洛中洛外 虫の眼 探訪

2009年 文月

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巻頭言   センダン
 初夏に咲く紫色の花といえば、フジとキリがすぐに目につくが、センダンの花は目立たない。しかし、今年はどういうわけか、京都の町中で一際目立ったのは、淡い紫の花が群れて咲いていたセンダンであった。(続きを読む)

巨樹探訪   素桜神社の神代桜


覆刻 写真集   石  仏
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制作ノート (10) 小道具たち(続)

 
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巨樹探訪 素桜神社の神代桜

はるばる長野まで
 京の桜も一段落した4月の下旬、久しぶりに遠出して桜の巨樹を訪ねた。所在地は「ながの観光コンベンションビューロー」によると長野市芋井泉平。長野市から戸隠方向にバスで小半時、バスを降りてからさらに徒歩で小半時、九十九折の坂道を登ったリンゴ畑のなかに目指す桜の巨樹があった。
 長野市と芋井と泉平の関係は結構ややこしい。沿革を紐解くと、上水内郡の芋井村が1954年に長野市に編入(第一次昭和の大合併)、それで長野市芋井。芋井村は、ずっと以前の1889年に、上水内郡の入山村、広瀬村、上ヶ屋村、泉平村、桜村、鑢(たたら)村、富田村が合併し発足している。それで正式には長野市泉平素桜513なのだが、泉平村は一旦1876年周辺の桜村、鑢村、新安村、荒安村と合併し富田村になったが、1882年に富田村から泉平村、桜村、鑢村だけが独立した。現在は泉平、桜、鑢と富田が地名として残っている。芋井の地名は消えたが、長野市の地区名や小中学校の名前に今も使われている。

(クリック一発、地図拡大)

 満開のタイミングとお天気の具合を天秤にかけて、連休前の4月20日に京都を出発、長野市内に一泊して翌朝現地に行く計画を立てた。お天気もぎりぎり持ちそうだった。ところが長野に近づくに連れて、お天気の方が怪しくなってくるではないか。そこで、車中で急遽予定を変更、14時53分に長野駅に着いたその足で、桜に向かうことにした。幸い、長野駅からのバスの便も15時33分にあり、時間的には桜まで行けそうである。問題は帰りのバスの便であるが、長野駅行き最終が18時10分と、ネットで調べた川中島バスの時刻表にあったので一安心。
 長野駅に着いてすぐコインロッカーに荷物を放り込んで、長野駅善光寺口7番乗り場、駅から見て左前方、大通りを渡ったビルの一階前のバス停に向かう。この場所も川中島バスのホームページに画像付きで掲載されていたので簡単にたどり着けた。こんな親切きわまりないホームページでの案内は見たことがない。


 16時ちょっと前に「坂額」という面白い名前のバス停で下車、ここから徒歩で桜まで向かうのであるが、いったいどのくらい時間がかかるのか、道の様子が皆目分からないので、帰りのバスに間に合うように行って帰ってこられるのかと、少々心配しながらの出発であった。お天気の方はどうにか持ちそうである。人っこ一人も通らない、けっこう道幅のある舗装道路をテクテク登り始めた。周りは、一面リンゴ畑で、花盛りなら見事であったろうが、まだ芽も出ていない。低く横に伸びた枝の上面が白く塗られている。くねくね道を歩いていてようやく出くわしたお百姓さんに尋ねて見ると、日射を防いで、日焼けしないように白くペンキを塗っているのだという答えが返ってきた。


 ヘアーピンカーブを曲がるごとに、歩いていても高度がぐんぐんあがってきた。ともかく出来るだけ早く桜のもとに着こうと、汗ばむ思いで足をはやめる。この上りでは30 分はかかるであろうと踏んでいたのだが、20分程して前方左手、道路の壁面の上に何やら人家らしきものが目に入った。近づくと急な階段があって、その上の一面わらを敷き詰めた台地上に目指す桜の巨樹がデンと控えていた。「素桜神社の神代桜」とあったので、神社の境内にあるものとばかり思っていて、まずは神社の鳥居でも目に入ると考えていたのが、いきなり桜である。

ようやくお目にかかれて
 見物人は誰もいない、まさに満開、それもピークである。が見頃というわけにはいかない。もう少しつぼみも混じっている方が赤みを帯びてきれいだろうと想像しながら周囲を何度も回ってみた。西の前方、遥か向うにはアルプスの峰々が望まれる。視野を遮るものはない、桜の全景を写真に収める絶好の背景である。しかし、いざカメラを構えて山なみを入れようとすると、どうしても右端に移動式の便所が写し込まれてしまう構図になる。山なみを半分削るか、便所をいれるかの選択に迫られる。その結果が下の2枚の写真である。
 
                        (それぞれの写真をクリックすれば大きくなります)

 胸高での公称幹周りは、11.3mである。現地に掲げてあった文部省の古い看板には次のように書いてあった。
「神代桜(別称素桜) 此ノ桜樹周囲11.3メートル 地上1.5メートルヨリ三大主幹ニ別レ 東西30メートル南北36メートル余ニ及ブ枝翼ヲ張り開花ノ季節ニハ盛観ヲ呈ス 樹種ハ東彼岸(江戸彼岸)ト云フ 樹齢二千年ニ達センカ 本県下他ニ比類ナキ楼樹ナリ」


 写真にあるように幹周り11.3mというのは、ちょうど枝分かれしたあたりの幹周りであり、測りようによっては、とてつもない大きさになる。下表の通り旧環境庁(現環境省)の1998年と2000年に行われた巨樹巨木調査結果でも11.3mとなっているが、実見したものにとっては、此の数値を鵜呑みに出来ない面が少々あると感じる。

 その点では、1936年刊行の三好學著「日本巨樹名木圖説」の記述はまとを得ている。曰く
「神代櫻ハ祠前ノ石壇ニ接シテ立チ, 其表側(西南面)ノ土際ハ裏側(西南面ママ)ノ土際ヨリモ約70cm低シ。高地面ノ土際ノ周圍約8,8m, ソレヨリ約77cm上ニテ三大支幹ニ分ル。該部ノ幹圍約9,8mナリ。三大支幹ノ内中央ノモノ最モ太ク, 周圍約5,9mナリ」


素桜の素性
 桜の周りには、文部省の古い立て札の他にも長野市教育委員会の真新しい立て札と謡曲史跡保存会の『謡曲「素桜と神代桜』の解説版が階段の下にあった。神代桜の樹齢は1,200年とつたえられており、謡曲「素桜」が1898年に観世宗家によってこの老桜の伝説から作られたという。教育委員会の解説では、その昔、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、杖を水辺に挿したものが根付いたと伝承され、「神代桜」とも「素桜」とも呼ばれているとある。素桜の名は素戔嗚尊の「素」からきたものであろう。素桜が神社名になっており、もともとはこのサクラの木を「神」として農民が祀っていたのが神社となったと思われる。謡曲の「素桜」ではサクラのご神体は八坂刀売命(やさかとめのみこと)」と云う女神が出てくる。サクラを見物にきた男に、里女が「この桜は昔、神が植えたもので神代桜と呼ばれ、たぐい少ない木なので素桜とも言う。御神体は八坂刀売命です」と教える。そして、男がサクラの下でまどろんでいるときに花の精となって現れ舞い、明け方に春霞とともに消え行く、というストーリである。この謡曲のあらすじも含めて素桜にまつわる周辺の歴史が、謡曲史跡保存会長野支部の清水昭次郎さんの記事が謡曲史跡研究会のホームページに掲載されているのを帰ってから見つけた。周辺の史跡の解説もあり出発前に知っていたらと後悔される。
 別の伝承で素戔嗚尊が絡んでいるのは、この辺りが鑪(たたら)と関係の深い土地であったからではないだろうか。以前出雲の巨樹巡りをしたとき、船通山でその地を荒らしていた八岐大蛇を退治したのが素戔嗚尊であり、ここも古代の製鉄の地で、今でいう公害で山が荒れていたのを戒める話が残っていることを知った。ここ芋井地区一帯も古代はそのような土地ではなかったのか。実際「鑪」という集落があり、聖なる山として飯縄山がある。「荒安」なる地名もある。桜は鉄倉を意味するというからおもしろい。このようなこの地にまつわるロマンを綴った「信濃の鉄ものがたり」(滝沢きわこ)なるサイトを帰ってから見つけた。二三日かけて歩いてみたくなる土地であり、前もって調べておくべきだとだと、これも例によって、後悔先にたたず。

全国的に有名でない桜?
 雲行きもあやしくなったので、最終一つ前の17時のバスに乗って戻ることにした。バスまで20分とみて、16時40分に立ち去ることにする。滞留時間はたったの20分。このために遠路はるばる7時間以上かけてやって来たのに、と考えるとばかばかしくもなり、お金も1本の桜にウン万円ついた。
出発間際のひととき、ほん側の家のご主人と話すことが出来た。かれが、毎日の開花状態を長野観光協会に報告しておられ、今日がまさに満開であること間違いないと太鼓判を押していただいた。昨日の日曜日はそれはそれは賑わったということである。地元農協がやっているバスツアーもあった。よそ者の私たちが、京都からわざわざ見に来たと知って、「どこでこのサクラのことを知ったのか」と怪訝な顔をされる。「巨樹を紹介した本に載っていた」というと、「何という本ですか」とこれまたそんなはずはないと怪訝な顔をなさる。このサクラが本にまで載っているのを知らないはずはない、と言いたげであった。長野市内にもどって、夕食に入ったレストランでも同じような対応を受けた。「ヘ〜、信じられないな、全国的に知られているなんて。ぼくらは小学校の頃、遠足でよく行ったものです。」とレストランの若いシェフ兼支配人兼ウエーターが言っていた。

神代桜の集い
 帰ってから、知ったことであるが、「神代桜の集い」と云うのが毎年開かれている。信濃毎日新聞社新聞の4月21日の朝刊に次のような記事が出ていた。
 『長野市芋井小学校の全校児童33人が20日午前、近くの素桜(すざくら)神社にある古木の神代桜を訪れ、スケッチなどを楽しむ「神代桜の集い」を開いた。神代桜は樹齢約1200年とされるエドヒガンザクラで、国の天然記念物。ふるさとの誇りとして親しみを−と毎年開いている行事だ。 神代桜は高さ約20メートル、幹の周囲が10メートル以上。ことしは開花が早く、下の方の枝は17日に満開になったため、集いも例年より10日ほど早く開いた。桜を前にした児童は「どこから描こう」「細かい枝が重なって難しい」と観察しながら画用紙に写し取っていた。 画用紙いっぱいに桜の木と笑っている友達を描いた1年生の山口雪美さん(6)は「枝をたくさん描けて楽しかった」。家族で桜を見に来るという6年生の小松香月さん(11)は「桜は芋井の宝物です」と話していた。 集いには、神代桜保存会長の八田鶴雄さん(81)も招き、6年生が桜にまつわる民話劇を披露。八田さんによると「古木の桜は長持ちする」といい、これから1週間ほどは楽しめそうだ。』
 この集いについてもっと詳しいことが芋井小学校のホームページの中に掲載されている。必読!
 それによると、この集いは、1989年の春から始まり、1999年に10周年を迎え、1年生から6年生までが描いた神代桜の絵や作文、保存会長さんのお話などを載せた記念の冊子が作成されている。ということは、20年以上もつづいている伝統ある行事である。先述のレストランのチェフもいつ時かの集いに参加していたと考えてもおかしくない。彼が遠足といっていたのは、この集いのことだったのかも知れない。
 このような地元の人たちの、いつまでも長生きしてほしいというの熱意で、樹勢がが衰えてきた桜の甦生処置が1992年に行われ、その努力が見事に実って今では樹冠いっぱいに花をつけるようになった。その間の経緯を先述した謡曲史跡保存会長野支部の清水さんの記事から引くと、
『この桜にも危機はあった。十数年前、枝の枯死や根元周辺の腐敗がすすみ、樹勢の衰えが目立ってきた。そこで地元の人たちが神代ザクラ保存会(八田鶴雄会長)を結成して保護に乗り出した。が、本格的な蘇生には多額な費用と時間が必要なことが分かり、保存会の力だけではどうしようもなかった。とはいえ、桜の衰えは放置できない。そんな折、窮状をみかねた松本市の住宅建設会社が援助の手を差し伸べてきた。五百万円を寄付し、それを基金にして文化庁から派遣された樹木医によって約一年間、大掛かりな外科的な蘇生手術が施された。平成四年、老樹は見事によみがえりの後、毎年の開花期には、再び可憐な花を大空いっぱいに咲かせている。』

牛に引かれて善光寺参り
 今年は七年に一度の善光寺御開帳の年に当っていて、丁度その期間(4月5日〜5月31日)に出くわした。せっかくだから、市内に一泊して翌朝は、善光寺にお詣りした。早朝から結構な賑わいであったが、京都の清水界隈の比ではない。


 善光寺本堂に安置されている御本尊一光三尊阿弥陀如来は654年以来の秘仏で、鎌倉時代にこの御本尊の身代わりとして前立本尊が造られ、これを七年に一度拝するわけである。一つの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に姿勢菩薩が並ぶ善光寺独特の一光三尊である。中央の阿弥陀如来の右手から白い縄が伸びており、本堂前の回向柱に結ばれている。その回向柱に触れて前立本尊にとありがたい結縁を結ぼうと,その前に長蛇の列が朝早くから出来ていた。境内の緒堂を見学して戻ってきた昼前には、その長蛇の列が何重にもなっていた。回向柱に触れ阿弥陀さんと結縁を結ぶのに、いったいどれくらい待ち続けねばならないのだろうと考えながら山門を後にした。
 仲見世で、せっかく信州くんだりまで来たのだからと、蕎を食べに瀟酒な店に入った。ちょうど昼時でちょっと待たされたが、出てきたざるそばを食してびっくり。長く繋がっていない上に太さもいろいろ、バラバラである。食感も腰がなくもうひとつであった。
 もうひとつびっくりしたのは、信州産の干し杏のおいしいのを以前に頂いたことがあったので、土産物屋で求めてみたら、どこかアフリカの国製。売り子さんに「信州産のは?」と尋ねてみても埒が開かず、店長さんが出てきて、「沢山出来ないので、特別なパックなら」と出してくれたのを買ってみた。味の方もは以前頂いたものほどびっくりしない程度のものであった。
 長野市内のリンゴの並木は山中とは違ってもう満開であった。汽車が長野市内を出る頃に、ポツ、ポツときたかと思うと、すぐにシトシト雨にかわった。予定を早めて前日に桜まで行ったのは正解であった。



































































































裸 眼 立 体 視

ステレオグラム
 ステレオグラムは、目の焦点を意図的に前後にずらして合わせることで、立体的に見ることが出来る画像のことである。
 人間は、片眼では焦点距離、物体の大きさ、重なり、明瞭さ、移動速度、両眼では、両眼視差、輻輳などの情報を総合的に利用して立体を認識している。ステレオグラムは両眼視差を利用して画像を立体として認識させる。現実の立体を見るときには、両眼の位置の差から右眼と左眼では異なった像が写っている。この見え方の違いが両眼視差である。この2つの画像の差異を利用して脳は空間の再構築を行う。逆に、平面上の画像でも両眼に視差が生じるように映像を写すことで、脳に立体として認識させることが出来る。
 この効果は、軍事的な場面で活用された。偵察機に搭載された解像度の低いカメラ2台によって同時に撮影された2枚の写真を片目ずつで同時に見ることにより、元の写真を単独で見るよりも立体的に知覚でき、カムフラージュを見破ることができたのである。

立体視
 ステレオグラムの二次元の画像を三次元的に見る方法を立体視といい、いくつかの方法がある。このうち、何も器具を用いず肉眼で直接ステレオグラムを見る方法を裸眼立体視という。
 裸眼立体視には、平行法と交差法がある。平行法は右眼で右の画像を、左眼で左の画像を見る方法であり、交差法は左眼で右の画像を、右眼で左の画像を見る、つまり視線が画像の前で交差するように見る方法である。交差法には元の画像(ステレオグラム)のサイズを平行法より大きくできる利点がある上、もともと立体視が出来ない人にとっては平行法よりも習得しやすいとされているが、人によって得手不得手がある。筆者は平行法が見やすい。
 最初は難しいが一度習得すると次からは比較的容易に立体視を行うことが出来る。

平行法の練習方法
 1. 目から力を抜きぼんやり見るような感じで焦点を画像に合わせないようにする。
 2. 画像が段々ぼやけてくるのでさらにそのままぼんやり見る。
 3. ぼやけた像が中央へと近づいてくる。
 4. 中央へと来た像が融合して立体的に見える。

交差法の練習方法
 1. 画像と眼の中間付近に指を1本立てる。
 2. より眼にするような感じで指先を見る。
 3. 視線はそのままで指を抜く。
 4. うまくいくと像が3つ並ぶように焦点が合う。
慣れると指がなくても可能である。

ステレオペア
 視差が生じるような2枚の画像を左右に並べたステレオグラム。
 19世紀には、ステレオカメラと呼ばれるわずかに角度をずらした2枚の写真を撮影できるカメラが発明され、ヨーロッパやアメリカで大流行した。日本でも明治時代に撮影されたステレオ写真が残っている。


 筆者の祖父母の家で、そのようなペア写真が箱一杯にあって、立体視するための特別なビュワーとセットになっていた。満月が飛び出て見えるのにびっくりした。


 ステレオペアの作成にはステレオカメラを用いなくても、普通のカメラでステレオペアは容易に撮影できる。

 1. 通常どおりに写真を撮影する。
 2. カメラを右または左に平行移動して、もう一枚撮影する。この際の移動距離をステレオベースと呼び、多くの場合人の両眼間隔の平均値と同じ6.5cmが適当である。
 3. 仕上った写真を左右に並べると立体視ができる。

 この方法では左右の画像の撮影に時間差が生じるため、動く被写体を撮影することはできない。他に、2台のカメラを左右に並べ同時に撮影する方法もある。この場合は2台のカメラのレンズの間隔がステレオベースとなる。

ウォールペーパー・ステレオグラム
 同じ図形の繰り返しパターンを持つ画像は、焦点の合わせ方で異なった距離に見えることがある。これを壁紙錯視と呼ぶ。 エッシャーの絵の中には、そんな雰囲気の絵があります。


ランダム・ドット・ステレオグラム
(Random Dot Stereogram, RDS)
 ランダム・ドット・ステレオグラムは、一見ノイズのようにしか見えない画像だが、うまく焦点を合わせると立体が浮かび上がってくる画像である。レーダー技術者から知覚研究に転じたユレス・ベーラによって考案された。
 初期のランダム・ドット・ステレオグラムは2枚の画像を使用していたが、1枚の画像で立体視が可能な方法が生み出された。単一の画像のみであることから、特に、シングル・イメージ・ランダム・ドット・ステレオグラム (Single Image Random Dot Stereogram, SIRDS)と呼ぶこともある。


シングル・イメージ・ステレオグラム
(Single Image Stereogram, SIS)
 シングル・イメージ・ステレオグラムは、ランダムな点の変わりに意味のある模様などを用いたステレオグラムである。ステレオグラムの本『マジックアイ(Magic Eye)』発売後、1990年以降に流行した。



 筆者もこれにはまって、ステレオグラム関連の本を何冊も買い込んでしまった。自分でランダム・ドット・ステレオグラムを作成するプログラムを書いて走らしていたこともある。しばらく忘れていたが、今回、本箱から引っ張りだし再読し、新たにインターネット上の情報を山ほど覗いてみた。その中から、ステレオグラムを自分で至極簡単に作成できるサイトを見つけたので、それを組み込んで、より使いやすいステレオグラム作成手順を作成して、自前のステレオグラムを楽しんでいる。お試しあれ!

 ●自前のSISの作成

以上の文章は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)(09/06/03版 http://ja.wikipedia.org/wiki/ステレオグラム)に個人的なことを追加して作成した。











































































































2009年 水無月

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巻頭言   エゴの木を植える
 去年の晩秋に、庭に植えたエゴノキ(野茉莉)  が、可憐な白い花を咲かせました。何故エゴ ノキなのか、そのへんのいきさつと、この不 思議な名前の木についていろいろ書きました

探訪 北山の自然と文化
品谷山のシャクナゲを訪ねる



  Magic Eyes 裸 眼 立 体 視 何か見えますか

見ずらいようなら、図をクリックして大きくして見て下さい。
●ステレオグラムについて  ●ステレオグラムの作成

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探訪 北山の自然と文化

品谷山へシャクナゲの花を見に…


1 北山というところ
「普通、あの山はいい、その山はよくない、という価値基準は、目を瞠るような絶壁があるとか、凄絶な滝があるとか、雄大な眺望が展開するとか、山脈のスケールが大きいとか、すべて自然景観の上からのみなされることが多い。このような価値観からすれば、北山はただ緑の木々が生えているだけで低くどれにもあてはまらなぬ無価値な山であり、凡庸の山である。しかし人間の介在しない自然だけが山の価値の総てではない。多くの人は、人間と自然が醸し出した文化ということに思い及ばない。……ところが北山とくに賀茂川流域の山々などを歩くと、文化などというと大そうであるが、そこはかとなく洗練されたものが感じられる。文化が自然に溶け込んだ山域というのであろうか。木々のたたずまいや何でもない道の曲折にも美しいものがうかがえる。こんな山域は他に類例を見ない。これが北山のよさであり、北山にしかない個性だと思われる。このような北山の中にある峠である。……自然と人間が融合してそこに出来上がったものに対する独特の価値、それがもっとも凝縮された形が峠である」

ちょっと引用が長くなったが、これは金久昌業氏の名著「北山の峠」の上巻にでてくる一節である。「人間と自然が醸し出した文化」とか、「文化が自然に溶け込んだ」とか、「自然と人間が融合し」などと表現されている『北山の自然と文化』の一端に触れようと、連休の一日、品谷山(しなたんやま:880.7m)のシャクナゲとイワカガミの花を訪ねてみた。人間と(人間が考える)自然との複雑な絡み合いをつくづく考えさせられた山行きであった。それは、「北山」ならでは、のことと言えよう。

北山の山は、○○山といわずに○○峠と名付けられていることもある。例えば、三国峠はれっきとしたピークであるがこう呼ぶ。ブナノキ峠、天狗峠、傘峠などすべて三角点のある山である。峠は坂を呼ぶこともある。例えば京都市内と亀岡の峠は、老坂である。さらに、老坂峠とだぶって云われるときもある。鷹ケ峯の京見峠は長坂ともいう。多くの北山のピークは名前がなく、そこから流れ出す谷の名前の後に山をつけて呼ばれることが多い。桑谷山、鴨瀬谷山、大段谷山、鍋谷山など、中には中山谷山というのまである。今日登る品谷山もそうである。又、「谷」を「たん」と読む。これは沖縄の「読谷」と同様な読み方である。谷の訓としては「たに」と「や」のかけ離れた2つがあるが、「たん」は「たに」の系統であると思われるがどちらが元だろうか。

例によって「小△」女史の車に便乗して佐々里峠まで約1時間半のドライブに出かけた。鞍馬から花背峠を越え、京都市左京区最北端の集落広河原尾花からさらに北へ、美山町との境で車を停める。元北桑田郡美山町は2006年京都府船井郡の園部町、八木町、日吉町と合併し南丹市美山町になった。北桑田郡の京北町は京都市に合併して京都市右京区になったが、美山町はなぜか京都市との合併を拒んだ。地勢的に美山は由良川流域に、京北は大堰川(桂川)流域に位置する。佐々里峠は両流域の分水嶺上の一点である。この分水嶺に加えて、佐々里峠の東6キロには安曇川流域との分水嶺が、南北に走っている。

佐々里峠から西に走る分水嶺上には、ダンノウ峠、ソトバ峠、コシキ峠、林道峠、深見峠、知谷峠、原峠、神楽坂、海老坂、鏡峠とおびただしい北山の峠群が続く。名前が付いているということは、大昔からこれらの峠を越えて人々の往来があった証拠である。単に人の往来があっただけでなく、北山には、大昔から人がやってきて住み着き、生活してきた土地でもあった。その痕跡が至る所にみられる。

人知れぬ山中に見事に咲いたシャクナゲと足下一面に花を垂れ下げたイワカガミを見に行ったつもりが、山中で様々な人の営みとその跡を見聞きした、思わぬ一日となった。それはとりもなおさず、案内していただいた芦生の主、佐々里峠の番人、北山の生き字引である「小○」翁のおかげである。

2 佐々里峠
佐々里峠の手前のサクラの下に停めてある軽トラックの所に、朝9時半から10時の間に来てくれたら、自分しか知らないシャクナゲの群生場所に案内しよう、今が満開だ、との誘いに便乗して佐々里峠にやってきた。この峠から北一帯に京都大学の芦生演習林が広がっている。佐々里峠は、この演習林の南の入口でもある。そのたもとには、石を積み上げ三方をかこんで、屋根で覆った石室がある。結構な広さで、広河原発の京都市内行きの最終バスに乗り遅れたハイカーが、夜露をしのぎ一夜を過ごすのにもってこいである。お世話になったハイカーたちも多いだろう。一昔まえまでは、峠を越えて京へ降りていく旅人や行商人が利用したのでは、と想像してみる。奥の一段高い棚の上の祠には、地蔵菩薩の石像が祀ってある。よく見かける峠のお地蔵さんといった風情であるが、もうひとつ別の役も担っているようである。毎年8月24日に行われる広河原の「松上げ」の一週間前には、村人がこのお地蔵さんを里の観音堂に迎えて、松上げが終わればまたもとに戻される。峠の地蔵は火祭りの主役である。そもそも松上げが行われる24日は地蔵の縁日である。(八木透「京都北山の松上げと愛宕信仰」創造する市民、第52号、京都市社会教育振興財団、1997年)

3 尾花山荘
教えられた番号の軽トラックは駐車しているものの,あたりを見回しても誰もいない。きょろきょろしていると、南側の谷の下から人声がした。こちらも「オーイ」と叫んでみたら、二人の男性が谷に降りる階段を登ってこられた。先頭の人が、今日シャクナゲ群生地まで案内していただく「小○」さんで、後ろの中年男性は、昨日「小○」翁に拾われて「小○」さんの山小屋「尾花山荘」で一夜を明かした宝塚から北山に来ておられた、これまた「小×」さんだという紹介。お二人に初対面の私は「大○」ですと名乗って、お二人について50段の急な階段を10m程おりていった。底が「小○」翁手作りの尾花山荘である。入り口の右手には、谷の上に突き出て、谷に落とす自然の水洗便所ではなく、山水を集めた水道の水をレバーを押して流す、れっきとした水洗便所とステンレス製の湯槽がしつらえられている露天風呂がある。その奥が前庭になっており、いろり風の火床がしつらえてあり、それを囲んで自然木を利用したベンチがずらりと囲んでいる。この小屋は南に開かれた谷のどん詰まりに立地していて、北と東西は山の急斜面で遮られている。冬の北西からの季節風も台風もこの小屋を揺らすことがない自然の要塞である。小屋の北側の府道からは一切見えない。ガードレールから乗り出して覗きこめば屋根が見える程度である。地形を生かした見事な立地である。小屋本体は前庭から一階高い所にある。庭から見上げると、遊び心で角材を凸凹に並べたテラスが前に張りでている構造の小屋である。十五畳ほどの板間の部屋の中央には囲炉裏がある。外壁とは打って変わって、床は見事なほどつやつやに光っていた。

小屋は人にも動物にも開放されている。からすが天ぷら油を失敬しにやってきては、ナベをひっくり返し、そこら中を油だらけにするし、小屋の主人がやってくる前に、かってに入り込んで、火を熾し宴会を始めてしまう輩がいたり、冬場にバスに乗り遅れ北山で一晩過ごす羽目になり、寒さを避けて小屋に潜り込むハイカー。運悪く小屋の存在を見落とすと、「小×」さんみたいに地蔵小屋で震えながら一晩過ごすことになる。「小○」翁の聞き飽きない四方山話を拝聴しながら北山を歩き、小屋で一晩過ごした山好きは、数えきれないことだろう。昨今、自分たちの山歩きのことをしたためたブログがそれこそ山ほどあるが、その中で「小○」翁に言及したものが幾つもある。これを読むのは楽しい。悪く言う人は誰もいない。「小○」翁に惚れ込んだ人も多いだろう。そういう筆者もその一人である。

4 西洋タンポポ
前庭でコーヒーをいただきながら、今日の行程に耳を傾ける。往復4時間の道程でそれほどきつくはなさそうだ。予報では雨模様であったが、幸い曇っているがまだ降り始めてはいない。降りてきた50段の階段を登って、府道のガードレールの外側にでる。ガードレールに沿って5mほど行った所に尾根へ出る取り付きがあった。急坂ではあるが、木の階段がしつらえていたので楽に尾根道にでられた。高度は既に800m。すぐに京都府の佐々里峠無線中継所に出くわす。金属柵に囲まれた約5m四方の敷地内にはタンポポがいくつか咲いていた。

「西洋タンポポですわ」
「なんで、こんな山奥まで…」
「建設工事のバラスに種が混ざっていたんで…」

なるほど。花を取り囲む緑色の細片を総苞片というが、それが反り返っているのが西洋タンポポ(写真下)で、在来種(写真上)はしっかりと花弁を包み込んでいる。在来種が西洋タンポポに駆逐されてしまったとよく云われるが、しかしその因は人間にある。在来種と西洋タンポポの間にはいくつか違いある。在来種は水分や栄養の多い土を必要とし、花が咲くまでに2〜3年かかるのに対して、西洋タンポポは乾燥した栄養の少ない土でもよく育ち、成長が速いので芽が出てから半年あれば花が咲く。さらに、在来種は花粉を運ぶ昆虫がいないとタネができないのに対して、西洋タンポポは昆虫がいなくてもタネができる(単為結実という)。つまり、在来種は生息するのに豊かな自然が必要なのに対して、西洋タンポポはかなり厳しい条件でも生息できる。西洋タンポポのタネは落ちるとすぐに芽を出しほぼ一年中花を咲かせるので、至る所で目につく。在来種のタネは夏の間は土の中で眠っていて秋に芽を出す。自然が豊かな環境では、他の植物との競合が激しい夏に休眠して秋に発芽するという特性をもち、種を維持させるために有利に働いてきた。ところが、都市化が進み環境が破壊され、豊かな自然が無くなっていく中では、このような特性を持った在来種は生き延びる事ができなくなってきた。それに対して、西洋タンポポの方は、現代の日本の自然環境にうまく適合したため、一気に広まっていったと考えられる。在来種が少なくなり、西洋タンポポがやたらと目立つようになったのは、人間によって豊かな自然が破壊された結果といえよう。ヨーロッパでも自然が豊かな所では両種が生存しているということがこの人間原因説を裏付けているのではないだろうか。(「タンポポから都市化を考える」を参照)

5 クマザサ
「小△」さんにシャクナゲを見に行かないかと誘われた時、「ちょっとヤブコギ(藪漕ぎ、泳ぐように手を動かして進む事、山仲間では「ジャンジャン」という)をするから」と聞かされた時には、人の背丈よりも深いクマザサ(隈笹、熊笹ではないし、隅笹でもない)が生い茂り視界を遮り、行く手を見失う光景を頭に思い浮かべた。また、花背の農家の庭先で、祇園祭の粽に使われるクマザサを天日で干していた光景も目に浮かぶ。しかし、予想に反してというか、やっぱりここもと言う感じであった。尾根道と両側の斜面はクマザサどころかブナの発芽も見られない。バリカンで刈り上げたように地肌がむき出しになり、瓦礫がゴロゴロしていた。数年も前から、北山で「笹の花が咲いて枯れてしまった」という話をあちこちで聞くようになった。60年に一度起る現象だと言い継がれているが、本当だろうか。

「酸性雨でやられたんや」
「へっ」
「ササがなくなって、山の保水能力が低下し、いっきに雨水が斜面を流れるから、ちょっとした雨でも下の谷は瞬く間に増水して、下流で洪水を引き起こしている。舞鶴でバスの中まで浸水して、立ち往生したことがあったやろ」
「ああ、そういえば…。」

2004年10月、台風23号の豪雨で、観光バスに乗っていた団体旅行の中高年の人たちが、バスの屋根によじ上って、カーテンでロープを作り、洪水に流されかねないバスを木につなぎ止めて、一夜明かして、明くる日になってようやく救助されたことがあった。新聞に載った屋根まで水に浸かったバスの写真をまだはっきりと思い出す。そのことが、ササが枯れた結果だとは思いもよらなかった。京都新聞の「台風23号のつめ痕 バスの屋根で一夜耐え」というドキュメント記事が残っている。

7 クリの木
あちこちにクリの倒木がやたらと目立つ。

「クリはなかなか腐らない。それで枕木にずっと使われてきた。昔は京阪が持っていった」
「へぇ〜。しらなんだ」

いまでは、枕木も大方、コンクリート製にかわった。それで、倒れたクリが放置され、むき出しになった山肌と相まって荒れ山の感じを醸し出している。

クリの木というのは、最も腐りにくい木の一つで、その強さ・耐久性は桧の比ではなく昔から、蔵の土台などにはクリが好んで使われ重要な建築材であったが、明治維新後、文明開化とともに鉄道が敷かれるようになり、そのレールの枕木として大量にクリが使われてしまったため、クリは非常に希少で高価な建材となってしまった。それがコンクリートに取って代わられたからといって、また建材として利用されることはなさそうである。日本建築の濡れ縁の材にもってこいと思うが、濡れ縁を持った構造の家を、今は誰も建てなくなっている。しかし、昨今は、廃枕木がホームセンターで人気らしい。アンチックで、ウッドデッキに利用したり、戸外で使う小物に生まれ変わる。がクリの倒木を山から運び出して製形してまで使う人は「小○」さんぐらいである。と思いきやもう一人いた。藤森照信である。

「復活したクリ普請」と題する記事が「日経アーキテクチュア」(日経BP社)にある。その一部を引くと
『私がはじめてクリを使ったのは,処女作の神長官守矢史料館で,鉄平石屋根回りの鼻板(幕板)と収蔵庫の軒の支持材に使い,オイルステンを塗った。この時は,共同設計者の内田祥士とカクダイまかせだったが,次作のタンポポハウスでは,気合いを入れ,私が子供の時に植えた40年もののクリの立木をカクダイさんに伐ってもらい,角柱にして玄関先に立てた。この時以後は無塗装で使うことになる。その次はニラハウスで,施主の赤瀬川原平さんと山に入ってクリの倒木を伐り出し,ハツって玄関先に立てた。アトリエの柱は,カクダイが用意してくれた丸太から挽いた角柱。その次の秋野不矩美術館では,地方の製材所が用意した材を玄関ホールの外回りのテラスの柱に使った。テラスの手スリ関係のクリ材は,カクダイで製材してくれたのを,秋野さんの息子さんと一緒に,現地まで運び,加工し取り付けまでやった。アプローチの登り坂の手スリも同様で,この時,赤瀬川さんがクリ材のクサビを3日がかりで数十本,削り出してくれて助かった。この時の工事で,設計者側シロウト施工集団の縄文建築団の,今回の施主の谷口英久を含むメンバーは,扱いにくいクリ材と雨中で格闘し,自信を付けた。』

クリは野外に置いても腐り難いので、ミツバチの巣箱にも利用される。中を刳り貫いてノミで内側を滑らかにして、さらにバーナーで黒く焦がす。黒いとハチは安心するという。

どんどん脇道にそれてしまったが、もと来た道に戻ろう。

8 ツキヨダケとナメコダケ
10年以上前から、温暖化と呼ばれる気温の上昇で、カシノナガキクイムシの被害が北山でも見られるようになった。この虫はブナ科のナラ、カシに侵入して立ち枯れおこす。それが今では、京都市内の東山一帯にまで侵入、カシ・ナラの大量枯死を引き起こしている。このキクイムシの生態については、芦生研究林のホームページの「芦生演習林に置ける立ち枯れについて」と言う記事に分かりやすい解説がある。

尾根道の左側に、立ち枯れたブナやコナラ何本か見られた。

「去年枯れたこのブナには、今年の秋にはツキヨダケが光る」
「えっ、あの猛毒の」
「こっちのコナラには、ナメコダケがいっぱいつく。これはキロうん円やし、全部とれば…」

日本全国のきのこ中毒の約半数は、ツキヨタケによるものだ。シイタケ、ムキタケ、ヒラタケなどと間違われて口にされる。食後30分から3時間で嘔吐や下痢の症状が現れて、見るものが青く見える幻覚症状を伴うこともある。最悪の場合脱水症状で死ぬ、とあるから怖い。今昔物語の巻28の第18話で「和太利」と言う名前で登場している。和太利による毒殺未遂事件の話である。

みそ汁の具でおなじみのナメコダケは、水なめこで100gパックが65円位からある。高くても100円、うん万円になるには相当キクイムシにがんばってもらわなくてはならない。ぬめりのある食感は日本人好みである。ぬめり成分には腸内コレステロールを体外に排出する効果があると云われている。またまた横道にそれてしまった。閑話休題。

9 伏条台杉と北山杉
北山の伏条台杉は巨木愛好家の心をわくわくさせる。この尾根道の両側の斜面にもその奇態な幹をさらしている、中程度の大きさの伏条台杉が散在し、下生えのほとんどない尾根道のあちこちに、根から直接萌芽したスギの小さな株が繁茂している。この萌芽力の強さがアシュウスギと呼ばれる裏スギ系統のスギの特徴で、「伏条」と云う名が冠せられている所以である。それが根元付近から何本もの枝を分岐させ台杉状に仕立てられたものの利用されないまま、数百年を経ると、巨樹愛好家をわくわくさせる奇態な存在となる。

「小○」翁いわく、
「幹が太いかどうかは、樹冠を見ればわかる。先が三角に尖っているんではなく、まる〜くなっていると、結構太い」
「あっ、そうか、なるほど」
と何となく納得した。幹に下の方ばかり見て大径木を探していたが、斜面や谷底に生育しているスギは、周囲に邪魔されて幹が見え隠れし、大きいかどうか判断し難い。

世間でよく知られている「北山杉」は、背のすらっとした華奢な京美人である。川端康成の「古都」のヒロイン千重子が「北山杉のまっすぐに、きれいに立っているのをながめると、うちは心が、すうっとする」と語っている、そんなスギである。東山魁夷が川端に贈った名品「冬の花」はその北山杉の端正な姿を描いたものであるが、巨木愛好家の心をわくわくさせるものではない。
 「北山杉」というタイトルのフォークソングが70年代にヒットしたこともある。東京の大学を中退したり、休学していた連中のグループサウンド「うめまつり」のヒット曲であるが、青春を回顧したあま〜い歌詞である。
「冷たい雨が雪になり 君の足跡隠れて消えて 涙まじりの雪払い 北山杉を思い出します」
 そんな歌詞には似つかないが、ハッピをまとったグループ写真のジャケットなかなかいい。聞いてみたければジャケットをクリックしてください。

元に戻って、伏条台杉が生育している場所で、早くから知られていたのは、花背の井ノ口山山頂の東側の稜線である。約200本近くもの個体からなる台杉群がある。その中の最大木は幹周り22mにも達し、京都市の天然記念物に指定されていて、日本の巨樹100選にも選ばれている有名木である。個人所有地内にありちょっと回り道をして、礼を尽くさないとお目にかかれない。井ノ口山の南にある片波山(湯槽山、湯舟山あるいは鍋谷山ともいう)の周辺、花背原地の集落近く、さらに桑谷山へ向かう南側の尾根筋にもあるという。これは未見である。京都大学の芦生演習林内にも何十本ものアシュウスギが生育している。今日案内してもらったその南に位置する品谷山の尾根筋にも、わくわくする伏条台杉の大径木が数本か散在していた。何種類もの木が寄生させている奇形のスギもあり、その中にはシャクナゲも見られた。

 最近、といってももう15年以上になるが、新たな台杉群生地が公になった。これは丹波広域基幹林道建設反対のおかげである。その中心的群生地は京都府の保全地域に指定され、屋久すぎランドの如く「見物客」で賑わっている。指定されるまでの経緯とその後の状況について筆者が見聞きしたことを「丹波広域基幹林道」の題で補遺としてまとめておいたのでぜひこちらも読んで下さい。

10 ヒノキ
 北山で植林されている樹種でスギに次いで多いのはヒノキであろう。所々に鉄のワイヤーがスギの下生にみえがくれする。何故だろう。

「ヒノキなどの植林した木を切り出すのに使ったワイヤーや、放ったらかしてある。パルプ材に、大昭和製紙が切り出していた跡や」

高級材と思っていたヒノキも針葉樹、パルプ材として需要があった。北海道からここまでやってきたのか、と感心した。それも少なくなり、広葉樹までパルプ材として伐採された。紙需要はどんどん拡大し、今では、国内材では間に合わず、ほとんど輸入パルプに頼っている。

「これも、凄い台杉ですね」
「ちがう、ヒノキだ。」

高く聳えた樹冠を見上げると、確かにヒノキの葉をつけている。しかし、目の前の大きな枝分かれした幹を見るとアシュウスギに見間違う。実際、ほとんど総てのハイカーたちは、この木の写真をスギとしてインターネットで紹介して涼しい顔をしている。

「後ろにまわってみな。何がある?」 
「へっ。あっ、お地蔵さんや」

何本にも枝分かれした幹、その間のくぼみに石の地蔵さんが隠れていた。小○翁以外誰も知らないようだ。ひょっとして彼が置いたのではないかと疑う。帰り道にこの木の前を通ったとき、彼は、この木の二股に分かれた所に登るから、写真を撮ってくれという。生き地蔵のつもりか。どうもあやしい、彼が置いた地蔵だろう。

11 リョウブ
 斜面の木々の間に、所々網が張ってあるのが見え隠れする。明らかに鳥を捕獲する霞網ではない。鹿よけの網である。植林された若木の目を食い荒らされるのを防ぐためである。一時期、この網に角を絡ませたまま死んだ鹿の多いことに憤慨して、自然保護・動物愛護の連中から抗議の声が上がっていたことがあった。今では鹿が増え過ぎ、里にまで降りてき畑を荒らしている。植林されずに荒れたままの山中では、鹿がリョウブの皮まで剥いて食べた跡が、あちこちで見られた。リョウブ特有の赤茶色のまんだらの木肌が全面赤茶けた色になっていた。

「この禿げた地面は、何の跡か分かるか」
「どこ?、ああ、ここんとこ。猪の泥場(ヌタ場)みたいやけど、それほどはっきりしてないし、いったい何の跡やろ」
「鹿がエッチしたところや」
「えっち???…、ああ〜、なるほど」

リョウブは令法と書く。令法という名は、救荒植物として育て蓄えることを法で決められたからといわれるが、初夏に房状の花序をつけ、この形から「竜尾」がなまったとの説もある。若葉をゆでて炊き込んだリョウブ飯は現代でも知られている。蜜をたくさん出すようで、吸蜜に訪れる昆虫は多い。リョウブの蜂蜜を頂いたこともある。樹皮は表面が滑らかなため、「サルスベリ」と呼ぶ地方もある。リョウブ属の植物は、世界では64種ほど知られているとの事であるが、日本では1科1属1種の親戚縁者のいない、さびしい植物である。褐色のまだら模様の木肌から判別も容易である。

12 クロモジ
 至る所でクロモジの細い幹が一面横倒しになっている。

「匂い、かいでみ。いい匂いやろ。
それにしても、なんでこうなっているのか分からん」
「さすが、クスノキ科や、いい匂いする。それで楊枝に使うのか」

千葉県君津市久留里では、古く江戸時代から、このクロモジの楊枝を特産品としていた。久留里藩の藩士が貧しさをしのぐため、内職として楊枝を作っていたらしい。昭和初期になって、藩城の異名である雨城の名を使った、「雨城(うじょう)楊枝」の名で売られ、千葉県の伝統工芸品になっている。一本300円もするこの楊枝を毎食後に爪楊枝にするわけにはいかない。

ちょっと横道にそれて、歯が悪いために毎食お世話になっている「爪楊枝」のは由来と語源を調べてみた。奈良時代に仏教が伝わった際に楊枝も伝来し、仏教と楊枝との関係は深く、お釈迦様も木の枝で歯を掃除することを教えたそうだ。「爪楊枝」は「爪先の代わりに使う楊の枝」と云う意味。鎮痛解熱剤として用いられるアスビリンという物質がヤナギ科の植物に含まれているそうで、爪楊枝をかむと虫歯の痛みがやむらしいが、現在の爪楊枝は樺の木が使われているから効果はないとのこと。爪楊枝の先端と反対側にある溝は製造工程で焦げて黒くなったのをごまかすために削られたものである。使用後の爪楊枝を折って、先端を置くために溝が掘られているわけではなさそうである。

クロモジというのは、樹皮の上の黒い文様を文字に見たてて、黒文字としゃれたもの。雌雄異株、春先に小枝の節に小さな淡い黄緑色の花を沢山つける。秋に黒く熟す。

13 イワカガミとイワウチワ
 まず、足下を覆ったのは、イワウチワの葉であった。花の時期は残念ながらもう過ぎていた。イワウチワは半日陰の林の中でも見かける、常緑の艶がある厚い丸い葉を持った多年草である(右写真)。葉の基部がくびれた心形をしている。同じイワウメ科のイワカガミによく似た葉である。手鏡と団扇は区別できるが、素人には、イワカガミとイワウチワの葉を見分けるのはちょっと難しい。花で見分けるのは容易である。イワウチワの花は単花で学名のShortia unifloraのunifloraそのものである。一方イワカガミ(Schizocodon soldanelloides)は先端が細く裂けた花を5〜10輪の下横向きにつける。イワカガミダマシ(Soldanella alpina)というのがある。これはサクラソウ科で、ヨーロッパ原産、日本へは園芸用として移入された多年草である。花はイワカガにとても似ているが、葉は厚ぼったく、丸形革質で蝋質の光沢がある。

「イワウチワはもう終わったけれど、イワカガミは、今日あたり、咲いていると思う」
「たのしみ、たのしみ」
「小○」翁の予想通り、イワカガミは満開であった。

14 アセビ
北山の森には結構アセビが群生している。早春に白い花をいっぱいつけ、ちょっとどぎつい匂いを漂よらす。アセビは馬酔木、馬だけでなく多くの草食動物は敬遠する。そのため、コナラやアカマツの生育する普通の森林では常緑樹であるアセビが密生し、林床にはほとんど他の植物が生育しないことになる。奈良公園のアセビの群生は有名である。

「ここのアセビは花が咲かない」
「ヘ〜、なんで」
「なんでか知らんけど、咲かへん」

後で聞いた所によると、京都大学の芦生演習林(2003年4月から、正式には「京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林」という)の元研究林長だった先生曰く、

「そんな筈はない。咲きますよ。花の時期に行ってはらへんだけでしょう」

と一蹴されたという。

アセビの枝葉を火にくべると「ゼニカネ、ゼニカネ」ときこえる。それで、米子地方ではアセビのことを銭金柴とよぶ。「足痺れ」がアシビ、そしてアセビになったというがほんとうだろうか?

15 ト ガ
「これはトガや」
「ツガ? 木篇に…」
「母でトガ」
「ツガ」

トガ、ツガ論争。まあどちらでもよいのだが、気になって帰ってから調べてみた。深津正・小林義雄著「木の名の由来」(東京書籍, 東書選書131, 1993年)の167ページ「ツガ」の項を見ると、「和漢三才図絵」では、ツガは関東、トガは関西の呼び名であるとしている、とあった。現代でも大工仲間ではその傾向がある。しかし、長野、鳥取、島根、広島、岡山などの諸県では、イチイのことをトガと呼んでいる。富山、石川、福井ではモミをトガという。隠岐ではカラマツを、加賀の白山地方ではトドマツをトガと云うそうだ。トガとツガを別種とする説もあり、トガに樛をツガに栂を当てているものもある。しかし、両者を同じものとするのが一般的である。

しかし、トガ(ツガ)とモミは別種である。前者の球果(ポックリ)は2-3cmと小さく、後者のそれは10-15cmと大きいので、葉や幹から識別は難しいが、ポックリが成っていれば容易である。ツガの線形の葉の先端は少しへこんでいるというが、はっきりしない場合もある。ツガは主に尾根筋あるいは尾根に接する斜面に多く群生する。北山でも例外でなく、太くてすらっとした高木をあちこちの尾根筋でよく見かける。1994年6月に「北山の自然と文化を守る会」が実施した市民参加の自然環境調査で、林道工事の残土の捨て場で幹周り4m以上のツガの巨木7本も発見されたことを、補遺の「丹波広域基幹林道」の話の中に書いた。この中の最大木は幹周り4.75mもあり、全国的に見てもまれに見るツガの巨木群生地である。とはいうものの、屋久島には幹周り9mを越えるツガがあり、その他にも6m級はざらである。屋久島はスギだけでなく、ツガの大径木の貴重な生育地である。このことは余り知られていない。

トガ(ツガ)は非常に目の詰んだ美しい目合いの木材で、針葉樹の中では特に堅いのが特徴です、これを使った民家は「トガ普請」と云う名で知られている。高級住宅の代名詞として桧普請がまかり通っているが、どうもそれはメディアに乗って広まった関東の慣わしのようで、関西圏ではトガを使って来たようである。ちなみに、京都にいくと、ちょっとした和風の建物はトガ普請が多いという。小△さんの借りられている下鴨の家がトガ普請であることを見抜いたのは小○さんで、住まっておられる小△さんはご存知ではなかったし、何度もお邪魔した私も、とんと気がつかなかった。いつも見ていた床の間の柱がツガであるとは、想像もしなかった。

16 ツ ゲ
「この地べたに這っているのは、ツゲ。雪におさえられて、冷たい風にふかれて、小さな葉が縮んでしまって、(写真のように)こんな姿に成った」

庭木として、円く剪定されたツゲの木しか見たことのない者にとって、これがツゲと分かるまで時間がかかった。云われて見るとまぎれもなくツゲである。円くて堅い葉をし、材は黄褐色で極めて緻密であるため、印材、版木、将棋の駒、櫛、耳かきなどに利用されている。御蔵島のツゲ細工は有名である。御蔵島では子供が生まれると、その子の将来のために山に1,000本のツゲを植える習慣がある。江戸時代には、ツゲ材を三宅島経由で江戸に集荷していた。日本将棋連盟が「ツゲ駒感謝の日」の御蔵島記念ツアーを毎年春に催している。

英語の箱を意味するboxはツゲの学名にあるラテン語 Buxusに由来している。古くから細工物に使われ、この木で造った小箱を意味するようになったそうだ。漢字は黄楊である。柘植と書いている場合にも出くわすが…。変換間違いでもなさそうである。

17 ハイカー
最初に一息入れた所で、数人のハイカーが私たちの休んでいる前を通り越して、私たちが今しがたやって来た道の方へ下って行こうとしている。

「あんたら、どこへいくの?」
「廃村八丁」
「そら、道、間違えている、どっから来たんや」
「菅原のバス停から登ってきた」
「途中で、道、間違えたんと違うか。ここからやったら、私らがこれから行く、あっちの方へ行かんとあかん。」
「あ〜、そうか…」
「シャクナゲが咲いているのを見に品谷山の方へいくんやけど、あんたらもそっちから谷に沿っておりたら、廃村八丁へいける。よかったらついて来な。ついでにシャクナゲも見せて上げる」
「そんなら、そうしょうか」

と、もうひとつ納得がいかないようす。少なくとも彼らが行こうとしている方向は佐々里峠。廃村八丁とは方角ちがいの北と南と。どこかで方角を間違えたのは明らかであった。たぶん、品谷の分岐点かダンノウ峠あたりで、西へ行く所を北へ道を取ってしまったのだろう。

ほどなく、全員品谷山の三角点(880.7m)に着いた。丁度12時。腹ごしらえをすることにした。小△さんは、巻き寿司、私は、いつもの駸々堂のクラブハウスサンドイッチ。小○さんは水とたばこだけ、小×さんはあられとクッキー少々。お二人ともちゃんとした昼食は持ってこられなかったようだ。それに対して、道を間違えた連中は、大きなビニールシートを拡げ、コッフェルでお湯を沸かし、本格的な食事を始めた。小△さんが、巻き寿司をお二人の小○さんと小×さんに分けられ、食後のデザートには小×さんのお菓子をみんなで頂き、ものの30分もせずに食事を終えた。小○さんの一服も済んで、さあ、出発しようかと思っても、ハイカーの連中はなかなか終わりそうにない。しびれを切らして小○さんが、

「さき行くから、道を教えとく。こうこうこうや」

ふと見ると、小○さんの目の先に真っ赤な手袋の片割れが落ちていた。小○さん、これを拾って、

「ええか、よく聞き、迷いそうな所で、これを木に引っ掛けておくから」

18 ホンシャクナゲ
さあ、シャクナゲ目指して出発。

「あいつら、あほやな。せっかく誰も知らない満開のシャクナゲ、案内してあげると、ゆうてはるのになあ」
「ほんまや」

そうこうしていると、ちらほらと淡いピンクのシャクナゲの花が、行く先の谷間の斜面に見え始めた。

「まだ序の口、壁のように咲いている」

間もなく、前方180度とは云わぬまでも、眼前に結構な幅でシャクナゲが群生している所へやってきた。写真をぱちぱちやっていると、

「これ、おもしろいやろ。こんな所から出ている」

そのシャクナゲの木は、支幹をうねらしたアシュウスギの腐りかけた一本の幹から、真横に生えだし、斜め上に延びた枝に沢山の花をつけている。その他にもいろいろな木が寄生していた。如何にうまく写真をとろうとしても、他の寄生木や周辺の木々の枝が邪魔になって、どうしようもない。

「この前の枝、切ろか。背中のリュックに、のこぎりが入っているから、とってくれ」
「はい、これですか」

ゴシゴシ…、と小○さんはなんの躊躇もなくその邪魔になっている何の木とも分からぬ木の枝を伐採された。みんなで写真を撮り合って、一段落して

「こっちの谷底の方に、まだたくさんあるが、どうしょう」
「かなりきつそうですね。この辺で…」

というわけで、来た道を引っ返して行った。
シャクナゲはホンシャクナゲとも云う。ブナ帯のやや湿った林内や渓畦の岩場に生育するツツジ科の照葉樹である。最近よく山寺の境内に植えられているのに出会うが、高い拝観料を払って入った境内にシャクナゲが行列していても有り難いことはない。山間で思いがけず出くわせばこそ美しい花である。こんな喜びを独り占めにしておけず、だれかれとなくに、案内したくなるのが人情である。そのおこぼれを頂いた。

19 廃村八丁
帰り道、素人目にはどの方向から来たのか迷う道筋が、あちこちにあった。小○さんはなんの躊躇もなくづんづんと進んで行かれた。

「あの連中、この辺で会うはずやけど」
「この谷底で、声が聞こえたけど…」
「へ、どこから。この谷か。そら教えた谷と違う。もうひとつ向うの谷筋へ降りなあかん」

北山は奥が深い。1,000mにも満たない低山が連なり、幾重にも重ねあっている。地形が読めないと、別の谷に迷い込んで、にっちもさっちもいかなくなる。井ノ口山周辺で、尾根へ出るにも出られず、谷に降りるにも降りられず斜面にへばりついていた経験を思い出した。その時は自信満々で谷筋を登ってきたのだが、途中でおかしいと気がつき別の谷筋を登ってみたが、また違う。そうこうしているうちに、にっちもさっちもいかぬ斜面で立ち往生とあいなった。一歩間違えて、足を踏み外していたら…、と考えるとぞっとする。

件のハイカーの連中はどの谷に降りても、この辺りなら、水が流れる方向に下って行けば廃村八丁だから、迷うことはないだろうが。問題は、出町柳行きの最終バスに間に合うか、と言うことである。広河原発17時が最終である。誰かさんの小屋に泊まるはめになるとも限らない。

私たちは、丁度中間点の866mの展望点で一服して、比良連峰をじっくりと眺め、北から南へ順にピークの名前を教わった。ここから南西へ降りて行けば、四郎五郎峠に出られ、ダンノウ峠から廃村八丁へ向かうハイキング道に出くわす。おそらく彼らが通るはずであったハイキング道である。

10年以上も前に菅原からこのハイキング道を通って廃村八丁へいったことがある。その頃はまだを白壁の蔵、分教場の建物も残されており、数少なくなっていた家々の軒には、冬を越すために準備されていた薪が、うず高く積まれていた。小○さんの話では、しばらくの間、土蔵の白壁いっぱいに絵が描かれたり,この村の村長だと称して半住み込み状態の変人とその仲間がいたり、それなりに賑わっていたが、名古屋辺りの林業家が植林をはじめ、今では植林された木も伸びて、すっかり様変わりしている、ということであった。この時代の廃村八丁の雰囲気は多くのハイカーがホームページで紹介している。八丁山は1883年6月上弓削村と佐々里村との境界が決定するまで600年の長きにわたって所有をめぐって争いをしてきた土地である。廃村になるまでの歴史は次の通りである。

1682年 公儀の御留山として立ち入り禁止となる.
1701年 周山吉太夫の請負山となり、上弓削村から3名、広河原村から2名が炭焼きを職として新畑を開いて居住。
1743年 上弓削村の請負山となり5戸のものも上弓削村の山番として定住。
1968年 明治維新になり、佐々里村から八丁山払い下げ願いがだされる。これを聞いた上弓削村も直ちに払い下げを嘆願。
1883年 居住していた山番5戸を味方につけ上弓削村領と決まり、和解が決定した。
1900年 分教場が設けられ、児童8人に先生1人が教鞭をとる。
1933年 大雪の為 食料が欠乏、病人の手当もままならず、順次村ををあとにする。
1936年 廃村となる。

20 キチガイとゴクドウの会 KGC
2時過ぎに、尾花山荘に帰ってきた。天ぷら油が入った鍋がひっくり返っている、と小×さんが、鍋片手に大声で叫んでいる。
「カラスやろ」
と小○さんは動じた様子もなく
「お湯わかして、コーヒーいれるから」
とその準備に余念がない。

小○翁は、「京都岳嶺会」の主唱者。現役の登山家である。エベレストまであと600mの目前で断念された経験の持ち主である。その話題豊富な話は飽きない。広河原周辺の山道の補修や橋の架け替え、標識の整備をされているという。奥山で迷ったかなと不安になったとき、丁度よい辺で出くわす「KGC」と書いた赤白ツートンカラーの標識も彼の手になる。

「KはキチガイのK、GはゴクドウのG、キチガイとゴクドウの会ですわ」
とご本人の弁。頂いた名刺には「一級建築請負業 小○木材工芸」の肩書きがあった。小△さんは、早速、借家の腐った出窓の手すりをクリの木で造り直してもらう日取りを相談されている。私は、百井の奥の大見で彼が見つけたヤマサクラの巨樹があると聞いていたので、その写真を見せてもらった。写真で見る限り相当な代物である。機会があったらぜひ案内してもらおう。
「今晩は、一人で大宴会や」
とちょっと寂しそうだが、雨が降らぬうちに尾花山荘をあとにした。

本当に楽しくいろいろ勉強できた一日であった。花背峠を越える辺りでポツリポツリとやってきた。京都市内で雨が降り始めたのは、山よりもずっと早かったようで、街路はずいぶんと濡れていた。連休も明日で終り、なんとかお天気も持ってくれて、京都市内は観光客でごった返していたことだろう。


補 遺
丹波広域基幹林道
由良川と大堰川(桂川)の分水嶺上の峠をぶった切って、峠を峠でなくしてしまう丹波広域基幹林道建設工事が1992年に明るみに出た。たしか、「深泥池を守る会」の年会であったと思うが、「北山の峠があぶない」という冊子を見て驚嘆した。あとがきに
 『本格的な調査を始めてから十ヶ月、調べれば調べる程、北山の峠と自然の破壊をこのまま放置してはいけないという重いが強まります。既に「神楽坂」は破壊され、「ソトバ峠」に破壊の危機が迫っています。早春、雪をふみしめ登った井ノ口山に、樹齢数百年の齢を重ねる巨大な台杉が、人間と現代を見つめる歴史的証人のようにたたずんでいました。それらが造り出す空間は神秘的です。この天上の庭のような領域を、丹波広域基幹林道は突き抜けていきます』(編著者:榊原義道、尾高一郎、発行:北山峠と丹波広域基幹林道調査グループ、1992年4月)

この調査グループの調査で、京都の町中から車で1時間も行かない所に,貴重な自然が残されていることが、次々に明るみに出た。伏条台杉群、普通のアシュウスギ、クリ、ホンチャクナゲ、ヤマモミジ、テツカエデ、カナクギノキ、ヒメコマツ群集、ヤマグルマ、ネジキ、アセビ、ソヨゴ、マルバマンサク、シキミなど多くの樹種が最大級まで成長していることが判明したのである。これをきっかけに、調査グループは「北山の自然と文化を守る会」を結成し、広く市民に北山の大切さを訴え、市民参加の自然環境調査を実施していった。

腰の重かった京都府も府内に残る天然林をはじめ優れた自然を保全するため「緑の環境調査」に乗り出し、将来的には一帯の公有化も検討していくための調査費を、93年度一般会計補正予算に盛り込んだ。さらに、1993年9月には、京都府植物分布図集刊行委員会が、片波川源流域で延べ8日間にわたる緊急調査を実施した。その結果、幹周り4.6mのクリの大木、幹周り3mものネジキ(通常1m程度)が確認された。同委員会は1993年10月にレポートをまとめ京北町(当時)など関係機関に配布して保護を訴えた。この委員会は乱開発で危機にさらされている府内の野生植物を調査、記録するため1992年11月に結成された市民団体である。大学の研究者、小中高校の先生、さらにアマチュア研究者が中心で、河野昭一京都大学理学部教授(当時)が代表であった。既に同委員会は1993年5月に片波一帯の調査を行っており、ホンシャクナゲの群落、ヒメコマツ、ツガの古木等を記録している。

これに追い打ちをかけるように、94年6月に「北山の自然と文化を守る会」が実施した市民参加の自然環境調査で、林道工事の残土の捨て場で幹周り4m以上のツガの巨木7本も見つかった。この中の最大木は幹周り4.75mもあり、全国的に見てもまれに見るツガの巨木群生地であると判明した。場所は、片波川源流域の伏条台杉の群落地から西へ6km程の鴨瀬(芦谷)山から広がる尾根で、府は既に4本を伐採しており、さらに2、3本伐採予定であった。これに驚いた「全国巨樹・巨木林の会」(事務局・東京)も緊急保護策を呼びかけた。府議会でもこの問題が取り上げられ「残土の捨て方を工夫し、今あるツガは残す」と府農林部長の答弁を引き出した。しかし、「山の所有者に木材業者から伐採の引き合いがあったので、工事に関わっては切らないが…」という意味合いであった。

この頃から、徐々にではあるが一般市民にも広域林道問題が知れわたり、府も開発と保護の調整に動かざるを得なくなってきた。日本の多くの自然保護運動では、海外からの保護要請の声をきっかけで、一歩突き進んだ例が多い。丹波広域基幹林道問題でも、「北山の自然と文化を守る会」に一外国人からの問い合わせがあったのをきっかけに、外国人にも実情を知ってもらおうと英語の冊子を94年の秋に作成した。題して
"The one thousand-year forest speaks to the 1200 year Capital City of Kyoto : Against the Tanba Forest Road Plan!"(邦題「北山千年の森から京都へ」)

95年になると、府もルートの一部変更をもにおわすようになり、多くの新聞記者が現地を訪れ、ルポルタージュ記事が新聞紙上をにぎわした。例えばこんな見出しで、
『片波山、天を突く巨大な幹』(95.6.19, 京都新聞夕刊)
『幻の巨木林を見た! 丹波基幹林道の建設迫る 幹周り18㍍のスギ』(95.9.14, 朝日新聞)
『「古都見つめる千年の森」 調査の市民団体保護を訴える』(95.9.11, 京都新聞)
『林道見直しへ、絵はがき作成 北山の自然をまもる会』(9511.28, 朝日新聞)

こうしてようやく府は97年1月に林道の計画ルートを変更し、ホンシャクナゲとアシュウスギの群生地約50㌶買収する方針を決め、調査費4000万を新年度予算に計上する方針を発表した。その年の12月に気候変動枠組条約第三回締約国会議、いわゆるコップの中の空騒ぎに終わったCOP3の京都開催にあわせた取り組みの一つと京都府は位置づけている。具体的には、京都市左京区と京北町(当時)の境界付近の片波川源流域を通るルートを一部北へ変更し、南の約115㌶を保護地域に指定する。このうち約50㌶買収を買収してホンシャクナゲの群生地30㌶を特別地区に、アシュウスギの群生林20㌶を府の天然記念物に指定し開発を一切認めない、と云うものであった。この後者の20㌶域は入山可能なエリアとし、散策路を設けることになったが、後述するように、これがアシュウスギ保全に禍根を残す結果となった。

府の調査結果と「北山の自然と文化を守る会」の調査結果とは対立した。府はヒメコマツが優占した尾根の南側を重視し、同会は尾根の北側にもホンシャクナゲの古木が群生していることを指摘し、「府の調査は杜撰である」と再調査を求めた。府は「十分な調査をしている、杜撰と言われるのは心外だ。再調査の必要はない」と従来からの環境行政の姿勢を崩さなかった。そしてその年の12月に方針通りに、府自然環境保全地域の指定予定地を公告、縦覧に付し、年度内の決着をめざした。1985年に着工し2000年完成予定であった林道計画は大幅に遅れていた。99年3月30日、京都府は府自然環境保全地域の第一号に当該域を指定した。93年度からこれまでに調査や買収にかかった事業費は1億5,400万円であった。しかし、これで北山の自然守れたわけではなかった。アスウスギの群生地にエコツーリズムの波が押し寄せた。一方、既に林道工事が進んでいた鴨瀬(芦谷)山の尾根筋一帯と井ノ口山から南、片波山の周辺部にかけては保全措置とられなかった。

1年後の2000年3月の新聞記事は、『アシュウスギ無残 ハイカーに根を踏まれ、幹に登られ』たことを、伝えている(2000.9.7, 朝日新聞夕刊)。林道建設反対の自然保護運動でかえって注目を浴び、豊かな自然がダメージを受けるという皮肉な結果を生んだ。これは指定された保全域だけでなく、林業家所有地の井ノ口山周辺でも同様で、「以前は周囲にクマザサが密集していたのに、ハイカーに踏み荒らされ、落ち葉の養分が流されて…。あと何年持つか心配だ。気持ちはわかるが、そっとしておいてほしい」と山の持ち主の嘆きが聞こえてきた。今ではこの林業家の前の橋は閉ざされ、林道入り口は封鎖されている。

京都府も片波川源流域への進入路とアシュウスギの巨木群生地内に遊歩道を含めた巨木周遊コースの整備に取り組むことにした。根を踏まずに歩けるようにし、幹周りには柵を設け、また崩れやすい斜面には階段を付けるなどの事業費として1000万円の予算を計上した。致し方ないにしても、自然破壊とは云わないまでも、人間の都合で自然に手を加える結果となった。一旦手を加えだすと次から次へときりがなくなってくる。その度に土建屋が儲けることになる。

京北町(当時)は、整備が一段落した2001年4月に「自然観察ガイドウォーク」なる企画を打ち出した。「樹齢数百年のアシュウスギ(伏条台杉)の巨木に会いに行きませんか」というキャッチフレーズで。5月から11月まで月一回、各定員25名、昼食込みで参加費は4000円、すぐに6000円に値上げとなった。「素晴らしいガイドに恵まれ(破格のガイド料金ですが)…」とか、「地元でもこれから保護と観光をどうするか思案中だとか…。現在は基本をガイド付き観察会にしているようでした。(かなりお高いガイド料らしい)」など一部でこんな声も聞かれた。まさに流行り始めたエコツーリズムに便乗した企画である。問題はこんな官製のガイドツアーにとどまらないことである。屋久島の例ほどではないにしろ、様々なグループが「巨木に会いに行きましょう」と老若男女を誘い始め、新聞は宣伝まがいの記事をしばしば載せた。

この一時的に思えるブームはいつまで続くことか。ブームが去った後に、いったいどんな自然が残されるのか。「自然」とはいったい何なのか、はたと考えさせられる身近な出来事であった。林道が整備されアクセスが容易になると、エコツーリズムが引き起こされ、大勢の車と人が押し寄せる。一方で、自然林内での盗木や不法投棄が発生しているという嘆かわしい現実もある。

そもそも「丹波広域基幹林道」建設の目的はなんだったか。1980年代に構想された計画の公式目的には「丹波地域の林業振興」と「森林空間の総合的利用」の2つが掲げられていた。後者の「森林空間の総合利用」という名目に隠されていたものは、当時進行中であった、京都・滋賀・奈良を一体化した大規模なリゾート構想、即ち「京滋奈文化圏構想」(京都経済同友会)の一環であった。京都府下の丹波域では「丹波スポーツリクレーションゾーン」と云う名で、多数のゴルフ場建設を目論んでいたのである。

今では頓挫した、大原の奥の大見地区での「総合スポーツ公園計画」とも連繋していた。計画側は、残土投棄・公園建設・過疎対策の一石三鳥と自画自賛していた。この計画は1994年に事業見直しとなり、新たに市民参加の審議会「大見地区基本計画策定委員会」ができ、見直し計画が練られてきた。その結果、自然公園として環境教育に供することになった。名称は「大見自然文化教育公園」に変更され、スポーツより自然文化なるものが前面に出てきた。丹波広域基幹林道の終点の大布施に繋がるアクセス道路は、当初の八丁平の湿地を通過するルートを変更して、建設されることになった。これが市民参加での「開発と保護」の調整・妥協というものである。調整委員会は完全に開かれており、そこでの審議内容、資料等は次の2種類のURL "…siryou.pdf" と "…tekiroku.pdf"から入手できる("dai1kai"の部分を順次2,3,…と変えていけば全部見ることが出来る)広域基幹林道の沿線で同様な計画として、「グリーンワンダーランド」(京北町)や「カントリーライフの里」(日吉町)などが構想されていた。

そしてこの中心施設は何のことはないゴルフ場であった。亀岡市を含め、この地域に20ヶ所、京都府下の三分の一ものゴルフ場がこの広域基幹林道周辺に集中することになる。「ゴルフ場亡国論」が云い始められて、さすがにこのような北山リゾート開発は構想倒れに終わったが、全長65kmにわたって繋った広域基幹林道には、ツーリングのバイクが我が物顔で疾走し、それへの取り付き道路(アクセス)として建設・整備された支林道には、ハイカーの乗用車やエコツーリズムのバスが往来することになった。リゾートからリクリエーションに格下げされたが、広域基幹林道は「森林空間利用」の幅を拡げた。その一方、「林業振興」に役立ったと言う話は聞いたことはない。

下の写真は、議員&役員にプレゼン用として印刷された京都府丹波広域基幹林道推進協議会のパンフである。20部ほどの仮印刷、で一般の眼の前には出てこないパンフだそうだ。下の2009.3.6にアップされたURLから手に入れた。
http://blogs.yahoo.co.jp/club_asian777/archive/2009/03/06