろうから、300年を越える歴史を有している古辻子であった。それが公家町に埋没してしまった。

高倉辻子の復活ならず
 京都御所周辺は、明治維新のころまでは公家たちが住む屋敷町であったが、明治2 年の東京遷都の後、公家は東京に移り、あるいは他に転出して、一部の建物は取りこわされて空地となったり、土地建物の所有も一般民間人の手に移ったりした。その一方で、邸宅跡には学校や裁判所が設けられ、御所で博覧会が開かれるなど御所周辺は大変貌を蒙った。これに歯止めをかけたのは、明治10年(1877 )2 月に始まった「大内保存事業」である。
 この事業については ,明治天皇紀と岩倉公実記に 詳しいが 、要約すれば、岩倉具視が明治天皇の意を体して建議を行ない、御所ならびに御苑を新らたな観点から整備することで、明治16年をもって一応終結したが、大正天皇の即位大礼に際して、再度整備事業がおこなわれ、現在の京都御苑の骨格が完成した。
 明治期の整備事業では、土地の買上げ、土塁築造・門の移設、道路の設置、植樹、拾翠園(九条池)の仮土橋架設等が行われた。
 この御所の整備事業の中で、高倉通に関連した道路の整備や旧九条邸内にあった拾翠園(九条池)の架橋の記録をみると、公家町の明地に埋没してしまった「高倉辻子」が一時期復活しそうな状況があったことが垣間見える。
 以下、森忠文「「明治期およびそれ以降における京都御苑の改良について」(造園雑誌 第46巻第5号、ps.54-59,1983)に従って具体的に見てみる。
当時の新聞記事に
 『京都御苑内の道路は今度予程改定せらるゝおもむきにて高倉通は近来南門の正路となし置れたるを矢張従前の如く堺町通を以て南門の正路に充て且道幅は更に十五間に拡げ各御門内は八間小径は三間に限らるゝことに定まりたりといふ』(朝日新聞 明治16年7月 )
とある。ところがこの一年前の記事には、
 『同橋(高倉橋)は既に成功せしが、是迄屢々聖駕御駐在の節も同橋の仮橋なりしをもて建礼門より真一文字に御馬車の路通ぜざりしが今回架橋の後は御馬車の通行に差支へなければその功甚多しとか』(京都滋賀新報 明治15年12月)
とある。南門(建礼門)の正路というのは、明治11年の最初の構想では、「南門前より丸太町通迄新道20間」(森忠文「明治初期における京都御苑の造成について」造園雑誌 第41巻第3号、1978)となっていたものが、実際には、丸太町へ出るてまえの仮高倉橋の北詰で東へ折れて堺町通へ出ており、道幅も縮少されて6間となってしまったのである。つまり、残念ながら、「高倉辻子」跡に巾20間の新道布設よるその復活はならなかった。
 大正4年11月10日に京都御所で挙行された大正天皇の即位大礼に際しても、式場となる京都御所をはじめとして諸改修が進められ、御苑については、大正2年および3年に大規模な改良工事が行なわれた。その際、南門(建礼門)前正面の道路を高倉橋北詰を経て、堺町御門に至るまで幅20間に拡幅されたが、高倉通の出入口ほか計4箇所を石垣土塁でふさいで、道路とともに廃止された。
 これで、「高倉辻子」の痕跡は一掃されたのである。現在の御苑地図と高倉橋の写真を下に掲げる。

7:京都御苑図(1977)8b:高倉橋

[注1]仁王門通の由来
 仁王門通は、頂妙寺の仁王門に由来するという定説が流布しているが、江戸時代から、その誤りを指摘した本は多い。早くは、1686(貞享3)年の雍州府志に『楼門の内、東に持国の像あり、西に多門の二天の像あり。運慶の刻むところなり。世に誤りて、二王像といふ』とある。
 都名所図絵(1780年)の図には「二天門」とあり、解説にも『楼門の二天、東持国天西は多聞天にして…』とあるとおり、楼門内に仁王像はない。花洛名所圖繪でも同様である。
 寶曆の京町鑑には新高倉通の項に、明確に次のように記載されている。
『○右之横通二條の南の通東は畠なり、則仁王門通と云、此通を仁王門通と云事は頂妙寺の仁王門ゆへにかく號くと、是甚非なり、今の下岡崎村に右太政大臣忠仁公[割注:良房公の御事也世 に白河殿と稱す]の舊地なるを人皇七十二代白河院の御字承暦元年十二月十八日に御堂御建立成就して大盧遮那寺と號し後に法勝寺と改らる、世に云、六勝寺の其一ヶ寺也、宗旨は天台の淨土七堂伽藍の大地にて、即此法勝寺の仁王門通也』
 同様の見解は京都坊目誌上京第廿八學區之部の▲大菊町の項の寺院○頂妙寺△二王門のところに、
『前街[注:頂妙寺南面の通]を二王門と呼ぶも、甚だ非也。此街は頂妙寺移轉以前よりある通名にして、古へ岡崎法勝寺の門此街に當る故に名づくるものにして、實は法勝寺二王門通と云ふ意なり』
とある通りである。 
9:法勝寺伽藍復元図 ところが、「京都の地名」(平凡社、1979)の175頁下段に
『法勝寺復元図によると西大門は二条大路に面し、仁王門通とはかなりのずれがあり、仁王門通の名は頂妙寺仁王門より発したとすべきだろう』
とある。酒瓮斎の京都カメラ散歩の「通り名のいわれ  ー高倉通りー」ではこの説を踏襲している。
 確かに法勝寺復元図によると西大門は二条大路に面しているが、通常、仁王像が安置されるのは、南大門であり、復元図を見る限り、法勝寺の南大門は、押小路末(現仁王門通)とは少し南にずれてはいるが、その延長上の街路に面している。
 仁王像は『飛鳥・白鳳時代、仁王像は中門の両脇に安置され伽藍に侵入する仏敵を退散させるための任務ですが、天平時代からは「南大門」に守備位置を変え寺院全体を守ります。』(「仁王像のお話し」)ということらしいから、法勝寺の南大門も仁王門と考えてもいいのではないだろうか。
 なお、頂妙寺のホームページの寺ブログ「二天堂の生垣」では、次のように記されている。
『5月の半ばを過ぎると、二天堂前の生垣が、白く小さな花を咲かせます。南門から頂妙寺に入ると、甘い香りに包まれます。
二天堂(仁王門) この生垣は、二天堂の拝殿の跡地です。拝殿とは参拝をするための建物で、江戸時代には多くの参拝者を集めたと記録があります。仁王門通りは、頂妙寺を参拝するための通りとして、この名がついたと言われています。
 建物は仁王門の造りなのですが、祀られているのは金剛力士、仁王さんではなく、四天王の内、毘沙門天と持国天です。ゆえに二天堂と呼ばれています。』

[注2]文明5年頂妙寺の創建
 これは本化別頭仏祖統紀に「日祝は文明5年、京都に弘通し、細川治部少輔勝益道契尤も厚く、為めに一精舎を建てヽ師を請じて開山とした。之を頂妙寺とす」あるからという(辻善之助「日本仏教史研究 第三巻」p.219、岩波書店、1984)。下図に該当個所を示す。
10:日祝開山伝

 しかし、1495(明応4)年付の勝益の、北は錦小路、南は四条、西は万里小路(柳の馬場通)、東は富小路の間に於ける土地の寄進状が、土佐国群書類従所収土佐考証系図雑記の中の細川角田系図にある。

定 寄進状の事
右意趣者、勝益為現世安穏後生善所、致造営祈願所也、無懈怠頓証菩提可有勤行事紀肝要也、若相続之衆僧、号不報之時宣候者可然人仁化致作者也、仍就寄在所者、上錦小路、下四条、西万里小路、東富小路之間四十町也、於子々孫々不可有違乱、爲後日如件、
  明応四年               細川治部少輔
    十一月二十一日          源朝臣勝益判
      頂妙寺 

 この史料によって、頂妙寺の創建は、或はこの明応四年ではないかともおもわれる。現に頂妙寺の寺伝に明応四年説があるという。しかし、後法興院政家記に、既に、1481(文明13)年6月8日の条に、『晴入夜小雨酒、参御靈、平野、北野等社、歸路向長妙寺、令聽聞法談』とあり、また、7月14日の条にも、『晴、申刻小雷、向長妙寺令聽聞法華法談、次詣本満寺令燒香』と近衛政家が頂妙寺に参詣した事が記載されているから、明応四年説はありえない。
 それでは、寄進状の明応4年の日付は、なにか。辻は上掲の書で、「明応4年の寄進状は、夙くより寺地となって居たものを、改めてこゝに明かに寄進状を出したものであろう。造営祈願といふは、前後の文意、必ずしもその年の創建造営と解釈すべきにもかぎらぬようである。」と釈明しているが、いかがのもんだろうか。
 例えば、文明5年に上洛した(文明元年の説もある)日祝が、草庵を結び弘通の根拠地とした地で一宇が創建され、その後明応4年に勝益の寄進をうけて、移転したとも考えられる。京都坊目誌は、明応4年創建説を記している(同書、上京第廿八學區之部▲大菊町の項)。
 もっとも早い創建時期としては、1451(宝徳3)年という説がある。これは、日富が、天保9年(1838)に著した「竜華秘書」によっている。この書は、京都の妙顕寺が所蔵する文書や記録等を書写整理し、考証を加えたものである。「竜華秘書」の翻刻は、『日蓮宗宗学全書』19(日蓮宗宗学全書刊行会、1960年)に収録されているというが、未見。



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<洛中洛外虫の眼探訪 づしづくし>

づしづくし 31 公家町にできた 狐の辻子 

 御所と公家町を描いた内裏図で、1837(天保八)年に刊行された「禁闕内外全圖」と「御築地内独案内」の二つに「狐の辻子」が記載さている。この内裏図には、1788(天明8)年正月の京都大火で禁裏と公家町も罹災し、その後に再興された寛政度内裏と公家町が描かれている。
1:狐之辻子・禁闕内外全圖 2:狐之辻子・御築地内独案内
 3:[新改]内裏図 寛政3年刊 この期の寛政度内裏図としては、1791(寛政3)年林吉永刊の「[新改]内裏図」があり、これが40年以上の間、修正を繰り返しながら刊行され続けていたが、これには「狐之辻子」という名称の記載はないものの、その道筋は明確に描かれている。その場所は、公家町南西部九条殿の西側の塀沿いを南に走る裏道である。この辻子の西頬、九条殿の向かいには、花山院殿と大覚寺門跡の里坊が並んでいる。どちらの屋敷も、辻子に正面は向けていない。辻子を北に抜ければ、西殿町(西武家町)から下立売御門を出て、烏丸通に出られるが、この道を利用する意味はほとんどない。何のために設けられた道なのか。その答えは、天明の火災以前の内裏図が明かしてくれる。
4:狐之辻子・享保四年刊内裏図 1719(享保4)年の内裏図を見ると、九条殿の敷地は狭く、の辻子に面して東側に、仁和寺里坊ほか3つの公家屋敷が並んでいる。これがこの道が設けられた理由であろう。この内裏図は、1708(宝永5)年の3月の大火で焼失し、翌年再建された内裏と公家町を描いた宝永度内裏図であるが、この時期の最も早い内裏図としては、早々と翌年の1709(宝永6)年に林吉永から刊行された5:宝永6年「内裏之図」「内裏之図」がある。これにもすでに狐之辻子の道筋が描かれている。
 ところが、宝永の大火以前の、1673(延宝元)年5月の大火で焼失し、1676(延宝3)年に完成した延宝度内裏を描く、「[新改]内裏之図」では、該当する地域は公家街ではなく、町家街で狐之辻子の道筋も見当たらない。 
6:東洞院通:[新改]内裏之図 延宝五年 この図の東洞院通の少し西に狐之辻子と呼称された道筋が新たに開通したようだ。このことを1705(宝永2)年の洛中絵図で確かめてみると、三本木町の二丁目から三丁目あたりが、狐之辻子に化けたことがわかる。
 当時、三本木町は、東洞院通出水から7:狐之辻子?・宝永2洛中絵図二条まで、一丁目から六丁目まであったが、一丁目から三丁目までの町は宝永5年の大火後、公家町拡張によって収公され、東三本木(上之町・中之町・南町)や二条川東の新東洞院通の地へ替地となり、移転後の跡地は、新たに地割りされ公家屋敷が建設された。その際「狐之辻子」と称されるようになった小路が、東洞院通の三本木二丁目のやや東よりに、開通したものと思われる。
 つまり、狐之辻子の道筋は、宝永の大火後に町地の替え地によって開発された公家町に設けられた道路である。宝永度内裏の新しい公家屋敷再編の区画割りと道路整備については、登谷伸宏「公家町の再編過程に関する基礎的考察 宝永の大火と公家町再編に関する研究 その1 」(日本建築学会計画系論文集 第600号 、245 −252 、2006年2月)にたいへん詳しく考察されているが、該当エリアに関連する記載を抜粋して付録1に示す)。
 宝永度内裏図に見られるように、当初は、この辻子の両側には公家屋敷が軒を連ねていたので人通りもあったとおもえるが、九条殿が西に拡張された後は、全くの裏通りになって、人通りも少なくなったはずである。それがどうして、「狐の辻子」の呼称で、江戸時代の御所と公家町の観光案内ともいえる内裏図に名を残す程の通りになったのだろうか。
 この疑問に答える前に、もう少し詳しく、宝永の大火後に、烏丸通と間之町通の間で、北の下立売通から南の丸太町通までの一郭が、どのように地割りされて公家街となったのかを、みてみる。
 下の地図は、上掲の登谷伸宏の論文にあった「御築地廻り公家衆屋舗割絵図」(谷直樹編「大工頭中井家建築指図集」所収)の該当分の街路・屋敷割りをトレースして道路名等を書き加えたものである。
8:宝永5 年の公家町
 烏丸通沿いと丸太町通沿いの半町分は明地となっている。これは公家町の火除地としての役割と公家屋敷地の予備地としての役割を担うために設けられたと想定されている。街路の新設に目を移すと、まず、堺町御門前通から西へは、三間から四間に拡張された武家町通(⓪)を西へ延長して、六間巾の西武家町通(①)が開通している。この突き当たりの烏丸通沿いの明地にそって、新設の下立売御門に通じる道(②)が設けられた。この二本の新設道路と堺町御門前通と丸太町通沿いの明地に囲まれた一郭を東西に二分する南北の小路(③)が開かれているが、これが後に「狐之辻子」と称された通りである。その突き当たりの明地沿いにも西行きの道(④)ができている。また、堺町御門前道から西へ入る明地沿いの道(⑤)もできているが、これは④とは繋がっていない。①から④の道路で囲まれた一郭には、花山院・清岡・唐橋の各公家屋敷と大覚寺門跡の里坊が、③の東頬には、堤・植松・愛宕の公家屋敷と仁和寺門跡の里坊が立地している。これらの屋敷の裏は九条殿の裏塀と接している。⑤はここまで通じている。以上が当初の公家街の道路網とそれに沿った公家屋敷の配置である。
 それでは③がなぜ「狐之辻子」と称されたのだろうか。ヒントは花山院の邸宅にある。
 現在の京都御苑の丸太町通にある間之町口から北へ100m程のところに、宗像神社がある。この神社の南の鳥居を入ってすぐ東側に花山稲荷社が祀ってある。稲荷の鳥居前には「正一位花山稲荷大明神 花山院家 邸内社」と題した駒札がたっているが、その説明の最後に
『花山稲荷は親しみを持って「花山さん」とよばれ、火防せの神様としても篤い信仰を集め、花山講や燈明講といった数多くの講があり、参道の大型燈籠も講による奉納である。その信仰は遍く広がり、京都を中心に庶民から公家・宮中さらには江戸の徳川将軍家をはじめ諸大名の江戸屋敷にも御分霊や御札が祀られた』
とある。現在の花山院邸跡に残っている稲荷社周辺の風景と説明を末尾の<おまけ>に載せる。

 この花山稲荷大明神はどのような経緯で花山院の邸内に祀られるようになったのだろうか。菊池武の「公家花山院家の信仰と家職」(印度學佛教學研究第43巻第1号 1994年12月)に次のように書かれている。

『花山院家は、藤原北家道長流で現在の京都御苑内の宗像神社に屋敷を構えていて、家禄は715石余であった。宗像神社社伝では、平安初期の延暦14年に太政大臣藤原冬嗣が皇居鎮護神として、宗像太神を小一条院の邸内に勧請した。そして、左大臣藤原時平時に、伏見稲荷大神の分霊を合祀し、朝廷の祈願所とした。
 その後11世紀末、道長の孫師実の二男左大臣家忠が、小一条院・花山院跡(花山法皇御所)を伝領し家号とし、花山院流の嫡流となった。この家忠の時より宗像神社の宮守となり、稲荷社(正一位花山稲荷大明神)は花山院家の守護神(邸内祠)とされ、朝廷・公家および庶民の尊信を集めた。』

 続けて、菊池武氏は上掲論文には、古くから修験道に深くかかわっていた花山家[付録2の<その1>参照]が、駒札にあるように狐を媒介とする稲荷信仰を中心とした信仰を通じても栄えたということが、多くの史料で明らかにしている。その一端が知れる史料の抜粋をを付録2の<その2>に掲げる。

 このように見てくると、花山院邸宅の稲荷大明神に詣でる道という意味で、江戸時代には「狐之辻子」と人々が呼んでいたであろうことは想像に難くない。実際、花山院邸跡の石碑には『邸内社は高い御神徳のため花山講、灯明講、松栄講などあり、江戸期より公開』と刻られている。


付録1 公家町西南部の屋敷地区画と道路整備
  (登谷伸宏「公家町の再編過程に関する基礎的考察 宝永の大火と公家町再編に関する研究 その1 」の抜粋)

 この地区の屋敷地区画については、宝永5年6月25日に仁和寺門跡が里坊の替地を西武家町に与えられていること 、27日までには西院参町で九條家の屋敷地引渡しが行われていることから、堺町御門通より西側の区画は6月末までには終了していたとすることができる 。一方 、堺町御門通より東側では、5 月22日に町代から椹木町の町年寄に対して、翌月15日までに立退きの用意を済ませるようにとの通達があったことから、6月中旬以降に屋敷地の区画が行われたと考えられる 。その後、7月5日に武家町で風早家の屋敷地が、翌6日には椹木町で三條西家の替地が引き渡されていること、地下官人壬生家の替地の区画が8月30日に行われていることから、東側の地区でも遅くとも8 月末頃までには区画が完成していたようである 。
 このように、両地区の造成は内裏東側の屋敷地区画とほぼ同時期に完了していることから、3 月末頃から同時並行的に屋敷地の造成が始められていた可能性が高い 。だが、新たに公家屋敷地となった地区で、宝永6年3月に至っても道路の整備が行われておらず、24 日には武家伝奏からつぎの触が廻されている。

     口上覚
  御屋敷前道作り候儀者従公儀可被仰付候間、御門前道筋等猥土取之義可為御無用旨紀伊守殿ゟ申参候 、此段各迄可申入旨両伝被申付、如此候 、以上
             三月二十日
                 庭田家雑掌
                 高野家雑掌
    仁和寺様御里坊

 ここでは「此段各迄可申入」と書かれていることから 、仁和寺里坊の位置した西武家町周辺が対象となっていることがわかる 。さらに、同様の触は院参町 、武家町 、椹木町 、西院参町にも廻されており 、少なくとも禁裏・院御所南側の地区では3 月になっても道路の整備が実施されていないことが確認できる。
 したがって 、前述した二階町通・梨木町通の場合も考慮すると、このときの再編では全体として屋敷地の区画が優先され、道路の整備が遅れて行われたことを指摘することができよう。道路整備に先立ち屋敷地を区画することで、各公家が普請に取り掛かれるようにとの配慮があったと考えられ。実際 、宝永5年9月から11月にかけて、各公家の屋敷で上棟が相次いでいることからも、それを裏付けられる。

付録2 公家花山院家の信仰
   (菊池武「公家花山院家の信仰と家職」からの抜粋)

その1 花山院家と修験道
○花山院師実の子肥前牛尾山別当坊の琳海法印は、縁起によると牛尾山を再建し、平安時代末の源平最後の争いに三千の武力を動員したと伝えている(「肥前牛尾山の修験道」黒木俊弘『英彦山と九州の修験道』)。また、五代花山院忠経の子師継の末流の花山院右近衛大将大納言長親が明魏(耕雲山人)と号して、白雲山に住み上野国の妙義権現を開創したといわれている(「妙義山の信仰」池田秀夫『日光山と関東の修験道』)

○二十代左大臣花山院定好の娘万子姫(寛永三年―宝永二年)が、寛文二年肥前国鹿島藩三代藩主鍋島直朝に嫁した。その折、父からこの花山稲荷大神の分霊を授けられ勧請した。この時、祐徳稲荷神社社伝によれぼ、輿入れの前後に綿帽子をかぶった神令使の白狐が沢山随従していたという。彼女は、吉凶を占ったり出家同様の日常生活をし、最後は修行者として断食の行を積み入定したという。死後、諡号にちなみ祐徳院(神仏分離後祐徳稲荷神社=佐賀県鹿島市古枝)が出来、現在では日本三大稲荷、鎮西日光とも称せられる構えとなり大変繁栄している、なお、この同じ定好の子金丸が、高田専修寺第十六世堯円上人として入室(養子)している(「堯朝上人の殉難」常磐井和子『高田学報』第八十二輯)。

○西国三十三ヵ所の観音霊場を巡礼する三十三度行者というものがある。背板と呼ぼれる特殊な笈を背負い、巡礼路の宿で開帳して結縁せしめながら三十三度廻り、満行満願とするものである。こうした行者達を管掌する組組織、葉室組が存在したが、これを花山院家の二十三、四代の定誠・持実の元禄期から明治初期迄支配していた(この定誠は延宝期に武家伝奏として門跡統制に活躍している)。葉室組は、花山院家から権威の象徴として「西国巡礼草分縁起」・「黒髪曼茶羅」・「印鑑」・「家紋の入った会符」・「提灯」等を下賜され、活動を続けた(「葉室組の支配について―近世公家家職論の視点から―」澤博勝『西国巡礼三十三度行者の研究』)。

その2 花山院家と狐信仰
○十八代花山院家輔の頃の『天正二年二月、奈良にて狐を殺めた少太郎が病となり、花山稲荷の四句と花山院家の護符に頼ろうとした』(この項花山稲荷の駒札より)と「多聞院日記」[注]に見えるが、あまり効果はなかった様である。しかし、相当この信仰が知れわたっていたことが分かる。

[注]多聞院日記は奈良興福寺の塔頭多聞院において、1478(文明10)年から1618年元和4)年にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者によって延々と書き継がれた日記であるが、該当記事は英俊の筆になる。この前後の記事で、英俊に近仕していた人間とおぼしき「少太郎」の病没記事いくつか見られる。気の病で療養していた少太郎の容態を心配する英俊の様子は尋常でなく、没後も、新調した敷衾を見て生前を思い出し落涙するなど、英俊と少太郎のただならぬ関係を邪推させるに十分である。少太郎の狂乱顛末について、多聞院日記から抜粋して、別項[少太郎の狂亂顛末記]にまとめておく。

○文政三年二月、但馬国美含郡竹野谷(現、兵庫県城崎郡竹野町)下竹野十箇村に狐が多く出没した。そこで、村人の相談により五年前同様代表者をこの花山院家へ遣わし、祈疇を依頼している。花山院家で神事を行なってもらい、供物の洗米を持ち帰り十箇村で分け、九日を休日にし村中がこれを頂いたという(『京都花山院参詣控』竹野町、福田敏雄氏蔵)。
 なお、こ件については関しては、菊池武「花山稲荷と但馬国の農民 公家花山院家参詣について」(朱 34号、63頁、伏見稲荷大社発行、1990)にその詳細が書かれている。

○『翁草』(巻之百三十七・洛陽大火「日本随筆大成」第三期23 ・吉川本)に次のように記す。

因記、狐着の者は先彼家[花山院家]へ訴之に、執次の士、其子細を尋て、何か帳面を改て、彼家支配下の狐なれば主人へ告之て、早速に退かしむるなり。又支配外の狐は当家に於て仕様なしとて願ひを返さるゝとなり、其様子を尋て、支配の可否の知るゝも不思議なり。彼家に古き白狐有て、鎮守に祭られ、四季折々の賜もの有、又願ひ事あれば老狐顕はれて、其由を申、其願ひに応じて許容せらるゝと云り。

また、火防せの神として、多くの人々に信仰されていたことが『翁草』の次のような記述からわかる。

諸国の狐代々彼家に陪従す。故に昔より禁裏回禄度々有と雖、此家焼る事なし。宝永五年の大火にも、猛火の中に独此家は火を遁る、此度も同前なり。嘗て聞く、炎の中に化人雲霞の如く、彼家を守護して火を防ぐ共、又は通力にて洒水の法を行ふ共云り


○花山家は摂津の能勢家と並び、稲荷信仰の拠点として知られ、その「符」は狐の禍を払うことに使用されたことが、『和漢三戈図会』(上・巻三十八・獣類 )に記載されている。

狐有花山家・能勢家之二派、相伝云・往昔有狐狩、老狐将捕、急逃隠花山殿乗輿中、乞赦、遂得免矣、能勢何某亦雖時異、而助死之趣相同、共狐誓日、至子孫永宜謝厚恩也、自此千今有狐魅人、則以二家之符置閨傍、乃魅去平愈、其固約人亦可愧也(『和漢三戈図会』上・巻三十八・獣類))

なお、花山院家と稲荷信仰については、池田惇「吉野山導稲荷の成立」(朱 第37号、134頁、伏見稲荷大社発行、1994)をも参照されたい。また、前掲の菊池武「花山稲荷と但馬国の農民 公家花山院家参詣について」(朱 34号、63頁、伏見稲荷大社発行、1990)の中でも詳しく語られている。

<おまけ> 現在の花山院稲荷社の風景(説明付き)
花山院稲荷



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