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洛中洛外 虫の眼 探訪

平安京北辺の水路網と地図 第8章

平安京北辺の水路網
解説目次
地  図


第8章 大宮郷の用水路 —「堀川」と「小堀川」を中心に
KKO_用水路合成図(河上郷)(1)
KKO_用水路合成図(小山・大宮)
賀茂川右岸 河上・大宮・小山郷の用水路網(須磨千頴「賀茂別雷神社境内諸郷の復元的研究 」付図より作成)

はじめに
 前章で詳しく見たように、二股川の下流は、西洞院川が左近馬0:こ川:洛中洛外図屏風(歴博甲)場跡に付け替えられてできた「小川(こかわ)」でした。 中世の洛中洛外図屏風には「こかわ」と記載され、近世を通じて「小川」と呼称されていました(上図)。
1$2.jpg しかし、すでに前章で指摘したように、大正11年の京都市都市計画基本図では「堀川」と記されています。これは、昭和28年の都市計画基本図まで踏襲されていますし、昭和26年の京都市明細図(「火災保険図」縮尺1/1,200)でも「堀川」となっています(上右下)。
 古くは、大徳寺文書[註]の天正17(1589)年「山城大宮郷大徳寺分検地帳」(5-1998)では、「道正町 青屋/孫衛門」の田地の位置指定に「小川」の肩に小さく堀川と並記されていますから、いずれの名前でも呼ばれていたのでしょう。
 一方、二股川の上流は、大宮郷を南北に流れていた用水路「堀川」です。それが、下流では中世期以降「こかわ」と略して呼ばれてきたのです。
 本章では、「堀川」を中心にそこから取水されていた大宮郷の用水路について詳しく見てみます。手掛かりは、ただ一つ、須磨千頴「賀茂別雷神社境内諸郷の復元的研究 」(法政大学出版 , 2001)です。以下では多くの箇所で、これを「復元的研究」と略して引用させてもらいます。 

[註] 「大徳寺文書」は京都市北区にある大徳寺本坊に所蔵される中世から近世にいたる文書群。中世に属する文書は約3400点で、時代的には一部平安・鎌倉時代のものも含みますが,大徳寺創建以降の南北朝期から織豊期に至るものが大部分です。本坊伝来の本寺関係の文書のほか、近世以降本坊にした諸塔頭関係の文書も含み,内容的には遺偈(ゆいげ)・印可状(いんかじょう)など嗣法関係、壁書など寺内関係のほか,寺領の経営・訴訟関係文書などからなっています。中世文書は「大日本古文書」の《大徳寺文書》として刊行されています。なお本坊所蔵以外の大徳寺塔頭文書として,真珠庵文書・黄梅院文書などがあります。
 大徳寺文書中の文書引用に際しては、例えば天正17年の「山城大宮郷大徳寺分検地帳」は「大日本古文書 家わけ第十七 大徳寺文書之五」の文書番号一一九八」ですから、これを「大徳寺文書 天正17年山城大宮郷大徳寺分検地帳( 5-1198)と算用数字を用いてして引用します。以下他の大徳寺文書についても同様です。
 

●中世地からみ帳・検地帳の復元地図上の用水路網
 「復元的研究」の大著には、賀茂社境内6郷、河上・大宮・小山・中村・岡本・小野のうち小野を除いた5郷の中世後期の検地帳に記載されている田地を地図化した付図が全部で14枚添付されています。これら5郷の地図には、用水路が波線で描かれています(他に5郷全体の地名分布図が一枚、合計15枚の付図が本体に添付されています)。
 しかし、検地帳には、個々の用水路の水路が逐一記載されているわけはなく、復元地図に記載されている波線の水路は、何を手掛りにして描かれたのでしょうか。本書の第2章の冒頭の「検地帳地図化に際しての前提的解説」にその答えが記載されています。次のようにあります。

『これらの地図は、もとになっているのが地租改正当時に村ごとに作製された地籍図・字限図であり、それらを筆写してつなぎあわせて、その時に生ずる相互間の不適合を適宜補正し、さらに縮尺をかけるという作業を自分で行った結果として出来上がったものであるから、縮尺については記入を省略せざるを得ず、また文字の書体も書いた時期によって異なっており、大小不揃いでもあって、素人の自筆作図の不手際を各所で露呈しているが、中世の田地図として見るかぎり、大なる不都合なしに使用にたえるものと考えている』

 著者が『中世の田地図として見るかぎり、大なる不都合なしに使用にたえるもの』と確信したのは、

『京都周辺の市街地化が急速に進んでいるにもかかわらず、なおこの地域が田地をそのまま残していることを物怪の幸いとして、この見通しを確かめるために現地へ出かけていった。1958年(昭和33)3月のことである。社家町の中央部を太田神社から南へ通ずる道路を歩いて、上賀茂蝉ヶ垣内町の西北隅あたりにでると、遥か南の植物園の森に至るまで、一面の田地が広がっていた。地図を見ながら東西南北の道路畦畔をあちらこちらと歩きまわり、田地の形状や用水系統をしらべてみて、さして時間もかけずに、自分の作成した中世の田地図と目の前の現実とがほとんど完全に符合すること、言い換えれば、室町・戦国時代の田地・用水路の姿、さらにさかのぼって古代のそれさえも、幾世紀をこえて目の当たりに見ることができるのだということを確認したときの喜びは、まことに大きかった。胸が高鳴る思いがしたことを、今もはっきりと覚えている。』

参考までに同書に掲載されていた1958年撮影の写真を掲げておきます。
3:植物園方面遠望(1958年撮影)

このような実体験で、

『明治の地租改正当時に作成された地籍図・字限図が利用できれば、そこに描かれた田地区画上に検地帳の記事を当てはめてゆくことによって、より効果的にかつ完成度の高い田地復元図を作成できるはずということになる。』

と確信されたのです。

●私的な思いで話
3:豊田町から植物園 1958年当時、私はまだ少年の域を出ていませんでしたが、母方の祖母が、上賀茂橋を渡った新町頭、北区小山北玄以町に住んでいたので、まだ進駐軍の家族たちが生活していた植物園の北側の畔同然の土道を西へ、賀茂川の堤防にむかい、堤防づたいに上賀茂橋までいって橋をわたって新町頭の北玄以町まで、毎週歩いていたこと思い出しました。その時に目にしていたのは、眼前180度一面に田地と用水路が広がった風景です。須磨千頴氏が見た風景を反対側から眺め、植物園の北沿いの道から上の写真が撮られた豊田町の方を見ていたのです。
 逆に祖母が、私たちが住んでいた左京区下鴨北園町へやってきて、夕方戻っていくときの話として、夕闇のせまる畔道で、狐にだまされ、なかなか家に辿り着けなかったとか、どつぼ(肥だめ)にはまった人がいたというような話もきかされました。
 今や、毎週歩いた植物園の北側の道は「北山通り」に変貌し、北山大橋が架橋され、上賀茂橋まで遠回りすることはなくなりましたが、半世紀前に目にした風景は、復元図上で想像する以外にありません。いまや北山通から北の山際まで、区画整理事業でほぼ完璧なまで東西に長い長方形街区の住宅地に変貌してしまいました。
 上賀茂神社境内の御手洗川が境外で分岐したその東側の用水路は、明神川となって社家町を経て南東に流れて、鞍馬街道を南下していました。京都府立大学(旧農林学校)の東門前(鞍馬街道)を南北に流れている水路がこの用水路の跡です。また北園町の「北泉通」の名は御手洗川が分岐した西側の用水路「乙井川」が、下鴨神社境内を流れる「泉川」の水源であることに因んだ名前でしょう。 
4:明神川_泉川_乙井川
 須磨氏が描いた復元図を参考にして、該当個所を現在の国土地理院地図上に描き加えた図を上に示しました。

●国土地理院地図上での中世用水路網の復元
 話がだいぶん横路にそれてしまいましたが、要するに、須磨氏の復元図の用水路は、明治の地租改正当時に作成された地籍図・字限図に則ったものだということです。『則ったものだ』と簡単に行ってしまいましたが、個々の地籍図・字限図をつなぎ合わせる作業は並大抵のものではありません。その一端は須磨氏の著書中に吐露されています(例えば、第二章第二節の冒頭『岡本郷地からみ帳復元図の作成』のなかに見ることができます)。 
 ここでは、須磨氏の復元図の描かれている賀茂川右岸の小山・大宮・河上郷を流れる用水路を、現在の国土地理院地図上に描き直したものを提示します。これには、須磨氏が作成された3郷の復元図4枚(河上郷については南北2枚分けられている)を整合させてつなぎ合わす作業が必要でした。各復元図の方位や縮尺を調整しながら、郷域の出入りを無理なく繋ぎ合わせるるという作業です。
 その上で国土地理院地図の該当地域にオーバーラップさせるのですが、それが一苦労です。基準とする地点、主として寺社の位置を数点選び、できる限りすべての点が復元図と地理院地図で一致するように、復元図の縮尺と方位を修正することを繰り返し、可能な限り最もらしくオーバーラップさせました。
 最後に、復元図中の波線で描かれた用水路だけを、見落としがないようにトレイスします。すべてをピックアップしたつもりですが見落としがないという自信はありませんが、一応区切りはつけました。いつの日にか、もう一度やり直すはめになるでしょう。
 実際、完成後に気付いたのですが、オーバーラップさせた段階で、南へ約30mほどズレてしまったようです。冒頭に掲げた全体図は、修正せずにそのまま載せていますが、以下の文中で説明のために用いた大宮郷域の部分的な図では、修正しております。
 本章では、国土地理院地図に復元された用水路網のうち、まず大宮郷の用水路網について「堀川」と「小堀川」に焦点をあてて、少し立ち入って議論します。小山郷と河上郷については、次章以降で議論する予定です。小山郷については禁裏御用水に、河上郷に関しては、現在の川上用水と堀川の賀茂川からの取水地点に焦点を当てて議論するつもりです。
 従って、当初の「平安京北辺の水路網」の解説記事の章立てが、第八章以降少し変わりました。
 全体の構想を下に書なおしておきます。


    平安京北辺の水路網 目次 
       序 章 平安京北辺の範囲
       第1章 尺八池と秋葉山地
       第2章 愛宕山と巌門
       第3章 玄覇池・新池・白馬池と稚児井
       第4章 霊御川から暗渠新川(現若狭川)まで
       第5章 擂鉢池(池ノ谷)と鷹峯台地
       第6章 若狭川から紫野斎院の有栖川へ
       第7章 二股川と行者堀(宝泉院)及び西洞院
       第8章 大宮郷の用水路 —「堀川」と「小堀川」を中心に
       第9章 小山郷の用水路 —禁裏御用水
       第10章 河上郷の用水路 —川上用水と賀茂川取水点
       第11章 船岡山周辺と柏野(かえの)



大宮郷の用水路網
6:大宮郷 郷界(改訂版) まず、須磨氏の「復元的研究」に描かれた大宮郷の用水路を国土地理院地図上に描き直した図を掲げます。
 この図の下部中央左寄りの大宮郷際に、赤く「赤社(あかの社)」とあるのは、玄武神社のことです。何故「赤社」なのか、前章にも引用しましたが、須磨の著書「復元的研究」には次のような説明がなされています。

『玄武は四神の一つであり、色を当てれば黒ということになるが、にもかかわらず中世に「赤社」と呼ばれていたのには理由がある。中世におけるこの神社の姿は見る由もないので、私には現状から推測するしか術がないが、7:genbu-8現在玄武神社の境内にはいちばん東に本社が鎮座し、並んで西に末社二座があるが、うち西側道路沿いの社が玄武稲荷大明神で、朱色に塗られた鳥居が並んでいる。すなわち赤社にほかならない。中世にもおそらくおなじようにここに稲荷社が祀られていたと考えるべきであろう。「大宝」・「大天」[筆者註1]の復元図や、大宮郷賀茂台絵図[筆者註2]にあきらかなように、中・近世にはこの神社の北と東の大宮郷域はことごとく田畠であり、ただでさえ目立つ朱色の鳥居は、見通しがきく場所にあってことさら人目を引いたのではなかろうか。「赤社」と呼ばれるようになったのは自然な成り行きであったろう。』

上の写真は現在の玄武稲荷大明神の鳥居の姿です。

[筆者註1]「大宝」は大宮郷宝徳三年地からみ帳、「大天」は天文十九年検地帳の略]
[筆者註2]林(重)家文書所収。林家は紫竹西南町に所在する家で、文書は大鼎完元鑑定の建武元年の年紀のある江霊和尚筆大徳寺領目録1点、藤原宗次大徳寺大工職に関する後柏原天皇綸旨写1点とその関係文書1点が古いものであり、その他、年未詳の大徳寺境内大宮郷賀茂台田畠畑絵図2点があります。「大宮郷賀茂台絵図」は、この大徳寺境内大宮郷賀茂台田畠絵図を引用にさいして略されたものです。年代は近世後期から遅くとも近代初頭のものと推定されています。大宮郷を堀川の流れを境にと東西二枚に分けて描かれたもので、田地一枚ごとに字名と領主である大徳寺の方丈・諸塔頭の名称、作人名を詳記してある貴重な絵図です。

 この赤社の東側を南北に流れていたのが、二股川であることは、古くは、大徳寺文書中の明応7(1498)年の「松源院被管力者道元作職倍買得當知行地目録」(2-859)に『貳段 在所[割注 雲林院二又川ヨリ七段目 河原者ヨリ北トノカハ子ト申所なり]』とあり、また、大永4年(1524)の同「道堅百姓賣券」(2-897)にも『在所大宮郷内二マタ川ノ東ヨリ七段目也、字戸之カハ子ト云々、』の記述から知れます。
 大宮郷宝徳三年地からみ帳の田地の位置の記述に「堀川ノハタ」等の「堀川」という名前が、この二股川の上流域各所にあらわれています。このことからすれば、二股川上流は「堀川」です。冒頭に記したように、二股川下流の「小川」も「堀川」です。中世以降の小川は一条戻橋で堀川に合流して洛中を流下していたのですから、この川筋全域を「堀川」といってしまってもいいようです。

堀川から取水されていた用水路
 大宮郷には、宝徳3(1450)年地からみ帳の他に、100年後の天文19(1491)年の検地帳がありますが、この検地帳には、宝徳3年の地からみ帳では見られない興味ある記載方式がなされています。それは、田地を「溝」ごとにまとめて記載されていることです。中には溝名でなく字名と思われるものもありますが、須磨氏は、これも用水系統との関係によるものとされています。
8:用水路別色分図a 全体として20個の用水系統ごとに田地の面積・所有者・耕作者名等が記載されています。枝分かれした用水路の最末端の灌漑範囲にいたるまで区分された形で検地帳が作成されているのです。
 全部で20もの灌漑系統の「溝」名を検地帳記載順に書き上げると下の通りです。

下精進溝・上精進・殿田溝・町長・二丁田・栂丸溝・仏尻溝・柚木の坪・小堀川・せんし溝・小溝・大和田溝・中溝・懸溝・小森下溝・上溝・上溝・下溝・頭無・堂芝溝
 
 これらを、天文19(1491)年の検地帳の復元図上に、色分けして上に示しました。
 以下に、主な用水路について「復元的研究」にしたがって見ていきます。

1)小堀川
 「小堀川」という用水路名が大宮郷宝徳三年地からみ帳で田地の位置指定としていくつも現れています。この用水路は、堀川から取水し、堀川の東側を70〜80m前後の間隔で並行して南下しています。その取水点は現在の紫竹下本町のほぼ中央の北山通と堀川通の交差点の少し西であたりです。
 「小堀川」の名が書かれている田地の最南端の南にある田地には「堀ノ上」という記述が見られますが、これ以南へ川筋を辿っていくと、大宮郷境界付近で堀川(二股川)に合流しています。
 宝徳3年大宮郷地からみ帳の復元図で、「堀川」と「小堀川」の名前が位置指定として現れる田地を、それぞれ空色と紺色で塗りつぶし、さらに上記の「堀ノ上」と書かれた田地を青色で塗りつぶしでいます。それ以南へ続く用水路自身も同じ青色で描いた図を下左に掲げました。
 参考のために、実際の地からみ帳の記述(須磨氏の翻刻)の二例をこの図中左下に書き添えています。また、青色で塗りつぶした「堀ノ上」の田地から郷境界の合流点までの様子を、拡大して右に示しています。
910.jpg
 この川筋沿いの南部の田地の位置指定には「河東ソエ」・「川のソエ」・「川ノ上」・「川ノハタ」の記述が連続してみられます。11:小堀川筋「川」は「小堀川」を意味していると考えられますが、次項に述べる灌漑域の名称からすると、小堀川から分れた「せんし溝」です。 青色に塗りつぶした「小堀川」の灌漑域が堀川の左岸沿いに細長く伸びていますが、この小堀川の南東端からさらに分岐した用水路には「せんし溝」とあります。その先は、小堀川から分岐した殿田溝が上精進溝・下精進溝に分かれてせんし溝を引き継いで南下しています。この流れが、堀川に合流して洛中に入っています。
 大正十一年の京都市都市計画基本図では、この水路は、疎水を介して二股川(堀川)に繋がっていたように見えます(右下図)。
12:堀川と小堀川合流点(大正11年) かくの如く、用水路名としての「小堀川」は、途中で途切れていますが、字名としての「小堀川」は、大宮郷の最南部にまで広がっていたようです。「復元的研究」の大半を占めている第四章「賀茂別雷神社境内諸郷関係地名の歴史的研究」の第五節「大宮郷関係の地名」を紐解くと【小堀川】の項に次のようなことが書かれています。

『かように「小堀川」は本来は一つの河川の呼称であるが、後にその流域の特定区域の字名にもなった。天正17年(1589)大徳寺検地帳では、「清蔵口名寄帳」の部分に「小堀川」所在の田畠22筆計一町六畝六歩、それ以外の部分[「京村」の文]に2筆四畝二〇歩が見え、その大部分は「上畠」などの注記によって畠地であったことが知られる。その後、慶長2年(1597)大宮郷麦指出には、「小堀川」の字名で五筆約四反歩が出てくる。大宮郷賀茂台絵図には、「小堀川」と書き込まれた耕地約30筆が見いだされるが、その場所は紫野西御所田町西南部から紫野宮西町西部にまたがっている。すなわち前記した「小堀川」の下流域よりさらに南である。』

13:紫野西御所田町・宮西町 右に、現在の紫野西御所田町から紫野宮西町にまたがる領域を示しましたが、この図から窺えるるように、北大路通の一つ南の通りを底辺に、小堀川筋の右岸から堀川左岸にかけての三角形の区画が大宮郷賀茂台絵図に出てくる字小堀川にあたっています。
 これを天文十九年検地帳の復元図で見ると、14:字小堀川:天文11年青色で色分けした小堀川灌漑域を南に延長した先端の南部に当たっています(赤枠部分)。
 上の現在図の西御所田町西北部の北大路通北沿いに見える卍は、行者堀とも呼ばれた宝泉院です。前章で言及した岡部伊都子著「京の川」(159-168ページ, 講談 社,1976)にあった媼の言葉『コカワのほうにもわかれていった』という「コカワ」は「小堀川」のことに違いありません。
 宝徳3(1451)年の地からみ帳復元図にもこの「こかわ」の方に堀川から取水されている用水路が描かれています(右下図)。500年前すでに堀川から小堀川筋への川筋が存在していたのです。
 冒頭に掲げた洛中洛外図屏風(歴博甲本)に描かれていた「こ川」は小堀川が二股川と合流した下流の堀川のことだったと判明します。「こかわ」の呼称も小堀川に由来していたものと推測されます。また、大正11年の京都市都市計画基15:行者堀から小堀川へ本図に小川筋に「堀川」と記載されていたことも頷けます。
 須磨氏によると近世後期から近代初頭と考えられる「大徳寺境内大宮郷賀茂台田畠絵図」には、この辺りの北に「小溝 高野田」と記入されているとのことです。大徳寺文書の瑞峰院指出(8-2550)には「かうや田」「高屋田」の二ヶ所の田地がみられます。また天正17年の大徳寺分検地帳(5-1998)にも二ヶ所記載されています。
17:賀茂台絵図の高野田(宝徳復元図上) 賀茂台田畠絵図に「小溝 高野田」と書かれたの場所を宝徳3年の復元図で参照すると、該当個所にNos.480〜482の3筆の田地存在しています。これを現在地図上にオーバーラップさせた図を右に示します。行者堀はこの範囲の南東端にあたります。
 となると、「高野」は、「行者堀」の連想から「高野山」に由来しているのでは、というのはちょっと穿ち過ぎでしょうか。

2)中溝
19:中溝と小堀川取水点比較 小堀川が堀川東岸沿いに沿った用水路に対して、中溝は堀川の西側を流れていた用水路の名称です。堀川からの取水口は、左の天文19年の検地帳復元図中の中溝の灌漑域最北端の田地No290(赤丸)の北端からさらに70mほど北にあります。この地点は小堀川の取水口より、約230m南です。
 その右の図は、宝徳3年の地からみ帳復元図での該当部分です。左の赤丸で囲ったNo.290の田地が、右の宝徳3年の地からみ帳復元図の赤丸で囲ったNo.82の田地です。両図で100年の隔たりがありますが、何の変わりもありません。
20:池田町(新) 天文19年の検地帳には、中溝の灌漑域の南端の田地No.212には、「梶井御門跡東雲林院ノ赤社迄一 号字池田」とあり、ここから北No.216まで雲林院田が4つ連なっています(左図の灰色で網掛けした部分参照)。大徳寺文書や大宮郷賀茂大絵図にも、この「池田」という地名が現れていますが、次項に取り上げる「小溝」の南に接した中溝の南端部全域が「池田」という字名だったものと思われます。現在地でいえば、紫野雲林院町東部で、西に今宮神社御旅所があります。

3)小溝と掘川端
21:中溝と小溝の取水点 小溝は堀川西岸を流れていた用水路ですが、堀川からの取水点は中溝より南です。中溝と並行して堀川沿いを南下していた2つの水路が田地No.290の北東端で中溝と小溝に分かれて、小溝はそのまま堀川沿いに南下しています。右に天文11年大宮郷検地帳記載田地の復元図上にこの様子を書き込みました。
 この用水溝の名称が、同時にそれが灌漑している田地群を指す字名ともなっています。さらに興味深いことは、小溝の別称として「掘川端」という字名があったことです。
 宝徳3年大宮郷地からみ帳記載田地復元図を見ると、小溝流域の堀川沿いの田地の位置指定には、当然「堀川ノハタ」「堀川ハタ」「川ノハタ」「堀ノハタ」「堀川畔」などの記載が出ています。これらは、堀川の川端を意味するものですが、この中には単なる普通名詞ではなく字名としての「掘川端」が含まれていることを、須磨氏は指摘されています。
 堀川が南西方向に大きく屈折してい地点(現住所で云えば紫野上石竜町東南部)から、堀川沿いに350mほど下流に渡って堀川西沿いに道(縄手)がなく、この区域の田地は直接堀川に接しています。その意味で「掘川端」の名称が極めてふさわしいと須磨氏は考えられて、他の史料、天正十七年大徳寺分検地帳、大徳寺文書大宮郷麦田指出帳[5-2003]、大宮郷賀茂台絵図なども参照された上で、「堀川端」の記載は字名を意味するとされています。
 もっと明確に字名と記載した文書があります。須磨氏が見落とされたと思われる大徳寺文書「大徳寺并諸塔本役銭結鎭出分指出」(8-2531)という長い名前の文書の中にある「瑞峰院領賀茂本役出田地目録」の冒頭には、『大宮郷内字名堀川端与』と明確に掘川端が字名であることを記載しています。
 下右に宝徳3年大宮郷地からみ帳記載田地復元図の該当部を示します。堀川右岸に青色の点線でとレースした部分に道がありません。その左の天文十九年大宮郷検地帳田地復元図でも同様で、灌漑領域分けで云うなら、「小溝」の北部のほんの一部を除いたほぼ全域に当たっています。
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堀川・小堀川沿岸の地名
1)水倉

24:水倉 宝徳3年大宮郷地からみ帳で、田地の位置指定に「小堀川」を含んだ最北端の田地には、堀川と小堀川に挟まれた横田(通常長辺が東西方向の長地型田地)で、次のように記載されています。

 『小堀川ノ畔 水倉』 

この田地の北側には道がついています。
 この田地より南へ、堀川と小堀川間の12筆の田地はすべて横田で連り重なっています。南へ行くほど堀川と小堀川間が狭まりますので、長辺の長さが減じていますが、横長です。最南端の田地の次の南の一筆は底辺を北にした台形ととなってしまいますが、この田地の南端に縄手(畦道)があります。
 つまり、東を小堀川、西を堀川、北と南を縄手で限られた一帯が「水倉」と見てよいのではないでしょうか。この水倉と畔道を隔てた南の田地は南北に長く、地からみ帳の記載にも別の字名「イカツチ」が記載されています。

2)イカツチ(井カツチ坪・雷)
 右上の宝徳3年の地からみ帳復元図中に見えるNo.204の田地の位置指定のイカツチ(赤色で囲んだ所)という地名は、堀川と小堀川を横断して東西に広がっていました。これは、須磨氏が、賀茂別雷神社に保存されている二種類の往来田古帳[註1]、並びにいくつかの大徳寺文書さらに賀茂社読経所指出帳、大宮郷賀茂台絵図などに現れているイカツチ・井カツチ坪・雷の地名を、宝徳3年大宮郷地からみ帳と対比して調べ、田地復元図上に比定された結果から推定されたことです。
 その内容を宝徳3年の復元図をを参照しながら、もう少し具体的に見ていきます。

[註] 往来田古帳
 往来田は、乾元2(1303)年、徳政によって賀茂社に返付された一条以北の水田のうち70町歩を、140人の氏人に対し人別5反を年齢次第に配分したもので、当人が死去すると、無足[知行地がないこと]の氏人が順次くりあがって配分を受けるというものでした。ここに挙げる二種類の往来田古帳は、その往来田の明細を記したものです。二巻のうち一方は、かなり古い年代のものであることを思わせますが、何か所かに料紙の欠失がみられ、作成時点に関する記載をまったく欠いています。これを「往来A」と略記します。他の一巻は、欠けている部分はほとんどなく定員140人すべての氏人の往来田をもれなく書き上げた後、巻末に「応永元年四月 日写畢[己の下に十:おわんぬ] 氏経(花押)」とあって、応仁元年の写であることは判明します。これを「往来B」とします。「往来B」の筆写の対象となった原本はいまだに伝存してません。
 両者の成立年代をできる限り狭い範囲で推定することを試みられた須磨氏は、「往来A」の成立はだいたい南北朝末期、「往来B」は1460年前後(宝徳3年から10年前後しか隔たらぬ時期)、年号でいえば長禄。寛正期と推定されている(以上は「復元的研究」より抜粋要約です)。


25:イカツチ

 上図の田地番号204(❶)に「千鶴大夫往来」と見えますが、この堀川と小堀川に挟まれた往来田は、前の「水倉」の項末尾で見た通り、水倉の南の「イカツチ」という字にあったことが分かります。次に、ここからさらに東の小堀川を越えた2つ目のNo.238の田地(❷)に「一反 有福大夫往来」とあります。「往来A」に尾張前司往来田のうち一反の在所が「大宮郷イカツチ」とあり、「往来B」にはこの田は、イカツチという字名は書かれていませんが、有福大夫往来田として出ています。それでこの田地の在所もイカツチであると分かります。もう一つNo.452の田地(❸)に「一反 奈良田」というのがありますが、この田地は大徳寺黄梅院文書の「上野のちゃうそう田地作職売券」で、当該一反の在所が「在所大宮郷之内、字井カツチノ坪ニ是アリ」とされ、その四至が「限東キシ、限る南キシ、サヒメ□□、限西アセ、限北サイラ[メ?]」と記されています。さらに本文では「但本所者ならてん也」云々とあります。No.452の田地は、東と南を岸で限られ、西が畔で限られていて「ならてん」という記述とおりの田地です。ここもまたイカツチでしょう。
 最後に、No.257の小堀川左岸沿いの逆三角形状の田地(❹)に経所田三反半のうち北西隅の半反については、賀茂社読経所指出書にみえているものと推測され、これは天正十七(1589)年大徳寺分検地帳に「いかつち」所在の八筆計六反四畝十五歩の米麦二毛作の田地の一つであるとされています。北西隅部分だけでなくNo.257の三反半の田地全体が「イカツチ」所在と推定されます。なお、経所田三反半のう北西隅の田地は、天文十九年大宮郷検地帳に「半 讃岐守往ー」[「往ー」は「往来」]と記載されている半反の往来田です。
 以上4ヶ所のオレンジ色で網掛けした田地がイカツチ所在とすれば、「イカツチ」は、堀川西岸の小溝北部、すなわち前項で述べた「堀川端」の北、堀川・小堀川間の小堀川中南部および栂丸溝の各灌漑域におよぶ範囲を占めてめていたものと思われます。

3)上柳・下柳と藤田
26:地がらみ帳の上下柳と藤田色分け図 宝徳3年地からみ帳復元図のNo.258の経所田四反半の在所が「次ノ南、西ノソヘ、上柳、堀川ハタ」と記されています。また、No.258に続くNo.259の経所田二反も「同所、次東」という位置指定がなされています。この二筆の六反半は西を堀川、東を小堀川、北と南も溝で限られています。この一区域は、右に掲げた復元図で茶色で塗りつぶした部分です。
 この区画の南の堀川沿いにあるNo.285の加賀前司往来田一反には「下柳ノ西ノ堀川ハタ、未申[南西]ノ角」とあることからすれば、No.285とNo.286の田地に西を限られた東側が「下柳」と考えられます。これはNo.287と小堀川沿いまでの区域を占めていたものと思われます。復元図で薄茶色で塗りつぶした部分です。 
 それでは、No.285の在所名は?。この北の堀川端のNo.286は、慶寿大夫往来伝半反とあります。須磨氏は、当該の往来田を新旧2つの往来田古帳の記載と対比検討された結果、この在所が「大宮郷藤田」であることを見出されています。ここは下柳ではなく、「藤田」です。おそらくNo.285も「藤田」でしょう。
 この2筆の往来伝の西、堀川の対岸の三反の経所田(地からみ帳復元図でいえばNo.456)の在所名が「藤田」であることも須磨氏によって明らかにされています。結局「藤田」の区域は堀川の両岸にまたがっていたことになります。以上堀川を跨ぐ三ヶ所の田地(No.285, No.286, No.456)は、復元図で青色で塗りつぶしています。
27:国土地理院(現在)_地がらみ帳の上下柳と藤田 ここで注意すべきことは、「藤田」の堀川の西側は先述した「堀川端」の一部分であることです。
 「藤田」は現在地の紫野石竜町東南部に当たります。一方、「上柳」と「下柳」の現在地は紫野下鳥田町町域の西部約3分の2に相当しています。(右図参照)。
 しかし、「藤田」が史料にでてくるのは、南北朝末期から室町中期では堀川の東岸であり、中世末期以後の史料には堀川西岸の田地しかでてきません。これは何を意味するのか、須磨氏は次のように考えていられます。

 『元来堀川は「藤田」の地の東を南下していたのだが、おそらく中世前期以前に堀川の川筋が変動した時、その流れが「藤田」の区域を東西に分ける形になったのであろう。この近辺では長く残存していた条里制地割を、堀川が北北東から南南西へかけて切る状態になっている様子から、私にはそのように推測される。そして、一つの区域が東西に分断されてからも、同じ字名が長く堀川の両岸に残存していたが、やがて中世末期ごろ以後は、字「藤田」は堀川西岸だけに限られるようになったのであろう。大宮郷賀茂台絵図では、東岸は「下柳」に入れられている。』

 復元図上で比定される「上柳」と「下柳」は、上で見たように紫野下鳥田町町域の西部約3分の2に相当していますが、かつての地名を継承している現在の紫野上柳町と下柳町は、元の区域から離れ、かなり東北へ移っています。この理由について須磨氏は次のように考えておられます。

『これは往時は、現下鳥田町北辺で西に折れて、西の町界あたりを南南西方向へ流れていた堀川が、改修されて暗渠となり、地上では旧河道が東へ振れてまっすぐ南下する堀川通と化したのにともない、もとは堀川の東にあった「上柳」・「下柳」が、そのままでは堀川通の西沿いになってしまうところから、区画整理によって堀川通りの東へと町名を移動させた結果である。』

 須磨氏は東へ町名を移転させたのは、区画整理の結果だとされていますが、区画整理以前の昭和4年の京都市都市計画基本図をみると、すでに「紫野柳町」という地名が上柳町と下柳町、さらに上・下と鳥田町を含んで東は新町通にいたる大変広い地域の字名として記載されています。この名はすでに大正11年の都市計画基本図に現れていたものです。
 この魁として、明治期に字地の広域化がなされていて「京都府愛宕郡村志」に字地として記載されている「大宮村東紫竹大門字下柳」の地域は下鳥田町南部と下柳町を含み、紫竹大宮村地籍図を参考にして須磨氏が作成された「大宮郷関係地域略地図」を見ると、東は新町通まで広がっていました。
 以上のような地名変遷の経緯をまとめて、現在の国土地理院地図上で一図にしたものを下に示します。赤線・赤字で示したのは現在の町名域と町名です。
28:国土地理院(現在)_地がらみ帳復元図(宝徳)_地籍図(明治)_都市計画図(昭和)

 灰色の部分が宝徳4年の地からみ帳復元図の上・下柳と藤田が含まれている部分です。
 青色の地域が「大宮村東紫竹大門字下柳」、薄い茶色の部分が昭和4年の京都市都市計画基本図で「紫野柳町」と記載されている部分です。この「柳町」の全域は茶色の破線て表示した範囲です。
 以上のような経過をたどって、上柳・下柳の地名が北東へ移った理由については、さらなる詳細に調べる必要があります。

4)宣旨
 天文19年大宮郷検地帳復元図のNo.181からNo.189までの9筆の田地群が、「せんし溝」かかりとして記載されています。最北端のNo.181の田地に「せんし溝水口 北一」と記載されています。これは、この溝が小堀川から分かれた用水であることを示しています(以下の説明と図を参照)。 
 須磨氏は、その灌漑区域こそが、字「宣旨」であることを、以下に詳しく述べるように大徳寺文書から実証されています。また、大宮郷賀茂台絵図に「宣旨」と記入された田地四枚、「西宣旨」と記入された田地が、天文19年の復元図のものとだいたい重なり合っていることも示されています。
 須磨氏が取り上げられた大徳寺文書を逐一見ていきます。
 須磨氏によると「宣旨」という字名の初見は、大徳寺文書にある弘長3(1263)年の沙彌淨行田畠譲条案(5-1942)で、淨行が嫡女宇治女房に譲与した田地のうち二反に『せんし、同領[賀茂領]、雑役田』と注記してあるものです。下がって同文書中にある文明4(1472)年の常盤井宮全明親王領賀茂雑役田売券(2-819)に、上記と同一の田地が『弐段者せんシ坪【東限ホリ河 西限彌大郎作】【南限大道 北限彌大郎作】』と表記されています。
 この記述を地からみ帳復元図と照らし合わせてみると、割注の【東限ホリ河 …】と【南限大道 …】から想像をたくましくすれば、No.314の二反の雑役田が該当する可能性が大です。
 さらに、文明7(1475)年に無量寿院院衆田地売券(2-822)に『大宮郷之内字名せンシノ坪』の一反半の田地が左衛門五郎に売却され、後に同人の子孫の左衛門五郎が永正16(1519)年に半反を大徳寺の明栄寺へ売り渡し(2-889)、残り一反も大永6(1526)年に同寺へ沽却されていいます(2-903)。
 この記述は天文19(1550)年の検地帳と照らし合わせてみると、No.182の半反とNo.185の一反が該当します。
 さらに、永正17(1520)年の元行田地売券(4-1797)には、『在所大宮郷之内小堀川ヨリ西弐段目也、字宣旨水口也』とある田地一反が大徳寺塔頭太清院へ沽却されています。
 この記述は、こ売却された田地は『小堀川ヨリ西弐段目』を重視すれば、No.183の田地であり、『字宣旨水口也』を重視すればNo.181の田地となりますが、いずれとも決め難い田地です。
 ここで取り上げた全部で四反半の田地のまとまり具合からすれば、No.183でしょう。結論はNo.182からNo.185の区域が「字宣旨」です。ただ、天文19(1550)年の検地帳で書き上げられている「宣旨の溝かかりとしてはこの周辺に宣旨田地No.181とNo.186からNo.189の七反が書き上げられていますが、いずれも他の字に食い込んだ形となっています。
 以上の記述を図にしました。図にあるように塗りつぶした部分が検地帳で「宣旨溝」として書き上げられている田地です。この中で濃い部分が上述した字宣旨の四つの田地です。赤線で囲った下柳と後述する御所田・吉田の三字に「宣旨溝」として書き上げられている田地六ヶ所が食い込んでいます。

5)畠田
 宝徳3年の地からみ帳復元図の小堀川下流西沿いに「畠田坪」と字名を記した一反半の田地No.373があります。この田地の東と南一帯に往来田が数多く見つかります。いうまでもなく、これは須磨氏が、在所を記した新旧二つの往来田古帳の記述と地からみ帳の記述とを比較29:畠田色分け対照することによって作成されたおかげですが、この中に、復元図の田地Nos.375, 388, 391, 392, 395, 397, 400, 408, 409 & 410 の10ヶ所もの在所が畠田です。冒頭に記したNo.373をも含めて、これら11ヶ所の田地を右図に濃く塗りつぶして示しました。
 小堀川の東側は精進溝灌漑域であることを考慮すれば、字畠田の領域としては、Nos.408, 409 & 410 の三ヶ所を除いてその領域を二股川(堀川)と小堀川とで、東西と南を限られた範囲とするのが妥当に思えます。須磨氏の見解は、畠田が精進の灌漑域に食い込んだ部分は、この周辺の田地が畠地として使われる場合が多かった所からすれば、「畠田」と「精進坪」両方の呼び方がなされていたとするのが妥当と記されています。
 さらに、『大宮郷は太閤検地以後、賀茂社領から切り離されて大徳寺領となるが、天正17(1589)年の[山城大宮郷]大徳寺分検地[帳]には、明らかにこの区域の田畠が含まれているにもかかわらず、「畠田」の字名はまったく発見できない。この点慶長2(1597)年[大宮郷]麦田指出[帳](5-2005)でも同様である。「畠田」という普通名詞的な名称に代わって別の呼び名に変えられたものと思われる。』と記されています。
 結局「畠田」という字名は早くに消えてしまったようです。その後に出現する「御所田」という字名の区域に吸収されてしまいました。

6)御所田
 在所名として「御所田」の名は、宝徳の地からみ帳にも天文の検地帳にも現れていませんが、大徳寺文書中の「瑞峯院并寮舎末寺門前田畠指出(5-2011)に「畠」と記載された御所田が2筆あり、天正17(1589)年の「山城國大宮郷御検地帳 大徳寺分」(5-1998)の中には、御所田所在の田畠55筆(下御所田2筆を含む)があがっています。
このように「御所田」は中世以来の地名で、須磨氏は、林家文書に含まれている近世後期の大徳寺境内大宮郷賀茂台田畠絵図には、西御所田町西部と紫野宮西町西端部に相当する区域の40筆程度の耕作地のみに「御所田」の字名が書き込まれていることを見出されています。
30:大宮郷関係地域略図 111年前の明治44(1911)年に出版された「京都府愛宕郡村志」には大宮村東紫竹大門部落東南として下御所田・中御所田・上御所田の名があがっています。須磨氏の著作「復元的研究」に「紫竹大門村地籍図」に依拠して作成された「大宮郷関係地域略図」の下御所田・中御所田・上御所田該当部を右に掲げます。堀川左岸から新町通間の随分広い範囲が
字上・中・下御所田になっています。
31:大正11年都市計画図「御所田町域) さらに、11年後の大正11(1922)年の京都市都市計画基本図中では、「紫野御所田町」と記された地域は、現在の上・東・西御所田町の三町に加えて小山西大野町の新町通より西の部分をも含んだ大変広い町域となっています(右図の黒枠線内)。
 なお、大宮郷外船岡山の東端、大徳寺の南に「犂ヶ鼻」(からす32:御所田範囲(大宝)
ヶ鼻、唐犂鼻とも)という集落が中世にあり、この東方に広がる田地をも、「御所田」と称していたようです。詳しくは[補注]に書きました。
 しかし本稿では、堀川と小堀川の間の地域が「御所田」とされていたものとしておきます。右図が、宝徳の地からみ帳復元図上にその範囲を土色で塗りつぶした図です。図中の「吉田」については次項を参照してください。

[補注]梶井門主殿跡の御所田
 江戸時代の地誌類の一つ「山州名跡志」(白慧編, 正徳元[1711]年)の「梶井宮御所」の所に、

『梶井門主殿 在右同所[船丘山]二塚其墳内彼御所在此所持佛堂號自性金剛院舊記應仁滅兵火自此大原今猶此地字を御所田と稱す』(山州名跡志, 白慧編, 正徳元[1711)年)

とあります。他の地誌類を繰ってみると

『梶井門主殿ノ址 在同所[船丘山]北字云御所ノ田古號自性金剛院應仁為兵火滅其後移大原今其墳地有二塚』(山城名跡巡行志, 釋浄慧撰, 宝暦4[1754]年)

『梶井宮御所 [割注]在犁ヶ鼻自元弘至應仁為御所云々 或云犂ヶ鼻ハ船岡山也、于今舟岡東梶井田字□□□[「京都市の地名」(平凡社, 1979)の翻刻では三字欠字としています。これが「御所田」でしょうか?]是舊跡也、總テ此邊御池ノ跡ナチリト云々』 

ここに出てくる「御所田」は梶井宮の御所に由来した名であることは分かりますが、現在の上・東・西御所田町は舟岡山の南東端、唐犂(からすき)ヶ鼻よりずっと東に位置しています。江戸時代の地誌に書かれている船岡山の東麓ではありません。
 大徳寺文書を繰ってみると、慶長2(1597)年の船岡山分麥田指出帳(5-2006)の正受院、三玄院、竜源院の3院分として、「梶井御所」という名で記され麥田があります。とすれば江戸時代の地誌に云う所の「御所田」は「梶井御所田」を意味していたとも考えられます。
 都名所図絵の一枚の図にそれを思わせる風景が描かれています。「からすきヶ鼻」の位置を示す江戸時代の地図「近世京師内外地図」(森幸安)とともに下に掲げておきます。
 
33:都名所図絵と森幸安近世京師内外地図

7)吉田 
34:吉田(大宮郷地名分布図より作成) 諏訪氏の「復元的研究」の付図全15葉の最後の1葉「賀茂別雷神社境内諸郷地名分布図」を眺めて気付いたことは、本册中の大半を占めている第4章 「賀茂別雷神社境内諸郷関係地名の歴史的研究」に言及されていない地名「吉田」が記載されていることです。場所は御所田の中央東寄り、宣旨と畠田の間に「吉田」と記載されています。東は小堀川に限られています(右図参照)。
 宝徳の地からみ帳田地復元図の該当個所を見ると、本所が「吉田社」となっている田地7筆が小堀川岸まで連なっています(下右図の濃い茶色で塗りつぶした区域)。字名として「吉田」であっ35:吉田社たとしても不思議ではありませんが、地名として「吉田」は言及されていないのです。
 しかし、天正17(1589)年の山城大宮郷大徳寺分検地帳(5-1998)には、12筆の田畠が「吉田」もしくは「よした」の地名で記載されています。これだけでは、正確な場所は規定できませんが、この名が記載されている前後の田地の字名をあげると、池田、卅八社、御所田、宮ノ後、殿田、小堀川があり、これらに囲まれた地としておおよその場所が浮かびあがります。
 天文11年の検地帳復元図の上にこれらの地名を書き込んだ36:吉田周辺図を下に示します。
 吉田が御所田の中央東域で殿田に接した地域と考えるのに無理はなさそうです。
 なお、卅八社は玄武神社(赤社)のことです。須磨氏は、大徳寺境内大宮郷賀茂台田畠絵図に「赤社」の場所に西から南へ通る道路に面して社殿と鳥居の形が描かれて「卅八社」と書き込んであり、これが赤社、すなわち現在玄武神社の名で知られている社に間違いないとされています。地名としてもこの社の南東側、堀川右岸沿い一帯は、「卅八社」「卅八社南」や「卅八社河の内」、「卅八社河のはた」、「卅八社下の東方」、「卅八社下」などの記載が、天正17(1589)年の山城大宮郷大徳寺分検地帳に見られます。
 宮の後と云う字名が史料に現れるのは、太閤検地によって大宮郷の大半が賀茂領から切り離され大徳寺領となり、天正17(1589)年に同寺領の検地帳が作成された前後の時期と推定されると、須磨氏は記されています。
宮の後 この時期の大徳寺の田地目録や検地帳を繰ると、この名の字地の田畠が何筆も見つかります。須磨氏は大徳寺境内大宮郷賀茂台田畠絵図に記入されているこの字名の区域から、「宮の後」の東西域は、現在の紫野東御所田町の東西の町界に相当し、南半分から、南部はさらに紫野宮西町東部、宮東町の一部まで広がっていたと推定されています。

まとめ
 最後に堀川と小堀川に挟まれた地域の中世期の地名と現在の町名とを、ひとまとめにオーバーラップさせた地図を掲げて、本章のまとめとにかえます。
対象地名全域色分図






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平安京北辺の水路網と地図 第7章

平安京北辺の水路網
解説目次
地  図


第7章 二股川と行者堀(宝泉院)及び西洞院

宝泉院から南を見る
二股川跡 行者堀(宝泉院)から、北大路の向こう南方を望む

行者堀を流れていた川
1:宝泉院入口 北大路堀川からすこし西へ入った北側に、宝泉院という真言宗醍醐派の寺があります。北大路通に面した門前は駐車場に占拠され、うっかりすると見過ごしてしまうほどの寺です。駐車場の前に「奉供」云々と彫られた小さな常夜灯が立ち、周囲を民家に取り囲まれた狭い境内には、神変大菩薩の額をかかげた一字の堂があります。
 神変大菩薩とは、役小角(役行者)のことであり、神変大菩薩は没後1100年(1799年)に光格2:神変大菩薩の額天皇から送られた諡です。
 宝泉院は、往時は行者堀とよばれていたそうで、役行者を信仰する人々の講中があったといいます。岡部伊都子氏が聞き取った85歳の老媼の話しでは、

『一年に一度は、みんなかんまんいう梵字をいれた麻の衣着て、鈴かけて川へはいっておがまはんのですがな。ホラ貝吹いて、本堂い
[ママ]はいっておがんで、草履はいて、ここから歩いて大峯山へまいらはりますねん』
『そいで山から赤土にまみれたままのわらんじで帰ってきて、また川へはいって洗いはりますねん。それから本堂で護摩たかはるんどす。そんな日は縁日みたいに出店もきて、賑かどした』
(岡部伊都子「京の川」, ps.159-168, 講談社, 1976)

 「行者堀」が記載されている地図に滅多にお目にかりません。国際日本文化研究センター所蔵の「第四回内国勧業博覧會」の宣伝冊子に綴じ込まれていた1895年の「京都市圖」に「行者堀」の名が見えます。
3:1895年「京都市圖」

 媼は、『(行者堀を通った水は、)コカワのほうにもわかれていった』とも、語っています。ここを流れていた川は、後述するように、二股川と呼ばれていました。
「コカワ」は、1963(昭和38)年に埋め立てられた「小川」のことでしょう。小川通沿いに南へ一条通まで流れて、そこで西に向きを変え、堀川に流入していた川です。1963年に埋め立てられ、今は目にすることはできませんが、小川の痕跡を目に出来る個所がいくつかあります。

[筆者後日註]「コカワ」は次章で詳しく言及した「小堀川」の可能性があります。

3b:堀川??/小川 京都市都市計画基本図では一貫して(大正4年〜昭和28年)、現在の扇町公園以南で、この川筋を「堀川」としています。また、昭和28年の京都市明細図(京都府立歴彩館所蔵)[註1]でも、上立売通以南に「堀川」とあります。何かの間違いでしょうか、それとも昭和20年代まではこれが「堀川」と呼ばれていたのでしょうか。この名称の混乱の因については、次章の「川上用水と堀小川」にゆずり、ここでは、参考までに大正11年の京都市都市計画基本図の例を左に示しておきます。青線でトレースしたのが二股川から小川への川筋です。青色の点線は堀川鞍馬口で合流している第一疎水の支線[註2]です。赤丸で囲った二字が「堀」と「川」です。

[註1]京都市明細図は、1,200分の1の縮尺で描かれた大縮尺の地図であり、いわゆる火災保険図(火保図)と呼ばれる地図の一種です。1927年ごろに大日本聯合火災保険協会京都地方会によって作成されたもので、1942年まで部分的な更新が行なわれてきました。その後、1950年から1951年にかけて、手書きによる彩色や書き込みが施され、戦後の情報も付け加えられています。この地図を現在の地図 Google map上にオーバーラップさせたものが立命館大学大学地理教室によって作成され容易にアクセス出来きます。一見をお薦めします:京都市明細図オーバーレイマップ

[註2]この疎水工事の際してなされた測量で使われた水準点を示す几号(ベンチマーク)のリストを見ると、支線の最後の19番目の位置として「二股川東」とあり、その点での琵琶湖面からの低下量が「五十四尺九寸三厘(16,63m)と記載されています(「訂正琵琶湖疎水要誌」, 若松雅太郎, 木村与三郎 編, 京都市参事会, 1896)の上巻284頁)。この合流点近辺にはそれらしきものは見つかっていません。上西勝也氏は、これを中立売橋(堀川第一橋)の北東端の親柱の南側(内側)下部に見られる几号水準点のことではないかと書かれていますが、『「二股川東」という記述にたいして堀川は小川よりも西に並行して流れ、かつ当該位置は小川と堀川の合流点よりも南にあるため疑問は残ります。』とも疑問を呈されています(「琵琶湖疏水の測量」)。


 媼の言葉『コカワのほうにもわかれていった』という意味を正直に受けとれば、宝泉院の行者堀の川は「コカワ」ではないほうを流れていったということです。これが何を意味しているかを考察する前に、まず宝泉院の行者堀の二股川について書くことにします。
 行者堀のあった宝泉院の門前から南をみると、北大路通の中央分離帯の向こうに、一本の街路がまっすぐに南方に走っています。西側は高層マンション、東は島津製作所の紫野工場に挟まれた街路、というより人通りの少ない通路にすぎない道です。これが川跡であることは容易に見て取れます。マンションが建っている所は川島織物紫野工場の跡地です。
4:島津製作所・マンション間の通路

5:桜の名所だった雲林院 平安時代、ここには雲林院がありました。雲林院はもとは、淳和天皇の離宮・紫野院として造成され、桜の名所でもあったといい、文人を交えてたびたび行幸されました。その後仁明天皇の離宮となり、やがて皇子常康親王に譲られ6:京都市明細図ます。869年(貞観11年)親王が亡くなった後、僧正遍昭に託し、ここを官寺「雲林院」としました。
 2000年に、このマンション建設に伴い、発掘調査が行われ、離宮跡であったことを裏付ける平安時代の建物跡や井戸跡などが発見され、その四至が明らかになっています。
 島津製作所紫野工場が開設されたのは1944年4月です、右の戦前から戦後にかけてに作成された京都市明細図に見られるように、そのころはまだ、工場裏に暗渠になる前の川がえがかれています。

江戸時代中期の地誌類に記された二股川
 この川の名前が「二股川」であることは、江戸時代中期の地誌類から窺われます。その幾ばくかを書き写しておきました。

①扶桑京華志 巻之一(松野元敬撰 1665年)
二股川 源出北山經賀茂正伝寺東而下流
(二股川の源、北山に出る 賀茂正伝寺の東を經て下に流れる)
百々橋 在妙顕寺前二股川末
(百々橋は、妙顕寺の前、二股川の末に在る)

7:日次記事②日次記事 二月(黒川道祐 1676年)
 惟喬親王忌 … 洛北二股川西有社 … 
 (洛北二股川の西に社有り)

[註]この社は惟喬親王を祭神とする玄武神社のことです。江戸時代の拾遺都名所図会には「惟喬社」と記されています。
 神社境内西北の隅に稲荷の鳥居と祠があります。それゆえか、中世には「赤社」と呼ばれていたといいます。須磨千頴「賀茂別雷神社境内諸郷の復元的研究 」(法政大学出版 , 2001)のps.665-666 によれば、
『中世におけるこの神社の姿は見る由もないので、私には現状から推測するしか術がないが、現在玄武神社の境内にはいちばん東に本社が鎮座し、並んで西に末社三座があるが、うち西側道路沿いの社が玄武稲荷大明神で、朱色に塗られた鳥居が並んでいる。すなわち赤社に他ならない。中世にもおそらく同じようにここに稲荷社が祀られていたと考えるべきであろう。「大宝」・「大天」の復元図や大宮郷賀茂台絵図に明らかなように、中・近世にはこの神社の北と東の大宮郷域はことごとく田畠であり、ただでさえ目立つ朱色の鳥居は、見通しがきく場所にあつてことさら人目を引いたのではなかろうか。「赤社」と呼ばれるようになったのは自然な成り行きであったろう。鎮座地は現北区紫野雲林院町東南端である。』

権九郎稲荷大神・赤の宮境内 京都市バス31番の停留所に「赤の宮」というのがあります。これもこのたぐいでしょう。
 赤の宮の正式な名前は「賀茂波爾神社」。田畠の土の神であり、陶磁器の祖神といわれています。赤い鳥居の列(右)をくぐり抜けた境内の北東隅に、小さな稲荷の祠があります。名は権九郎稲荷神社。宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祭神としてが祀られ、毎月大祭が催されています。
 「赤の宮」の由来としては、古代、赤土を使って土器などを造っていた氏族の守護神として崇められていたことに由来と云う説もあります。
 しかし歴史的に見ると、賀茂波爾神社(延喜式神名帳に記載)が衰退→江戸時代に稲荷を勧請して「赤の宮」に→明治15年に賀茂波爾神社に社名変更→昭和に入ってから権九郎稻荷神が、地元の友禅の染色工場の社長さん達によって創建された、というのが道筋だと思われます(「神社記憶 関西 京都 賀茂波爾神社」による)。従って「赤の宮」の呼称は、権九郎稲荷由来とは云えません。


③雍州府志 巻二 (黒川道祐 1682年)
 今宮旅所 在二股川西下末則斎場所也
 (今宮旅所は二股河の西の下松に在り 則ち斎場所也)
 百々橋 在妙顕寺通二股川末
(百々橋は妙顕寺通り[註]、二股川の末に在る)

8:名所都鳥④名所都鳥(松野元敬撰 1690)
 ○堀川  …… 又小川の水上も、今宮旅所の北東に西南へながる川を二股川と名づく それより百々橋の下を通り小川通の西側の人家の下を音しずかにながれきて一條より此堀川へ落(巻二)
 ○百々橋  妙顕寺通二股川の末なり(巻四)
 ○下松 又今宮の御旅所二股川の北西をもいふ(巻五)

9:堀川之水 ⑤堀川之水 巻中(富尾似船撰 1694年)
 堀川蛙聲 此川はみなもと鷹峯より出て二股河を過 本法寺前を流れ…

⑥都すヾめ案内者(作者不詳 1715)
 花洛の東西にふたつの川有東をかもかわと號し(中略)西に川ありほり川といふ 水上洛北ふたまた川ゟながれ出一條のもとりはしにいたり…

⑦京羽二重織留 巻三(作者不詳 1754)
 西に川ありほり川といふ 水上洛北二股川よりながれ出

 さらに江戸時代後期から明治にかけての行政の古文書にも二股川の名は、しばしばあらわれています。例えば、1789(寛政元)年に、二股川の川端の字高野田で借地して水車渡世を願い出た文書があります(⑧大和屋文書)。文中に出てくる高野田は、現在の紫野石龍町から南、雲林院町北部にかけての内と考えられます[註]。
 高野田の水車「高野」は「コウヤ」と読みます。役小角(役行者)ゆかりの宝泉院は、まさにこの地にありますから、高野田は「高野山」に因んだ名ではないでしょうか。実際、国土地理院の大正元年の正式地形図(縮尺1/20,000)には、宝泉院の少し北に水車小屋が見られます。
 水車渡世を願い出た経緯がおもしろいので、「史料京都の歴史 北区」から全文を写しました。

[註]須磨千頴氏の大著「賀茂別雷神社境内諸郷の復元的研究(法政大学出版局, 2001)第四章の第五節「大宮郷関係の地名」に次のような考証がなされています。

『 【かうや田・高野田・高屋田】天正十七年(1589)大徳寺分検地帳に「かうや田」所在の二反七畝、一反四畝の二筆が見え、これより三、四年早いのではないかと推定される。
高野田比定 瑞峰院指出(『大徳寺』八—二五五〇)にも「高野田」、「高屋田」の一所が出ている。次いで慶長二年(1597)大宮郷麦田指出には一筆二反二畝がきされている。大宮郷賀茂台絵図を調べると、郷南部の字「北裏」の東、堀川沿いの田地二枚に「小溝 高野田」と記入してある(肩に記されている「小溝」は用水の名称と見られる)。さかのぼって「大宝」復元図を参照すると、ここはNo.480龍花庵田二反、No.481雲林院田一反、No.482、同一反半と計三筆四反半の田地が存在していたことがわかるが、「大宝」では字名は記されていない。現在地は北区紫野下石竜町のうちである。』

「大宝」は須磨氏による「宝徳三年大宮郷地からみ帳」の略称です。また、No.480等の番号は、復元図中に記入された番号です。右上に復元図の該当部分を載せました。文中の紫野下石竜町の南町境に接して宝泉院あります。


 二股川沿いの水車渡世は江戸中期から結構盛んだったようで、明治に政府にだされた届け出にも上がっています(⑨上田要家文書)。これも同書から写し取っておきます

⑧大和屋文書(1789)
11:大和屋文書(1789)

⑨上田(要)家文書
10:上田(要)家文書2015022610001700d

 京都坊目誌首巻之三に引用されている「二条離宮ノ記」(子爵六角博道筆記、巻頭に「文政六年ノ比惣調ニ云と記載)には、次のような記録が残されています。

⑩二条離宮ノ記
『一  二条御城中御泉水へ先年水掛に水道筋の調
右は賀茂川上西賀茂も邊より、南畑之中へ二俣川と申す川筋有之。今宮御旅所之東の方より川筋分れ御旅の内を未申の方へ流れ大宮通の頭町筋へ埋樋有之。一條通の半町北の筋、横神明町と申通を一町東へ流れ、猪熊通の町筋を南へ流れ、御城北の御門の下を掛樋にて流込御泉水へ水かけ申し候成り…』

この記載から、「南畑」を流れる二股川が、今宮の御旅所の東の所で分岐し、西南方向に流れていた用水路が存在していたこともわかります。
 明治28年刊行の京華要誌には

『堀川 北は一条戻橋に起こり、市内西部を南に貫流し、上鳥羽に至る小川にして、水源二あり。一は鴨川の支流にして、西鴨村より雲林院の東を経て大応寺の北に至り二俣川と称し、本法寺の前に出て小川と云ひ、南流し一条戻橋に達す。一は鷹峯より発し、今宮の東を廻り若狭川と云ひ、一条戻橋の上流にて小川と合し堀川となり、(以下略)』

と記載されていることからすれば、本法寺、百々橋辺りの妙顕寺前通までくらいを二股川、それより下流を小川と称していたようです。さらに、明治になると若狭川も小川に合流していたことが分かります。江戸時代には、上立売通を東へ曲がって堀川に合流していたのが、維新後には今出川通の北で堀川は途切れていたようです。
12:二股川の推定流路 上に抜粋した諸史料にある二股川に関する断片的な情報をつなぎ合わせて、国土地理院の現代の地図上に二股川の推定流路を描いてみました。地図上に、史料に現れた地名等も黒の太字で示しておきました。
 行者堀より上流についてはどのあたりまで二股川と呼んでいたかは、皆目見当がつきません。史料⑧と⑨にそれぞれ出てくる地名、高野田や南畑がどこかはわかりません。⑧の高野田は大徳寺領分とありますから、北大路通より北で、⑨にいう南畑は西賀茂の南と今宮御旅所より北とよみとれますから、かなり北大路より北まで二股川と呼ばれていたように思えます。
 ⑩にあがっている東紫竹大門村は、明治5年に江戸期の大宮郷の村々が合併した結果できた村名です。雲林院、門前、新門前、上野、三筑、開、薬師山、大門、大宮森、紫竹の十村が合併して東紫竹大門が誕生します。御土居を越えて南北に長い村で、村名から想像しづらい領域を占めていました。
 例えば、南の方では、1918(大正7)年に渋沢栄一が京都織物株式会社を設立するために購入した土地は、現在の島津製作所紫野工場のある所ですが、地名は『京都府愛宕郡大宮村字東紫竹大門小字宮ノ後二十三番地』となっています。また、『陵墓一覧』によると、桂宮智忠親王御息所眞照院墓が「山城國愛宕郡大宮村大字東紫竹大門大徳寺中」とあり、大徳寺も東紫竹大門でした。
 北西の方では、巌門の瀧がある愛宕山も東紫竹大門村内であったことが「大名・旗本・公家・寺社所領一覧」の表に
『柳原家 高202.602石/愛宕郡東紫竹大門村内84.177石、葛野郡中堂寺村内118.425石』
とあることから知れます。
 愛宕山が柳原家の領地であったことは、維新に際して東京へ引っ越した柳原家から、その領地を引き継いだ鷹峯の農家樋口家の今の当主から聞いたことです。
 北東のほうでは、1889(明治22)年の京都府令「京都府甲第三拾三號」に

『名區勝地ニ達スル道路トシ地方税ヲ以テ修繕スヘキ路線左ノ通相定ム
明治二十二年三月十九日
一 上賀茂道
 但大宮通郡區界ヨリ愛宕郡東紫竹大門村ヲ通シ上賀茂村御薗橋ヲ經テ社頭迄』

と記載されていることから、大宮頭から「名勝」上賀茂神社に至る途上に東紫竹大門村があったということですから、賀茂川右岸一帯に広がっていたようです。
 昭和になってからの話しではすが、東紫竹大門村と二股川の水車の関連を明示した思い出話が、地元の医院「かぎもとクリニック」の手づくり情報誌「オリーブ」に載っていました。

『紫竹は京都御所とほぼ同じ大きさで意外と広く、東は新町近くまで、何と北は葵まつりの通る御園橋や加茂街道の一部も紫竹です。不思議大発見ですね。 中心南北軸は旧大宮通、東西軸はかぎもとクリニック前、紫竹通です。 のどかな昭和10年代、この付近から北大路新町の附属小学校へ通われた男性は、通学路にはまだ田んぼも残り、13:水車小屋地図田植えの終わった梅雨時はカエルの鳴き声の合唱と、堀川の西辺りを流れていた二股川畔では水車の「コットン、コットン」と廻る音を聞きながら楽しい学校の行き帰りと懐かしんでおられました。』
 
 
1889(明治22)年の陸地測量部の假製二万分一の京都地図には東紫竹大門村の南部に水車とおぼしきマークが川沿いに点々と見られます。このことも勘案すれば、少なくとも北は現在の紫竹通辺りまでは二股川と呼称されていたように思えます。

いまどきの風景
14:写真1 デスクワークはちょっと一休み。散歩がてら、北大路から南へ、百々橋までの今時の風景を見て歩きました。
 マンションと島津製作所裏の間を進んでいくとすぐに民家に突き当たります。
 左手にも島津製作所に接して民家が建っています。背後に回り込んでみると川端の斜面に立っている風情の民家です(右の写真)。確かに今歩いてきた道は川底で、今立っている所のT字路の左右は上り坂で、ここが川底であることを痛切に感じる場所です。
 玄武神社からこの一画へ入る所にある町内案内板で、その場所だけは確認できます。下の町内案内版に書き込んだ①です。
15:町内案内版

16:写真2 さらに幸いなことに、②で示した所で、この地に80年以上住んでおられる95歳のお爺さんに、昔話を訊くことが出来ました。
 昔話を聞いた行き詰まりの路地は明らかに川跡です(右の写真)。この路地は行き止まりですが、川はここを突き抜けていたに違いありません。回り道して猪熊通から鞍馬口通を巡って堀川通に出ました。
 航空写真で歩いてきた道筋(赤線)と河道の推定(白い点線)を確認して見たのが下図です。
17:航空写真

 この先は、疎水と合流して、小川通の下を南下しています。
18:本法寺東門前の小川の跡 本法寺の東門の所で川筋の跡を見せていますが、現在は水は流れていません。
 この辺りまでが二股川で、それより南は小川と呼ばれていたのです。中世には、小川沿いの道は、大変賑やかな通りだったようで、それは、いくつかの洛中洛外図屏風に生き生きと描かれています。
 しかし平安時代、平安京の北郊に流入していた小河川に「小川」はあらわれていません。それでは、いったいいつ頃から、どのようにしてこの小川の川筋は出現したのでしょうか。これについては、次節で片平氏の説を紹介します。

西洞院川から小川へ
 中世には小川沿いの道は、初期のいくつかの洛中洛外屏風図に描かれているように、大変賑やかな界隈でした。一条通から廬山寺通あたりが描かれている左隻に見えるごとく、讃州寺、百万遍、行願寺、誓願寺、水落寺、宝鏡寺などの寺院をはじめ、細川殿、仁木殿、飛鳥井殿、薬師寺殿、南御所など貴族・支配者たちの邸宅が建ち並び、川際の道にはいくつもの商家が軒を連ねています。これに引きかえ堀川の存在は影は薄いです。
 参考のために下に、国立歴史民俗博物館のWEBギャラリーで見られるの洛中洛外図屛風(歴博甲本、いわゆる町田本)の左隻の小川沿岸の画像を入れておきました。 
19:小川:町田本

20:延喜式左京図 ところが、平安京北郊外から平安京左京に流入していた小河川のなかに小川は見えません。下は、東京国立博物館所蔵の「延喜式」巻42の左京図の部分ですが、そこに描かれているのは、西から、大宮大路に流入した大宮川、堀川大路から流入した(東)堀川、町尻小路から流入して中御門大路で西に折れて西洞院大路を南下している西洞院川、烏丸小路から流入して冷泉小路で西に折れ室町小路を南下する子代(烏丸)川/室町川 と東洞院大路から流入して大炊御門大路で西に折れ烏丸川に合流する東洞院川の合計5本の河川です。小川はその流路も道筋も存在していません。
 小川はいつ頃に出現したのでしょうか。この疑問に明解に堪えてくれるのは、片平博文氏の「貴族日記が描く京の災害」(思文閣出版, 2020)の第9章「12~13世紀における平安京北辺の風景とその変化―西洞院川と「小川」との関係―」で、もとになった論文は「立命館文学」 649, 2017, 113-133に掲載されたものです。
 結論を先に記すと以下の通りです。

『西洞院川の上流は、弘安十一年(正応元)年(1288)から14世紀の初頭の正和元年(1312)頃までの間に付け替えられ、新しい人工河川の「小川として再生されていたのである。』

 原本が平安末期の承安から治承年間、すなわち1170年代後半頃に作成されたと推定されている「年中行事絵巻」に、左近馬場で毎年五月のはじめに行われた騎射のようすが描かれています。下に「文政十三年庚寅閏三月廿七日右衛門権大尉藤原寿栄写」の奥書のある年中行事絵巻の左近騎射の場面を京都大学貴重資料デジタルアーカイブから写したものを入れておきました。
21:西洞院川:年中行事絵巻

 左近馬場とは、一条北・西洞院末付近にあった左近衞府の馬場のことで、後に五月の端午の節会時に、荒手結[あらてつがい]や真手結[まてつがひ]などの騎射が行われるようになる施設です。
24:左近の馬場と西洞院川の上流部 この馬場は寛和3(987)年以降、一條通より北へ西洞院大路末の西沿いに、南北の長さ90丈、東西幅25丈程度の範囲を占めるていたことが、片平氏によって考証されています。彼の描いた10世紀末の左近馬場の図を右に写しておきました。
 この馬場を描いた年中行事絵巻の興味深い個所が左端(北よりの馬場末)にみられます。この北の馬場末付近に1本の河川とそこに架けられた2つの木橋が描かれ、さらに、馬場末から2つ目の木橋の斜め上に東方向に進む水流が描かれています。下に拡大図を載せます。図中にこの屈折して西北から東南への見え隠れした流れを青線と点線で示しておきます。この川筋は馬場を北西角から南東へ横切っています。
23:川筋記入部分図

 この上の図と、延喜式左京図の平安京に流入していた小河川を見比べれば、年中行事絵巻に描かれている川は、明らかに町口から平安京に流入していた西洞院川の上流だということがわかります。
 ここでまた、片平氏が掲げた「左近の馬場と西洞院川の上流部」の図を写しておきます。
24:左近の馬場と西洞院川の上流部

 この左近馬場の北を横切って町口から平安京に入っていた西洞院川がなぜ付け替えられて小川となったのか、その契機を片平は次のように推測しています。要約すると次のようなものです。
 1288(弘安11)年は、4月28日に改元して正応元年となりました。その前々日の4月26日にかなり大きな火災がこの地で発生しています。「勘仲記」(鎌倉時代の公卿、権中納言勘解由小路兼仲の日記)の同年同日の条に下

 『寅尅一條西洞院邉有上、行願寺誓願寺等成灰燼、其外人宅不知員數、猪隈殿御所咫尺之間馳參、大殿、前關白殿、大将殿有御出、諸事御沙汰、所々雖燒付、毎度打消了、始終無爲、火㷔餘了總門并築垣等燒失、參宰相中将殿、内大臣殿有御出、天曙之程退出』

とあるように、一條西洞院付近から出た火は南東の風にあおられ、行願寺、誓願寺を灰燼とし、堀川の西にあった猪熊殿(鎌倉時代における近衛殿の別所)にまでおよんでいます。
 その前年の1287(弘安10)年の5月5日の条には、兼仲が左近騎『左近騎射奉行、當日事辭申奉行了』とかかれていますが、この時までは連続的に確認されてきた「左近騎射」、「荒手結」「真手結」などに関する記事が、この記事以降は全く見られなくなってしまいます。ずっと後になってからですが、「五月三日、荒手結等無沙汰事」という「園太暦目録」(南北朝時代の公卿・洞院公賢の日記)の1352(文和元)年の同日の条に現れるのみです。この行事は、もはや廃れてしまったていたと考えられます。馬場跡はどうなったのでしょうか。
 先に見た西洞院川は、「暴れ河」でした。火事があったと同じ年の1288年8月6日には、洪水も起こっていることが、これ又「勘仲記」に見えます。

『大風大雨、(中略)幣馬事職事兼致催沙汰了、左少辨仲兼朝臣申領状之處、近衛室町河洪水之間、車不及通』

 それ以前にも西洞院川洪水の記事は、度々見られます。片平氏論文に掲げられた表「左京域を流れる小河川による洪水の記録」から、西洞院川の洪水をピックアップしますと、1046(永承元)年から1288(正応元)年までに5つの記録があります(下表)。

25:西洞院川の洪水の記録

 不思議な事にそれ以降、西洞院川洪水の記録は見られません。特に不思議なのは、それから20年後の1312(正和元)年の5月23日の未曾有の鴨川洪水に際しても、西洞院川流域に関しては何も触れられていません。
26:祐春記 江戸時代後期の権大納言柳原紀光が編纂した編年体歴史書「続史愚抄」には、春日若宮の神主祐春の日記「祐春記」を引用して次のように記しています。

『廿三日戊午、鴨川洪水、水至六波羅門外、又今出川第門流、人民多溺死、或親王[割注:十七/歳]往見洪水間、水溢乍車流。雖引上殆絶氣[割註:○祐春記]』

 参考までに、右に春日若宮神主祐春記(国立公文書館甘露寺家旧蔵本)の該当記事(同年5月24日の条)を載せておきます。
 片平氏は、以上のように火災や洪水の被害を切っ掛けにして、左近馬場が使用されなくなり、西洞院川の上流が、馬場の北端の中央やや東寄りから、真直ぐに南下して、一条大路で西に曲がって堀川に合流するように付け替えられた、と推測して、1288(正応元)年から14世紀初頭の1312(正和元)年頃の間に、新しい人口河川「小川」が誕生した、と考えられています。もっともな推定です。
 その後一帯は、馬場の跡地利用の開発にともない大きく変貌して行くことになります。片岡の描いた小川成立後の地図、「第8図:左近馬場付近と小川の流路」を少々修正して描いた小川成立後の推定図を下に掲げます。
27:小川成立後の地図
[注記]片平氏の図では猪熊殿の位置が堀川の東のブロックに記載されているが、これは単純なミスだと思われます。本文中には「堀川小路西側の北辺部には『猪隅関白記』の記主である近衛実家の父にあたる基通によって新造された猪隅殿があった。」と記さいされています。小川成立後にも存在したかどうかは、不明ですが、堀川の東側に立て替えて変えられたとは考え難いです。

 上の修正図に書き込んだように、馬場跡の地は権門貴族が所有する所となったことは、想像に難くありません。
 鎌倉時代初期から一条家の所領であった一条以北・武者小路以南・室町以西・馬場以東の地はさらに新河川「小川」を越えて西に広がり、後に行願寺や誓願寺に寄進されています。後円融院の仙堂御所となった勧修寺経輿の邸宅北大路第は北小路小川にあり、その南の誓願寺門前の地には寺庵・在家が建っていたといいますから、馬場跡の北半分は、勧修寺家の所領したものと思われます(詳しくは高橋康夫「環境文化の中世史 洛中洛外」ps.116~132)。さらに、時代は下がりますが、常盤井宮は花御所の近くにあった邸宅を収公され、そのかわりに移徙したのは、武者小路小川であったことが、「建内記」(室町時代の公卿万里小路時房の日記)の1432(永享3)年12月12日に次のようにあることから推定されています。

『常盤井宮御所事。上御所御近所也、就御用被點進小川殿小御所(校訂者註:武者小路小川)、昨夜御移徒云々』
(東京大学史料編纂所「大日本古記録 建内記二」p.237)

 森幸安作成の往古図、「中古京師内外地圖」の該当部分を見ると、付け替え前の西洞院川が南東流れていた一画、町と小川、北小路と武者小路に囲まれた地は、南北と東西の二つの道路で分割されて、南西部分の敷地に常盤井宮邸が描かれています。その東側の辻が現在の常盤井辻子に、北側の東西路が「誓願寺辻子」に相当することは、容易に分かります。西洞院川旧跡の開発にあたって、まず二つの辻子が開かれたということでしょう。
28:中古京師内外地圖

 かくの如く、町口から平安京に流入していた西洞川は14世紀初頭までには、左近馬場跡を南流する小川として付け替えられていました。「小川」の名前が記録に現れた最も早いものは、おそらく、14世紀中頃にまとめられたとされている徒然草第89段の「猫また」に出てくるものでしょう。29bis:「こ川」:洛中洛外図屏風東博甲本「猫また」が出たのは行願寺(革堂)前の小川だったとでています。
 さらに100年ほど後15世紀初頭の洛中洛外図屏風東博甲本(町田本)には「こ川」という記載が見られますます。
 
西洞院川の上流
30:西洞院川の上流推定図 では、この西洞川の水は何所から来ていたのでしょうか。
 これに関して史料は見当たりません[註]。

[註]森本茂「源氏物語の「二条院」の位置」(奈良大学紀要 (15), ps.48-58, 1986)には、論拠をあげることなく『西洞院川は賀茂川から直接分流していたため、水量が多く、水の涸れることはなかったろう。『中右記』の長承三年(1134)五月十七日条によれば「近代如此洪水未曾有」の大洪水がおこり、堀川・西同院川に流死者が出たともいう。』とさらりと書いておられる。

 地図をながめて考えてみました。右の図を見てください。赤線については後述しますが、この図で次の2点に気付きます。まず、堀川通について。
 昭和10年の京都市都市計画基本図に見えるように、昭和のはじめ頃までは、堀川通というのは寺之内通から以南のまっすぐの道路の名前でした。ところが、昭和28年の同図では、北へ延長され拡幅された堀川通が茶色の線で描かれています。これは、何故か西側に彎曲した道筋となっています。これが現在の寺之内以北の堀川通で、鞍馬口通から北はすでに幅の広い直線状の道路が昭和10年には開通していました。昭和4年、10年、28年の同図の該当区間を横に並べて比較しておきます。昭和4年と10年の計画基本図に記載されていた計画路線は薄くて見づらいので太目の黒の実線でなぞっておきました。この路線上にあった水火天満宮は、昭和25(1950)年堀川通が重要幹線道路となる拡張工事の際、堀川上天神町より現在の扇町に移転しました。現在地は、元の悲田院の跡地でもあります。
31:堀川通の変遷図

 第二点めは、この水火天満宮の移転に関してです。
 不思議なことは、昭和10年の計画図を見ると直線路として延伸計画を示す破線が引かれていて、この計画通りなら、水火天満宮は計画道路の西側に立地していたのですから立ち退く必要はなかったのに、どうして彎曲路線に変更されて水火天満宮が立ち退く結果となったのでしょうか。
32:水火天満宮旧地 右に現在の地図上に当時の計画された堀川通を点線で書き入れました。容易に見て取れるように、本法寺の塔頭教蔵院・教行院や茶道資料館・表千家会館が、計画路線上にあります。そのようなことから、西側に迂回し、寺之内竪町の民家と水火天満宮が立ち退く結果となったのでしょう。
 それはともかくとして、水火天満宮にまつわる興味深い伝説が残されています。
 元禄九年六月二十五日、水火天満宮の宮司である菅原長義朝臣が書いた「水火天神略縁起」の中に次のようなあります。

『ここに洛陽下松水火天神と申し奉るは、延喜の帝、法性坊贈僧正尊意に勅して勧請ありし霊地也。(中略)同年(延喜3年、菅原道真が没した903年)夏のこの比、大風大雨止む時無く、雷電鳴り落ち、鳴り登って、高天も地に落ち、大地もさくるが如く、七日七夜世の中暮れふたがりて、洪水家々を漂しければ、京白河の貴賤男女喚叫事おびただし。
 これにより法威を持って神の念をなだめらるべしとて、法性坊贈僧正をめされしに、一両度は辞退申されけるが、勅宣三度に及びぬれば力なく下洛し給ふに、鴨河の 水おびただしく増さりて、船ならでは渡るべきようもなかりけるに僧正是を見給ひて 「只この車、水の中をやれ」と仰せければ、牛飼い命に従いて、みなぎる河の中へ車をおしやりければ、洪水左右に分かれ、車は陸地を通りけり。この時より鴨川を二また河ともいへり。』

「洛陽下松」というのは、雍州府志 に『今宮旅所 在二股河西下松』とも、『惟喬宮[筆者註:惟喬宮は玄武神社、亀社、赤社ともいわれた]、在二股河下松西』とも書いてあることからすれば、上図の水火天満宮の旧地よりな少し北です。この縁起からすれば、当初は旧地より北で創建されということでしょうか。ともかくこの辺りで賀茂川が二つ東西に裂けたということを伝えています。
 二股川と小堀川のことを示唆しているのではないでしょうか。次章で詳しく記しますが、二股川と小堀川は上流の紫竹大門付近で二つに分岐した川で、その源は賀茂川です。「左右に分かれた」というのを「裂け目ができた」と解釈すれば、二つの川は下松の下流でまた合流したものと思えます。
 それが何所だったかは何の手掛かりはありませんが、小川は上立売通で一旦東に屈曲してから、再度直線的に南下しています。この上立売通以南の直線的な流路は人工的です。もともとは、裂た東側の流れは、そのまま南下していたのではないでしょうか。そして二股川と再度合流して、西洞院川となって新町通から平安京に流入していた、とかような推測はいかがなものでしょうか。
 西洞院川が付け替えられ小川になったことを推定された片平氏は、それでは西洞院川の上流はどこからやって来たのか、その水源については一切言及されていません。ただし、裂け目の西側の流れであった二股川は堀川に流入しいたのではないかと示唆されています(「貴族日記が描く京の災害」(思文閣出版, 2020)の第10章「同時に溢れた京域内の河川 —貞和5年(1349)における堀川および鴨川の洪水—」p.253(もとになった論文は、京都歴史災害研究 第18 号, 2017です)。また、次のようにも書かれています(同書 ps.250-251)。

『「小堀川」の流れは、まだ小山郷や大宮郷の領域が市街化されていなかった頃の状況を示す大正11年(1922)33:片平図:堀川・小川の上流部図測図の「京都市都市計画基本図(3千分の1)」のなかでも、容易に辿ることができる。それは、紫竹大門村の東で堀川の本流から分岐し、堀川に沿ってほぼ南に流れ、妙覚寺の北西付近で再び元の流れと合流する河川であった(第5図)』
 
34:小堀川 この第5図のベースマップは、京都市都市計画基本図ではないことに注意がいります。都市計画基本図では『妙覚寺の北西付近で再び元の流れと合流する』ことを辿ることはできません。右は都市計画基本図で小堀川を赤い線でなぞったものです。小堀川が二股川と合流したとは見えません。その一方で、二股川は、第5図に描かれているように、水火天満宮の西側をかすめて南下し堀川と合流すると推定されています。
 大正11年の、京都市都市計画基本図にあるように二股川は、堀川鞍馬口で第一疎水支線とともに小川への流れに合流していました。しかし、二股川は古くは、おそらく少なくとも江戸時代以前に玄武神社の南から小川への川筋へ付け替えられたものと思えます。この小川の上流は小堀川に繋がる流れだったのでしょう。古くは小堀川の流れは、上立売通で東へ曲がらずそのまま南下し、二股川に合流して西洞院川となっていたのではと筆者は想像しています。
 上立売通以南の小川も小堀川を付け替えたものといえます。地形の勾配からすれば左折して東に流れるより、まっすぐに南下するのが自然です。実際、現在の地形上での計測ですが、前者の勾配は100mで38cm上がり、後者は40cm下がっています。
35:水落地蔵と小川屈折部:町田本 この屈曲点に「水落地蔵」がありました。いくつかの洛中洛外図屏風にも描かれています。右は最も古い東博甲本(町田本)の該当部ですが、右端に見えている細川殿の南西角で、すでに小川は東に屈曲していました。
36:昭和10年洪水石碑 現在でも、この辺りの地形に因む地名が残っています。南側は油小路の両側町「水落町」、西北は堀之上町です。
 堀之上町と水落町の交差点の南西角の民家の際には、1935年の京都大洪水のことを刻した石碑が建っています。西面に「昭和十年六月末/大出水地上四尺」、北面に「上立賣通/堀之上町」とあります。この碑はもともとは、上立売通の北側の堀之上町の町内にあったようですが、現在では南側、水落町の町内にあります。
浸水域 1935年6月29日午前5時頃、上立売通の小川の石橋が落ち、地上六尺以上も水が溢れました。京都市編「京都市水害誌」(京都市, 1936)に、当時の地図上に浸水域を描いた図が綴じ込んであります。現在の地図上にこの浸水域を描き直してみると、水落町から南の油小路沿いは2m以上も浸水していたのに、堀川沿いの堀之上町や北舟橋は浸水していません。しかし、堀之上町の水落町と接した上立売通北側周辺は、上の石碑に「大出水地上四尺」と刻されているように、浸水したことが見て取れます。二股川の旧流路と推定した油小路通両側の土地が低いことをいみじくも物語っています。
 さらにもう一ヶ所、小堀川の川筋に、本流として二股川が鞍馬口通で流れ込むように付け替えられ、おそくとも江戸時代以降の「小川」の川筋が出来上がったものと考えられます。
 以上三ヶ所、鞍馬口通、上立売通、今出川通南(現弁財天町)を縦断する地点で二股川と小堀川は付け替えられたと推定されます。
 鞍馬口の通りの南の水火天神、上立売通り水落町はいずれも水に関係した名称ですし、今出川通南の弁財天町についても水にまつわる地名です。
 雍州府志巻八の古跡門に興味深いことが書かれています。立川美彦編「訓読雍州府志」読み下し文を下に写します。

『弁財天町 兼康町の南にあり。伝へにいふ、古へ、弁財天社この所にあり。社の前に池水あり。今、社絶え、池水もまたこれ無し。しかれども、毎年春末、蘆芽、地中より生ず。古の蘆根のいたすところか。』

弁財天町:雍州府志 右に原文を載せておきます。ここが蘆が繁った川原跡だったことをいみじくも示しているようです。
 弁財天(弁才天とも書く)は、インド神話のサラスバティーを漢訳し、女神の姿に造形化したものですが、もとはインドのサラスバティー川の河神です。元来インドの河神であることから、平安初期から末期にかけて仏僧が日本各地で活躍した水に関する事蹟(井戸、溜池、河川の治水など)に、また日本各地の水神や、記紀神話の代表的な海上神の市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、泉、島、港湾の入り口などに、弁天社や弁天堂として数多く祀られました。いずれも海や湖や川などの水に関係した地です。「五大弁天」といわれるものも「水」に関係した場所に祀られています。竹生島(宝厳寺竹生島神)、宮島(大願寺)、江ノ島(江島神社)、天川村(天河大弁財天社)、金華山(黄金山神社)の五つです。
 以上この三ヶ所の付け替え地帯に共通した興味深いことに、もう一つ気付きます。

結論 川跡周辺の開発はまずは辻子から
 付け替えられた古の二股川と小堀川の川筋について、くどくどと記述してきましたが、「西洞院川の上流」の節の冒頭に掲げた図中の赤色の点線と青色の実線を比較していただければ一目瞭然でしょう。青色が、大正11年の」都市計画基本図で確認された水路で、赤色の点線は16世紀以前、おそらく応仁の乱以前に遡った時代の推定水路です。残念ながら往年の水路を示唆する史料を見つけられません。現時点では想像の域を出ない推定です。
 しかし、現在に残された地名から興味深い共通点が浮かび上がります。
 この付け替えられた古の二股川と小堀川の川筋周辺の土地が開発されるに先だって、道路が付設されたはずです。その名残りが、町通になる前の辻子名として、この界隈に数多く残っています。
 小川に付け替えられた西洞院川周辺の跡地に現存する南北路の「常盤井辻子」と東西路の「元誓願寺辻子(狩野辻子)」は、先述したように森幸安作成の往古図「中古京師内外地圖」にみえます。
小川界隈の辻子 小堀川や二股川が合流する前に間近に並列して流れていた界隈の油小路筋の東西には、「狼(実相院・本阿弥)辻子」「水落辻子」「水落小辻子」さらに、特に名もない油小路今出川上ルの辻子もあります。さらに、二股川が玄武神社南から小川筋へ付け替えられた後の水火天満宮周辺には、「天神辻子」と「扇辻子」その南の「竹屋辻子」が見られます。
 これらの辻子を、寛永後万治前(1624から1658頃まで)の洛中絵図の道路網をトレースした上に、二股川と古堀川の川筋とともに書き入れて見ました。これが右図です。
 江戸時代以降の洛中絵図類には、小河川や消滅したり暗渠になったりした川筋が記載されていることは期待できません。上で見たように辻子の分布状態が、無くなった小河川筋を見つける手掛かりとなるかも知れません。

平安京北辺の水路網と地図 第6章

平安京北辺の水路網
解説目次
地  図

第6章 若狭川から有栖川へ

若狭川・年中行事絵巻
全16巻からなる国会図書館本には、各所に谷文晁所用の「文晁之印」の朱文方印が捺され、今泉雄作の明治四三年三月二日付楠林安三郎宛鑑定書が付属している。模本という性格上、直ちに筆者の判断を行うことは困難であり、全巻を文晁が模写したものか否かについては後考を俟ちたいが、文晁所用印の存在から、この模本が『集古十種』や『古画類聚』の編纂のため、松平定信の命によって文晁が住吉家から借り受け、作成した模本である可能性を検討すべきものであると考える。
(髙松 良幸 「江戸時代中期の住吉派―画像情報の知識化という観点から―」[静岡大学情報学研究紀, 2019]の註7より)


「山州名跡志」の記述から
 白慧(坂内直頼))撰「山州名跡志」に紫野の若狭川と有栖川との関係について次のように記されています。

『若狭川 云同社(今宮社)門前石橋下流。水源西鴨山谷より出、大宮通溝入。西堀川水源是也。委洛陽部。河名義不詳。』(大日本地誌大系 36,「山州名跡志 第一巻」p.149, 雄山閣, 1977)

『有栖河 案同名河在賀茂・紫野・嵯峨三所。此所不詳。此邊の傳説に、舟丘の東南大宮の西條の間え、舟丘の卯辰方[東と東南東との間]より流るゝ細流を云也。水源は今宮鳥居東を自北流南、其所にては號若狭河。其下は大徳寺門前を流て來也。如件號今あるべき流にあらず。至南濁水なり。所詠和歌、
 おとにきく齋も宮の有栖川、たゝ船岡のわたりなりけり
                         躬 恒』
(同書, ps.152-153)

 この二つの記述によれば、今宮神社の東の鳥居の側を南へ流れているのが若狭川で、その下は、大徳寺の境内を通り門前からさらに南へ流れていた川が、有栖川と称されていたことがわかります。しかし、江戸時代にはすでに、この有栖川は川の態をなしておらず、濁水にすぎなかったようです。引用されている和歌によれば、船岡山の東側をながれ、紫野の斎院の側を流れていたようです。
 さらに、次の同書巻之二十二神社部「稲荷社」(同書 p.527)の記述は、有栖川の流路を考える上で見逃すわけにはいけません。

『稲荷社 在竪若宮町西方人家裏。鳥居北向木柱、小社東向。社記不詳。社の南の傍に溝あり。此流を古へより云有栖河。水源は今宮東門の東の溝の流れにして大徳寺の門前を經て、舟丘の東面を流れ、此所に來り、是より大宮通り人家の間に出て、西堀河に入るなり。』(「大日本地誌大系 37, 山州名跡志 第二巻」巻之二十二」p.527, 雄山閣, 1977)

すなわち、有栖川が大宮通に出る地点を明確にしています。同様の記述は、「雍州府志」にもあります。

『稲荷社 在安居院筋違橋西南 社前有川 號有栖川。故謂有栖川宮 凡稱有栖川者 在嵯峨並藤杜遍 一説斯社所勧請藤杜祟道盡敬天皇也 故斯川亦號有栖川者乎』
(安居院筋違橋の西南にあり。社の前に川あり。有栖川と号す。故に、有栖川の宮といふ。およそ、有栖川と称するもの、嵯峨ならびに藤の杜の辺りにあり。一説に、この社は、藤の杜、祟道尽敬天皇を勧請する所なりと。故に、この川、また、有栖川と号するものか。)
訓読文は、立川美彦編「訓読 雍州府志」(臨川書店, 1997)p.51より抜粋しました。

1:筋違橋町地図 恐らく濁水の溝と化す前の有栖川は、竪若宮町」と「筋違橋町」境界あたの、鞍馬口通を斜めに架かっていた筋違橋の下を潜って南におれて、大宮通に西側を 南下していたのでしょう。参考までに現在の地図上で、「竪若宮町」と「筋違橋町」の位置を確認しておきます(右図)

 さらに、巻之十七洛陽部の堀川の項には、堀川の源流の一つとして「若狭川」の名が出ています。

『堀河 水源二流、於末有細流合。其一は前の小河にして一條以西の流是なり。其二は出北山、又出鷹峯東渓。此流經上野、於今宮北合して流今宮東。於此言若狭川。但所以不詳。又一流出紙屋河、船丘南至廬山寺通東。於大宮若狭河と合して、西方人家の下を流れて至上立賣東。北方人家の下を流れて出東堀河(以下略)』(同書 p.422)

2:今宮神社と大徳寺沿いの流れ 江戸時代には、今宮神社の東側を流れていた若狭川は東に折れて、大徳寺の北沿を流れ、大徳寺の北東角で南に折れ、大宮通を南下していました。右に示したのは、西尾市岩瀬文庫所蔵の「〈改正〉京町御絵図細見大成」から該当部分を抜粋したものです。

大徳寺境内を流れていた若狭川
 若狭川の流路は、織田信長の一周忌に間に合うように豊臣秀吉が総見院を建立した時に、大徳寺北沿いに付け替えられました。
 その時以前は、今宮神社東を流れていた若狭川は、そのまま真直ぐに大徳寺境内を横断していたことが、片平博文氏によって例証されています(片平博文「貴族日記が描く京の災害」第8章の3 「大徳寺の中を流れていた川」p177, 思文閣出版, 2020)。さらに彼は、若狭川の流路が大きく変更されたのは、豊臣秀吉が織田信長を供養すために総見院を創建したことであるという説も、同著に述べておられます。
4:大徳寺境内の若狭川比定 その論証過程を要約した記事を「洛中洛外虫の眼探訪」2014年10月号に「3.2 大徳寺境内における流路」というタイトルで載せています。詳細はこちらに譲り、その折に作成した大徳寺境内の若狭川の比定図だけ右に掲げておきます。

紫野斎院の傍らを流れていた有栖川
 さて、いよいよ本題の「紫野斎院」の有栖川に入ります。大徳寺を出た若狭川は、どのような経路をたどって紫野斎院の傍らに流れ着いたのでしょうか。
 紫野斎院は、東は大宮通、南は廬山寺通によって画された方50丈(約150m四方)の敷地を占めていたと推定されています5:等高線比較(角田文衛 :紫野斎院の所在地,「紫式部伝 その生涯と『源氏物語』」, ps.530-550, 法蔵館, 2007)。これを現在の地図上に表示すると右図のようになります。この区画内の北東部に、櫟谷七野社[註]が今も残っています。

[註]七野社
 巷に流布している「七野社」の意味は、京都市の上京区の史蹟の解説にもあるように、紫野・上野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野の「七野」、あるいは春日・伊勢・石清水・賀茂・平野・松尾・稲荷の7神を祀る「七の社」ですが、角田氏は、『七座の神を祀った野社』と解しされています。「野社」とは、紫野の斎院の社の義で、七座とは、斎院の守護神の七柱(大殿神・地主神・御門神・御井神・庭火神・忌火神・御竃神)を指しているとされています。


 片平氏は先述の著作で、今宮神社から南南東へと流れ出た有栖川は、雲林院の西門辺りから「地形に沿って」真南に流路を曲げ、船岡山の東を通過して(角田比定の)斎院の南西角をよぎって大宮末路を斜めに横断していたと想定されています。
5:等高線比較 念のために船岡山東麓周辺の等高線図を、現在の地理院地図と大正4年の京都市都市計画図で比較した図を右に掲げましたが、これからは、地形に沿って南流するということは、はっきりしません。
 しかし、先述した山州名跡志や雍州府志にある「稲荷社」の傍らに、かって有栖川と呼ばれた小川が存在したのことを考慮すれば、雲林院の西門辺りから有栖川は南東に流れ、この稲荷社前に流れていた筈です。地形的な観点からしても、南東方向に流れていたのではないかと思われます。その傍証は、「堀河源流考」の第三章」四節に詳しく書いています。その冒頭で『船岡山の尾根の先をよぎることになり、往古の地形が現在と極端に変わっていないと考えれば、ちょっと無理ではないかと思ったからである。』と書きましたが、その内実については述べていませんでしたのでここでは地形的な有力な傍証となるかと考え、書き加えておきます。
6:地下岩盤地図 それは、船岡山から南東方向に伸びる埋没尾根が存在しているということです。埋没尾根の詳細については「堀河源流考」第一章第二節にあります。その尾根の等高線図を右に示しました。 しかし残念なことに、確かに常盤井[註]からは真南よりは東よりへ流れていたと考えられます。この図から分かるように、これは筋違橋を潜った辺りまでは頷けますが、そのあとで大宮通を南へ流れるとするには、船岡山の地下岩盤の尾根の先をよぎることになり、片平説とどっこいどっこいです。地下岩盤の等高線からだけを考慮していたのでは、そのまま東南へ流れて二股川に合流していたとしなければなりません。

[註]常盤井の背後には、塚があり、常盤御前の着物が掛けられたという伝承から「衣掛塚」あるいは「鏡塚」と呼ばれている。これは、山州名跡志の巻之七に、「絹懸塚」と記載されているものである:『△絹懸塚 在右水北。一名鏡塚よも。由來不詳』
 より詳しくは京都歴史研究會のブログ記事「絹懸塚(きぬかけづか)」にある。

 片平説とのもうひとつの違いは、有栖川が斎院の西側を流れていたのか、東側沿いに流れていたのかの違いです。「袖中抄」に『顕昭云、ありすがはゝ斎院のおはします本院のかたはらに侍る小河なり』とあるように、有栖川が斎院の傍らを流れていことに間違いなさそうですが、それは斎院の東面か、西面かどっちだったのでしょう。それを明確に示唆した史料を期待できないでしょうが、「狭衣物語」のなかの次の一節は大変示唆的です。

『おのれのみ流れやせ無有栖川岩もるあるじ今はたえじ
  川よ、そなただけ獨り流れてゐるのではないよ、これからは主の私もそなたと共に幾久しくこゝで世を送りますのよ。
7:狭衣物語などとなつかしげに眺めやりつゝ、東面の母屋の中柱に寄りかゝつてゐられる容姿、髮の様子などは繪に描いて人に見せたい位であつた。』(吉沢義則訳「狭衣物語 巻三の下」全訳王朝文学叢書第三巻 ps.72-73, 国会図書館近代デジタルライブラリーより)

 原文を上に示しておきます。この一節から文中の斎院が『東面の母屋の中柱に寄りかゝつて』で眺められた有栖川は、斎院の東沿いに流れていたと考えられないでしょうか。狭衣物語はあくまでも「物語」であって、情景描写の曖昧性もあり、信頼性にも疑問あろうとは思うのですが……。
8:維新前の有栖川流路 というわけで、今宮神社の東側を流れていた若狭川は、後に大徳寺境内となっていた場所を南下し、南東方向に流路を曲げ、筋違い橋を潜って大宮通を南下し、紫野斎院の東側を流れていたのではないのでしょうか。
 そのあとは、一旦、上立売通で東に流れ現在の堀川通りから再度南下していたようです。これはまた、江戸時代の地図に描かれた水路でもあり、右にこの一例を示しています。この流れに、二股川が小川となって、一條の戻橋で合流していました。
 維新後には、雲林院の南沿いの建勲北通を東南東へと流路を変え、西陣織物会社の工場下を暗渠9:維新後の流路で通過して二股川に放流されるようになりました(青線)。この有栖川の旧路は消滅したようです。
 中世以前は上立売通で、南下してきた二股川の旧路(旧西洞川の上流部)と合流して堀川として一條以南の洛中、すなわち平安京を流れていたといえるかも知れません。詳しくは次章で述べることになるでしょう。

もうひとつの有栖川?
 冒頭で引用した山州名跡志の巻之十七洛陽部の堀川の項に『又一流出紙屋河、船丘南至廬山寺通東。』と述べられているように、紙屋川からの分流が船岡山の南麓を流れて廬山寺通を東へ流れていたようです。白慧は、堀河の水源の一つとしてこの流れを記述しているのですが、この廬山寺通の流れはまさに、紫野斎院の南の傍らを流れており、「有栖川」と呼ぶにふさわしい川です。
 この流れは現在では見られませんが、道路の下を流れる水の音を路上から聞くことができます。「廬山寺渠」と書かれたものも見かけましたが、それが何所だったか失念してしまいました。また、角田氏は「紫野斎院の所在地」(「紫式部伝 その生涯と『源氏物語』p.548, 法蔵館, 2007年)で、『廬山寺通の南側に、四、五十年前にはかなり幅広い川が東に流れており、大雨があるとすぐ氾濫した』という土地の老人の話を書き留めておられます。
 これらのことからすると、山州名跡志に書かれている通り、江戸時代には紙屋川の分流が廬山寺通の南を流れ大宮通で件の若狭川(有栖川)に合流していたことは確かと思われます。江戸時代の絵図には、記載されてるのを見たことがありません。
 大正11年の京都市都市計画基本図には、現在の北大路通の少し北のところに、紙屋川から分水して、鞍馬口沿いに南東に流れる流路が描かれています。国土地理院の明治25年の仮製地形図には、水車の記号も見られますが、大正11年の京都市都市計画基本図記載の水路はこの水車があった辺りで消滅しております。しかし、この流れが、廬山寺通まで続いていたふしがあります。田中緑紅氏の『船岡山のほとり』と言う小冊子に「逆さ川」という川が、鞍馬口通で千本通を横切って廬山寺通に向かっていたと思われる記載があります。
 この川筋については、第10章の「船岡山周辺と柏野(かえの)」で検討する予定です。

平安京北辺の水路網と地図 第5章

平安京北辺の水路網
解説目次
地  図

第5章 擂鉢池(池ノ谷)と鷹峯台地

1:西野山児童公園:航空写真

擂鉢池(池ノ谷)
「紫竹西野山東町 十年誌」(紫竹西野山東町町内会, 1976)に、擂鉢池について興味深い話が語られています。

『擂鉢池(池の谷とも言った)は今、消滅寸前であり、京都新聞(五一年四月二一日)に、所有権が市に帰し、池を埋め立て、児童公園にする計画が報ぜられていた。今は汚れた沼地のようであるが、古くは今宮神社前の川が神事にも使われていた源の池てあった。この所有権が最高裁にまで争われたのは残念である。明治十二年の「耕地宅地一筆限調簿」には、用水池として村が持主とあり、その後、待鳳学区が所有し、昭和十六年、市有地になったというのが事実である。』(西野山町周辺の今昔 七組 若井勲夫, p.34)

 これを読むと擂鉢池は、戦中の1941年に市有地になってから、ずっとほっとかされたままで、80年頃まで泥沼の態であったことが分かります。今では、西野山児童公園となっています。南東には公園に接して京都市社会福祉協会の西野山児童館が建っています。
 擂鉢池があった場所は御土居の直下で、いまでも御土居跡から流れ出る水があり、公園の北隅の溝からその水音が響いています。
 上野道の旧家の15代当主上野新三郎さんによれば、溜池であった擂鉢池(池ノ谷)跡の児童公園の地は貯水池であり、大徳寺方面で火災が発生した際に、堰を開き大徳寺周りの壕に流し、消火水に利用するものだそうです。

若狭川から有栖川へ
 昔は、上で語られているように、今宮神社前を流れていたの川の源流だったようです。
2:池ノ谷・〈改正〉京町御絵図細見大成 天保2(1831)年の「改正京町繪圖細見大成」(天保二年辛卯七月雕刻/慶応四年戊辰二月再刻)をみると、御土居直下に「池ノ谷」と記載された溜池から流れ出た水が川となって今宮神社の東沿いを流れています。
 さらに東側には、御土居を突き抜け、これと並行して流れるもう一本の川があります。この2本の川は大徳寺の北東角で合流しています。地図から見ると、この川の源流は、鷹峯の集落の背後の山です。
 今宮神社にある元禄時代のものと言われている古地図には「若狭川」と記入された川筋が、今宮神社の東沿いに描かれています。
3:「若狭川」:元禄時代の古図

 現在今宮神社の東側に「有栖川」という呼び名が二つ残っています。「あり須川橋」と「有栖川園」です。
4:あり須川橋 前者の橋というのは絵図に描かれているものでしょうか。その親柱と思われるものが、今宮神社境内に移設されて残っています。境内の西南の隅にある絵馬舎と斎院(若宮社)の間に、月読社(天照大御神の弟神の月読尊を祀る)へ参拝する為の石畳の小径のたもとです。「あり須川橋」と彫られた親柱が於かれています。左側面には「大正二年十月新架」とあることからすれば、もともとは、ちゃんとした欄干のある橋らしい橋は架かっ
ていなかったのではと思われます。
5:今宮神社前の橋:年中行事絵巻 時代はずっと以前のことですが、12世紀後半の「年中行事絵巻」のなかに今宮神社の御霊会の祭りを描いた場面があります。それを見ると簡単な木橋が架かった川が、今宮神社入口に描かれている。「年中行事絵巻」とこの場面の詳しい説明は、「有栖川と堀川」(洛中洛外虫の眼探訪 2014年10月)を参照してください。
 今宮神社のホームページ「紫野今宮神社」に次のように書かれています。

『今宮の大鳥居は、門前通りの南の端、北大路通から少し北へ入ったあたりに位置しています。古来、今宮へは北に抜ける街道筋より東西の参道を辿って詣づるを常としていましたが、船岡山の北へと町並みが広がりを見せる中、今宮の社へとつなぐ新たな参道を設けようとする気運が湧き上がり、大正十五年、南の参道を開くとともに、その北の端に楼門を建立するに至りました。』

ここに記載されているように、年中行事絵巻の図は、今宮神社の東門参道を描いており、東門の鳥居の前に南北に、川が流れています。
 なお、西の参道へ向かう千本通には、今も常夜燈が残っています
 また、現在の南参道は、「紫野今宮神社」ホームページの「令和四年の大鳥居再建を目指し、ご寄付・ご協賛を願います。」という記事によると

6:今宮神社大鳥居 『さらに昭和三年、氏子の方々の熱い思いのもと、新たな参道の南の口に松風講の名を掲げた丹塗の大鳥居が奉納され、以来、平安を願う心の拠りどころである今宮の象徴として、大鳥居はこの地になくてはなら今宮神社鳥居の残りない大切な存在と親しまれてきました。(中略)
 その大切な大鳥居が、平成二十九年十月の台風の災禍によって傾き損なわれ、平成三十年八月には基礎を残して一旦解体され現在に至っています。』

とあります。
 さて本題に戻って、東の鳥居前に描かれている川の名前が「有栖川」というのではなさそうです。親柱の刻字「あり須川橋」とありますが、橋の名前として、川の名前をそのまま使用した例は、ほとんどないでしょう。もしそのような命名法がなされてるとすれば、複数個の橋が同名となる場合もあます。親柱の「有栖川」は川の名前ではなく、地名、建立者名、或はゆかりの人物名といった類に由来しているのではないかと思えます。 
7:「有栖川園」町名看板 これを裏付けるものとして「有栖川園」の看板(?)があります。橋が架かっていた今宮神社の東参道から東に150mほど行った所にT字形の交差点があり、ここから北西へ上野道という古い街道が通ってます。ここの北東角の大きな民家の二階の軒に町名表示板様のものが打ち付けてあり(上の写真)。「上京区紫竹西南町」という町名の下に大きく「有栖川園」とあります。このようなスポンサーの名前が入った町名表示板は、方々にあります。その元祖は「仁丹」の町名表示板です。しかしこれは、大きく書かれた「有栖川園」の文字から見ると、町名表示板というより、有栖川園の看板のようです。この看板は元々家の下に立てかけてあったという話もあり、また洋裁教室(文化洋装学院)が有栖川園の向かいにあったという話もあります。この件に関しては、先にもう少し詳しく書きます。
 それでは「有栖川園」とは何だったのでしょうか。どうも「茶園」の節があります。これは上野街道の旧家当主上野氏の御教示です。
8:「茶畑」土地利用図 宇治を除けば紫野だけでした。鷹峯街道の茶園は、幕末に旧藤林薬園跡にできた茶園で、もっとも早い時期のものですが、紫野に茶の栽培が広がったのは明治時代になってからです。明治42年測図の地図上で土地利用の変化を見ると、明治時代に上野通西側沿いに茶畑が広がっていたのがわかります。その後、大正の終わりには、上野通の東に移って、また、今宮神社の南東に接しても茶畑が、明治大正を通じて見られます。ここの茶畑は「有栖川園」の看板があった近くです。
 この様に有栖川という名前が、「橋」と「茶園」の両方に冠されているというのは、有栖川というのが川の名前ではなく、人名あらわしているのではないでしょうか。例えば「有栖川家」に由来した何かだったのでしょうが、そう古くから使われていたものとは思えません。
 今宮神社東沿いを流れていた川は「若狭川」と絵図にありましたが、尺八池から流れ出て、賀茂川に流下している川も「若狭川」と名づけられていますが、西野山の地元では、今宮神社所蔵の絵図にあった若狭川を有栖川と呼び、有栖川橋で合流していた上野道沿いを流れてい川を若狭川と呼んでいたようです。先に引用した「紫竹西野山東町 十年誌」に、

『用水路は数年前まで北山通に沿って残っていたが、尺八池より三筑を通り、旧上野街道に沿って今宮通りに出て大徳寺の周囲をめぐり、大宮頭(鞍馬口)より東に行き堀川に流れる若狭川があり、また、擂鉢池より北山通りの三叉路から泉堂町を通り、今宮神社鳥居前から大徳寺の堀に流れる有栖川があった。』(西野山町周辺の今昔 七組 若井勲夫, 同誌 p.34)

とあり、次のような思い出話も掲載されています。

『松村 以前、石丸さんの前に川が流れていましたね。
 石丸 若狭川は、何も若狭まで続いていたわけではありませんが、多少とも若狭の水が混っているであろうという意味の名前でしょうね。玄琢の河村さんの工場辺りから流れて来ていて、この川に一本の道がついていました。
 松村 あゝ—。たゞ一本の道がありましたね。これが十二間道路の角の福田さんからず—っと上ってました。きれいな水でした。
 福住 その川はどれ位の川幅ですか。
 松村 そうですね―。これ位でしたか。(手を拡げる)
 福住 あゝ、そうですか。じゃ、一米位ですね。
 石丸 これが今宮さんの方へ流れて、有栖川橋の辺りを流れていました。
 筒井 そういえば、有栖川もありましたね。』(p.40, 座談会)

 と座談されています。有栖川橋が架かってい二つの川の合流点付近に関しては、次のような話も聞けました。
 神社宮司の伯母 大聖寺さんは、『幼児期によくこの辺りに遊びに来ました。「有栖川園」の看板の向かいに文化洋装学院があり、この辺りをさして「ありかわ」と呼んでいました』と話されています。
 また、上野新三郎さんによれば、若狭川と有栖川が合流したところに中州が出来ていて、櫓を組み、明かりを灯し、神輿を迎えた。ここは神事が執り行われていたある種のアジール=聖域であったといいます。
 上野さんが口にされた「中州」は、古くは「荒樔」とも表現されていたもので、これが「有栖」と書かれるようになったと考えられないでしょうか。
 松尾神社の摂社月読神社の創建に関して、「日本書紀」に次のような表現が見られます。

『奉以歌荒樔田、歌荒樔田者 在山背國葛野郡也』

 岩波文庫本の註では、割註にある「山城國葛野郡」からすると、「歌」は宇太村、平安京の造られた地をさすとされていいます。さらに、「廻游日記 ~京の神祠~」の「月読神社」の頁では、「荒樔(あらす)」は「荒洲」に通じ未開拓の中州を意味する、とされています。 
 斎王の禊ぎが、「有栖川」で行われたというのは、人の手が入っていない中州で行われたことをいったのであり、「有栖川」というある特定の川を意味していたのではなくて、そのような未開拓の中州がある川が「有栖川」と呼ばれ、神聖な場所と観念されていたというのが、今宮神社の「有栖川」の意味するところではないでしょうか。
 確かに、上に掲げた今宮神社所蔵の絵図には「砂州」らしき場所がはっきりと描かれているではありませんか(下図は拡大図)。
9:有栖川の砂州

鷹峯台地の水脈
10:光悦自動車教習所地図 二つの川の名前はおくとして、これらの川の水源はどこでしょう。まず、擂鉢池に流入していた水脈を遡っていくと、御土居を抜け、現在は光悦自動車教習所となっている敷地内の真ん中を通り抜け、北西へと11:昭和4年の京都市都市計画基本図1川筋は伸びていたようです。この教習所内に小さな三角形状の溜池があったのです。
 このあたりは三筑南と黒門の境で、現在の大宮玄琢南町と鷹峯黒門町の境界にあたります。
 その下は、昭和4年の京都市都市計画基本図上に、擂鉢池に流入していた水脈を、溜池から等高線の谷筋(青線)でなぞった図です。図に見えるようにこの水脈は、玄琢下から鷹峯の集落へ通じる道路と交差する辺りで地図上からは消えています。
12:昭和4年の京都市都市計画基本図3 またこの川筋には、擂鉢池より下流側で、もうひとつの水脈が合流しています。合流地点は、現在の北山通が南西に屈曲してい辺りで、上記の地図では、北山通は、計画路線として破線で表記されています。この上にも溜池が記されています。此の溜池から北西に、これまた等高線の谷筋をなぞったものを青色の破線で示しています。
 この下流で、北山通を横切ってすぐに、民家の塀の下から道路の側溝にかなりの流量の水が流れ出ているのに出くわします(下の写真)。現在でも地下水脈は途絶えていないようです。昭和4年の地図上では、青色の実線で示したこの水脈は地上に現れていますが、すぐに途絶えています。
13:湧水のある家
 現在では、この溜池はなく、溜池があった地点より少し先にブロック塀で囲まれた「イドモト」とよばれている空き地があります。
 この空き地には、西側のブロック塀を背にして不動石像が石の台座に置かれていて、14:イドモト写真その前にコンクリート製の円筒が地中に埋まり、コンクリートで固めた上部に、昔よく見かけた赤茶けた鉄の手動式のポンプが設えてあります。さらにその前には、児童公園の砂場にあるような長方形のコンクリート枠があり、枠内は雑草で覆われています。
 ここの井戸は、鷹峯のなかでもっともきれいな水がでたところだそうです。水の湧き出る部分は石垣で囲まれ、鷹峯における水の共同利用の唯一の場であったと、「京都紫野・鷹ヶ峯の地域文化学」(仏教大学, 2004年)の「Ⅷ. 民俗学からみた鷹峯の暮らしとその特徴」(政岡伸洋)に載っていた聞き取り調査で語られています。
 いま目にする様子と大変違っていて、不動明王の石像などは、地下水を利用しなくなってからのもので、昔の利用者が祀ったものではなく、水が湧き出なくなり、井戸が掘られ手動ポンプで汲み上げて利用していたのですが、それもなくなり、湧水が戻ることを願って不動尊像が祀られたようですが、その効き目はなかったということでしょう。
 地元の農家の樋口さんは、子供心にべらぼうに深かった井戸があったことを記憶されていて、その深さは電柱ぐらいだったと話されていました。多分、イドモトのことではないかと思います。
 この水源はどこからのものかと、上記の昭和4年の地図を凝視すると、先述したように、等高線から一本の谷筋が浮かび上がってきます。この谷筋は、北東方向に真直ぐに伸びて、御土居を貫通して、千本通(鷹峯街道)に届いているように思えます。この街道の両側には水路が描かれていて、南鷹峯の瑞芳寺のまで先伸びています。その先は不明ですが、鷹峯台地の高位段丘下の深い地下水脈が源流と想像されます。

[註]瑞芳寺と知足庵 
 門前に、「常法華堂 知足庵」の石標が立っています。
瑞芳寺(ずいほうじ)は1706年(宝永3年)に本圀寺26世・日達(にちだつ)が創建しました。その後1879年(明治12年)に知足庵と合寺しました。
 知足庵は1637年(寛永14年)に日龍が庵を結んだのが起源と言われています。
 元和元年(1615)に徳川家康から鷹峯の地を拝領した本阿弥光悦は、一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住しました。本阿弥光悦とその養子・光嵯がこの地に建立した四ヶ寺の一寺が知足庵で、光嵯の屋敷と隣接していたと伝わります。その後明暦年間(1655年~1658年)に本阿弥光悦の孫・光伝から大虚庵(だいきょあん)の一部の土地を寄進され、知足庵真浄堂を建立しました。
 明治12年(1879)に知足庵は瑞芳寺に併合されました。


15:鷹峯台地東端の小池 この地点から東へ500m弱行った所の鷹峯台地の東端にも、小さな池(水溜り)がもう一つありました。
 家が建ち始めた現在でもこの地一帯は窪地のまま残っていて家屋建設も滞り勝ちです。2018年調査の全国地価マップ上にその位置を示しました。空き地のまま残っている中に、青色で書き加えた池はにすっぽりとはまっています。
16:昭和4年の京都市都市計画基本図2 例によって、昭和4年の都市計画図で等高線の谷筋を辿ってこの池の水源を探ってみると、これまた鷹峯の集落に行き着きます。
 この池の北側は鷹峯台地の東端で急峻な崖となっています。眼下には若狭川(霊御川・西台川)の流れを目にできたのではと思います。実際、昭和初期までは、鷹峯台地の急峻な崖下に沿って流れていたことが、この都市計画から明瞭に読み取れます(図中の青線)。

牛若丸胞衣塚・牛若丸誕生井跡と義経産湯井跡
 元に戻って、擂鉢池から南へ、北山通をこえて上野道を下っていくと先述した「有栖川橋」に至ります。この道沿いに水が流れていたこともまた、昭和4年の都市計画図から確認できます。この上野道沿いには、牛若丸胞衣塚・牛若丸誕生井跡と義経産湯井跡といった義経の伝承地が残っております。。簡単な説明を補足としてまとめておきます。
 
◆牛若丸誕生井
17:牛若丸誕生井 常徳寺から北山通りを隔てた西南の方角、先から何度も登場いただいた上野新三郎氏の畑の中に、牛若丸誕生井と刻んだ1.5mの石碑がたっています。その背後には、常盤が牛若丸を生む時に汲んだといわれる小さな井戸の跡があります。そこには「牛若丸誕生井、応永二年(1395)調之」と刻まれた小石塔(高さ36センチ)があり、室町時代初めからここが牛若丸誕生地といわれていたことが知られます。「寛文拾庚戌年 大徳寺境内寺社改差上留」の上野村の条に、

 『一、牛若丸、生産井戸
  一、弁天社 小宮 壱社』

とあることからすれば、かつては、傍らに弁才天の祠があったのでしょう。
 所有者の上野家は代々源家に仕え、源義朝の命で常盤御前の出産を助け、この井戸を守ってきたと伝えています。

◆牛若丸胞衣(えな)塚 
 牛若丸誕生井と同じ畑の中の松の木の下には、牛若丸の胞衣(胎盤)とへその緒を埋めたといわれる塚があります。
 牛若丸胞衣塚は,産湯の井戸とともに江戸時代には弁才天として信仰され,北区の上野新兵衛家文書には拝所の図が残されているそうで、その写真版は京都市歴史資料館に架蔵されています。
18:牛若丸胞衣塚19:牛若丸胞衣塚拝所

◆源義経産湯井の遺址碑 
20:源義経産湯井の遺址碑 牛若丸誕生井から船岡東通りを南に進み、上野鷹峯道と交差するちょっと南を東へ入ると「源義経産湯井の遺址」の石碑が建っています。
 現在、井戸はありませんが、由来を記す碑には、次のように刻まれています。

『此ノ地ハ源義朝ノ別業ニシテ常盤ノ住ミシ所ナレバ平治元年義経誕生ノ時此ノ井水ヲ産湯ニ汲ミキトノ伝説アリ後二大徳寺玉室大源庵ヲ建立セシガ荒廃シテ竹林トナリヌ 茲ニ大正十四年十二月紫竹区画整理成ルニ当リ井泉ノ原形ヲ失ヒタレバ其ノ由緒ヲ記シテ後昆ニ伝ヘムトス  
  大正十五年十月 紫竹土地区画整理組合』
 義朝の別宅には二ヶ所も井戸があったことになります。この川筋周辺も地下水が豊富だったのでしょう。

鷹峯台地と西野山撓曲
 二つの川筋ともに、上野鷹峯道が北西から北北西へ屈折する所、つまり、鷹峯黒門町、南鷹峯町と大宮玄琢南町と玄琢北町の四つの町が交差するあたりで、昭和4年の地図上からは消滅していますが、千束方面から鷹峯集落の地下深くを今も流れ出ているのでしょう。 
 この二本の川筋が見られる所は、紙屋川と若狭川とに挟まれた狭義の鷹ヶ峰台地といわれる所で、この台地は、90から160m の高度に平坦面が発達し、南東へ傾斜しています。これは、この台地が、紙屋川の扇状地として形成され,その後南東方向へ低下する増傾斜運動を受けていたものと推定されています(植村善博「京都盆地北縁 鷹ケ峰台地の地形特性と活構造」佛教大学文学部論集 第82号, 1998)。
 西は紙屋川、東側は西賀茂断層に挟まれ、北は千束・鷹峯集落あたりから、南は船岡山にまで広がっています。梅林の2図その中程に、御土居の北辺が、玄琢下の招善寺あたりから、千本通まで伸びています。
 招善寺のある西野山付近で、南北に伸びる西賀茂断層から、北東から南西方向に撓曲崖が分岐しています。これは西野山撓曲とよばれているもので、このまっただ中に擂鉢池(池の谷)があったわけで、御土居上の地面は今も波打っています。
 京都高低差崖会の梅林秀行氏が作製された西賀茂断層と西野山撓曲の分かりやすい写真と説明図を掲げておきます。
 また、下には、国土地理院地図上で西野山撓曲崖の様子を断面図として描いた図を掲げています。
 擂鉢池(池の谷)がこの撓曲によってできた谷であったことが明瞭に見て取れると思います。
梅林に図と褶曲断面図


 



平安京北辺の水路網と地図 第4章

平安京北辺の水路網
解説目次
地  図

第4章 霊御川から西台川・新川・若狭川まで

0:菱屋橋

霊御川
 時代を中世まで遡ると、「霊御川」という名が古文書にみられます。須磨千頴の大著「賀茂別雷神社境内諸郷の復元的研究」(法政大学出版局 2001.3)には「霊御」について詳しく書かれています(これがどんな著作かは、日本の学術賞としては最も権威ある日本学士院賞を2004年に受賞した際に作成された審査要旨に、簡潔に述べられているのでこれをぜひ読んでみてください)。
 同書に添付された宝徳3(1451)年の復元図にある霊御川の川筋は、後述する西台川と称されている川筋そのものであるといってよいのです。下に、霊御川の川筋を青色の線でなぞった復元図の該当部を載せています。
 1:宝徳3年霊御・須磨復元図

 水源は尺八池で、現在は若狭川の名で呼ばれている川に相当しますが、ほとんどの区間で暗渠となって、賀茂川に排水されています。
 須磨の説を要約すれば、「霊御川」の名は、字名の霊御に由来し、霊御の集落は、大体現在の大宮南椿町と大宮中林町、大宮南林町の境界付近の道路沿い集落の名前でした。蛇行する川が、この集落を西から東へ貫流していたのです。この川の名前が「霊御川」といったようです。
2:霊御の集落(大正11年都市計画図) 現在これらの地域には「霊御」と呼ばれる地名は残っていませんが、右の大正11年側図の京都市都市計画基本図で見ると、椿原と林の境界となっている道路(旧大宮通)沿いの西側に、集落が見られます。東3:現在地図上での霊御の集落比定側は田圃です。この道路を横切っているのが「霊御川」、後に「西台川」と呼ばれていた川です。  
 参考のために現在の地図上で比定した図を掲げておきます。
 このように川の名は、戦国時代以前は「霊御」という村落の字名に由来したものであったのですが、戦国中期のある時点で、なにか特別な事情があって消滅し、その跡の一部は耕地とされ、新たに「林」という村が造られます。「霊御」の集落は痕跡を断ち、天文年間の16世紀中頃には、この地に「林」という地名が出現します。霊御川の名は消えずに残りました。
 「霊御」というのは須磨氏の説によれば、「神仏などを祀ってある大きな丘、又は神社仏閣などのあったあと」をいう言葉で、「霊墟」の音が転訛したあげく、漢字表記も変化したのではないか、とされています。
 少し長くなりますが、須磨の霊御と霊御川に関する説が、見事に展開されている箇所を抜粋して付録1に掲げておきました。[ ]内は筆者による補注です。
 現在でも、このあたりには、古くから集落があったことを物語るものが多く見受けられます。大宮文化振興会が結成10周年を記念して編まれた郷土誌「おおみや」(1990年同会発行)の「大宮再見」の章中「林町」の所に、「見てある記・聞き歩ある記」と題して、様々な京見深い昔話しが書き残されています。参考のために、同個所に掲載されている地図とともに下に書き写しておきます。最近撮った写真も載せました。

<見てある記・聞き歩ある記>
西念寺「尼寺」
 浄土宗西念寺、「でっぷりした安寿さんがすんではった。ここに、やいとの先生が出張して来はった。よう効くやいとで、しちくやいと ゆうて有名やって、滋賀県やら、そこいらじゅうから弁当持ち
で、ぎょうさんの人がすえに来はったんで、いつも長い行列が出来てた。
 お寺では、お彼岸に、しょうが飯ゆうて、今のたき込みごはんに、しょうがをきざんで混ぜたものを、小さいお重に入れて出さはった。その日は上賀茂あたりからも、おまいりに見えたんで、尼寺が
一ぱいになったって。」
 現在でも、小さな小さな本堂に仏様がまつってある。

4:西念寺[写真説明]門前の案内に「西念寺西方四十八願札所 第十七番 久保御堂 西念寺」とあります。詳しくは「京の霊場」の西方四十八願所碑を参照してください。48ヶ所のリストと所在地の地図は「礼所一覧・礼所案内地図」にあります。また、本格的な西方四十八願所」巡拝についての論文もあります(長谷川匡俊「近世における専阿の「西方4108願所」巡拝について, 淑徳大学研究紀要, 19号, 1985年3月)。


稲荷社
 もともとは、農家の人達が、稲の神として祀っていたものだと思うが、現在では林三町が海の幸や田の幸、稲荷の印を押した紅白まんじゅう、三角おこし、紅白の重ねもち、みかんなどを供える。お火焚きのたき火も小さなものになった。

土足神社
 どうろくさん(道六さん? )とよばれている。もともとは、お土居を出たとこなので道祖神だったのだろう。それが腰から下を守る神様に変化していった。昔は五番町あたりからおまいりに来られた。土まんじゅうを一〇個、竹の皮に包んでお供えをしたそうだ。
 林三ケ町では、十二月一日に「土足大明神」をおまつりしている。十本の「土足大明神」と書いた紅自ののぼりを立て、するめ、昆布などをお供えし、久我神社の神主様に御祈祷していたく。
 この横に明和の中頃まで、茶店があって西賀茂に帰る人達が一服したそうだ。

5:稲荷神社[写真説明]上が稲荷社、下が土足神社。稲荷神社を覆っている木は椿。下の小さな土足神社や祠の右手(北側)傍らに、椋の大木が、今世紀初頭頃まであったと記憶していますが、今は無くなっています。

『中林町に「人気大明神と云われた祠と老ムクがある。幹は半円周状の樹皮しか残していない、立派6:稲荷神社祠な樹冠を乗せている。往年の樹幹を復元して幹周を推測すると五メートルは下らない。背後はガレージではあるが、幸い舗装されていなくて土のままである。祠の前に駐車を戒める看板があるところをみると、まだ崇敬されていることだろう。』

と、「京都の虚樹迷木巡り ムク7:土足神社の巻」末尾に書いています。初出は、1997年の3rd ed. です。
 なお、人気大明神の名称は、井上頼寿「改訂 京都民俗志」(平凡社, 1968)のp.165、大宮頭の項によりました。そこには「商売繁盛を守るという信仰」があるとも書かれています。


お地蔵さん
昔は、稲荷社の横にあった。前を囲んでいなかったので、十年ほど前、おさんが全部とられてしまった。さいわい帰ってこられたので囲いが作られた地蔵盆のときは、北林・南林にそれぞ出張されるかたちとなる。

8:地蔵堂
[写真説明]「堂」といっていいほど大きな祠内に六体のお地蔵さんが安置されいて、地蔵盆に北林町と南林町に出張されるというわけです。右手に見えるのは、京都郊外の村々によく見かける愛宕灯籠です。
 愛宕灯籠を追っかけた「愛宕灯籠の旅へ 」というサイトがあります。残念ながら、この愛宕灯籠は載っていません。その民俗については、八木透「愛宕をめぐる民俗信仰」が手っ取り早いと思います。


旧大宮通り
 正しくは大徳寺通りという。南は船岡山東麓建勲通りより西賀茂蟹ケ坂に道で、大徳寺建立後のものであるとみられる。
新大宮通りの完成により、大徳寺通りを旧大宮通りと呼ぶようになった。

9:みちしるべ1 10:道しるべ2[写真説明]大徳寺通(旧大宮通)の道標。上左の写真の奥に見えている樹冠の下に稲荷社がのぞいています。木は椿の大木です。道標には、☞を彫った頭部の下に二行に渡って「西賀茂村 弘法大師」とありその下に大きく「道」と掘られています。
 ここより南の三叉路(紫竹上竹殿町)には、天保13(1842)年に助成講中によって建立された大きな道標があります。南面に二行に亘って『右 上賀茂   貴布祢   くらま道 左 にしがも    神光院   岩屋道』と彫られてています。左の大徳寺道をいくと、林の集落です。東面には、洛中への案内『すく今宮   大徳寺   北野   金閣寺』とあります。「すく」は「まっすぐ」の意味。摩耗した北面に建立年月と施主が、かすかに読めます。
11:天保13年の道標 12:天保13年の道標東面


13:見て歩き・聞き歩き地図たにし汁とどじょうなべ
 旧大宮通りにそって、中林から大宮校の方に川があった。たにし・ごり・うなぎなどがいた。じょうれんですくうて取った。たにしをいって、出た汁が肝臓に大変良いといわれていたが、大変くさくて
飲みにくかった。豆腐と取って来たどじょうを生きたまま、なべに入れて火にかけると、どじょうはあつがって豆腐の中にもぐって行くので、だしがよくでて、おいしいごっつおが出来た。

五十年ほど前の若狭川
14:林の集落地図どじょうやしじみ、かにがいた。川岸に野いちごがなっていて、おいしかった。「この川は、浅い川やったんで、しょっちゅうあふれた。家の中まで水つきになって、鯉などが流れて来た。百姓のおばさんが洪水のとき川にはまって、流されたんで、町内の人たちがお地蔵さんの横の橋まで走って行ってたすけたことがある。

[地図説明]昭和28(1953)年の京都市都市計画基本図から複写したの林町の中心部分の地図です。今から50年ほどまえの町内のが窺えます。青線が水路です。ひときわ太いのが若狭川、赤色が橋です。御土居の北側に堀があったようです。橋の北西角に大木が記載されています。これが上述のムクの大木ではないでしょうか。

若狭川にかけられていた橋
丸太を三本渡して、その上に板をひき、板の上に土をのせてかためてあった。らん干はなかったが落ちる人はいなかった。川の石垣にたれている「つた」にぶらさがって降りるときに「つた」が切れてはまる事の方が多かった。

お土居
 区画整理までは林町のお土居は残っていた。大門町に行くには、堀を下りて、そこを通ってそれからお土居を登って下りた。堀は畑になっていたが、その上に橋はなかった。四〇年ほど前でも、小包
などは、市外扱いとなり駅や郵便局に取りに行った。

                       (引用終わり)
蕨岡
 「蕨岡」という地名も中世にしばしば登場しています。この地名は「霊御」とは違って、もっと広い範囲の地域を指した字名です。須磨の展開した見事な推論から、蕨岡は、薬師山の東南山麓を、東から南へ迂回するような形で、霊御川の北に至る範囲を指した地名のようです。
 現在の町名でいえば、薬師山西町、薬師山東町、北山ノ前町、西山ノ前町、南山ノ前町、西小野掘町西端、一ノ井町、北箱ノ井町の一帯に当たります。
15:蕨岡の範囲 須磨氏の推論は次のような方法でなされました。
 賀茂別雷神社に保存されている往来田古帳には、何人かの氏人の往来田が「川上郷ワラヒ岡」にあったことが記されています。往来田というのは、乾元2(1303)年の徳政令によって賀茂社に返付された一条以北の水田のうち70町歩を、140人の氏人に対して人別5反を年齢次第に配分したもので、当人が死去すると、無足の氏人が順次繰り上がって配分を受けるというもので、その往来田の明細を記したものが、往来田古帳です。
 一方、賀茂別雷神社が、15世紀中期の宝徳3(1451)年に実施した検注の結果を、詳細に記録した郷別の地からみ帳が残されています。この中の河上郷の地からみ帳に記載されている事項を明治時代の地籍図上に復元地図化された中の往来田受給者の名前を、応仁元(1467)年に筆写された往来田古帳で、往来田が「川上郷ワラヒ岡」にあっ受給者名と付き合わせることによって、蕨岡の範囲を推定しようという、秀逸なアイデアによって、蕨岡の範囲を比定されたものです。
 この受給者名の突き合わせの具体的な作業の詳細とその結果得られたことは、冒頭に記した須磨氏の大著の第四章第六節「河上郷関係の地名」の中の【ワラヒ岡・蕨岡】にあります。付録2にその項を抜粋しておきます。

石岡
 「石岡」という地名も蕨岡と同様に、ある程度広い範囲の地域の字名です。これもまた須磨氏は、蕨岡と同様の往来田の受給者名を突き合わせるという方法を用いられています。それと同時に、幸いなことに河上郷の宝暦3年の地からみ帳と天文19年の検地帳に「石岡」が場所指定の地名としていくつか記載されています。従って、須磨氏が復元図にその次項を落とされた位置からも石岡に含まれる場所が直接分かります。これらを勘案して推定された石岡は、東総門口町西南部、北林16:石岡の範囲町、中林町西部、中総門口町南部、東小野堀町東脇台町北部から、さらに南部の旧御土居に近い南林町西部や東脇台町南部辺りまでを含んだ地域ということがわかります。すなわち、蕨岡の東部に接し、霊御の集落より西側の領域が、石岡と呼ばれていたようです。
 山麓地形の蕨岡にたいして、石岡はなだらかな台地状の地形です。この2つの岡の違いは、薬師山から旧霊御集落があった大徳寺道上迄の高度差の断面図を作製することによって、一目瞭然です。下にその図を掲げます。
17:蕨岡・石岡断面図
 蕨岡の高低差は40m(勾配0.07m/m)に対して、石岡の高低差は13m、凹凸もなくなだらかで、その勾配は0.03m/mです。須磨氏の推定がいかに理に適ったものかが分かります。
 蕨岡同様、以上の須磨氏の推論過程の詳細については、付録3として掲げております。
 最後に、現在の地図上に、断面図とともに、蕨岡と石岡を含む全体を下に示します。
18:断面図入蕨岡と石岡合成図

薬師山(通称「坊主山」)
 郷土誌「おおみや」の大宮再見「薬師山」の項(ps.102-103)に、町名の由来として次のように書いてあります。

『山岳仏教の栄えたころ、伝教大師(最澄767〜822)が薬師如来像をこの地に祀ったことが、地名の由来といわれている。
 また、中世にはお堂は荒廃したが、江戸時代の御典医「野間玄琢」が再建し、薬草園があった所ともいわれている。』

 また一方では、薬師山の「薬師」が、薬師如来か、薬草園かいずれにせよ「やくし」に由来するのではなく、これを「くすし」と訓じて、それが「くずし」←「くづし」という類音転訛した結果で、「薬師山」は「崩れ山」という意味だとする説が有ります(綱本逸雄「京都盆地の災害地名」地名研究, 12号. 2014)。19:西賀茂活断層図確かに、現在でも薬師山南部は、京都市の「土砂災害警戒区域・土砂災害特別警戒区域」に指定されています。西南の山裾には巨岩があり、一様庵の絵図に「千年岩」と記されているそうです。一様庵は正徳年間(1711〜16)に貞松隠岩禅尼を開基として開かれた黄檗宗の禅寺です。
 この岩は薬師山から落下したものかも知れません。薬師山の東側には、賀茂川山幸橋(京産大グラウンド北側)から紫野高校まで、約5kmの西賀茂活断層が走っているのです(右図)。
 さらに、通称の「坊主山」というのも、どうも、「くづし山」説を裏付けているように思えます。

西台川
 霊御の地名が消えても、川までが消える分けでは有りませんが、その名前は「西台川」といつの間にか呼ばれるようですが、この河川名は、郷土誌「おおみや」以外で、管見の限りですが、お目にかかったことはありません。地元の人たちは、西台川と呼んでいたようです。20:西台水利組合実際、尺八池の柵に掲げられた立ち入り禁止を告げる看板に「西台水利組合」の名が今も見えます。
 西台川の水源は尺八池、その奥が秋葉山地です。
 現在、西台は町名としては残っていません。「西台」というのは霊御、現在の林町の西側の台地を意味していたのではないでしょうか。
 霊御の集落が消滅し「林」となってから、この台地を西から東へ流れていて、かつては霊御川と呼ばれていたものが、西台川と名を変えたのでしょう。
 この川の北側は、かつて蕨岡、石岡と称された地域で、現在その南側の平坦地は、脇台町と称しています。脇台町には西台川から水を取り入れた用水路網が昔からよく発達していました。参考のために、大正4年の都市計画基本図で確認してみたのが下の図です。青色で示したのが西台川、赤色で示したのが用水路です。
21:西台川用水路網(大正4)
22:西台川用水路網(宝徳3)
 その下に掲げたのは、須磨氏が、宝徳3(1451)年の地がらみ帳から作製された復元図に記載されている用水路です。大差がないことに驚きます。もっとも、もとになっている地図は、明治6(1873)年の地租改正当時に村ごとに作製された地籍図・字限図であるとのことで、用水路は明治初頭の状況であると考えるべきで、大正期のものと大差がないのは当然かも知れません。

暗渠新川(若狭川とも)
 尺八池と新池から流れ出た水は農業用水として流れに沿ってせき止め、各田に水を分配していたのですが、そのための井出(堰)がある一番上流付近を「一の井」といいます。先ずここで、西台川と新川(後に若狭川と呼ぶようになります)に分流され、上で見たように、西台川は下流に行くに従い二方三方へと分流されて用水路網を形成していました。一方、新川からは沿堤に穴があけられ引水されていました。新川として分流されたのは、その名が示しているように、戦後になってからのことです。
 昭和10年までの京都市都市計画基本図には記載がなく、昭和28年の都市計画基本図に赤茶色で描かれていることが、それを示唆しています。
23:新川と西台川(昭和28)
 昭和45年の都市計画基本図上に、大正11年の都市計画基本図に記載されている西台川の流路を書き入れた図を下に示します。
24:昭和45年+西台川
 西台川は完全に消滅してしまったことが分かります。新川は、大徳寺道(旧大宮通)から北から延長された堀川通を越えた所まで暗渠となって鴨川に繋がっています。ここに架けられた橋の親柱には「若狭川」と書かれており、これが正式の河川名であるということでしょう。
 「新川」というアドホックな趣のない名前は、「若狭川」という風情ある名になりましたが、今やほぼ全域暗渠となって、その水は、鴨川へ落とされています。趣のある名前ですが、本体は味もそっけもないものです。
 西台川の流路は消滅してしまいました。それは、大宮土地区画整理事業によってです。一ノ井町を含む第一期区画整理組合が設立されたのは戦前の昭和14年ですが、戦時中で事業は進まず、昭和35年〜昭和44年にかけて、道路や用水路の整備のほか大宮交通公園等の公園、上水道・都市ガス管等の付設が行われました。西台川を流れていた「水」は、新しく整備された用水路・側溝を流れるようになったのでしょう。                            このような経過で「霊御川」とよばれていたいた尺八池からの水脈は、「若狭川」と呼ばれて鴨川に合流することになったのですが、ややこしいことに、鷹ケ峯の北に発する水系で若狭川という名をもっていた川があります。これについては、次章の擂鉢池のところで詳しく記します。

付録
須磨千頴著「賀茂別雷神社境内諸郷の復元的研究」からの抜粋


その1「霊御」関連個所抜粋
第四章第六節 ps.817-818
【霊御川】この川の名は、「河宝」No.412[註1]六反の位置指定として「次南、霊御川南」とあるのが初見と思われる。一世紀後の「河天」[註1]にもNo.112 兵部少輔往来田一反の在所が「霊後川北」(戦国期の史料では、「霊御」を「霊後」と表記する)と見えるので、復元図に照らして川がどこを流れていたかが突き止められる。かつて河上郷南部を西から東へ蛇行しながら流れ、堀川に合流していた川である。西部山中尺八池から出て現在の北区大宮一の井町の町域に入り、大宮南椿原町の東端まで行って堀川に合していた。名称は「霊御」あるいは「霊御里」に発していると見られるが、これについては第二章第六節および本章第七節参照。

第二章第六節 p.192
 [「河宝」]No.409からNo.411までの三反はすべて往来田[註2]で、No.409には「次河ノ西頬、霊御前」とあり、他の二反が南へ並ぶ。「河ノ西頬」という指定でこれが堀川の西にくることは明白である。字限図[註3]では、No.407~No.408の西で堀川の西岸に、この三筆がちょうど当てはまる地割が確認できるから、そこに置いて間違いはない。ところで、「霊御」とは何であろうか。「河宝」および「大宝」[註1]では、彦九郎・三郎太郎ら計12名の作人の住所が「霊御」あるいは「北霊御」「中霊御」などと記されており、集落の名称であったことが知られるし、No.411の南で川を渡った場所に位置するNo.412 六反は「次南、霊御川南」と記され、「霊御」は川の冠称にもなっていたのである(後述するように「河天」では「霊後川」と表記されるようになる)。しかし、私は寡聞にしてまだその名称の由来を指摘した資料を知らない。今過誤を恐れずいえば、私は「霊御」は「霊墟」の音が転訛したあげく漢字表記も変化したのではないかと思う。「霊墟」は「神仏などを祀ってある大きな丘。又は神社仏閣などのあったあと」をいう言葉である(「大辞典』1936年)。「霊御」も霊がお出ましになるの意と解すれば、それと内容上さほどの隔たりはないといえるのではなかろうか。地からみ帳には「地蔵堂南」とか「帝尺堂前」あるいは「大将軍未申」などのように、神仏を祀るところを基準にして田地の位置・方角を指示している場合がときどきあることは、ここに至るまでの復元図作成の過程で見てきたとおりである。もし「霊御」を「霊墟」と見ることができるなら、これも類例の一つということになるであろう。復元図を見ると、No.409宮有大夫往来田の西には「大道」との間に面積二反程度の区画があり、その南には一反ほどの道・溝に囲まれた垣内様の区画もあって、「河宝」の復元でも「河天」の復元でも、ここは田地ではなかったことが立証されるので、おそらくそこが霊御の集落であったと見てよいのではないかと思う(なお、第四章第七節【霊御】の項参照)。

第四章第七節 ps.806~862
【霊御】今のところ、この地名の初見史料は宝徳三年(1451)の河上郷・大宮郷の地からみ帳である。前者のNo.409宮有大夫往来田一反半の位置指定に「次河ノ西頬、霊御前」、No.440経所田一反の前の行に「霊御北ノソヘ、大道西ノ畔 上モリ田」と見え、また「霊御」・「中霊御」・「北霊御」居住の作人彦九郎・三郎太郎ら計12名の作田少なくとも19筆が記載されており、後者では右の両名の作田計5筆が見いだされるのがそれである。ほかに「河宝」ではNo.412正受寺田六反が「霊御川南」にあり、No.553経所田半が「霊御川ノ北、川窪」にあったことが記されていて、「霊御」が川の名称ともなっていたことが知られる。復元図の作成によってこれらの田地の位置はすべて明らかになり、河上郷では神光院東北の字「鹿額」のあたりから南、大宮郷では郷最北部の字「芝本」・「小社下」のあたりに散在していた。加えて前記の「河宝」No.409・No.440の位置を示す記事があるので、「霊御」と呼ばれる集落の所在地はおおむね突き止めることができる 田尻の集落の西南約150メートルを隔てた雲ケ畑街道西沿が北端で、それより南およそ200~250メートルほどの道路沿いに細長く断続する集落であったと推定され、作人の数から小規模集落と見られるにかかわらず、「北霊御」とか「中霊御」と区別されていたのは、南北に長い集落の在り方が原因であろう。南端あたりを東西に横切っていたのが「霊御川」である。
 その後、本章第六節の【佐々本野】の項で触れたとおり、永正15年(1518)、「霊後里」居住の百姓の闕所をめぐって賀茂社が無量寿院と相論した際、7月20日付の賀茂社祠官氏人等重申状案(「賀茂」)には、「霊後里」は佐々木野にあり、佐々木野は河上郷のうちで、したがって賀茂社領であることは歴然であり、賀茂社には「霊後里」の百姓に対する進退権があるとする主張が示されている。訴訟が起こるくらいだから、賀茂社が「霊後里」住民に対して完全な進退権を有したかどうかは検討の余地があるが、少なくとも戦国初期に河上郷の田地を耕作する百姓が「霊後里」に居住していたことは確かである。注意すべきはかつて「霊御」と書かれていたのがここでは「霊後」に変化していることで、この点は天文19年(1550)の河上郷検地帳においても同様であって、そこでは川の名称が「霊後川」と記されている。戦国期には「御」の字は使用されなくなり「後」に変化したと見るべきであろう。
 さらに、より以上に注目を要するのは、天文19年検地帳には「霊後川」は出てくるが、作人の住所としての「霊後」はまったく見えないことである。これは不可思議である。天文19年検地帳では小山郷の一部を除けばほとんど田地一筆ごとに作人名と住所が記載されているので、「霊御」の集落が存在しさえすれば、宝徳の地からみ帳の場合と同じくそこの住民の作田がかなり出てきて然るべきである。それがまったく見えないのであるから、「霊御」の地名は消えてしまったとしか考えられない。そしてこれと符節を合わせたように、「河宝」復元図では「北霊御」と推定される場所がこちらでは田地と化し、字名が「卯花」となっている。これで少なくともかつての「霊御」の北部は耕地化したと見てよい。南部は復元図の該当場所に空白ができるから、そこには依然集落があったものと想定され、その一部が「林」の集落であったことは「河天」No.159一反が「林乾」所在とされているからほぼ確実である(【林】の項参照)。 一方で「林」の村は「河宝」・「大宝」記載の作人の住所には全然見当たらないことも勘案するならば、「霊御」の集落は戦国中期のある時点で、たとえば火災によって全焼したというようななにか特別な事情があって消滅し、その跡の一部は耕地とされ、他の一部には新たに「林」という村が造られたとでも考えないと納得がいかないのである。現在そうした事情を物語る史料はまったく管見に入っていないので、これはあくまで推定の域にとどまるが、とにかく「霊御」の集落は痕跡を断つた。以後この地名の歴史はたどることができない。なお、「霊御」の由来は「霊墟」なのかもしれないという私見は、第二章第六節で述べておいた。

[註1]地からみ帳・検地帳の略称。
「河宝」は「宝徳三年河上郷地からみ帳」の略。「河天」は「天文十九年河上郷検地帳」の略。「大宝」は「宝徳三年大宮郷地からみ帳」の略。

[註2]往来田
 京都賀茂別雷神社の特殊な土地制度。賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)の氏人らが,同社周辺の諸郷において与えられていた給田。1303(乾元2)年、徳政によって賀茂社に返付された一条以北水田のうち70町歩を、年齢順に140名までの氏人に人別5反の田地を,境内六郷のうち小野郷を除く河上・大宮・小山・中村・岡本の5郷に各1反ずつ支給されるのが原則であった。この田は罪科による闕所などの場合を除き終身用益を認められ,死去の際社中に返還,新たに従来受給資格のなかった〈無足〉の氏人のうちから,年齢次第に受給者が定められた。

[註3]字限図(あざきりず)
 明治初年に全国的に作製された地籍図。1873年の地租改正に伴い、明治政府によって字単位で作成された地図。近世以降の検地帳についても土地一筆毎の字名が記されているが、字限図は検地帳一筆毎の測量を元に作成された地図である点が異なる。地租改正の際、各村または字の一地一筆ごとに番号をつけ測量を行い、一筆毎の見取図(野取図・一筆限図)を作成する地押測量の結果得られた見取図を連合し、一字単位に区切った字の見取図を作成した。

その2【ワラヒ岡・蕨岡】
南北朝末期ごろの「往来A」に、数名の氏人の往来田が「河上郷ワラヒ岡」にあったことを記す。すなわち、幸蒸大夫・初有大夫・亀熊大夫・阿古蓮大夫・正若大夫・徳一大夫の各一反と虎福大夫の半である。半世紀あまり後の「往来B」では、これらの田地の給主がそれぞれ万鶴大夫・千代寿大夫・千代松大夫・益徳大夫・乙鶴大夫・有松大夫・松鶴大夫に変わっている。その外に同帳では、「往来A」では該当部分が欠けていて確認できなかった別の一反の給主として下野前司が確認され、さらに「蕨岡、円明寺」所在と記された徳若大夫と幸一大夫の往来田各一反も出現する。
「往来B」に出てくる往来田については、十年ほど前の宝徳三年(1451)諸郷地からみ帳と突き合わせて、字名を手がかりにして追究すれば、その当時の給主が誰であったかを明らかにできるケースが多いので、やつてみると、下野前司と幸一大夫については不明であり、有松大夫は当時すでに往来田を受給しているが、他はいずれも別の仮名や受領名をもつ氏人が受給者であつたことがわかる。便宜上記三名を除いて「往来B」の記帳順に挙げると、信濃前司・慶若大夫・出雲前司・千代石大夫・阿波前司・下野前司(「往来B」のものとは別人)・石見前司である。彼らの往来田は、「河宝」では下野前司のものは見いだせないが、あとは順にNo.527, No.502, No.526, No.490, 489, No.488として登場し、有松大夫往来田はNo.529である。これで計八名の往来田に関するかぎり「河宝」の復元図で存在位置が確認でき、ひいては「蕨岡」の場所がつかめることになる。記載順番号から判断して、これらは二か所から三か所にまとまっていると予想されるが、大体そのとおりで、まずかつての正受寺の西南にNo.488No.〜No.502の四筆三反半があり、残る三筆はすべて小野方面へ北上する道を越えた西側で、うちNo.529だけは霊御川南岸に接しているが、他はいずれも川の北側に位置していた。現在地で指摘すると、正受寺西南の田地群はほぼ北区大宮南山ノ前町西部、No.529は大宮北箱ノ井町中央南部No.526・No.527の二反は大宮一ノ井町の中央付近ということになる。全体としては現薬師山東町に相当する東南山麓を、東から南へ迂回するような形で分布していたといえよう。また、天正13年(1585)〜17年ごろの賀茂社読経所指出帳(「賀茂」)には、「河上郷ワラヒ岡」として半反が三筆出現するが、ほかに「大宮郷ワラヒ岡」として小・一反の二筆、同郷「高橋、ワラヒ岡」の小、同「カヤノ木、ワラヒ岡」所在の一反が記載されている。「高橋」は河上郷西南端のあたり、現大宮一ノ井町中央南部であり、「カヤノ木」はそこから約300メートル東、大宮開町北部である。これは「蕨岡」の範囲をいつそうはつきりさせると同時に、南部は大宮郷として扱われる場合もあったことを示すものである(「高橋」・「カヤノ木」については当該項参照)。しかし、まだこれでも全範囲をカヴアーしたとは言えない。「河天」No.171の半反では、在所が「福徳明神西一、蕨岡」と見え、この田地が「蕨岡」の区域内にあったとしなければならないが、それは現大宮東小野堀町西南端で、前記の区域からなお約250メートルくらいは東へ離れた場所である。私の復元図が間違ってさえいなければ、「蕨岡」は河上郷西南のかなり広範囲に跨がる地名であったということになる。
 そうなると、場合により他の字名で呼ばれる区域がこれと重なり合うこともあり得ないことではない。事実先に指摘したように、「往来B」には在所を「蕨岡、円明寺」と記された往来田二筆二反が出ている。この表現には解しがたいところがあるが、一方が抹消されて書き改められたという形跡はどちらにもないので、そのままに受け取るならば「蕨岡」であると同時に「円明寺」のうちでもある場所ということであろう。この二反のうち一反だけは「河宝」No.502慶若大夫往来田に当たることが確かめられる。先に正受寺西南の田地群としたうち、それだけが南へ突き出た形の田地である。加えて、すでに「円明寺」の項で考察したとおり、「往来A」。「往来B」には、「円明寺」所在の往来田が10筆以上記載されており、復元図の上でその在所を調べると、これはほぼ「蕨岡」の範囲に重なってくることがわかる。むしろ「蕨岡」=「円明寺」と見たほうがよいほどである。「往来A」でも「往来B」でも両者は書き分けられているので、本章でも別々に項を設けたが、事実は右記のとおりで、「蕨岡、円明寺」と記す例が出現するのは、かえって事実に即しているといえるかもしれない(ただし、「往来B」で「蕨岡、円明寺」とされている三反に当たる田地は、「往来A」ではいずれも「円明寺」としか記されていない)。
 このほか目についた史料若干を挙げると、推定室町期の賀茂社読経所田田数引付(「川上家文書)に、河上郷内の田地100歩が「蕨岡」所在として記載され、明応四年(一四九五)四月二日の賀茂社祝重賢田地売券写(「賀茂」)に記されている田地二反のうち一反の在所は「河上郷字蕨岡」とある。また、戦国期には大徳寺の塔頭・寮舎などがこの区域の田地所職を入手していた。元亀3年(1572)の大徳寺并諸塔頭本役銭結鎮銭出分指出(『大徳寺』8―2531, 2532)のうち、太清軒分指出に二反、大僊院分指出に一反、宗園分指出に一所など、「蕨岡」所在の田畠が見えているのはそれである。太閣検地のあと、この区域はかなりの部分が大徳寺領とされ、天正17年の大宮郷大徳寺分検地帳では44筆計3町2反10歩の田地が書き上げられ、また、同19年9月五5日の大徳寺領西賀茂内土居堀外分留帳(『大徳寺』8―2563)には、「蕨岡」を肩書きとする田地が10筆計1町10歩記載されている。慶長2年(1597)の大宮郷麦田指出にも当所の田地一筆5畝が出ているが、上記天正検地帳や土居堀外分留帳と比較してあまりに田数が少ないのが不審である(大宮郷の他の区域ではほとんどの田地が麦田である)、これはもともと麦の作付けがほとんどなされていなかった区域なのか、それともたとえば土居堀の築造などほかの要因が作用しているのか、今のところは明らかでない。

その3【石岡・いしおか】
 南北朝末期ごろの「往来A」に、王愛大夫往来田一反と孫□大夫往来田半の在所が「河上郷石岡」とあるのが初見。これより半世紀あまり後の「往来B」では、前者一反は愛益大夫、後者の半は美濃前司の往来田として出現しており、さらに松若大夫往来田一反も同所にあったことが確かめられる。「往来B」所載の往来田については、10年ほど前の宝徳3年(1451)諸郷地からみ帳と対照して、多くの場合に当時の給主であった氏人を突き止めることが可能である。調べてみると、愛益大夫往来田は愛千大夫が、美濃前司往来田は対馬前司が受給しており、松若大夫の場合は既に同一人が給主であったことが判明する。「河宝」の場合は、遺憾ながら松若大夫往来田は発見できないが、愛千大夫往来田はNo.559、対馬守往来田はNo.563として出現するので、その在り場所は復元図で押さえることができる。郷南部で久我神社の北北西、旧土居のすぐ北である。加えて「河宝」では、この外にNo.550経所田一反の場所を「石岡、次東、車路東」と記しており、復元図によると、この川地はNo.559の南南西およそ.150メートルほどのところに見いだされる。
 また、 一世紀あとの「河天」には、場所指定に「石岡」の字名が出てくる田地二筆が見える。No.159一反に「林乾一、石岡」、No.288供田二反に「石岡、巽一」とあるのがそれである。これまた復元図によって、前者は「河宝」No.568、対馬守往来田の北隣、後者はさらに、その北隣にあったことが確認できる。注意すべきは後者の場合字「石岡」の「巽一」に位置していたことで、その点から考えて、少なくとも「次西」で連続しているNo.298までの一町歩余の田地は、この字名で呼ばれる区域であったと見なければならない(道や溝の在り方からすると、この区域はさらに北へ広がっていたと捉えるべきかもしれない)。
 以上の所見により、判明する限りで現在地を調べると、「石岡」は北区大宮東総門町西南部、大宮上林町・大宮中林町西部 、大宮中総門町南部、大富東小野堀町、大宮東脇台町北部にまたがる区域ということになる。しかし、のちの天正19年(1591)9月5日の大徳寺領西賀茂内土居堀外分留帳(『大徳寺』8―2563)に、「石岡」所在の32筆計1町8反3畝8歩が記載されているのを勘案すると、より南の旧土居に近い部分、すなわち大宮南林町西部や大宮東脇台町南部あたりもこれに含めて捉えるべきであろう。
 戦国末期元亀3年(1572)この大徳寺并諸塔頭本役銭結鎮銭出指出(同8―2531・2532)の内指出に「石おか 大 一石七斗」、宗晃分指出に「一段 石岡 四斗代」が見え、大宮郷のうちなどと同様に、大徳寺諸塔頭による個別田地の所職買得が行なわれていたことがわかるが、その後太閣検地を経て、ここは全体あるいはほとんどが大徳寺領とされ、天正17年(1589)西賀茂検地帳には、「石岡」を肩書とする田畠54筆計4町1畝15歩が書き上げられている。ただし、このうち21筆7反4畝2歩は「あれぶん(荒分)」として一括記載され、このうち田地は五筆のみ、他はすべて零細な畠地である。区域内を通っていた霊御川の川沿いあたりは当時かなりの荒地だったのではないかと推測される。また、天正13年(1585)から天正17年前後にかけてのものと推定される賀茂社読経所指出帳(「賀茂」)には、半・二反・二反・小・半と五筆の「石岡」所在田地が書き上げられている。「河宝」復元図を見ると、前記の区域内に、いちいち特定はできないもののこれらに見合う経所田が散在しているのを発見できる。その後、慶長2年(1597)の西賀茂麦田指出には、「石岡」の田地9筆計3反6畝16歩が出現するので、一部田地には裏作麦が作付けされていたことがわかる。