
フクシマ以後 「原子力の腹の中で」ぬくぬくと…
2 台湾放射能汚染住宅事件
特命リサーチ200Xというタイトルのドラマ仕立ての、一見馬鹿げた番組が、毎週日曜日20時台に日本テレビ系列で放送されていた。その中の一つに、2001年12月10日に放映された『忍び寄る放射線の恐怖』というのがあった。そこで取り上げられている「放射能汚染ンマンション 民生別荘」について、まじめに詳しく見てみよう。
2.1 兆候
1984年8月29日、米国カリフォルニア州で、金属製パイプから放射線が出ているのが偶然に発見された。報告を受けたNRC(Nuclear Regulatory Commission:米国の原子力規制委員会)の調査で放射線を出しているパイプは、台湾からの輸入されたもので、輸入元の倉庫にあった同じパイプからも放射線が検出された。追跡調査の結果、米国内4州の建築材料店77ヶ所、雑貨店14ヶ所で販売されていたことが判明した。これらの放射能汚染製品は台湾に返送された。
同じ時期に台湾国内でも同様の事件が起きていた。台湾第一原子力発電所の門に設置されていた放射線検知器が、入構しようとしていたトラックに積載されていた鉄筋から出ている放射線を検出した。この鉄筋は同発電所内の建築現場で使われる予定であった。検知器のアラームを耳にした係官は、原子炉からの放射能漏洩によるものと考えたが、そうではなかった。発電所とは何の関係もない製鉄所から運ばれてきた鉄筋から出ていた放射線でアラームが鳴り響いたのである。
報告を受けた台湾原子力委員会が追跡調査をした結果、この汚染鉄筋を使っている建設中のマンションが見つかった。このマンションの汚染鉄筋は、当然外されることになった。さらに、台北市で建設中であった7階建ての銀行の社宅で、汚染鉄筋が使われていることが発覚し、解体撤去された。
米国と台湾は2国間利益の都合で、これ以上追跡しなかった。米国は被害者ではなく、加害者の可能性がであった。この意味する所ついては、2.3 項で述べる「民生別荘事件」の後で、台湾当局が輸入スクラップに対する抽出検査の法律を作ろうとした際、米国の協力を必要としたが、米国としてはその法律が好ましくないものと判断され協力が得られなかったことに端的に現れているし、米国が加害者である事実は、1994年、米国ラスベガスの産業協会海外貿易部の責任者の次のような発言から明らかである。
『アジアのスクラップバイヤーが、わが国の金属スクラップに「放射なし」の証明書を要求してきた。米国内ではいままでそのような証明書を発行してきたのだから、この要求は正当で避けられないことであると思う。今回、その証明書を要求してきたアジアの国は、タイと台湾である』
もう一件、同じ頃に「歯科医院事件」というのが発覚している。この事件の概要は次の通りである。1985年3月、台湾原子力委員会の検査官が、台北市の民生別荘二階にある歯科医院のX線装置の定期点検を行っていた。
点検の結果、X線の漏洩があるので新しいX線装置に買い替えるように助言した。その助言を受けて、歯科医院は新しいX線装置に替えたが、結果は変らなかった。調査の結果、放射線源はX線装置から出ていたのではなく、診察室の壁から出ていた。原子力委員会の検査官は、壁に鉛板を貼付り付けるように、と勧告するに留め、それ以上の追跡を行わなかった。当然、歯科医院以外の住民には知らされず、調査もされなかった。2.2 米国経由の金属スクラップ
米国の企業は、原子力発電所から出る廃棄物をかなり以前から台湾に輸出していた。例えば、原子力発電所の大修理時に出た冷却器の銅パイプ、ボイラー、電線、変圧器等の金属は、スクラップにしてリサイクルするために米国内で除染をしてはいたが、法律で定められた販売可能な放射線量を越えるものは、海外へ輸出していた。輸出先は台湾と韓国であった。表面的には台湾当局は原発廃棄物の輸入を認めていないが、輸出書類上に放射性スクラップであるという記載は、「ロンダリング」によって、除染されるのである。東部の州→テキサス州→コロラド州を経由してカリフォルニア州ロサンゼルスに至る間に放射能に汚染されたスクラップは普通のスクラップに変ってしまう。台湾の輸入業者は、それがカンザス州のウォルフ・クリーク原発とマサチューセッツ州ピルグリム原発から出たものであることは知っているのであるが、書類上は普通のスクラップである。さらに除染業者や米国の代理店を通さずに、直接台湾のスクラップ業者が購入する場合もある。
米国の放射能汚染政策では、自国の放射性スクラップの輸出に関する情報公開を一切行っていない。放射性物質に関して、自国内での処理規制はたいへん厳しいが、輸出に関しては曖昧である。放射能汚染があっても取引国との合意があれば、輸出可能になってしまう。主な汚染源は米軍払い下げのスクラップ、商業用機器、医療用機器、油田探鉱機器の四つであるが、それぞれ特有の理由によって規制が行き届かず、一般のスクラップ業者の間で転売され、最終的には国内外の製鉄所の手に渡り、パイプや鉄筋などの製品に生まれ変わっている。
2.3 民生別荘事件
これは金属リサイクルによる放射能汚染の象徴的事件である。
1992年7月31日、台湾原子力委員会に一通の手紙が届いた。その内容は台北市厦門街にある台湾電力の社宅の台所の壁から放射線が出ていると云うものであった。発見のきっかけは、台湾電力の社員が職場から放射線測定器を持ち帰ったことである。彼は、子供に放射線測定器の使い方を教えていて、それが異常な数値を示すこと気づいた。台所の壁から毎時0.20ミリシーベルト相当の放射線が出測定された。放射線源はコバルト60であった。コバルト60の半減期5.3年であるから建設当初の放射線量率は、毎時0.80ミリシーベルト、年間7000ミリシーベルトに上る強さである。
このことが報道され、もう1通の匿名の手紙が新聞社に届いた。内容は「台北市龍江街にある民生別荘も放射能汚染住宅である」というものであった。台湾原子力委員会は1983年に建設された建物を対象に、希望する市民に放射線測定器 TLD【註】を貸し出した。驚くなかれ、これによって新たな汚染住宅が次々に発見されたのである。その数は、台湾北部だけで85棟以上、その中には学校、幼稚園、デパートも含まれていた。それだけではない、1987年に台北市は放射能に汚染されたマンホールの蓋を購入していたし、1990年には桃園市の専門学校は汚染鉄筋を購入している。その他にも、1994年建設された一つのビルが汚染ビルであることが1996年に判明している。場所と時をかまわず金属スクラップによる放射能汚染が次々に発覚した。
民生別荘には70世帯240人もの人が住んでいた。汚染は2階から4階まで34世帯の住宅内部をはじめ、ビルの共有部分である一階天井、階段の踊り場、エレベーター、地下室まで汚染が広がっていた。住民だけではなく、このマンションに出入していたすべてに人に、9年以上の間、被曝をもたらしてきたわけである。
約100名の民生別荘の住民の健康被害状況は、栄総病院での検査で、染色体異常が44%、その内15名は追跡調査が必要とされ、流産2名、遺伝子欠損による病変2名、甲状腺腫瘍が9名、その他の腫瘍が4名が判明した。さらに、1993年に、日本のマツダ病院と広島大学原爆放射能医学研究所に検診のため訪れ、検査を受けた13名の住民うち5名の子供に新たにリンパ腺異常の疑い、1名に白内障、1名に甲状腺腫瘍が発見された(王王麟, 近藤敦子訳, 台湾の放射能汚染問題, 長崎・ヒバクシャ医療国際協力会, 1998)。
汚染状態の調査は多くの人によって行われたが、参考に右に掲載したのは、荻野氏によって行われた、民生別荘4階の王(Wang)さんの部屋の空間線量の等高線図である(出典はここ)。これから読み取れるように、部屋全体が一様な線量ではない。従って鉄筋全てが一様に汚染されているわけでもなさそうである。【註】TLD:Thermo-Luminescence Dosimeter (熱ルミネセンス線量計)の略である。放射線照射された結晶性物質を加熱したときに生ずるルミネセンス(蛍光)を利用した線量計。放射線照射によって結晶内で分離した電子や正孔が、熱刺激によって再結合するときに発光する原理を利用したもの。読み取り装置はTLD素子を400℃付近まで加熱し、熱ルミネセンスの発光量を測定して放射線の照射量(積算線量)を求める。加熱により照射の影響を除かれるので、再使用が可能である。結晶として一般に使われているのは LiF(フッ化リチウム)である。フッ化リチウムが生体と同じような比率で放射線を吸収し、被曝線量に比例したエネルギーを貯め、加熱するとこのエネルギーを光に替えて放出する。結晶としてはこの他にも、CaSO4、CaF2、MgSiO4、BeOなどもよく用いられている。10-5から10シーベルトまで測定できる。個人線量測定器としての需要がもっとも多いが、環境の積算線量測定にも利用される。
台湾の鉄の大部分は、海外からのスクラップに依存している。輸入先は主に米国である。国内のスクラップは極僅かである。コバルト60を含んだスクラップ鉄の汚染ルートの起点は、どこか。それは解明されていない。民生別荘の建設に使われた鉄筋は、欣栄製鉄所から出荷されている。汚染住宅のほぼ半数も、欣栄製鉄所製の鉄筋を使っていた。ここまでは分かるが、その前は闇のなかである。スクラプに混入したコバルト60は、溶解鉄に混入し、鉄製品になるまでに何段階もの製造工程を通じて拡散していった。10年以上前のことであり、製鉄所の持ち込まれた汚染スクラップが何処からやってきたのかを追跡することは、今となってはもはや不可能である。しかし、製鉄所内の労働者はいうに及ばず、汚染経路の始めから終りまで、あらゆる道筋でそれに関わった人々に被曝をもたらした痕跡が残っているであろう。
民生別荘事件についてより詳しくは、雑誌「技術と人間」巻22(7号 ps.25-35, 8号 ps.54-63)に『「輻射鋼筋事件」と「原子魔窟調査報告」と題してして糸土広氏がまとめられている2つの記事を参照してほしい。
3 金属リサイクルの教訓
明らかに1983年の諸事件で、場当たり的な対応に終始せず、汚染経路の追跡調査を徹底しておれば、その後の被害はかなり防げた筈である。放射性物質に汚染された金属のリサイクルの危険性に思い至らず、今日でも、問題を偶発的な事件として片付けてしまおうとする傾向が強い。ある報告によれば、『1982年に陸軍化学兵学校で紛失したCo-60線源 23.8Ci(8.8x1011Bq)が、同校の構内出入管理が緩やかであったため、勝手に入り込んだ民衆が屑鉄や裏置(筆者;「装置」の誤りか?)類を拾い、スクラップとして古物商に売り、これが製鉄会社に転売されて建築用鉄鋼材と して再利用されたことによるものと考えられている。』という説が記載されており、このような都市伝説的な、民衆の愚行に矮小化する話が流布している(この説が記載されていたのは原子力安全委員会放射線障害防止基本専門部会が2002年に作成した報告書「放射性物質及び放射線の関係する事故・トラブルについて」の『放射線利用における被ばく事故及び線源のスクラップ混入、その他の事例 5.紛失・盗難線源のスクラップ混入』と題する表の1983/84 のところである)。
さらに、被曝被害についても、「少量の放射線照射は、健康にいい」という神話を広めるような、もっともらしい話が流布されている。例えば、電力中央研究所の放射線安全研究センターのホームページは、次のような記事をわざわざ転載している。少し長いが、そのまま掲載する。
コバルト60が鉄筋に混入したアパート住民の健康影響調査
2004年3月21日から25日に行われた第14回環太平洋国際会議(PBNC)で、台湾の研究者から、誤ってコバルト60が混入した鉄筋を使って建てられたアパートの住民に対する健康影響調査の結果が報告されました。
約20年前(1982~1984年)、廃棄されたコバルト60線源が偶然リサイクル鉄鋼に混入し、それが、台北市とその近郊のアパートを含む約1700の建物の鉄筋に使われてしまいました。およそ1万人の人々が、これらの建物に9~20年間居住し、平均約400mSvの放射線を被曝しました
調査結果によると、アパートの居住者のがん死亡率は、台湾の一般公衆の3パーセントにまで大幅に低下しました(図1)。 また、先天性奇形の発生率も、一般人の発生率のおよそ7パーセントに減少しました。
この発表は、同会議において大いに議論を呼び、米国エネルギー省(DOE)の仲介でカナダの疫学調査の専門家が研究に加わり、さらに詳しい調査が行われることになりました。
図1 一般公衆とアパート居住者の癌死亡率の比較(出典:W.L. Chena et al., "Effects of Cobalt-60 Exposure on Health of Taiwan Residents Suggest New Approach Needed in Radiation Protection", Proceedings of the 14th Pacific Basin Nuclear Conference, Honolulu, HI, Mar. 21-25, 2004)
その後2008年に台湾国立陽明大学による詳細な調査の結果が公表されました。
まず、一人ひとりの行動パターンから個人線量を求めた結果、平均の被ばく量は約48mGyでした(中央値6.3mGy、最大2,363mGy)。
被ばく量がわかった6,242人の中から、128人が追跡期間(1983~2005年)中にがんと診断されました(台湾の国家がん登録で確認)。性別や年齢を考慮に入れてその放射線による影響を調査した結果、全てのがんの発症についてのリスクの上昇は観察されませんでしたが、以前の報告にあったような減少の傾向も観察されませんでした。さらに個々のがんを詳し
く見たところ、白血病で100mGyあたり約1.2倍の有意なリスクの増加が観察されました。女性の乳がんでも有意ではありませんでしたが、100mGyあたり約1.1倍の増加傾向が観察されました。甲状腺がんの増加は観察されませんでした。現段階ではまだ集団が若く(調査終了時点で平均36±18歳)、がんの症例数が少ないためはっきりした結果は得られていませんが、調査は現在も継続されていることから、今後、低線量・低線量率の放射線影響についての情報源となることが期待されます。(最終更新日:2011年6月8日)
金属リサイクルによって、放射能に汚染されたスクラップが身の回りに出回っているのは、遠い外国の話だけではない。日本国内にも、汚染金属が偶然に見つかったことも多い。
台湾原子力委員会は、今回の民生別荘事件の汚染源の放射性物質は輸入されたスクラップ鉄に混入していた可能性が高いとしている。台湾は主に米国からスクラップ鉄を輸入している。しかし、米国から1984年に台湾向け輸出量は、輸出総量の4.3%似過ぎない。28.3%が日本向けであった(出所は先述した糸土広の報告に記載されている米国スクラップリサイクル協会 ISRI の年鑑FACTS-1989のデータ)。台湾に輸出された分に汚染スクラップが含まれていたとするなら、日本向けのスクラップに含まれていなかった保障はない。それが日本のどこかの製鋼所で溶かされ、国内のビルの壁の中に鉄筋としておさまっているとしたら……。
輸入スクラップだけではない。すでに、国内の原子炉が廃炉となり、解体撤去に伴って出てきた鉄でベンチが作られ設置されている。しかもそれを許すような法律、所謂「スソ切り」法も成立しているのである。詳しくは拙稿『身の回りの放射性廃棄物』を!。
洛中町名談義 【辻子と突抜】づしづくし
1 図子(ずし)・辻子(づし)とは
辻子(づし)というのは、「通り」の一種で、平安時代の末期にはじまり、中世から近世にかけて増加した。江戸時代の史料や町絵図で数えあげると百数十例にものぼる。京案内などの史料では辻子と
書かれているが(❶:右の図番号、以下同様)、「づし」と読むのは難しかったのか、町絵図にはひらがなで「つし」(❷ の今つし)や「ツシ」と書かれていたり(❹ )、単に「辻」(❸の大峯辻)となっていたり色々である。
明治時代の絵図では一様に「圖子」と書かれている(❺)が、江戸時代にも既に圖子と表現することもあり(❷の大峯圖子)、次第に図子になったようだ。
今では「図子」
と書いて「ずし」とふるが、「辻子」と書いた場合は「づし」になる。「図子」を「団子」と読み違えたりする人があったりして、「京都には何とかだんごという面白い地名があるそうだ」
と吹聴する人もいる、などと冗談に言う人もある。上の右に掲載した図 ❶ ❷ ❸ ❹ ❺のそれぞれをクリックすれば大きくなります。また、文中の ❶~❺の文字をクリックすると、各史料の全体を、ズームしながら移動でき、地図上で楽しく、あちこちの辻子を探すことができます。
2 図子のでき方
図子は通り道の一種であるが、それを「何々通」とか「何々町」とはいわずに「何々づし」と呼ぶのはなぜか。これは、どうもそのでき方に由来するようである。以下に、一つの説を紹介する(足利健亮, 「辻子再論」, 橿原考古学研究所論集 第五, ps.425-475, 吉川弘文館, 1979)。

例えば上図に示したような道路網と家並の地区があるとしよう。図に見えるように、京都の町中(洛中)で町内というのは、通りを挟んで、その通りに面した家々で構成されたされた一画である。
図中のAとその南北につらなる8軒の家々はこぞって道路Bに面し、Cとその南北につらなる8軒の家々もBの道に面している。これらの合計16軒の家々で一つの町が構成される。道路Bは縦に南北に走っているので、この町は縦町と呼ばれる。京都では早くから、南北方向の街路を町通りとする町を縦町、東西方向の街路を町通りとする町を横町と呼んできた。この言い方に従えば、道路Eに面して南北に軒を連ねる町家群で構成される町は横町と呼ばれる。「町通り」という表現は、櫛比する家々が対面するにぎやかな通りを指す一般名称として、とてもよい表現であろう。縦町を形成するGの町家群とIの町家群が対面する道路Hも「町通り」である。
下に掲げた二枚の絵図のコピーは、1820(文政3)年頃の縦町三条油小路町の町並絵巻である。上が東側、下が西側(鏡像で表示している)を描いたものである。作者は岸派の絵師・村上松堂である(京都府立総合資料館蔵 「近江屋吉左衛門家文書三条油小路町西側・東側町並絵巻」絹本2巻)。この絵巻に描かれた町並みは1864(元治元)年の「蛤御門の変」のドンドン焼けで消失したが、今も町名はそのままで、東側の三条通の角に描かれている「鋳物師金屋庄三郎」は町内で唯一、今も同じ場所で商売を継承されている。絵図の左下に掲げたゼンリン住宅地図(2003年9月版)に「株式会社木村庄(屋号・釜庄)」の名が見える(ここに掲載した絵巻は右方向にスクロールすれば全体が見られます)。


蛇足であるが、「鋳物士金屋庄三郎」の向側の乾物商の北隣の家(掲載した図では下の西側の絵巻の左端か2軒目)の前に地蔵の祠が描かれている。この地蔵堂は、町内を数回引っ越しているというが、2012年3月16日現在は、絵図とほぼ同じ場所にちゃんとある。しかし、Google マップのストリートビューには、写っていない。お地蔵さんのプライバシーを尊重してなのか、撮影当時は他の場所にあったのか、それとも工事のため一時避難していたのか、とくだらぬことに時間をつぶすはめになった。ストリートビューを精査すると、撮影当時には、もう少し南に下がった六角通に近い朝日練染(株)の入り口にあることが判明した(上の2003年版の住宅地図にその位置をマークしたが、現在ではこの地図に記された建物はほとんど建て変わっている)。本題にもどる。上の住宅地図には道路上に「三条 油小路町」とあるが、この南北の通り自身は、この部分も含めて「油小路通」である。この道路名は、北は賀茂川の上賀茂橋の北を東西に走る竹殿南通から、南は京都拘置所のある近鉄上鳥羽口付近の府道中山稲荷線まで、全長約9.2kmの南北の道路名として使われている。市内でいちばん南北に長い通りで、途中、紫明通から上立売通間で中断している。三条油小路町を南北に走る道は、油小路通の一部区間には違いないが、三条油小路町の町通りに他ならない。
左図は、下京の瀬戸屋町の1869(明治2)年の様子を描いた絵図から作成したものであるが、南北に通じる町の中心軸をなす道は、柳馬場通にある二つの木戸門によって区切られた区間、すなわち、錦小路通から四条通に至る区間は、瀬戸屋町の町通りにほかならない。木戸の脇には、番部屋があり、地蔵堂、髪結床、チリ溜といった町内共有の施設が描かれている。またまたより道するが、木戸というのは町の警備や治安維持のために町境に設けられた門のことで、夜四ツ半(午後の十時頃)に木戸と門脇の潜り戸が閉ざされた。そばには番小屋があって番人を置いた。番人は、
夜に医者や産婆など急用で木戸を出入りする人たちの通行には差し支えがないように配慮し、拍子木を打って町内に知らせたという。なぜか、この木戸番の大役には髪結いを営む人が多く採用された。江戸時代後期の百足町の町並絵図には、二ヶ所、町の北と南に、木戸が開いている所が描かれている。右上にその北の部分を掲げたが、北端の木戸の背後に当たる所に、現在でも「理容山田」(下の写真)がある。
京都の町中を歩いていると、今でも町境の交差点の角に理容店があるのにしばしば出くわす。
例えば、六角油小路町の南西角の「理容宮野」、船鉾町南東角(新町仏光寺)の「理容金津」、太子山町の北東角(油小路仏光寺)の「カットサロンアツマ」、風早町南西角(油小路仏光寺)の「ヘアーステイジ」などを住宅地図で拾うことができる。最後の2つは油小路と仏光寺の交差点を挟んで筋向かいに立地している。これらすべてが、江戸時代から理容店が営まれてきた場所だとはいわないが、洛中の理容店の多くが、なぜか、四つ角に立地しているのである。
江戸時代の御土居を描いた「京都惣曲輪御土居絵図」(京都大学総合博物館蔵)を見ると、御土居の出入り口に髪結床が描かれているのに出くわす。一つは御土居の南西隅の鳥羽口(西国街道の口)に、もう一つは、北西隅の長坂口(京見峠を越え杉坂に至り周山、若狭へ向かう街道の口)に、高札や会所とともに描かれている。洛中ヘの入口と洛中の町々の出入口に設置されていた髪結床の正体は一体何なのか。
近世後期には、洛中の各町が防犯、防火、雑役奉仕、野非人排除などのために雇い入れる番人と直接関わっていたのが町用人である。先述したように「髪結」家業の人が雇われたのであるが、彼らは町の会所などに居住し町役人の指図に従って町の雑務を担う借家人であった。町用人とはいいながら、彼らの夫役の中には、御仕置き物の時の縄引、牢屋四丁四方出火駆付、牢屋髪月代(男の髪を結い、月代をそること)等、町を越えて洛中の防犯、防火、治安の役割も担わされていたようである。(部落問題研究所編「前近代京都の部落史」p.216, 1987年同研究所刊)。これから推測されることは、彼ら「髪結」は洛中の治安を担う末端警察の任務を担わされていたのではなかろうか。こう考えれば、御土居の出入口に「髪結床」が設置されていたこともうなずける。なぜ「髪結」が、と云うのは又別の問題ではあるが。
再び冒頭の町と町通りの模式図にもどり、本題の辻子がどのようにしてできるのかを見みてみよう。例えばある時、Aの家とGの家がとりはらわれ、BとHを 短絡する道が開かれたとしよう(黒く影を付けて描いてある所)。その道が開かれた当初においては、B─H間の道に面する家は一軒もないわけであるから、B─Hの道は決して町通りではあり得ない。このような状態が町通り以前の段階ということで、この種の道に対して昔の人は「何々辻子」という名称を付し、町通りときっちりと区別したのである。
B─H間が道になると、JやKの空地は有効な利用が可能になる。そこでしばしばJやKのところに家々が建ってB─H道に対面し、やがて新しい「町」が形成される。そうすると、辻子は町通りにいわば昇格し、「何々図子町」という町ができる。上京にみられる「今図子町」「大峰図子町」「元図子町」「常磐井図子町」「中御霊図子町」「瓢箪図子町」「柳図子町」などが、このような経過でできた町ではないだろうか。さらに「何々図子」の「図子」を省いて「何々町」となった例もある。先月号で言及した「紋屋町」が、図子名に由来する名であることが文書で確認できる一例である。その他にも明らかに図子名に由来したと思える町名は数多くある。江戸時代の絵図と現在の上京区の住宅地図を比較することによって、「扇町」「戒光寺町」「後藤町」「近衛町」「桜井町」「慈眼庵町」「芝之町」「聖天町」「真盛町」「道正町」「畠山町」「水落町」「山名町」など、いくつも拾い上げることができる。
ところで、B─H のような道は、一般的にはたいへん細い道で、文字どうりの小路である。しかし、だからといって図子は小さな通路のことを意味する「小路」と同義の言葉であるというなら、それは誤りである。例えば、N─O区間の道に注目しよう。そこはPからQへのびる主要街路、すなわち大通りの一区間である。しかしN─O沿いに建つ四軒の家はいずれも東又は西に面しており、N─Oの道に面した家は一軒もない。すなわちN─Oは決して町通りではあり得ない道である。H、R、SとTの四つの町の「横丁」であり、町の境界線にさえなっている。こういう区間に対しても、京都では図子という呼称をつけた。
その具体例を右の図に示す。鳥丸と東洞院の間の高辻通は瑞音図子と呼ばれる。高辻通といえば、平安京制では「小路」であるが、日常的な用語法、感覚では京を横断する大通りの一本である。「…♪ 姉さん六角蛸錦、四綾仏高松万五條♫…」と歌われている中に出てくる「高」である。それが町通りでなかったことは通り名の中に「辻」を残していることからもうかがわれるが、西は烏丸通から東の高倉通りまで町の境界線と一致している。この辻の南側は因幡薬師の裏塀が続いていて、北側は上柳町へ抜ける竹の辻子が覗いているだけで、町通とは到底いえない辻であったことが、上に示した宝暦4(1754)年の地図からうかがい知れる。この一区間が図子と呼ばれてきたのであるから、図子と呼ぶかどうかは、道幅だけから判断できないのである。以上、本節の本筋は『京都千年 5「町と道」洛中・京の辻』(森谷尅久編)所収の足利健亮『町通りと図子と路地』によった。もう一つの説としては、足利氏によって、「論語読みの論語知らず的な史料の読み方」とこっぴどく返り討ちを喰った、高橋康夫氏の「辻子 その発生と展開」(史学雑誌 86-6, ps.37-78, 1977)という論文に見られる、辻子=新道と云う説である。
3 づしづくし
下に示した表は、最後の一つを除いて7つの資料から抜き出した辻子名の単なるリストである。全部で124個に上る。この大半は、上京区に集中している。その理由については次回に述べることにする。
ここに掲載した辻子が今も存在しているとは限らないし、まだ存在しているとしても、その名をそのまま今に伝えているとも限らない。それを調べることが次の課題である。即ち表ではなく辻子地図を作成することである。もちろん、この表作成でも使った著作「京都歴史アトラス」と「史料京都の歴史7」には地図も掲載されているが、より見やすいものができないかものかと思案中である。
もう一つやりたいことは、古地図に現れる辻子名の渉猟である。例えば、このの表の最後に載せた「岩栖(がんぜ)の辻子」は「寛永後万治前洛中絵図」に記載されていたもので、上御霊通新町上ル一筋目入ル衣棚通までをいう。さらに、個々の辻子の由緒を調べることと、とんでもないことを考えてしまった。
とりあえず、辻子名の面白さだけでも味わって下さい。例えば、風呂とか虱とか。狼とか地獄とか。これらは現在の町名の面白さにも通じるものがある。
| 史 料 名 | 京都歴史アトラス | 史料京都の歴史7 | 羽津根 | 京町鑑 | 都名所車 | 都すずめ | 京羽二重 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出 版 年 | 1994 平成 06 | 1980 昭和 55 | 1863 文久03 | 1763 宝暦12 | 1730 享保15 | 1708 宝永05 | 1685 貞享02 |
| 001 清次郎辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 002 天神辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 003 扇辻子 | ○ | ○ | × | × | ○ | ○ | ○ |
| 004 かせが辻子 | ○ | ○ | × | ○ | × | × | × |
| 005 出雲寺辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 006 安楽光院辻子(仮称) | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 007 後藤辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 008 久斉辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 009 川勝辻子 | ○ | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 010 かい屋辻子 | ○ | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 011 信楽辻子 | ○ | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 012 柳之辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 013 風呂辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 014 裏(しでの)辻子 | ○ | ○ | × | ○ | × | × | × |
| 015 宗中(仲/忠)辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 016 いさとの辻子 | ○ | × | × | × | ○ | ○ | ○ |
| 017 聖天辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 018 竹屋辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | × |
| 019 芝辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 020 味噌屋辻子 | ○ | ○ | × | × | × | × | × |
| 021 まんだらの辻子 | ○ | ○ | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 022 硯屋辻子 | ○ | ○ | × | × | × | × | × |
| 023 鹿子屋辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 024 紋屋辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 025 石やの辻子 | ○ | ○ | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 026 山名(027山殿)辻子 | ○ | ○ | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 028 狼辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 029 地蔵辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 030 水落(箸箱/地蔵)辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 031 近衛殿辻子 | ○ | ○ | × | × | × | × | × |
| 032 入江辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 033 瓢箪辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 034 中御霊辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 035 蒔絵丁辻子 | ○ | ○ | × | × | × | × | × |
| 036 鳥屋之辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 037 聖護院辻子 | ○ | ○ | × | × | × | × | × |
| 038 清法院辻子 | ○ | ○ | × | ○ | × | × | × |
| 039 円覚寺辻子 | ○ | ○ | × | ○ | × | × | × |
| 040 白梅(虱の)辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 041 鎗ノ辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 042 畠山辻子 | ○ | ○ | × | × | ○ | ○ | ○ |
| 043 本満寺辻子 | ○ | ○ | × | ○ | × | × | × |
| 044 本阿弥辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | × |
| 045 慈眼庵(じげながの)辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 046 桜井辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 047 殿下(定家)辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 048 地獄辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 049 真盛辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 050 ズイリウジ辻子 | ○ | ○ | × | × | × | × | × |
| 051 近衛辻子 | ○ | × | × | × | ○ | ○ | ○ |
| 052 今辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 053 狩野辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 054 元誓願寺辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 055 常盤井辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 056 橘之辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 057 一条殿(十乗坊)辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 058 松並辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 059 大峰辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 060 戒光寺辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 061 革堂辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 062 だいうすの辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 063 富田之辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 064 大聖寺辻子 | ○ | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 065 又之辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 066 三太夫辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 067 藍屋辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 068 法花寺辻子 | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × |
| 069 下御霊辻子 | ○ | × | × | ○ | × | × | × |
| 070 へっついの辻子 | ○ | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 071 長門辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 072 天性寺辻子 | ○ | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 073 蛸薬師辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 074 大竜寺辻子 | ○ | × | × | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 075 陣屋(妹)辻子 | ○ | × | ○ | ○ | × | × | ○ |
| 076 了頓辻子 | ○ | × | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 077 新辻子 | ○ | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 078 長福寺辻子 | ○ | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 079 観音堂東(撞木)辻子 | ○ | × | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 080 炭座(地獄)辻子 | ○ | × | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 081 膏薬辻子 | ○ | × | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 082 菅大臣辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 083 竹之辻子 | ○ | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 084 瑞音辻子 | ○ | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 085 長光寺辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 086 楊梅辻子 | ○ | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 087 浄徳寺辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 088 マンネンジノ辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 089 市姫辻子 | ○ | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 090 鼠辻子 | ○ | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 091 蛇辻子 | ○ | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 092 西本願寺辻子(仮称) | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 093 雪踏(ねぶとの)辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 094 団(頓)栗辻子 | ○ | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 095 蛭(夷)辻子 | ○ | × | ○ | × | × | × | × |
| 096 晴明(柳の)辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 097 薬師辻子 | ○ | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 098 猿屋辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 099 北斗辻子 | ○ | × | × | × | × | × | × |
| 100 杓子屋辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 101 良恩寺辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 102 天王辻子 | × | × | ○ | × | × | × | × |
| 103 金剛寺辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 104 紙屋辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 105 衣屋辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 106 分木辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 107 綿屋辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 108 金台寺辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 109 城安寺辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 110 馬屋辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 111 天部辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 112 櫓の辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 113 超勝寺辻子 | × | × | ○ | ○ | × | × | × |
| 114 宇賀辻子 | × | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 115 下坂辻子 | × | × | ○ | × | × | × | × |
| 116 住照坊辻子 | × | × | × | × | ○ | ○ | ○ |
| 117 さくらの辻子 | × | × | × | × | ○ | ○ | ○ |
| 118 水雲ノ辻子 | × | × | × | × | ○ | ○ | ○ |
| 119 無学辻子 | × | × | ○ | × | × | × | × |
| 120 道正辻子 | × | × | ○ | × | × | × | × |
| 121 観世辻子 | × | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ |
| 122 花山辻子 | × | × | ○ | × | × | × | × |
| 123 蛤辻子 | × | × | ○ | × | × | × | × |
| 124 岩栖(がんぜ)の辻子 | × | × | × | × | × | × | × |
洛中洛外糞尿譚 番外 風土の中の便所
風土という言葉がある。風土はたんなる自然ではない。それは地域の自然の特徴を意味するだけでなく、歴史的に形成された社会的な内容をもっている。玉城らは次のようなことを書いている。
『風土は、歴史的に形成されるものである。もちろん、本来の自然が全く意味をもたないというわけではない。だが、自然が直接に風土を決定するものではなく、自然に立ち向かう人問が、そして人間生活の広がりである社会関係が自然を一つの風土へと転化せしめてゆくのである。やや抽象化していうならば、人間の労働と、労働の発展を意味する蓄積が、対象としての自然を特殊化し、独自化し、かつこの特殊な自然が地域の人問生活全体を特殊化する要因として反作用する場合、この諸関係を風土と呼ぶことができる。そこで風土とは、継続的な人間の自然への働きかけによって特殊化した自然であると同時に、この特殊化した自然を自己内部にとりこんだ人間たちの資質、社会関係、文化など人間の地域生活の総体でもある。』(玉城哲、旗手勲「風土 大地と人間の歴史」, 平凡社, 1974)
風土の中には、特殊化した自然を取り込んで、地域社会の中で作り出してきた生活必需品である『便所』も含まれている。そのような便所の幾つかを取り上げてみよう。すべて、谷直樹・遠州敦子著の『ものの建築史 便所の話』(鹿島出版, 1986)で取り上げられていた「便所」から拾い出したものである。
0 火薬製造と人尿
くれぐれも、おもしろい古老伝承にだまされる勿れ!
秘境の越中五個山(富山県)は、江戸時代、火薬の原料となる硝煙を製造していたことで、歴史にその名を留めている。日本は火薬製造の原料である硝石を輸入に頼らなければならなかった。そこで苦心惨憺してあみ出したのが、人造煙硝(硝酸カリウム、塩硝とも書く)である。この煙硝の生産地として加賀藩の重要な役割を担っていたのが五箇山である。 藩にとっては火薬原料の製造は軍事機密となり、 幕府や他藩の目をのがれるのに、山深い秘境の地の五箇山で製造された。300年以上にわたって続いた煙硝製造は、水田のない土地柄ゆえに 五箇山全戸で製造に携わる一大産業となり、質量ともに 全国随一であったといわれてる。
人造煙硝製造の跡がそのまま残されている民家が、国指定重要文化財の村上家住宅(富山県南砺市上梨742)である。同家の玄関を入った左手に、半地下式の『煙硝まや』がある。これが便所というわけではないが、
家の床下や囲炉裏の回りに掘った深さ3~6尺くらいの穴で、ここに山野草と乾いた土を交互に積み重ね、年に3回、蚕の糞と人の尿を加えて、鍬で上下を切り返す。この作業を五年以上つづける。その間に、尿中の尿素が土壌
微生物によって分解されアンモニアになり、さらに硝化菌によってアンモニアが硝酸イオンに硝化される。これが土中のカルシウムイオンと反応して硝酸カルシウムができる。これを集めて紺屋灰を加えて煮
詰めると硝酸カルシウムが硝酸カリウム、即ち、煙硝の結晶が得られるわけである。こうしてできた煙硝60~70%、硫黄15~20%、木炭10~20%を混合して造ったものが黒色火薬となる。
煙硝製造に「人尿を用いた」ということは、広く行き渡っているようで、冒頭に記した『ものの建築史 便所の話』や日本民俗文化体系(小学館)中の「技術と民俗」(上)にもそのように記されている。上の囲炉裏周りの煙硝穴の図はここから写したものである。「小便」と記入されている所を赤字にして写した(クリックすれば明瞭になります)。さらに、村上家の観光案内のホームページをはじめとして、インターネット上の情報は,全てといってもいいくらい「人尿を使用した」と記している。根拠となる史料が記述されているものはほとんどないが、中には文化8年孫作書上『五ヶ山煙硝出来之次第書上申帳』を挙げているものがいくつかある。そのネタ元は、おそらくウィキペディアであろう。ウィキペディアの「火薬」のサイトに次のような記述がある。
『焔硝土を用いる硝石の生産方法は、1811年(文化8年)に加賀藩の命令によって五十嵐孫作が提出した「五ヶ山焔硝出来之次第書上申帳」に最も詳細に記されている。主としてこの文書によると、合掌家屋のイロリ近くの床下を掘り下げてヒエの茎・葉を敷き、その上に良質の畑土、蚕糞、麻の葉・タバコの茎など栽培植物の不要部分、ヨモギ・アカソ等の山草を積み重ね、その上に人尿を散布して焔硝土を調製する。』(赤字は筆者)
そこでこの史料に当たってみた。「五ヶ山焔硝出来之次第書上申帳」の写しが富山大学菊池文書に納まっていて、その「影印」をネット上で見ることができる。何処にも人尿を使用したようなことは書かれていない。ウィキペディアが言及している所と思われる個所を、少し長くなるが下に書き下しておく。
『煙硝を造んとする者は、先、麻畑などの水気なきほろほろとしたる上田土を用ひ、水氣ある【つち】、土塀などに用る土はよろしからず。水氣なき真土赤黒き上田土よろし。この土を家居敷板のしたいろりの辺貳間四方を、擂鉢のやうにして、囲炉の辺は、六七尺も掘り縁の方程浅く三尺斗り掘。炉の造板を捲り出入するやうに仕置。六月蚕時分底に稗がらを不切、其侭長いながらを敷。その上には麻畑土を取入、蚕糞を鍬にて切交ぜ、厚さ壱尺斗も敷。其上に稗がら、たばこがら、蕎麦がら、麻の葉、山草の肥たるを苅干しても、又は積置、むし草にしても、五六寸程宛に切、是を一扁敷。山草は蓬あるいはさくと云ふ草を専ら用ゆ。さくと云ふ草は、独活に似たる草にて、是によりて狐うどともいふ。近比、物産家の説に真の独活として是を用るに、其効格別なりといふ。農家にも稲の苗病る時、狐うどを苗代に蒔入れば、苗代は【蘇】と云ふ物。又この培物を敷たるうえに、土に蚕の糞を切交ぜ、壱尺斗敷。又蒸培物を一扁敷き、土と培とを何扁も敷重ね、板敷のした六七寸程、透く程に積置。土は何扁にても皆蚕の糞を切交て敷事なり。八月上旬頃の土を掘出、筵持籠にて板敷の上へ上げ、これを一尺ばかり残し置、鍬にて切こなし、蚕糞など切交、其上に蒸草などを敷。【最初に】仕込し時の如くする也。翌年よりは春夏秋三度宛、培をする事、前のとうり。春培は稗がら、たばこがら、蕎麦がらなどを用ひ、夏培は蚕糞を用ひ、秋培は山草の蒸培を用るなり。かやうにして四年程置。五年目に灰汁煮、煙硝にすることなり。六年目からは毎年冬、そのつちを取出し、水にてたきて煮詰るなり。隔年【ごとに】煮れば、煙硝多く【得ら】れども、貧なるものは利を【欲す】ゆえ、毎年に【行う】事なり。敷板、培いきれにて反りかえるゆえ大釘にて打付るなり。冬も甚暖し。』
(【 】内は筆者の推定。また、読みやすいように句読点を補った)

ご覧の通り、蚕の糞はしばしば出てくるが、人尿は一切でてこない(上の画像をクリックして拡大すれば、影印と読下し文を見比べられます。読めなかった字は□で記しています。誤読も多々あるかと思いますので、御教示下されば幸いです)。
当の村上家の御当主のブログがある。そこでは『日頃五箇山の塩硝製造を観光的に説明する中で、建物の床下の木材の腐食の様子を考えると製造方法に矛盾を感じておりました。板垣先生の説に納得出来るものがありました。』とある。そして、板垣先生の史料の抜粋が掲載されていた。そのなかに、
『よく五箇山は塩硝を生産するために「小便」を使っていたと記述したものを見かけるが、それはこの培養穴の位置を見れば直ちに間違っていることに気づくことである。囲炉裏の熱で尿の悪臭が立ちこめ、とてもその上で食事など出来る生活空間ではない。それは溜めおき型の便所の中で生活する様なものである。』
こう書かれていたのは、日本風俗史学界誌風俗史学2011年2月(第49回大会特集)の冊子だそうだが、もっとちゃんとした板垣英治氏の論文が「日本海域研究」の第32号に掲載されていた。そこには、1784(天明4)年から1885(明治18)年にいたる100年間の幅広い期間の五ヶ山史料が、渉猟されているにもかかわらず、「人の糞尿を使用した」と云う記述を見つける事はなかった、とある。もちろん、何かが存在する事を証すのは簡単であるが、何かが存在しない事を証すのは、論理的には不可能ではある。しかし、「汲取式便所の中で生活する様なものである」というような状況証拠からして、人尿は使われなかったとして、誤りはなかろう。それにも関わらず、板垣論文には、人の糞尿を用いたと記す文献を11個も掲げられている。これらに、冒頭に書いた谷直樹・遠州敦子著の『ものの建築史 便所の話』(鹿島出版, 1986)が加わるのはいうまでもないが、インターネット上を渉猟すれば、際限がない。
数例を上げると、
1『「五ヶ山焔硝出来之次第書上申帳」に記録されています。(中略)焔硝床を作って,最後に焔硝床に人尿を散布すれば準備は整います.』
2『五十嵐孫作が提出した「五ヶ山焔硝出来之次第書上申帳」に最も詳細に記されている。(中略)その上に人尿を散布して焔硝土を調製する。』
3『塩硝製造にはまず、ヨモギや、ウドの葉、麻殻、蚕の糞・人尿などを幾重もの層にして穴に入れ、何年も寝かす。』
4『…… ④ 人尿 ⑤ 土の順に何層にも積み重ねて床の間際まで積む。』
5『材料ひえ、たばこ、よもぎ、そば、さく、(中略)蚕の糞、人の尿』
6『五箇山で密かに煙硝が作られてきた。床下の土に腐葉土を混ぜ、人尿をかけながら何年も発酵させ、』
7『家の床下に刈ったヒエやヨモギを敷き、蚕糞を混ぜた土に人尿を撒いて、』
8『干し草(ヨモギ、サクという山草など)、蚕糞、人馬の尿などを混ぜて積み、』
9『五箇山の合掌農家で密かに作らせていたという塩硝、火薬である。原料は、人尿。』
10『カイコや鶏の糞の混合土壌を積み重ね、最後に上から人尿を大量にかけて』
11『それらを交互に積み重ねた後、一番上から貯えておいた人間の小便を大量にかけ、』
天までとどいてしまった。最後のは、私と同い年の、某国立大学名誉教授の談である。これで打ち止めとする。
このように、証明されていない説が、あたかも確立された説として、真実かのごとく広まってしまった原因として板垣氏は、「古老伝承の形でひろがったが、出所は不明」とかかれているが、現在では広く一般に「新書」系の諸著作でこの説が定着してしまったようだ。例えば、岩波新書の奥村正二「火縄銃から黒船まで 江戸時代技術史」(1970)、中公新書の小泉武夫「発酵 ミクロの巨人たちの神秘」(1989)、PHP新書の角山栄「境 海の都市文明」(2000)などが挙げられる。
「風土の中の便所」の格好の例としたかった「火薬製造便所」という胡散臭い話はこれで霧散したわけである。
(以下次号)
1 会津喜多方の土蔵造りの便所 廚蔵
2 飛騨の大家族制の便所 ヘンチャ
3 アイヌの便所 アシンル
4 沖縄の豚便所 フール

【表紙】筆で一気呵成に円を描いた「一円相」は禅宗のお坊さんが好んでよく書くものだが、仙崖さんのそれは独特の持ち味がある。例えば、円の左に「これくうてお茶をまいれ」と賛がある。「自他の対立をこえたまろやかな一つの世界 :一円相の世界」この深い真理を描いたとされる「輪」に、仙崖さんは敢えて高遠な哲理を求めないで、「これなと召し上がってお茶でもゆっくり」と円をお饅頭に見立てている。武士嫌いの仙崖さんは、よく侍をからかった。虚白院に「げんゆう」という武士が訪ねて来てさかんに画をたのむので、しかたなしに紙に円い輪を二つも並べて書いた。武士はたたみかけるように「賛もついでにお願いします」。仙崖さんは待ってましたとばかり「げんゆうが金玉」と賛したそうである。また、仙崖さんを困らせてやろうとある武士が禅問答まがいに、「七人に一つたらぬものがござるが何でござろう」とやった。仙崖さんは、「七福神の金玉」と即答。江戸時代の川柳に「宝船すりこ木六本鍋壱つ」(誹風柳多留, 40篇の14丁)のたぐいである。侍相手ならまだある。虚白院の昼下がり、仙崖さんがごろりと横になって高鼾き。そこへ訪ねて来た一人の侍が、長い腕を伸ばして股間の一物をぐっと握りしめ「和尚、これは何ものぞ」。仙崖さん欠伸まじりに「宝のもちぐされ」。
しかし、それが役に立つこともあった。これは来月のお楽しみ。なお、ここで紹介した仙崖和尚の逸話は、先月号で紹介した石村善右氏の「仙崖百話」から拝借した。
いきなりコーフィー・ブレイクです。先月も洛中散歩が書中散歩になりましたが、2月に入ってシベリアの寒気が列島を襲い、本のページを繰る指も凍えてままなりません。頭もカチカチ。こんなときは、ホットコーフィーやゆず茶、はてまたコーンスープで体を温め、片手をポケットにを突っ込んで、テレビでも見るのがいいかも。といっても、わが家に、テレビのアンテナは寒空にそびえてはいますが、受信機はなし。幸い、昨今はネットでテレビ番組のビデオが配信される事も多々あり、時には、podcastという代物で iTune 経由で自分のパソコンにダウンロードして、ネットの通信スピードの遅さに煩わされる事なく快適に視聴する事も可能です。そんななかから、面白かったのを一つ紹介します。スイスのテレビ局 tsr.ch が3年ほど前から昨年の終りまで放映していたもので、題して『Dîne à la ferme』、『農家で晩餐』とでも訳せるかな。内容は、スイスのフランス語圏からやってきた21人のお百姓たちが、互いに自分たちの農家に招待しあって、頭をしぼった趣向の郷土料理を振る舞い、そのもてなし良さと料理の味を評価しあって、最高のシェフを選ぶ、楽しいグルメ散歩です。料理を堪能するだけでなく、スイスの田舎の風景と生活ぶりも見ものです。
本体はネット経由ですが、見つけやすく、見やすいように工夫を凝らした画面を作りました。顔写真をクリックして現れた画面上のスタートボタンを押して下さい。始まるまで少々時間がかかるかもしれませんが、気長に待って下さい。番組は全部で21人分の21個のビデオと毎年のグループの7人全員が一緒に献立を考え料理して、
テレビ局のスタッフを招待するなどの趣向を凝らしたおまけが6つあります。このおまけは、下のスイスの地図のそのまた下の写真をクリックして視聴できます。なお、podcast の『Dîne à la ferme』は右のロゴをクリックして下さい。































洛中町名談義 新郵便番号簿に見る同一町域名
亀屋町の郵便番号は?
本棚の隅から「平成11年 版新郵便番号簿 '99 ポスタルガイド」というのが出てきた。500ページの分厚い郵政省郵務局発行のこの冊子を、何回かの引っ越しに際しても後生大事にかかえてきたのは、その末尾に6ページに亘って「京都市の同一町域名」と題する地図が掲載されていたためである。1998年2月2日に、それまでの郵便番号の末尾に4桁または2桁を付け加えた7桁 の郵便番号が導入され、町域(町名から「何丁目何番地」等を取り除いた部分)や大型ビルの階層までも個別の郵便番号で指定できるようになった。番地とあわせてバーコード化することで区分機により郵便物を配達順にまで並び替えることが出来るようになり効率よい配送を実現しているといわれている。しかし、7桁の郵便番号は、町域をブロックにして、町名毎に番号を付すことを原則としたシステムであるため、京都市の中心部(洛中)ではちょっと困ったことがある。たとえば、京都市中京区には「亀屋町」が同一区域内の別々の場所に5つもあり、同じ町名であるにも関わらず、別の番号を割り振らざるを得なくなった。それぞれの亀屋町に、604-0094, 0865, 0811, 0941,8253が割り当てられている。そのため利用者が郵便番号を書くにあたって、差し出したい宛先がどの「亀屋町」なのかを判断する必要がある。戸籍や住民票の上では「京都市中京区御幸町通御池上る亀屋町」のように町名の前に通り名を付して区別しており、これが正式な住所表示である。町で見かける住所標示版もこれに倣っている。
郵便番号簿で中京区亀屋町を引くと、604-0941の亀屋町には「御幸町通御池上る」に加えて、「御幸町通押小路下る」「御幸町通押小路西入る」「御幸町通押小路東入る」「押小路通寺町西入る」「御池通御幸町東入る」の5つが括弧内にずらずらと、左のように細い欄(A4版の1ページを縦に4つに割ってある)に記載されている上に、郵便番号が記載されている位置が悪くてとまどう(クリックして全体を見て下さい)。
京都の町中は、通りを挟んだ両側の家々が同一の町内となっている所が多く見られるが、そのような町内の家々の位置は、交差点を基準に、その北か南か(「上る」か「下る」)、西か東かで指し示される。例えば右上の中之町の例で見ると、三条通と冨小路通の交差点を起点に富小路通三条上る、富小路通三条下る、三条通富小路西入る、三条通富小路東入る、の4つの表現にくわえて、三条通と冨小路通の交差点の西と東にある、三条柳馬場と三条衣棚の交差点を基点にして、三条通柳馬場東入ると三条通衣棚西入るの2つの表現が用いられている。郵便番号簿では、このうちの一つ、富小路通三条上るがなぜか欠落している。参考のために郵便番号簿の巻末に掲載されている同一町域名の地図を、見やすいようにちょっと手直して、下のような「洛中同一町名」地図を作成した。ここに掲げたのは上京区の地図であるが、これをクリックすれば、下京、中京、東山の各区を含めて4つの大きな地図が見られます。

仁丹の町名版
京都の町中を歩いていると、辻々の角の家の羽目板や軒下の柱に、仁丹のマークの付いた細長い町名版が取り付けられているのによく出くわす。

四つ角だけでなく町の境の隣り合った家の軒先に2つ並んでいるのもある。上左の写真は上京区今出川町と竪亀屋町の境界にある2つの町名標示板である。北側の竪亀屋町の板には、「浄福寺通中筋下ル」と小さく書かれた町名の上に標され、南側の今出川町のには「浄福寺元誓願寺上ル」と標されている。そのさらに上に区名の「上京区」が横書きされて、仁丹マークが描かれている。参考のため地図を載せておく。
材質は琺瑯びきの鉄板で、風雨に曝されてもけつこう長持ちするが、ご覧のように琺瑯が剥げると錆ついた鉄板が現れる(左の写真)。書いてある区名は上京区と下京区だけで、中京や東山、左京はない。標示板が設置された頃の昭和2年当時2区制で、昭和4年に5区制、6年に7区制となった。2区制当時の中京と下京の境界は三条通で、今の中京区はこの2区に割って入った。例えば、現在岩上通錦小路上る(蛸薬師下る)宮本町は、中京区であるが、仁丹町名版では未だに下京区のままである(上右の写真)。「むしゃ」小路界隈
京都の町中を歩いていて、何処にいるのか分からなくなった時、町名標示版を見つけてほっとすることが多い。この他にも町内のお地蔵さんのそばに設置されている赤い消火器の入った細長い箱に書かれた町名が役に立つ。但し、先述したように同一町名が多いこと、通り名ほど町名は知られていないので、一般には役に立つことは少なかろう。右に示した写真は、粟田の土居の内町の路地の入り口のお地蔵さんであるが、その横に、防火用水を満々とたたえた赤いバケツと消火器が入っている赤い箱が2つ設置されている。この一つに「粟田 土居ノ内町」と白く書かれているのが目につく。よくみると、町名標示版も、家屋の軒下に打ち付けられている。写真でははっきりしないが、これは上で見たような仁丹製の標示版ではない。「フジイダイマル」製の町名表示板である。写真をクリックして大きくすれば、このようなことがどうにか確認できる。
右に別の町内にあった「フジイダイマル」製の町名表示板を掲げる。仁丹製のとは違って、横書きの「上京区」の標示も左書きで、その上に上京区の郵便番号602が記されていて、随分新しいことが分かる。一番下に藤井大丸のマークが入っている。町名は「無車」と手書きで訂正されている。地図で調べてみると確かに「武者小路通小川東入」の町名は「西無車小路町」である。訂正前はおそらく「武者」と書かれていたのだろう。新町通りを境に東が武者小路町で、西は西無車小路町である。どのような謂れがあってのことか、細道に車は無用という事だろうか。下の地図で分かるように、西陣の東端になるこの界隈には、たいへん面白い町名が見られる。この地図をクリックすると大きくはっきりとその面白い地名が読めます。

西無車小路町の北が常磐井図子町、そのまた北が元図子町で、南隣は大峰図子町である。武者小路町の北は今図子町である。京都で「図子」は「辻子」とも書くが、京都特有の呼び方で、路地(「ろーじ」と読む)のように袋小路でなく、「ろーじ」が進化して向うの通りへ突き抜けた小路をいう。
智恵光院通りから西に大宮通りへ抜ける小路の両側は、今は紋屋町となっているが、昔は「紋屋図子」「聖天ノ図子」「かんやの辻子」「紋屋ノ辻子」「紋や図子丁」などいろいろと呼ばれていたという。これは、東の方が袋小路になっていたのを、御寮織物司「紋屋相模介」の井関宗帖が、1587(天正15)年に地所を買い取って、大宮通りまで突抜けにしたことから、紋屋図子となったという(駒敏郎「京洛ひとり歩き」本阿弥書店)。但し開通した当時は、「聖天の図子」と呼んでいが、彼の功をたたえて、屋号の紋屋の名をとって後で「紋屋の図子」と呼ぶようになった(「辻子 ー紋屋辻子と西陣ー」より)というが、実際は微妙に違っていたようだ。袋小路であった通り抜けられるようにした井関宗帖が、かれの家の屋号をつけて「紋屋図子」と呼ぶようしたらしい。その辺のことは、井関宗帖の後胤である井関政因が書き残した「西陣天狗筆記」に記載されている(駒敏郎「西陣天狗筆記物語─私説西陣の歴史」ps.96-99)。千本釈迦堂の門前の五辻通りから今出川へ抜ける小路の両側は、そのものズバリ「突抜町」である。この小路の名前は「地獄辻子」である。又の名を「地奥辻子」、或いは「釈迦突抜」ともいう。この他にも、2ヶ所ある(「油小路堀川の間中立売下る」と「下立売通御前西入る」)。下京区にある「突抜町」は2つの通りを突抜けて「突抜一丁目」と「突抜二丁目」に別れている。中京区では、釜座通りが三条に抜けているが、姉小路から両側が「突抜町」である。その東の町頭町をはさんだ向うにも、衣棚通りの「突抜町」がある。結局、洛中に合計7つの突抜町がある。
さらに「突抜」を町名に含むものは多い。櫟谷七野神社の北に「社突抜町」がある。今は神社の境内が小さくなって、この小路は社を突き抜けていない。「大原口突抜町」は、今は京都御所を突き抜けるわけには行かず、御所の高い塀に沿って迂回するしかない。なお、いわゆる「御所」は京都御苑町で郵便番号は602-0881である。
その他に「木下突抜町」「越後突抜町」「仁王門突抜町」「天使突抜町」を拾い出すことができる。「天使突抜町」は一丁目から四丁目まである。松原通りから万寿寺通りへ突き抜けるのが一丁目、そこから五條通りへが二丁目、五條通りから楊梅町通りまでが三丁目、最後に四丁目が六条通りまで突抜けて終わる。
本来図子(辻子)は、町名としてではなく通りの意味であるから、町内を横断もしくは縦断する小路の名前が「○○図子」となってしかるべきなのだが、たいがいそうなっていない。例えば「大峰図子町」を突き抜けている通り名は西洞院通である(上の地図参照)。一丁目から四丁目までの天使突抜町を突き抜けている通りは「東中筋通」である。ゼンリンの住宅地図に図子名の記載がないのは残念である。今でも町名や通り名にその名を残している図子が100ほどある。1685(貞享2)年刊の「京羽二重」には44(巷には47が流布しているが誤りか?)、1708(宝永5)年頃の「都すゝめ」には43、1762(宝暦12)年の「京町鑑」には80、1863(文久3)年の「京(花洛)羽津根」には90(巷には91が流布しているが誤りか?)の辻子名が掲げられている。現在、上京区だけでも59ばかりの図子が今でもその名を残っている(上京区役所「上京区域における図子の分布」)。それぞれ独特の名前を有し、その謂れも面白い。以前、白梅図子を紹介したことがあるが、下に再掲しておく。
『中筋を南へ下がったあたりは、「白梅図子」といわれていた旧花街である。明治 8年に廃止された。明治5年の古地図には16軒のお茶屋が記載されている。また白梅図子は通りの名前でもある。上京や下京には○○図子と称する通りから通りへ抜ける細い道が沢山ある。
白梅図子もその一つで、きれいな名前であるが実は「しらみ図子」といわれていたそうだ。たいそう貧乏な公家が住んでいて、いつもしらみをわかせて、ボリボリと体のあちこちを掻いていたらしい。それで「しらみ図子」といわれていたが、栄誉あるお公家さんには、それではあまりに失礼ではないか、ということで「白梅図子」に変えられたとか、下級の遊郭でお客がシラミをもらってくるのでそう呼ばれたとか、いやそうではない、白梅という絶世の美女がいたからとか、諸説紛々である。それはともかく、この図子は河原町通りと寺町通りをつなぐ道で、かつては河原町通りに「白梅図子」というバス停があった。河原町今出川と府立病院前のバス停のちょうど中程でけっこう乗り降りがあり、市電は停まらなかったのでこの界隈に住む人は便利であったことであろう。いつの間にか廃止された。』フクシマ以後 「原子力の腹の中で」ぬくぬくと…
寒中、「原子力の腹の中で」ぬくぬくと惰眠を貪っている中、消費電力の50%を原子力で供給していた関西電力管内の原発が全基停止した。しかし、ご安心あれ。エネルギー大量消費の経済成長路線は、万難を廃して押し進められている。
三菱商事は、新型天然ガス「シェールガス」の採掘で、カナダにある北米最大のガス田の権益収得と今後5年間の開発費を合わせて、4.800億を投資するという(2月12日付け京都新聞)。原発一基分に相当する額である。
一方、環境省は、国立国定公園内での地熱発電所の設置要件緩和する方針を決めた(2月15日付け京都新聞)。

地熱発電所は1974年の通達で新規計画は原則として認めてこなかったし、環境規制の緩い普通地域でも、景観保護などを検討した上で個別に判断してきた。今回,規制の厳しい保護地域(第2種、第3種保護地域)について、区域外から斜めに井戸を掘削して地下にある熱源を利用することを容認した。より厳しい規制がかかっている特別保護地域と第1種保護地域についても、地下への掘削を今後容認する方向で環境保護団体などに意見を聞くようである。しかし、単に景観問題だけでなく、地熱発電には、さまざまな環境問題があることを付け加えておく(小波盛佳「地熱発電の環境への影響」)

この左上のセンセーショナルな一文は、1993年11月29日付けの朝日新間の記事の見出しである。ここでは深入りしない。詳しくは「水情報」(Vol.14 ps.7-9 1994)の廣中博見の記事を。日本での調査報告は、稲益建夫・石西伸・児玉康「地熱発電所からのヒ素含有温水による河川汚染および人身影響」(日本衛生学会誌, vol.33 ps.528-537, 1978)で見られる。
本題にもどろう。
放射能はどこに潜んだのか
原発が停まっても、放出された放射性物質の大半はどこかに潜んでいて、突然、思わぬところでその存在が偶然に知れる。今年の正月も半ばを過ぎた頃、二本松市内の3階建てマンションの1階に住む中学2年生の女の子の被曝線量が高かったことから、このマンションの基礎部分のコンクリートに使われた砕石が放射能に汚染されていたことが判明した、と発表された。女の子の被曝線量というのは昨年の9月から11月の3ヶ月間で1.62mSv ということであるが、その間、年が明けるまで1ヶ月半の間、いったい何がなされていたのだろう。
同じ「双葉砕石工場」の汚染された砕石が使用されたのは、当然ここだけでなく、その後の調査で、民家の床、農業用水路、小学校の耐震工事、町道、住宅進入路の路盤材、庭先の敷き砂利、ゴルフなどが具体に判明しているが、おそらく震災からの復旧・復興に伴う住宅建設や道路工事等で1000カ所以上で使用されてしまったと考えられている。遅まきながら調査が始まったが、汚染が疑われる石を出荷した砕石場は幾つもあり、その複雑な流通過程を追って、汚染砕石を突き止めるのは容易なことではない。
このようなことが起るであろうことは、後から考えれば、容易に分かることであるが、肝腎なことは、前もってそのような事態をどうすれば「想定」できるのか、ということではないだろうか。過去に習うこと以外にない。辻まことは『こんな虫(筆者註:経験)を信用すること勿れ』と「虫類図鑑」(矢内原伊作編「辻まことの世界」みすず書房, 1977 所収)で笑い飛ばしているのだが。今回のフクシマの原発事故に絡んだものだけでなく、世界中には、このように予想だにしなかった放射能汚染による被曝の例が驚くほど多い。いみじくも「総被曝者の時代」と題した本が手元にある。このなかから、驚くべき例をいくつかみてみる。
今回の事故で、また新たな何ページかが、今後書かれることになるだろうが、過去の例を知って、「想定外」とはいわせないようにしよう。「失念」しておりましたですまされるかもしれないが。

人類が放射線というものを利用できると知ったのは、1895年のウェルツブルグ大学のレントゲンがX線を発見して以来である。その後、「原子力産業」が誕生して、軍事利用に、民事利用にと、多いに発展してきた。1世紀以上が経過した現在、核の軍事利用はいうに及ばず平和利用においても、そのリスクが多大すぎることを知ることになった。しかし。核利用のリスクを含む情報のすべてが公開されてはいない。専門的すぎたり、利害関係が複雑であったり、影響力が大きすぎるという理由からも、情報公開は制限されているし、国際的に議論されるべき問題も、原子力産業の負のイメージを懸念してか、知らず知らずのうちに、注意を向けさせない力が働いている。しかし、考えても見なかった「事故」や「偶然」で明るみに出てしまった事件がいくつもあった。おそらく、筆者も含めて、発生当時にちょっと耳にしたが、すぐに忘却の彼方に押しやってしまったか、そんなことがあったことすら知らなかったのではなかろうか。
1 金の指輪事件
発端は、アメリカのペンシルバニア州のブラッドフォードに住むある外交員が,指輪をはめている左手の指がむくみ,しびれるため,医院に行って診てもらったことである。。検査の結果,指に潰瘍が認められ、彼の指輪からは、ガイガー計数器の針が振り切れてしまうほどの放射線が出ていることが判明した。
詳しい調査の結果、この指輪には,1930年代にガンの治療に用いられた放射性ラドンガスを入れておく小さな容器を再生して得た24金が含まれていることが判明した。現地のテレビ局の報道で、3個の汚染指輪がみつかり、「1937-47年に製造された指輪をつけるとガンになる」とニューヨーク州保健局が、1981年にキャンペーンを行い、16万個の指輪を調べた結果、170個の汚染指輪が発見された。その何年後にも、汚染指輪で指に皮膚がんを起こした人が見つかっており、未だに1000個単位の放射能緯線指輪が発見されないままであるという。この事件を報道した当時の新聞を見つけることができた。「The Lewiston Daily Sun」 の1981年1月26日付けの紙面に掲載されていた。Google newspaper で検索できる右上の記事がそれである。クリックすれば The Lewiston Daily Sunの紙面が現れる。
ここの右の欄には、このほか5つの他誌に掲載された関連記事までリストアップされていた。Google 恐るべき! もう一つ、ニューヨーク州の保健局がキャンペーンに使ったポスターを見つけた。「注意! 注意! あなたの金の宝石から放射線が出ているかもしれんません。もしそうなら、重大な健康障害を引き起こす恐れがあります。無料で検査しますので、お近くの保健所か、下記へ電話して下さい」と書かれたポスターの一番したには「Your health is too high a price to pay for gold」と書かれている。「金の指輪に支払うのには、あなたの健康では高すぎませんか」とでも訳すのだろうか。以前に紹介した、ブラジルゴイアニア市のセシウム137の汚染騒動をはじめとして、医療用に利用された放射性物質が、誤って市民生活の中に紛れ込んでしまった例は多い。
2 コバルト60のブーメラン
これは、メキシコがアメリカから輸入した中古医療機器の廃棄処分に伴って起きた事件である。この事件の発端は、全くの偶然である。1984年の正月、建築材や家具材の鉄筋を積んだトラックが道を間違え、アメリカニューメキシコ州ロスアラモス国立科学研究所の近くを通った。ロスアラモス国立科学研究所というのは、第二次世界大戦中の1943年に、マンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として創設されたアメリカの国立研究機関で、ここで開発・製造された原爆が、広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」、および長崎に投下された「ファットマン」である。その周辺の道路の両側には、放射線検知器が設置されており、放射線を検知するとアラームが鳴り、自動的に写真を撮る仕掛けがあった。トラックの運転手はこんなことは知らず、突然鳴り出したアラームにびっくりしたことだろう。
研究所の追跡調査で分かったことは、このトラックはメキシコ市のスミス製鉄所の所有で、メキシコのファレス市でスクラップにされたコバルト60を内蔵した遠隔放射線療法装置が混入した鉄筋を運んでいたことが判明した。緊急に国境を封鎖して5ヶ所で汚染鉄筋が発見されたと云う。米国内のでの調査では、汚染鉄筋を使った椅子の脚がミズリー州のファルコン社で発見されたのをはじめとして、全米で1400カ所で汚染製品が見つかった。
その後の追跡調査によって次のような汚染経緯が判明した。
1977年にメキシコのファレス市(Ciudad Juarez)の医療センター(Centro Medico)が中古の放射線治療装置(テレコバルト)を米国から購入した。この装置は米国クリーブランドのピッカー(Picker)社製で、当初テキサス州ルボック(Lubbock)のメソヂスト病院(Methodist Hospital)が購入し、病院の記録からは、1983年の時点では放射能は1.67×1013Bq以下と推定されている。メキシコに転売された際の税関の記録では3.7×1013Bqとなっており、そこから計算すると事故時には約1.47×1013Bqであったと推定されている。この装置はメソヂスト病院から仲介業者を経て1977年にメキシコのファレス市の医療センター(Centro Medico)に転売されたのであるが、そこでは放射線治療医の不在、あるいは代金未払いなどの理由で、使用されることなく物置に放置されていた。1983年11月、倉庫の整理で運び出され、運搬中にトラックの上で2重になっていた線源容器が壊れたらしい。一説には無知な泥棒が盗んで壊したともいう。それはともかく、12月6日頃スクラップ業者に運び込まれた。このとき、容器に入っていた6,000個のコバルト60の顆粒の一部が運送中に散逸して道路や住宅地に散らばった。また残りのペレットを含んだ輸送容器はスクラップとして売られた。米国原子力規制委員会(NRC)からの通報により、このスクラップ業者の作業所が閉鎖されたのは1984年1月20日(ロスアラモスで汚染物が発見されてから4日後)で、それまでの間に一般市民や製鋼所の作業者など多数の人々が被曝した。また、線源を含んだ汚染屑鉄がスクラップ業者からメキシコの2カ所の製鋼所(チワワのアセロ社とファレスのファルコン社)および米国セントルイスのファルコン社の米国工場に売られ、そこで溶融されてスチール材となり、加工され、販売されてしまっていた。アセロ社はスチール棒、ファルコン社はテーブル脚などを製造していた。メキシコで製造された汚染製品はメキシコ国内での販売のみならず、米国にも輸出され、それが発覚の発端になったのは前述の通りである。事故の経緯をより詳しく時系列的に表にしたものを下掲げる。この表から、起こしてしまったことのどうしようもなさが浮き彫りになる。さらにこの下には、コバルト60がまわりまわって、アメリカへ戻ってきた経路を示す地図を掲げる。

(クリックして拡大できます)

健康被害は、アメリカでは少なかったが、メキシコの被害は大きく、運搬中に散逸したペレットのために街路や家屋が汚染され、またこの汚染鉄材を扱った幾つかの鋳造工場が汚染さるなど、なんやかんやで数千人の人々が放射線に被曝することとなった。判明した被曝者の内訳は、3~7Svの被曝線量の人が7人、0.25~3Svが73人、0.005~0.25Svが700人である。多くの人に、皮膚損傷、血液学的異常、不妊などが見られたが、幸いゴイアニア市のセシウム137による同様の事件と違って、そのときには死者は出なかった。しかし、200人もの人が、何年もたってから放射線障害のために死亡したとも伝えられている。
3【次号に続く】

洛中洛外虫の眼探訪は引っ越しました。
2012年 2 月号には下に記したURLを
クリックすると繋がります。
http://youryuboku.web.fc2.com/blog-entry-84.html

【表紙】『うらめしやわが隠家は雪隠か、来る人毎に紙おいてゆく」と歌った仙崖の書画は、その在世中から相当の価値が認められていたらしく、みんなにせがまれて、ほとほと閉口しながらも、人が頼めばしようこともなしに筆をとった。
「老人六歌仙」と題された書画を三つ見つけた。上の老人達である。画賛は、三つともほとんど差異はない。順番が違うか、心が「曲がる」のが「ひがむ」になっているくらいである。上の表紙にある三ヶ所三様の六老人の集まり、左中央、右上、右下のスケッチをクリックしてみてください。これ以外にも、下に写したように「慾深くなる」が「口よだれくる」にかわっているのもあるようだ。
しわがよる ほぐろが出きる 腰曲がる頭がはげる ひげ白くなる
手は振う 脚はよろつく 歯はぬける
耳は聞こえず 目はうとくなる
身に添うは 頭巾 襟巻 杖 目鏡
たんぽ をんじゃく しゅびん 孫の手
聞きたがる 死とむながる 愚痴になる
出しゃばりたがる 世話やきたがる
くどくなる 気短かになる 淋しがる
心はまがる 口よだれくる
又しても同じ噺しに子を誉める
達者自まんに人いやがる
そして最後に、この版では仙崖は物書役でなけれども
人がたのめばしようこともなし
と結んでいる。これは、博多の銘菓「鶴乃子」を考案した石村萬盛堂の二代目石村善右氏が生前に残されていた原稿を、ご子息の僐悟さんや筑紫豊氏の尽力で出版された
「仙崖百話」(文献出版, 1980)に記載されていたものである。著者の石村善右氏は、仙崖に劣らず立派な人であった。「仙崖百話」の第三十二話で、『仙崖は学問に志す人に向かって、こう言った。
「博学強記にして智慧なきは、なお盲者の燭をとるが如く、ただに自己に無益なるのみならず天下の笑いとする」
所謂、秀才と称する人種は真の智慧を会得することが甚だむずかしいものである。
法律学者が増えるに従って犯罪は多くなり、いくら経済学者が増えても世の中ちょっとも楽にならない。科学者が賢くなり過ぎると死の灰をふらす。(以下略)』
とある。
最後の一節は辛辣である。善右氏が引かれた仙崖の言葉は「智慧なき学者は天下の笑い」であったが、善右氏は「それだけですない、ひどいことをやる」と言い切っておられる。ただし、仙崖も、
『文字の學は多しと雖 知眼明らかならざれば 猶盲者の燭を執るがごとし 益なくして害あり 奚能く彼の岸に到らんや』
と別の一幅に賛していることを付け加えておく(右上の図)。
洛中洛外糞尿譚 番外 汲み取り昔語り
平安時代から出発して江戸時代まで書き継いできた洛中洛外糞尿譚が中断して久しい。最後の「宇治茶の香りと京の下肥」はまだ江戸時代の話であった。予定では、あと少々江戸時代の話が続き、次に幕末から明治維新、明治・大正時代、昭和へと続けるつもりである。最後に自分の経験した汲取式便所の話で終わりとしたいと思う。
今回も本題はちょっと中休みで、京都の町で見聞きされた汲み取りにまつわる昔語りを3つ紹介する。単に資料を集めて、その解説とともに掲載しただけの代物である。
その一つは五色豆の「豆政」の三代目の角田憲治さんのかたり話。これは、名編集者八木岡英治氏が聞き取られたもので「雨の夜明けの物語」に収録されている。二つ目は『育児の百科』(岩波書店)で知られた松田道雄さんの思いで話。彼の膨大な著作の一つ「花洛―京都追憶―」(岩波新書 青945)に載っている話である。このおふた方の話は汲み取ってもらう方からのもの語りであるが、三つ目は、汲み取る方からのかたり話で、筆者が西山の大原野灰方の長尾さんから聞き取った時にメモである。
『肥ェ、肥ェーっ』
伝説の編集者といわれる八木岡英治氏が「豆政」の3代目角田憲治から聞き出された聞書き「町に流れたこえ」の中に出てくる一節である。これは、京都の記録(全六巻)の別巻として絡められた聞書集「雨の夜明けの物語」の最後の「その四 町の人」の、そのまた最後に収録されている。
京都の記録(全六巻)の存在は松岡正剛の「本の大路小路」で紹介されていて知った。「このシリーズはめったに手にはいらない」で始まり「こんな京都の写真、最近見ない。」で終わる紹介文の挑発に乗って、このシリーズの全巻を手に入れたのだが、これには、松岡の紹介文にはないおまけの別巻が付いていた。写真はないが本巻と同じ大きさのB5版で、260頁余が全部聞書きで埋っている。最初が祇園の老妓吉勇の「雑魚寝の夢」で、最後が当該の聞書きで、「町に流れた声 絶滅した京都への回想」と題されている。ここまで読み続けてやっと「肥の声」」の話がでてきたのである。この章の冒頭からここに至るまでを下に抜き書きした。「町に流れた声」にでてくる「声」は子供の頃、見聞きしたものもあり、とても面白い。「町に流れた声」の全文を参考のため別途掲載したので角田翁の声を読んでみてください。『先年、わたくし長患いしまして、ねておりましたときにも、しみじみ思うたんですが、近年は京の町に、人の声がきかれんようになりました。ほんま、さびしいですわ。そら車の音、スピーカーの音、機械の音はよおけありますけど、人の声ちうもんがありません。そうどす、物売りの声どすな、はよ言うたら。ま、そればかりとは限りませんけど、これがわれわれ京に住むものの近ごろの言葉でいうたら生活感覚、いいますのかなあ、季節感とも深う重なって、そら思うたよりだいじな役してた、と言えるのやないかしらん、思います。なにごとでも、そうでっしゃろけど、無うなってみてはじめて、ああ、あれはほんまは大切にせんならんものやったのやなあ、とようよう腑におちるもんです。今、京都はどんどん、壊さはってますけど、無うなってしもてから、ああえらいことをしてしもうた、いうことになりますのやろな。
物売りの声どすか、そら、いろいろあります。ぎょうさん来ましたで。まず白川女、花売り。箕を頭にのせて、花をいっぱいのせて、まあ仏花が多いのんどすが、うちィも持って来ておりました。今でも来ることは来よりますがリヤカーを引っ張って得意先に黙って届けるだけどす。むかしは振りで、流しとった。番茶もいっしょに売っとりました。
(はな、番茶、いりまへんかあァ)
いうて来ますね。
(おはなどうどす。おはないりまへんかア)
とも言います。これが一日のはじまり。レギュラー・メンバーの一番早いの、このごろのように寒いときですと、吐く息がパッパッ見えましてねえ。これは大原女とちごて、花売りは粋どしたねえ。白い手拭、頭にかぶって、白い手甲、脚絆。お腰(腰巻き)も白でした。三巾前垂をからげてこのお腰を見せますから、じっさいに若嫁さんやら出とったんで、ちょっと色気あったんですねえ。むちむちした、みずみずしい躯がみえたり。これは北白川から出てくるので、昭和の初年ごろまでが盛んだったのやありまへんか。大原女とよう混同されますが、こっちの方は衣裳も違いますし、柴なんかあんまり売れまへんから、もっと早うに無うなってましたなあ。夏のころになると、番茶のほかに、はったいのこ(麦こがし)も、いっしょに持って来てました。それから順にいうたら、近在のお百姓はんが下肥をあつめに来ましたなあ。
(肥ェ、肥ェーっ)
それから
(水菜ァ、蕪ァ、しょんべんしようィ)
と言ってくる。それは、水菜や蕪としょうべんを代えましょう。まあ物々交換ですわな。
肥の長大(大八車)のまんなかに籠をおいてそこに野菜を積んでまして、汲ましてもろたお礼にひと東くれるわけですわな。これはだいたい持場がきまっておりまして、借家をようけ持ってる家主さんとこへは年に一ぺん、お米何升とか、もち米何升とか、お礼にもってきよりました。これは大正のかかりで、しまいでしたか、昭和になってからはそろそろお金をとりよったようですなあ。』
角田翁が語られた内容もさることながら、何と見事に、町中の京言葉を紙に活字として吸い取られていることか。さすがに名編集者の誉れ高い八木岡氏だけのことはある。全集「現代文学の発見」の編集の中心にいた八木岡氏が、全集の別巻「孤独のたたかい」に解説を書いているが、そこに次のような彼のプロフィールが載っている。
『1911(明治44)年 京都府に生まる。京大文学部卒。1年上に大岡昇平がいたが、終戦後彼の最初の小説の原稿依頼者として相会うまで顔を見たこともなかった。学校に関する一切のものを嫌悪し、一種無頼の放浪に青春を徒費した。容易に小説の形をとりうるごとき文学に疑いをもち、23才にはじめての作品『終り』を小さな同人誌に発表、一部の評価を得たが、そのまま長い闘病の生活に入る。戦時下、文学のなすべからざるを知り、編集者の道をえらび中央公論社、NHK、戦後ふたたび中央公論社へ。のち季刊文芸誌『作品』を主宰し、文学における新しい熱源の所在を模索した。文学と自己に課することあまりに多く、余事に韜晦する傾きがある。今は出版社に身を寄せ、『全集・現代文学の発見』に熱中している。』
ここで紹介した全7巻の「京都の記録」の別巻の末尾に彼のあとがきがある。その中から聞書きの苦労話と思しき部分を下に抜粋した。どのような文脈の中で綴られたのか、誤解を招いてしまうことを恐れて、あとがきの全文を別に絡め手おいた。
『昭和の早いころ、人は見たであろう、京都の町を、辻から辻へ、背をこごめて歩きまわる痩せ犬のような学生を。三十年後、学生は老い、同じように空虚な眼と重い背中を負って歩いてゆく。違っているのは肩に食い込んでいる重い鞄があることであった。鞄にはテープレコーダーが入ってい、テープの数は三十本以上におよんだ。ここに収録できなかった方々がたくさんある。お詫びしなければならない。
(中略)
それからこの本に限って言えば、ここに書かれた文字は(会田さんのを除いて)断るまでもなく、私が自分のペンで書いたものであるから私個人の責任である。聞きちがえも多いだろうし、人の話というものは古往今来、対話者の間の瞬間の出来事らしい錯誤によって構成される。また話をそのまま文字にして読めるものでもなく、書き手の悪さが必ず割りこんできて、話者はどちらかといえば迷惑をこうむっておられる側なのだ。もしお叱りいただくことがあったら、ぜひ私に言っていただきたい。しかし人間の事は、すべて時の浄化作用の下にある。往事茫々、流れ去ったことはすべて夢である。雨の夜明けの寝ものがたりである』
『しょんべあるか』
これは、松田道雄氏のお母さんが、見事な大根を積んだ車を引いていた男に、一本いくらかとたずねたときの、男の返事である。「花洛―京都追憶―」(岩波新書 青945)に載っている話である。
松田道雄氏は茨城県の利根川の支流に沿った水海道に1908(明治41)年に生まれた(八木岡氏の3つ年上)。生まれて6ヶ月した翌年の4月に京都にやってきた。父が、京都大学の狂犬病研究室の主任に命じられたからである。
最初は聖護院山王町の借家住まい、1年ほどして東丸太町の仲小路に引っ越している。彼は幼児期の大半をこの界隈で育った。その後1914(大正3)年の春、父が烏丸通に面した蛸薬師下がったところに「松田小児科診察所」を開業したので、裏の貸家に家族共々引っ越した。
「花洛」の大半は、京都の町中、中京の明倫小学校時代の思い出を綴ったものである。この中に汲取のことが少々出ている。下に掲げる『しょんべあるか』が綴られている部分は、聖護院時代のもので、母親から聞いてい話である。彼の思い出とともにいろいろ資料にあたって、東国と京都の風習の違いが書かれている。
『京見物の祖父母をおどろかせたものに、京都の女の人の排泄の異様な姿がある。
「女が立ってしてんだよ」そういった祖母のみたものは、私も知っていた。花売りのおばさんが、急に路上で塀に背をむけ、膝をまげずに上半身をふかく屈したとき、はじめなにをするのか、わからなかった。
京女は優雅なものときめている東国の人間に、その情景は衝撃だったのだろう。すでに享和二年に曲亭馬琴は「軒旅漫録」に「女児の立小便」という項をもうけていっている。
「京の家々かわやの前に小便たごありて、女もそれへ小便する。故に富豪の女房も小便はことごとく立て居てするなり。ただし良賤とも紙を用いず。妓女のみふところ紙をもちて便所ヘゆくなり。月々六斎ほどづつこの小便桶をくみに来るなり。或は供二三人つれたる女、道はたの小便たごへ立なから尻をむけて小便するに吐るいろなく笑ふ人なし」
姿勢がおかしいばかりか、排泄されたものを京都の人が珍重するらしいのが、東国の人間には奇異たった。
十返舎一九は「東海道中膝栗毛」で弥次郎兵衛と喜多八とが清水寺から三条の旅宿にいく路上で小便たごと大根とをになった男が
「大こん小便しよ」とふれてあるいているのに、であう話をかいている。
その場で小便をして大根をもらおうと、京男が二人、道路からひっこんだ場所にたごをおいてもらって放水するが、その量では大根三本にたりないといわれる。それをきいた喜多八が一本分がとこ、たすけてやる。
江戸っ子の十返舎一九には、京都の人間がひどくけちくさくみえたのだろうが、これも江戸と京都との近郊農業のちがいである。京都近郊では、大根と菜とには、肥料に小水しかつかわなかった。小水だけあつめるのに、町にたごを配置したのが、京女に特別の姿勢をとらせることになったのだろう。
「皇都午睡」にも「さても小便を寵愛するは京の事也」という書きだしで、「膝栗毛」のさきのくだりにふれたあと、
「大坂にても適々往来の小便桶へ、婦人の小便する事、老婆幼稚の者は人目も恥ねど、若き女の小便するふりは余り見るべき姿にあらず。江戸は下女に至る迄も小便たごなければ、よん所なくかはしらねど、皆厠へ行ゆえ是だけは東都の女の方勝くじ也」
とかいてある。ここに勝敗をもちだすのは偏見だ。近郊農業に協力して容器の高さに応じただけだ。
母は京都にきたころ、このかわった風習にまごついた話をよく聞かせてくれた。聖護院の家の前に、みごとな大根をつんだ車がきたので、母は一本いくらかとたずねた。車をひいていた男は、家の中をのぞきこんでいった。
「しょんべあるか」』
ここで引用されている曲亭馬琴の「軒旅漫録」や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や西沢一鳳の「皇都午睡」などは、すでに、洛中洛外糞尿譚 の「下肥文化東西比較」で取り上げた江戸時代の資料であるが、明治の終りから大正にかけてもまだ、京・町中の風習に、関東からやって来た人の耳目を驚かせるものがあったのだ。なお、右に掲げた古い繪葉書は馬琴の麹町旧宅である。古い巨樹の絵はがきを集めたアルバムのなかに混じっていたのを偶然見つけた。馬琴が自宅の汲取に多大の苦労をしたはなしは、<厠から馬琴の家を覗く>に書いた。『近郊農業に協力して容器の高さに応じただけだ』と女の立小便を擁護しているのは特筆に値する。肥え取りを野菜の振り売りと間違う話で「しょんべあるか」と母から聞いたと記憶しているが、角田翁の話にも出て来たように、小便だけを集めてまわっていた人がいたことの証で、東海道中膝栗毛の話もまんざら作り話ではない。
烏丸蛸薬師下るに引っ越してからの思い出に次のようなものがある。
『車道には砂利が敷いてあった。車輪に踏みならされて路面は固かった。でこぼこがあって雨の日には水溜まりになった。
車では馬車がおおかった。四輪だが前輪は小さく、後輪の輻の中央に鉄の鎖がさしてあって、車軸がゆれるたびチャリンチャリンと鳴った。馬車をひく人は馬の手綱をとって先にたって歩いた。よく荷のかげにかくれて、車の後部にとびのって、後向けに腰かけるのだが、すぐみつかってしかられた。
農家がひいてくるのは牛の車で二輪だった。肥桶をのせているのがおおかった。
夏にひでりがつづくと、市のマークをつけた赤茶色の水槽をのせた撒水馬車が通った。これは御者台に人がのっていた。タンクをつんだ水撒き電車も通った。
家畜にひかせる車がおおかったから車道にはいつもその排泄物がみられた。排泄の現場もみせられた。』
このくだりは、滝田ゆうという漫画家の名作「寺島町奇譚」にしばしば描かれている情景を彷彿とさせるものがある。「寺島町奇譚」の主人公「きよし」が過ごした東京の下町を描いたの数コマを下に掲載したが、それと上の松田氏の小学校時代の追憶とをくらべると、時代の差は感じられない。昭和7年生まれの滝田ゆうは、松田が小学生時代を過ごしたはころの京都の下町の情景を知っているわけではないのに、何か共通するものがある。「下肥文化」とも言うべき時代が終戦後までしばらく続いていたといえるのではなかろうか。昭和に入ってからすぐ、有料で汲み取っていく時代が来たのではあるが、近郊農業にとって町家から出てくる屎尿は、化学肥料全盛時代が到来するまで有用な資源であり続けた。
滝田ゆう「寺町町奇譚 第10話 カンカン簾」より



以上3コマは滝田ゆう「寺町町奇譚 第9話 えんがみみとんがった」より
『こえとくい』
京都西山の大原野灰方の長尾さんは、京都の町中に肥の得意先(こえとくい)を5、6軒もっていて、三日に一度は京都市内の烏丸五條辺りまで肥汲みにいっていた、という。
大原野は山陰街道の南、背後に大原山(小塩山)負い、前方東に乙訓の広野を望む西高東低のなだらかな傾斜段丘地からなり、竹やぶが生い茂る間に農家が集落をなして散在する牧歌的な農村地帯であった。
長尾さんは、ここで米・タケノコをつくり、裏作には麦と菜種を栽培し、大麦を、農協を通じて朝日ビールにおさめていた。9ヶ月かけて育てた麦が5俵で1 万円程度だったと記憶されている。
14才のときに父が脳溢血でなくなって以来、男手一人となり、女ばかりの一家をこうして支えて来た。そのため、三日に一度は下肥を求めて京都市中まで出かけて、汲取りをしていた。
当日は、朝の5時に家を出発して、得意先のある市中には9時頃に着いた。それから何軒か汲み取って、帰りは重い担桶を引いての段丘地へ上って行かなければならなかった。行きしなよりもっと時間がかかったことは間違いない。日の短い冬場は日の沈むのを見ながら、夏場はきつい西日を浴びながらの帰宅となったことだろう。
道筋といえば、向日町から久世橋を渡って吉祥院、九条通りを大宮まで行き、そこから北へ烏丸五条あたりまでいった。時にはもっと北東の錦の柳の馬場あたりまで足を伸ばした。
昭和20年代の後半で1架(2樽)50 円くらいもらっていたと記憶しておられる。昭和27年で汲取はやめて、化学肥料に転換した。使っていた牛は7 万円で売って耕耘機を14 万円で購入した。農業以外にも勤めに出るようにもなった。昭和37年の28才のときから40 才まで三菱製紙の印画紙製造工場で3交代勤務に出ていたし、昭和46 年4月に開設された立石電気の社員寮(3棟150 名)の管理人として、当初より長らく勤めてきた。いまでも寮生の同窓会に招待されるくらいであると、ちょっと自慢げであった。
『本格的に汲取、やるようになるまで、といっても親父が死んでから、今の中学生の年頃から汲取にずっと出ていたんやが、それまでに、戦争中に通ってた小学校の校庭を耕やして、畑にしていたんやけど、そこに入れる「こえ」を、下の、もっと生徒の多かった学校まで、酒の樽を引いていって、もらいにいったことがあった。それが汲取りやったはじめや』
『唐橋のガードは牛に禁物やったな、市電がギーギーいってカーブをまがるさかい、その音にびっくりして、怖かったんかもしれんけど、牛が跳びはね全速力で走り始めよった。まあ、馬みたいに「ギャラップ」をはじめてよって、も~う、おさえるのに必死やったで。前を駈けてた、一緒に汲取にいってた仲間の車にぶつかってようやく止まったや。ほんまにどうしょうかとおもったで。』
ここまで臭いがただよってくるかと思うほどの熱べんであった。
『昭和29 年頃のと思うんやが、 バタコでしょんべん取りにいってるときの写真がこれや。 化学肥料になってからも、「共同つぼ」いうのがあってがあって、朝鮮人の人がそこへ下肥を運んできて、いれとったなあ。それから、和歌山の密柑農家のひとに、配給の化学肥料を横流しして、下肥を使うこともあった。 そんなこと思い出すさかい、昭和の30年代になってもまだ汲取もしてたんと違うかいな。
こえ入れとく野つぼかいな。たたき灰と石灰で作ってた。そうやなあ、50ℓ暗い入る大桶6 架、天秤棒で前後に担いだのが1架や。そやさかい6 架ゆうたら12 桶やなあ。それが3 回分入るほどの大きさや。結構大きかった。薄暗なって、道に迷って狐にだまされ、野つぼに浸かって「え~湯や」とかなんとかゆうてたちゅう話もあるさかいな。
こえだけやなしに台所排水も溜めて肥やしにしてた。それを「すいか」というんや。何処でもやってたやろ。今は何でもすぐ下水道に流してるけど。』
以上『 』でくくった部分は、長尾さんの口から出た通りではない。筆者のかってな語り口で、メモにあったことを含めて創作したものであることをお断りしておく。どの部分が創作かが分かるように、メモ書きを添付しておく。

工事中だった「洛中散策 粟田口界隈」の続き
「3鍛冶神社と4尊勝院」ができました。
フクシマ以後 『脱原発依存』症候群
フクシマの事故後、当然のようにいわれ始めた「脱原発」。それ以外にも「減」とか「卒」とかを冠した原発が新聞の紙面に踊っていたが、最近は『脱原発依存』が定着してしまったきらいがある。何か官製用語っぽい分かりにくい日本語である。
最初にこの表現を目にした時、『「脱原発」依存』と読んでしまい、何の意味かよく分からなかったのである。あまりに「脱原発」ばかりいわれているので、その依存症を皮肉った表現ではと思ってしまった。それが『「脱」原発依存』と読むのだと気がつくのに一ヶ月以上かかったのであるから、老人ボケもいいとこ、である。「反原発ボケ」といってもいいかも知れないが。
以下は、反原発原理派の「反原発ボケ」の所以を書く。そもそも原発依存を強いたのはだれか。依存するしかない構造を作り出したのはいったい何なのか。そうしておいて今度は、そこから脱せよとのたまっている。官も民も新聞も。
「脱依存」であるから、依存しなければ原発はあってもいいのである。そこで、まず原発輸出が公認される。次に、石油や石炭では電気料金があがる、適当に太陽光発電や風力発電と原発の電気を混ぜた方がいい、将来自然エネルギーへ移行するまでは、原発をつなぎにすればいい、というわけで既存原発の運転が再開され、元の木阿弥「原発依存」構造が復活する。
次にくるのが、原発新設である。既存の原発は遠からず寿命が尽きる。それに替わるものぐらいは作らねばと。それだけの理由では弱いとなれば。殺し文句の「停電するぞ」でもって、もっと原発を建設しようということになる。
一方、脱原発派は、自然エネルギーの電気、太陽光発電や風力発電を大規模に建設することで原発から脱せられるといい、近年の原油の需要増と価格高騰で、原油に代わる資源として広大なオイルサンドがあるともいう。また電気自動車が奨励されている。
どちらもどちらである。原発は「放射性廃棄物」の問題を抱えたままであり、大規模な太陽光発電は、半導体製造に伴う公害や、未だ顕在化していないが、大量の太陽光パネルの廃棄のことなど、環境要因にも目を向けなければならないし、風力発電の騒音はすでに問題となっている。オイルサンドの開発にいたっては、すでに先住民の土地を奪い、環境破壊をもたらしている。欧米では開発が緒についたとたんに反対の声が上がっているのはもっともである。 ナショナル ジオグラフィック誌の記事とビデオを下に付録として転載しておいた。いい記事だと思う。
ではどうすればいいのか。語られるべきは、『脱エネルギー依存』であり、『脱原発依存』ではない。右の新聞記事中のグラフにあるように、30年前の1980年代の世界のエネルギー消費量は現在の半分である。昨今、地球温暖化を理由に炭酸ガス排出をめぐって先進国と発展途上国の綱引きが行われているが、先進国はCO2排出削減に原発をとか、
CO2枠の取引など姑息なやり方をやめて、大幅なエネルギー消費の削減をしてその一部を発展途上国に回してはいかがなものか。エネルギー消費の不均衡な構造は右の図から一目瞭然である。この不平等なエネルギーの消費構造は、国家間だけではない。昨年来のアメリカでの「格差デモ」で顕在化したように、先進国の国内に置いても。
必要以上のエネルギーを消費している富裕層と暖をとるのもままならない貧困層との二極化が進行している。フランスでも、暖房費と家賃を払うと日々の糧も買えなくなる人たちが、施しを受けて口凌ぎをしていることが、冬になるとしばしば報道されるいでいる。世界はエネルギー消費の削減と同時に、生存権として平等にエネルギーを需要できる社会に向かうべきだ。
付 録

ナショナルジオグラフィック/日本語版 2009年3月号より
カナダでは、油成分を含む砂「オイルサンド」の大規模な採掘が進む。富も環境汚染も生む、この新たな燃料資源の実態に迫った。
黒くて粘り気が強く、冷えると固まるタール状の油。そんな扱いにくい物質を含んだ砂岩が、オイルサンド(油砂)だ。大量の水と燃料を使って砂から油を抽出すれば、ガソリンなどの原料となる「合成原油」をつくれるが、かつては生産コストや環境負荷の高さから採掘が見送られていた。だが、近年の原油の需要増と価格高騰で、原油に代わる資源として開発が本格化している。広大なオイルサンド鉱床が横たわるカナダのアルバータ州で、その実情を追った。
アルバータ州北部を流れるアサバスカ川の近くに、先住民居住区の一つ、フォートマッケイがある。ここで生まれ育ったチペワイアン族のジム・ブーシャは、1963年のある日の出来事をはっきり覚えている。
当時7歳だったブーシャはその日、祖父に連れられて、村の数キロ南の森に仕掛けておいた狩猟用の罠を調べに行った。この森は、カナダの国土の3分の1以上を占める北方針葉樹林の一部で、当時はまだほとんど開発の手が及んでいなかった。州政府が砂利道を整備するのは何年も先のことで、当時この村に向かうには、ボートか、冬場は犬ぞりしか交通手段がなかった。
フォートマッケイに暮らす先住民、チペワイアン族とクリー族は、外界からおおむね孤立して暮らしていた。ヘラジカやバイソンを捕らえ、アサバスカ川で魚を釣り、森でクランベリーやブルーベリーの実を集めるという伝統的な狩猟採集生活をする一方で、ビーバーとミンクを罠で捕獲し、毛皮を売って現金収入を得ていた。フォートマッケイは小さな毛皮の交易地で、当時は電気もガスも水道も電話もなかった。村にこうした文明の利器が入ってきたのは1970、80年代になってからだ。
とはいえ、少年だったブーシャが変化を肌で感じるようになったのは、1963年のその日、ミルドレッド湖近くの、祖父がよく罠を仕掛けていた動物の通り道に着いたときのことだった。「こうした道は、何千年も前からあったものです」。昨年の夏、フォートマッケイにある広々としたオフィスで、ブーシャは話してくれた。
「ところがその日行ってみると、いきなり森が開けて、目の前に広大な伐採地が広がっていました。70年代になると開発がさらに進み、祖父の丸太小屋も取り壊されてしまいました。事前の通告も話し合いも、一切ありません」
それがブーシャとオイルサンド業界との初めての出合いだ。開発は90年代末以降、急ピッチで進み、アルバータ州北部のこの一帯の風景を大きく変えた。ブーシャ自身も、先住民居住区の首長となり、オイルサンド業界にサービスを提供する地元の経済団体「フォートマッケイ企業グループ」の会長も務めて、この業界とは切っても切れない関係にある。かつて森があった一帯は、今では大規模な露天掘りのオイルサンド採掘場となっている。ここではカナダ最大の石油会社シンクルードが、高さ20メートル近くもあろうかという電動ショベルでオイルサンドを掘り出し、80℃程度の熱湯(場合によっては苛性ソーダ)をかけて、砂に付着した粘っこいタール状の油を抽出している。この油は「ビチューメン」と呼ばれている。
採掘場のそばには、煙突から炎を上げる設備がある。これはアップグレーダー(改質装置)と呼ばれ、ここで粘性の高いビチューメンに熱と圧力を加えて、「シンクルード・スウィート・ブレンド」という商品名の合成原油を生成する。この工程を「改質」という。こうしてようやくできた合成原油は、パイプラインでアルバータ州の州都エドモントンやオンタリオ州、米国の石油精製施設に送られる。
採掘場の近くには、ミルドレッド湖よりもはるかに大きい、面積10平方キロの人工貯水池がある。ビチューメンを抽出する過程で出る有毒物質を含んだ排水や泥は、この池にためられる。池を囲む砂の堤は、砂の量では世界のダム湖の中でも最大級の規模に達している。
この地でオイルサンドを採掘しているのは、シンクルード社だけではない。ブーシャのオフィスから半径35キロ圏内に6カ所の採掘場があり、日量75万バレル近い合成原油を生産している。開発は今後さらに進む予定だ。オイルサンド層が地下深くにある場所では、パイプを通して地下に大量の熱い蒸気を注入し、ビチューメンを流動化してポンプで汲み上げる「油層内回収法」という技術が使われる。
オイルサンド業界は、2008年だけでもおよそ1兆8000億円、過去10年間では4兆5000億円以上の建設投資を行ってきた。2008年の秋に原油価格が急落するまでは、数年間でさらに9兆円が投じられ、2015年までに生産量は倍増し、そのほとんどは、新たに建設されるパイプラインで米国に輸出されると予想されていた。経済危機で多くの拡大計画が凍結されたが、長期的にはオイルサンド産業は今後も成長を続けると見込まれている。
国際エネルギー機関(IEA)が昨年11月半ばに発表した報告書では、2030年には原油価格は1バレル120ドルに達すると予測されている。オイルサンドから合成原油をつくるには多額のコストがかかるが、原油価格がこのレベルで推移すれば、十分採算がとれる。
1バレルとるのに土砂4トン掘削
いま地球上で、アサバスカ川流域ほど急速に人工的な“浸食”が進んでいる場所はない。地表近くにあるオイルサンドを採掘するには、まず木々を切り払い、土砂や泥炭といった表土を取り除かなければならない。1バレル(約160リットル)の油をとるのに、表土を平均2トン掘り出し、さらにオイルサンドを2トン採掘する。その後、数バレルの熱湯をかけてビチューメンを砂から分離し、改質する。この工程で出た汚染水は、貯水池に流す。今ではこうした貯水池の総面積は130平方キロ(洞爺湖の2倍弱)に及ぶ。昨年4月、500羽ほどのカモの群れが、渡りの途中で貯水池に飛来し、油にまみれて死ぬという悲劇が起きた。
オイルサンドから1バレルの合成原油を得る過程では、サウジアラビアの油田で同量の原油を採掘するのに比べ、3倍以上の二酸化炭素(CO2)が排出される。世界全体のCO2排出量にオイルサンド産業が占める割合は0.1%足らずと、今のところ地球温暖化に大きな影響を及ぼす量ではない。しかし、多くの環境保護活動家は、オイルサンドの開発をこのまま進めれば、それ以上に環境負荷の大きいオイルシェール(油頁岩:ゆけつがん)開発や石炭の液化事業といった、非従来型石油の開発に道を開くことになると警告する。
「北米にとっても世界にとっても、オイルサンドをどうするかで未来が変わります」と、カナダの環境シンクタンク、ペンビナ研究所のサイモン・ダイヤーは話す。「代替エネルギー開発に本腰を入れるか、非従来型石油の開発を進めるか。たった1バレルの石油を得るために、4トンもの土砂の掘削をいとわないという事実が、採掘しやすい石油が枯渇しつつあることを物語っています」
フォートマッケイ先住民居住区は長年、オイルサンド業界に抵抗を試みてきたが、はかばかしい成果は得られなかった。今はオイルサンド開発を逆に利用して、地元でできる事業の幅を広げようとしているのだと、ブーシャは話す。
先住民居住区は失業率が5%未満。医療施設のほか、3LDKの公共住宅を100戸建設し、格安の家賃で地元の人々に提供している。川の対岸に広さ3300ヘクタールの第一級のオイルサンド地帯も所有し、主体的にオイルサンド開発を行うことも検討している。
何もかもけた違いの採掘現場
アサバスカ川がなければ、オイルサンド産業がこの地域に押し寄せてくることもなかっただろう。この川が何千万年もの間、オイルサンド層の上に堆積した膨大な量の土砂を浸食したおかげで、鉱床が地表近くに(場所によっては地表に)分布するようになった。
アサバスカ川の流れがフォートマッケイに差しかかる辺りでは、暑い夏の日には、川岸の土手から黒い油がしみ出して、川面に浮いていることがある。初期にこの地に入った毛皮の交易人も、先住民がカヌーの防水にこの油を使うのを見たと報告している。ビチューメンは、室温では糖蜜のようにどろりとした状態で、気温が10℃以下になると、硬質ゴムのように固くなる。だが、もともとは液体状の原油で、アルバータ州南部でこの100年近く地下深くから採掘されてきた原油と同じものだった。地質学者によれば、何千万年も前に、この原油を含む地層が北東の方向に押しやられ、同時に地表近くに押し上げられたという。
原油を含む層が地表近くに移動すると、層内の温度が下がって、細菌が盛んに繁殖するようになる。この細菌の働きで原油の軽質分が分解され、重質のビチューメンが残ったと考えられている。
アルバータ州政府の推定では、州内の三つの主要なオイルサンド地帯(その中ではアサバスカ川周辺の埋蔵量が最大)には、現段階でコスト的に回収可能な原油が1730億バレル眠っている。「世界的に見ても膨大な量です」と、1967年にアサバスカ川岸に第1号の採掘場を建設したサンコア社のCEO(最高経営責任者)リック・ジョージは言う。2003年に米国の石油専門誌が原油の確認埋蔵量にアルバータ州のオイルサンドを加えると、カナダは一躍サウジアラビアに次ぐ世界第2位の産油国となった。
オイルサンドから石油を得る工程は単純だが、その規模は半端ではない。採掘場で活躍するのは巨大な電動ショベルだ。ショベルには一枚の重量が1トンという、硬化処理をした鉄鋼の歯がついていて、年間を通じて昼も夜も休みなしに黒っぽい砂岩を掘っている。この歯は1日か2日で摩耗してしまうため、そのたびに溶接工が新しい歯に取り替える。
掘り出された砂岩は、超大型ダンプカーに山と積まれ、続々と破砕機に運ばれてくる。そのディーゼル燃料だけで、1時間に190リットルも必要だ。アサバスカ川流域では、こうして毎日100万トンもの砂岩が採掘され、20万トンの湯を使ってビチューメンが抽出されている。その後、ビチューメンは改質装置で約480℃まで加熱して100気圧以上の圧力をかけるか、水素を加えて、より軽質な油に転換される。
黄金を鉛に変えるようなもの
こうした何段階もの処理を経て、オイルサンドはようやくガソリンなどの石油製品に精製できるようになる。生産にかかるエネルギーは膨大だ。しかも、1730億バレルの可採埋蔵量の80%前後は地下深くにあり、油層内回収法で大量の蒸気を注入して採掘するため、最大で露天掘りの2倍ものエネルギーが必要になる。熱湯や蒸気をつくるエネルギーの大半、そしてビチューメンの改質に使う水素は、天然ガスから得られる。天然ガスは、燃焼時に大気中に放出される炭素などの汚染物質が最も少ない化石燃料だ。だから、オイルサンド業界は、最もクリーンな化石燃料を使って、最も汚れた油をつくっている、つまりは黄金を鉛に変えているようなものだとの批判もある。
環境を考えれば、この主張にも一理あるが、経済の視点から見ると正しくないと、アルバータ州のカルガリー大学の物理学者でエネルギー専門家のデビッド・キースは話す。1バレルの合成原油からは、その生産に投入された天然ガスの約5倍のエネルギーが得られる。液状であることも大きなメリットだ。オイルサンド利用は経済的には問題はないと、キースは言う。
化石燃料から出る炭素の多くは、自動車の排気ガスとして放出される。採掘段階から自動車のガソリンとして燃やされるまでのCO2排出量で見ると、オイルサンドは従来の石油よりもせいぜい15~40%多いだけだ。それでも、生産・消費の全過程を通じて排出量が多ければ、環境面で不利ということになり、オイルサンドのイメージも悪くなる。
昨年6月、アルバータ州政府のエド・ステルマック首相は、この問題に対処する計画を発表した。州の予算を1300億円以上投じて、排出される炭素の地下貯留技術を開発するというのだ。計画では、2020年までには、同州の炭素排出量の増加にストップがかかり、2050年までには、2005年レベルより15%低下するとされている。それでも、温暖化防止に必要とされる削減量には遠く及ばない。
ステルマック首相は、オイルサンド開発ブームに「ブレーキをかける」ことだけは断固として拒否してきた。オイルサンドは、州経済だけでなく、カナダの国家経済にも大きな恩恵をもたらしているからだ。
アルバータ州の人々は、原油価格の変動の影響をもろに受けてきた。1980年代に急落したときには、州経済は10年間も低迷にあえいだ。オイルサンド地帯は州全体で14万平方キロ近く(北海道本土の面積の2倍弱)にも及ぶ。州政府は、そのうち採掘可能な3512平方キロのすべてを含む、50%前後の土地をすでにリースしている。環境に与える影響などを理由に、リースした土地の開発許可申請を却下したケースは今のところ一件もない。
森林や川、人体への影響は?
アルバータ州環境当局の生物学者プレストン・マキーカーンとともに、私はヘリコプターに乗り込んだ。上空から見ると、オイルサンド開発がアサバスカ川流域に残した爪跡は一目瞭然だ。風がある日には、砂利を運ぶトラックが巻き上げた砂ぼこりが、巨大な塵の雲となり、採掘現場のかなりの部分を覆っている。こうした“雲”は、ほかにも数ヵ所見える。かなたでは、シンクルード社とサンコア社の改質装置の煙突から、蒸気と煙、ガスの炎が上がっていた。まるで悪魔の工場のようなその不気味な光景に、私は呪縛されたように見入ってしまった。もっとも、採掘場がある一帯は、すぐに視界の外へ消えていった。川の上を低空飛行すると、浅瀬をわたる若いヘラジカがびっくりしたような素振りを見せる。ヘリは北に進路をとり、ほぼ手つかずの広大な森林地帯の上を飛んだ。
カナダの北方針葉樹林帯は総面積500万平方キロ(日本の面積の13倍強)、その75%前後は未開発だ。オイルサンドの採掘場の総面積は、現在420平方キロ。その開発で消えた森は、カナダの森林全体の0.01%にすぎない。だが、油層内回収法が普及すれば、今よりもはるかに広範囲に影響が及ぶだろう。
「大きな政策変更がなければ、今あるような針葉樹林は数十年で失われるかもしれません」と、カナダの森林保全に取り組むピュー財団のスティーブ・カリックは訴える。
環境当局のマキーカーンに言わせると、最も気がかりなのは貯水池だ。排水を貯水池にためるのは、アサバスカ川への廃棄が法律で禁止されているからであり、採掘場で再利用するためでもあるという。茶色の泥水が排水パイプから流れ込むと、重い砂の粒子はすぐに沈み、貯水池のまわりに堆積する。これが池を囲む砂の堤となる。抽出されずに残った油分は水面に浮かび、粘土や泥の細かな粒子は、何年もかけてゆっくり底に沈んで、軟らかい泥となる。この泥は、ナフテン酸、多環芳香族炭化水素(PAH)など有毒物質を含んでいる。
何もしなければ、こうした貯水池が完全に干上がるまでには何百年もかかる。採掘権を得るために石油会社が州政府と結んだ契約では、貯水池の埋め立てが義務づけられている。だが、作業は遅れていて、埋め立てが完了した池はまだ1カ所もない。
その中でも特に悪名高いのは、サンコア社の1号池だ。地面から100メートルの高さにそびえる砂の堤に囲まれて、アサバスカ川を見下ろす高さにまで汚泥がたまっている。過去には、この堤からの水漏れが確認されている。2007年にオンタリオ州のウォータールー大学の水文地質学チームが数理モデルを使って計算したところ、毎秒2リットルの汚染水が川に流れ込んでいるおそれがあることがわかった。州政府は、アサバスカ川の汚染は人為的なものではないと主張している。川やアサバスカ湖の付近にできた三角州で検出される有害物質は、自然にしみ出したビチューメンから出たものだというのだ。
確かに、採掘場よりも下流では、川はオイルサンド地帯を貫いて流れている。ヘリが川面の数メートル上まで高度を下げると、マキーカーンが指し示す先に、岸が黒く染まり、水面に油が浮いている所が数カ所あった。「下流では多くの金属の含有量が増えますが、これは岩石の浸食による自然な現象です。三角州の堆積物に含まれているPAHも、オイルサンド層が川で浸食されてもたらされたものです」
採掘場の下流のアサバスカ湖畔にある先住民居住区、フォートチペワイアンの住民はもちろん、政府としがらみのない科学者も、こうした主張には懐疑的だ。「これほど大量の砂や油を掘り出して、影響が出ないわけがない」と、魚と水質汚染の関係に詳しいオンタリオ州クィーンズ大学のピーター・ホドソンは訴える。
カナダ環境省の調査では、魚への影響が確認されている。アサバスカ川の支流、サンコア社の採掘場を通るスティープバンク川で1999年と2000年に調べたところ、採掘場近くで捕獲した魚は、ビチューメンが自然にしみ出している場所付近の魚に比べて、有毒物質を分解する肝臓の酵素の働きが5倍も活発だったという(この酵素の活性は汚染の指標として使われ、有毒物質にさらされると高くなる)。
2006年、フォートチペワイアンの診療所で毎週診察を行っていた内科医のジョン・オコナーが、ここ数年に胆管がんの患者を5人診たと、ラジオのインタビューで証言した。胆管がんは、肝臓から胆汁が流れる管にできるがんで、発症率は通常10万人に1人程度だ。フォートチペワイアンの人口は1000人前後だから、統計的には患者が1人出ることもめったにないはずだ。
だが、オコナーが診た5人の患者のうち2人は、生体組織検査で胆管がんであることが確認された。あとの3人は、生体検査を実施する前に亡くなったが、同じ症状を示した。オコナーがラジオ番組で発言したおかげで、多くの人々がこの問題に関心をもった。
自由市場が出した答えとは
ジム・ブーシャの少年時代に話を戻そう。森にオイルサンド開発の波が押し寄せてきた、ある冬の夜のことだ。ブーシャ少年は30キロ離れた町までお使いに行き、犬ぞりで祖父の家まで1人で帰る途中だった。気温は氷点下20℃。月明かりの下で、雪の中に白いライチョウの群れがいるのを見たブーシャは、50羽ほどを射止めて犬ぞりに積み、家に持ち帰った。
それから40年経った今、彼は白いアディダスのシャツと白いチノパンツ姿でオフィスの椅子に座り、その晩祖母の顔に浮かんだ誇らしげな表情を思い出す。「あんな世界がずっと続くものと思っていました」
2007年にペンビナ研究所がアルバータ州で実施した世論調査では、環境への懸念が解消されるまで新たなオイルサンド開発を凍結すべきとの考えに、71%が賛成した。一方、州政府のステルマック首相は、同年の石油業界の会合で、政府が自由市場に介入することに対して消極的な姿勢を示した。「この問題は、自由市場で解決されるべきだ」
だが自由市場は、強制されない限り、採掘場が自然や人に及ぼす影響を考慮しない。政府が介入しなければ、オイルサンド開発が気候変動に与える影響も気にしないだろう。ブーシャは、森という生活の糧を失った先住民に新たな生計手段を与えるために、そして、ライチョウ狩りを知らない子どもたちが未来に希望をもてるように、オイルサンド業界に協力してきた。
そんな彼にも、見返りとして失ったものがあることはわかっている。「将来の環境を考えると、現在のニーズをどこまで満たすのかはとても難しい問題です」とブーシャは話す。
アルバータ州北部では、その難題の解決は自由市場に委ねられた。目先の利益しか考えない自由市場は、どんな答えを出したのか。アサバスカ川の現状が、それを物語っている。



