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洛中洛外 虫の眼 探訪

づしづくし 69 「番外編 三條川東」(続)あとがきにかえて — 要約と補足

(続)あとがきにかえて — 要約と補足

6 城安寺辻子
 城安寺辻子は、天部村の東沿いの畑道であったものと考えられる。この畑道は、寛永六(1629)年に伏見から移転してきた城安寺とともに、その東沿いに七軒町、南西海子町、北木之本町、進之町が開町した頃から、町家が軒を並べるようになり、その道の様相は変わってきた。1:城安辻子周辺(修正絵図)それ迄は、三条通から天部村東南端付近にあった天部村東口までの道に過ぎなかったものが、町通の前段階の辻子と認識され、城安寺辻子と呼びならわされるようになったのだろう。しかし、依然として、古門前町通までは貫通せず、高畠町南西端、との境で行き止まり、袋小路の辻子であった。
 その様子を、華頂要略附録第拾六に収録されている「粟田地志漫錄」(元禄十一戊寅三月上旬 並河惟忠序)掲載の町家絵図から作成した絵図を右に掲げる。   
 現在でも巽町東南端で行き止まりのままである。その理由としては、多分に地形的なことがあったのではなかろうか。下の図は、この辻子の先端部(巽町の東南端)で崖上に落下し、古門前町通り下っていることを、現在の国土地理院地図で断面図を描き示したものである。城安寺辻子が接している南の三条保育所は大げさにいえば絶壁の上にあるといえよう。
2:城安辻子と段差さ2
3:城安寺辻子道幅変遷図  この辻子の道巾は、七軒町以南で拡張されてきた。その経過図を右に示す。
 元禄九(1696)年に城安寺前が拡張されている。
 また、七軒町南西端と天部部落内の鎮守の森、大将軍神社の東北端の角で道巾が食い違っていることがみえる。下右の写真に見えるいうに、現在でもいまだにこの食い違いは残ったままであるである。

4:城安寺辻子食い違い

7 綿屋辻子
 綿屋辻子は、以下に述べる衣屋辻子、紙屋辻子、ふたつの杓子屋辻子、酢屋辻子などの屋号を冠した辻子である。源右衛門辻子もおそらく陶工の名に由来していると思われ、この範疇に入るだろう。これ迄に見てきた寺社の名を冠した辻子、超勝寺辻子、正栄寺辻子、城安寺辻子 などと違って、いずれもその名の由来を詳らかにするのが困難な辻子である。
 「粟田地志漫録」の境内民家明細書の七軒町の絵図をみても、そのものずばりの「綿屋」らしき民家は見えない。南北に細長い2軒の民家に挟まれた、三条通から孫橋通に至り要法寺の門前の溝で行き止まりで、要法寺辻子は呼ばれていない。寺社の名を冠した辻子の多くは、そ寺門に沿って付いている道路で、辻子の突き当たりが寺門とはなっていない。要法寺の表門は孫橋通に面しており、新高倉通が門前を沿って走っているが、まっすぐに三条通に出られるわけでなく、一旦西に折れて、溝を避けて金台寺辻子から三条通へ出ることになる。下の絵図は華頂要略附録18の御門跡領にある「法皇寺境内并天部村知恩院境内等境目」と称される絵図の該当部分である。
5:綿屋辻子
 要法寺は、宝永五年(一七〇八年)京都大火では類焼し、その後東山三条のこの地に移転した。その時に新高倉通も開通したものであり、それ以前は綿屋辻子は畑道へ続いていたものと思われる。綿屋辻子自身は、七軒町が開町した元禄の頃からの呼称であろうが、二軒の民家の裏口からの出入り以外に意味のない、取り残された畑道である。
2b:絹ヤツシ 江戸時代の地誌や絵図に取り上げられることも少なく、管見の限りであるが、「文化増補京羽二重大全」(文化8[1818]年)にその名が見えるだけで、「粟田地志漫録」の境内民家明細書の七軒町の絵図の以外には「綿」が「𥿻[きぬ]」となってはいるが、寛延2(1749)の洛中洛外図絵図「四座雑色分担支配地繪図」にすぎない。

8 分木辻子
 分木辻子の名は、もとこの地が田畑であった頃の字名に由来したもので、すでに天正年間(1573年~1592年)に「分木」の名が渡辺水帳(渡辺家は青蓮院宮の坊官でこの地域一体に所領を有していた)に見られる。「分木」というのは一本の水路から,用水を二つの区域や村に分ける際にとられる、分岐の技術的手段の一種で,分水点に目盛木を立て,その高さによって分水を行うことである。
 下の「粟田地志漫錄」の分木町の町家絵図を見ると、分木辻子の大部分が暗渠(「石フセミソ」と記載)になってはいるが、北端の暗渠になっていない部分で、黒い線で描かれている用水路の分岐がみられる。
6:分岐辻子1

 この用水路の水は旧白川の水路から取水されたもので、辻子に沿って三条通を越えて、古川通沿いを南下し、現在の白川に放流されている。その源は白川であり、この南への分岐点よりちょっと北で、現在の白川へ放流されている水路も見られる。
 白川の用水路全体が見られる絵図を作成した。この図は、下敷きとして、「法皇寺境内并天部村知恩院境内等境目」(華頂要略附録18所収)を用いて、これに、「當今圖」と「分木町之圖」(華頂要略附録21所収)の水路を書き加えたものである。
 古川町通を南下して現在の白川に放流された水路の他に、白川から天部村東口を結ぶ水路もあったことがわかる。
7:分岐水路全体図

9 衣屋辻子
 衣屋辻子は今小路町から三条通南裏に至る辻子である。三条通のほとんどすべての町が、三条通の両側町を形成している中で、今小路町は大井手町と三条通を町境とする片側町である。これは、粟田地誌漫録によれば 

『今小路町は、知恩院末御領なりし時、今の保徳院の辺に在りし在家なり。(慶長8年の)知恩院創造之時、今の白川橋の西に遷し、今小路町と名付しとなり』(京都坊目誌下京第八學區之部の今小路町の町名起原の項による)

とあることから、大井手町と三条通を町境とする片側町として開町したことになったのであろう。同書町家絵図でも、大井手町と今小路町は「大井手町 北 今小路町 南片町」として一括して扱われている。
8:大井手町と今小路町の町家絵図
 
 この今小路町の由来から、衣屋辻子の名の由来も何となく分かる。京都案内人のブログにあるように、知恩院領内に住んでいた村人がこの三条白川の地に移され、その見返りに知恩院の僧侶の僧衣を染めて仕立てて商う商家街が形成され、衣屋辻子と呼ばれた、という憶測もできよう。但し、江戸時代後期の絵図にはその様子は見えない。      
10 紙屋辻子、
 粟田地志漫録附録第20巻「粟田口町家之明細 第貳」で大井手町・今小路町を見ると、『紙屋ノ辻子 舊友古ノ辻子』とあり、三条通にも『祐古辻子』の記載が認められる。
 さらに、この「大井手町 北 今小路町 南片町」の絵図名左の書き入れに『享保五(1720)年記云 祐古ノ圖子道幅五尺四寸ノ野道ト云』とも記載されている。
9:紙屋辻子界隈と舊記「祐古ノ圖子」

10:舊記粟田口圖子小路名目 また華頂要略59巻(粟田口村雑記第一)の粟田口圖子小路名目には、紙屋の辻子ではなく『ゆふこのずし 北 畑道』と記載されている。これを記した舊記には年号は記載されていないという。
 これらからすると、「紙屋辻子」と呼ぶようになったのは。18世紀後半以降ではないかと思える。実際、寛延2(1749)年の洛中洛外図絵図 一名「四座雑色分担支配地繪図」に、『ユウコノツシ』が見られる。
11:四座雑色分担支配地繪図「ユウコノツシ」 冒頭の大井手町・今小路町周辺の絵図を見ると、紺色で塗りつぶした町家、石泉院町の二軒、町家番号四番と十五番にそれぞれ『元 紙屋彌兵衛』、『元 紙屋十三郎』とあり、大井出町の町家番号十五から十七は『紙屋嘉右衛門』となっている。石泉院町の開町は明和3(1766)年であり、以前は田畑の字名であったことからすれば、このころから、畑道同同然だった「友古ノ辻子」付近には、紙を扱う商家が集まり始めて「紙屋辻子」と呼ばれるようになったのであろう。現在も続いている三条通大井手町の紙商「紙嘉」は元禄時代の創業というから、「紙屋辻子」の由来とは直接関係はなかろうが……。
 中世中頃以降、地方製紙業の勃興著しいものがあったと云う。紙の最大の需要地であった京都には、地方の紙問屋から齎らされた紙類は、三条通にあった「紙嘉」のような紙商を通じて、武家や公家の間に、また庶民の日常の用紙としても用いられていたのだろう。その需要を満たすために、石泉院町の開町後は、ここにも紙商が集まってきたのでは、というシナリオが出来上がる(次項「金剛寺辻子」の[註]書きも参照)。

11 金剛寺辻子
 例によって粟田地志漫録附録の「粟田口町家之明細」の五軒町之圖を見ると、標題の脇に『北側の道アリ金剛寺ノ圖子ト稱ス道巾一間一尺一寸』とある。北の堀池町の町家明細絵図を見ると、この
辻子の抜け先は、白川の水車小屋である。
12:五軒町の町家明細図
 金剛寺の正門は三条通に開いている。この辻子は金剛寺の西塀沿いの細道で、僅かに東側の堀池町の二軒の小さな家屋だけが頬を向けているだけである[註]。まさに畑道の名残りでで、『堀池町に通ずる小徑を金剛寺辻子の字あり。』と京都坊目誌にある通りの小径であった。
 応仁の乱で荒廃していた金剛寺がこの地に再興されたのは慶長七(1602)年のことである。正徳三(1713)年に本尊が修復され、享保十五(1730)年に漸く本堂が建立され、現在に至っている。
13:金剛寺は位置図

13:並河靖之七宝記念館旧地
[註]この家の一軒は、文政八(1825)年には紙屋であったことが、堀池町の町家明細の説明から知れる。この辺までも紙商が立地していた。
 右の三軒は、現在では「並河靖之七宝記念館」に変貌している。



12 西の杓子屋辻子
 前項末尾の並河靖之七宝記念館の「並河家」を探索して行き当たったのが、「西の並河家」である。そこで、華頂要略「本編巻第四三 門下傳 諸家第二」に西の並河家の図面が載っており、並河家の西沿いの小径に「杓子屋辻子」と記載されているのを発見した。 
 六代目靖栄の代の記事に、
 
『文化九年[1812]八月十三日 此度居宅造替ニ付表側地面東西六間五寸南北壹間之場所返上仕往還ニ相成未申[南西]之方ニ而東西一間六尺三寸南北北間半之場所拝領願御聞濟』
 
とあり、掲載されていた図面には、『御用地 𣏐子屋辻子』と明記された小径がでている(下図右)。
 この図面では並河家南半分しか見られないが、寛保二(1742)年の二代目共樹の項にはもう少し広い範囲の図面がある。それは、依願により宅地を賜ったときの図面で、三条西町から並河家西沿いの尊勝院藪地の間を抜けて尊勝院に行き当たる小径が描かれ、これに「辻子」と明記されていが、まだ「𣏐子屋」の名称は現れていない。
14:並河家図面2つ
 辻子突き当たりの東側に青蓮院の裏口の門が描かれており、入ったすぐ南手は「御乳人[乳母]屋敷」とある。
 西町の町家明細絵図には三条通から並河家沿いに小径が描かれているが通り名は記載されていない。西側の尊勝院薮地は「定恵坊」となっている。
15:西町之圖

 この西の杓子屋辻子の名の由来について意味深い記事が、井上頼寿「京都古習志」にある。青蓮院へ年末の二十七日、歳暮の御祝儀に、他の産物に混じって杓子を差し上げていた。鞍馬寺は青蓮院の末寺的存在でもあったことからすれば、鞍馬の住民が青蓮院へ杓子を歳暮の御祝儀の一つとして、差し出していたその差し入れ口がこの辻子であったから、杓子屋辻子と呼ばれていたのかもしれない。確証はない。
16:西の杓子屋辻子の痕跡 現在この杓子屋辻子の南半分が痕跡として残っていが、三条通南裏から北に入る袋小路の路地で三条通に突き抜けていない。
 明治時代初期に、民家明細書所収の西町の圖の一七番の宅地と合体して、粟田口町の名士で三條小鍛冶宗近の顕彰碑の唱導者として名を残している 山本祐山の所有地となったものと思われる。

 西の杓子屋辻子と東の杓子屋辻子とは、何の関連もないものでありここでは西から述べてきた地理的な位置関係から、東の杓子屋辻子は夷ヶ坂辻子の次に記すことにし、「(続)あとがきにかえて — 要約と補足」はここで一旦終わりとする。新たに「(続々)あとがきにかえて — 要約と補足」を、「天王辻子」から始める。










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づしづくし 69 「番外編 三條川東」あとがきにかえて — 要約と補足

あとがきにかえて — 要約と補足

 全部で200冊もある華頂要略の様々な巻に散らばってかくれている辻子についての記事を漁りまくって、四苦八苦したおかげで、今迄明るみに出ていなかった史実をいくつか目にすることができた。それら史実をもネタにして、三条川東に存在した23ヶ所の辻子について書き継いできた。
 今考えれば、書きたらぬ所もあったので、以下にまとめとして、各辻子ごとに今ではほとんど知られていなかった史実を中心に、その後に気付いた新知見に値すると思われることなども補遺として簡単に書き綴る。下表は各辻子の資料別掲載リストである。
1:表
(華頂要略の存在を知った経緯をづしづくし 洛外編「Part 6  三条川東(三条通鴨川以東 蹴上げまで)」に[蛇足]として書いた。ここに北村季吟研究家の戸田浩氏に御礼申し上げる。 なお同氏による「粟田地志漫錄」並河惟忠序の翻刻を城安寺辻子の付録 に載せた。

1超勝寺辻子
 応仁・文明の乱以降、三条通北側一帯は田畠と化し、縦横に畑道・畔道が通っていたことだろう。ちょっと広い畑道は南へ、大津道とも呼ばれた三条通を行き交う人々にも開かれていたものと思われる。この洛外の街道に入口がある畑道を起源に持つ辻子は、三条通りにいくつか見られ、寺社名を辻子名としたものが多い。
 このような辻子の代表例として、超勝寺辻子のあり様の変遷をちょっと詳しく以下にまとめておく。

 超勝寺がいつ頃からこの地に存在したかは不詳であるが、西向いの心光寺がこの地に移って来たのは慶長12(1607)年である<1>。おそらくその頃までは、周辺は田畠で、畑道くらいしかなかったものと思われる。しかし、孫橋町(川端二条から孫橋北詰まで)ができた寛文9(1669)年に、旧白川筋に石橋が架橋されたこと<2>からすれば、三条界隈から岡崎方面へ行き来する人通が増えていたことを物語っていよう。とすれば、三条通から超勝寺・心光寺あたりまでを、畑道ではなく「辻子」と呼ばれ始めたのではなかろうか。
 しかし、まだこの辻子に名前はなかった。それは、貞享二(1685)年の刊記のある「京羽二重」巻四に誓願寺の末寺の一つとして超勝寺の住所を、単に『三條大橋東北へ上ル辻子』と表現されていることからそう思える。
 さらに時代が下がって、18世紀初頭の寶永五[1708]年に超勝寺門前町(孫橋通〜三条上ルまで)が開町し<2>、元の畑道だった道は町通り資格をえたが、巷では超勝寺辻子と呼ばれていたようである。「宝暦12(1762)の京町鑑に、明確に『●一丁目 ○此町北側 ㋟超勝寺辻子』とある。同書○川東之部の○新麩屋町の項にも『●長倉町<3> 此町南を東へ行所も此町へ付く也此南町は超勝寺辻子とて三條通へ出る也』と北方の新麩屋町通からの記述もあり、いずれでも辻子としている。
 その頃には、すでに京都坊目誌にいうことからすれば、超勝寺門前町が成立し、超勝寺辻子は町通に昇格したように思えるが、この町は町組に属さなかったと同書は記す。しかしそれ以降でも、超勝寺辻子のまま<4>で、町通と認められたのは明治維新以降である。明治になってからは、超勝寺門前町は町通として定着し、超勝寺辻子の名称は消えた。

<1>雍州府志巻四 寺院門・愛宕郡(黒川道祐, 貞享3, 1686)の法城寺の項]
<2>京都坊目誌上京第廿八學區之部
<3>現在の大菊町の北部新麩屋町通西側、但し南部では両側を指す。従って、この南部は超勝寺門前町であった。
<4>天保2(1831) の改正京町繪圖細見大成(岩瀬文庫)には、「長正寺つし」。天保2(1831)刊行の「京都順覧記 」にも「超勝寺辻子」とある。


2 ヤグラノ辻子
 通説ではヤグラノ辻子は、「三条通の二町目から大蔵寺の西側を南下する小道」とされている。しかしこの比定は安直である。「ヤグラ」の史的な意味を考慮していない。「櫓」は、税金を納めて「ヤグラ」組んだ大きな芝居小屋をも意味した。但し、江戸時代を通して「矢倉」も、税金を納めていない小さな芝居小屋をも含めて芝居小屋一般をさす言葉でもあったようだ。維新後芝居では食べていけなくなった一家が団子売りになって、「矢倉の団子」と名付けた団子がよく売れたという<1>。
 辻みち子氏の著作「転生の都市・京都」(阿吽社, 1999)に次のような一文がある。

『「ささ引通」は天保年間の絵図に記載があり、その道は「櫓辻子」の別称ではないかと考えられる。ようするに「ささ引通」はささら説経師が通った道であり、芝居小屋に関係する人、また、雑芸人が通る道ではなかったかと考えるのである。そして、この三條大橋東南部(寺裏)は、最も人口の多い非人身分の人たちの集住地であった。』

 現在は郊外に移転した大黒町の四ヶ寺(西願寺・三縁寺・養福寺・高樹院)の東背後の地は字寺裏と呼ばれていた。かつてはこの寺裏に沿った南北の小道があり、三条通ではなく大黒町の北側を迂回して大和大路に通じていた。この入口が、京町鑑と京都坊目誌両方に「櫓の辻子の入口」と呼ぶと明記している。とすれば、「ささ引通」はかつての櫓の辻子である(「ささ引通」については「ヤグラノ辻子」本文に詳しく記した)。これが史実を反映した想像力豊かな説である。
2:矢倉の辻子:森幸安「官上京師地図」 森幸安の宝暦2(1752)年刊「官上京師地図」にはこの道が描かれており、「矢倉ノ辻子」と記されているが、入口は三条通にある南北のまっすぐの辻子となっている。
  辻みち子氏の説を踏まえて、現在の地図上に、櫓の辻子を比定した図を下に掲げる。
3:櫓の辻子比定

<1>辻みち子「京あまべの歴史」を語る (部落解放同盟京都府連会東三条支部, 2014年)


3 天部辻子と「かにがづし」
 寛政元(1789)年の史料「雑色要録」の「天部村由緒の事」によれば、天辺村は天正15(1587)年に、当時の四条綾小路辻子(現高島屋南東部の地)から三条大橋東の三町目南の地に移転させられてきた。四方を堀で囲まれ、南北九六間(175m)、東西が七六間(138m)の大きさで、現在の教業町、長光町と巽町の東部分をあわせた地域である。
 北側の三丁目の町家の間を抜けて三条通に出る道が、天部辻子である。「餘部村」と記す森幸安の宝暦2(1752)年刊「官上京師地図」を見ると、天辺村の出入り口は北の他にも南方に東西二ヶ所が見える。西口は、大蔵寺の東沿いの畑道に出、東口は城安寺辻子にでる。 少し前の18世紀初頭の京都明細大絵図(景観年代 正徳4~享保6, 1714~1721頃)には、出入り口は北口以外は描かれていないが、大蔵寺東側の畑道(「ヤクラ辻子」と記す!)と城安寺辻子は描かれている。
4:天部村・官上京師地図(横縮小) 5:天部村・京都明細図
 
<註> 上左の森幸安の官上京師地図では、大蔵寺の西沿いの道を「矢倉ノ辻子」としている。右の京都明細図では、大蔵寺の東沿いの道を「ヤクラ辻子」としている

 大蔵寺東側の四軒寺と天部村の間のエリアは、前項でも言及した字寺裏と称されていた非人身分の人たちの集住地であったことが、この京都明細図で知れる。
 もう一枚、江戸時代の絵図で天部部落の東半分が描かれたものがある。それは華頂要略附録拾八巻「御門跡領第一」中の「法皇寺境内並天部村知恩院境内等境目」と題する絵図の西南部に天部部落の東半分が見られる。この絵図では天部村北側には堀はない。東側は堀を介しても城安時辻子が走っている。その北端部分に書き込まれた「森 社」は東三条の森であり、大将軍神社を意味している。堀の南端付近の進之町との境に「天部村東口」があり、堀に架る橋を渡った西に描かれている。その南には土手が築かれ、天部村南東端に至って堀は西へ真直角に曲がって西に続いているが、本村西端迄は描かれていない。おそらく天部村西側の境界沿いにも今見てきた東側と同様に、堀に橋が架かっていて、村外へ出る西口があったものと想像して書き加えた天部村全体図を作成した。それを下に示す。
6:天部村・華頂要略附録
 上掲の官上京師地図や京都明細大絵図に描かれているような大蔵寺沿いの三条通りに出られる畑道を書き入れているが、当時も存在したかどうかは詳らかではない。
 次いで天部村内の道路景観についてみてみよう。残念ながら、天部村内の道路を描いた江戸時代の絵図は目にすることはできないが、花見小路通や若宮大通が開通する戦後まで、行政区画は変更されてきたものの、この界隈の道路景観は、今のように大きく変わった様子は維新後も見られない。昭和2(1927)年頃の景観年代を描いている京都市明細図(長谷川家所蔵)の天部村周辺域を下に示す。
7:天部村・昭和2年京都市明細図
天部村は北部の西町(現教業町)、東町(現長光町)と南町(現巽町東部)に分かれていた。それに従った道路景観が見て取れる。西町と東町の中には、南北の大通りがあり、北部と南部を分つ境界上に村内を横断する東西の道が見える。その東西端に西口と東口があった。東口は城安時辻子に出る。西口は寺裏を東西に走る四本の小道に繋がっている。
 一方、北側の西町と東町の境界上に北口があり、そこから三条に抜ける道が付いている。おそらくこの小道が天部辻子と呼んだものと思われる。この辻子は村内の西町と東町を東西に走る大通りに突き当たる。ここを西に行くと行き止まりとなっている。 
8:かにがづし ただし、左図に拡大したように、北へ曲がっていた痕跡が認められる。この続きが三条通まで抜けていた可能性がある。京町鑑にいう『○同町[三町目]同側[南側]に ㋟かにがづし 此辻子今往來人通さず』がこのことを示唆してる。
 「かにがづし」の意味を考えているとき、次の記事を読んで、突拍子もないことが頭に浮かんだ。
 雍州府志(黒川道祐, 貞享3年)の巻七「大太鼓」の項に

『太鼓の大なるもの、また、馬革をもってこれを製す。天部の屠人、これを筒に貼す。筒は、近江山中よりこれを穿ち来る。天部村の屠人これを買ひ、再びこれを改め斲[けず]りて、馬革を両の端に貼す。伶人の用ゆるところ、羯鼓・三の鼓・鼂[だ]太鼓および猿楽の用いゆるところの太鼓、各々この処においてこれを張る。』
とある。
 辻みち子氏も天部村西側に住んでいた太鼓屋の橋村理兵衛のことに言及されいる。

 『室町時代でしたら武具になったのですが、この時代(江戸時代)ですと主に太鼓になります。ここは太鼓屋さんが有名で、すごい太鼓をつくります。(中略)天部でしたら橋村さんの所が儲けているだけと違うかというと、そうではないのです。地域で皮の仕事があるということは、中心で儲けているところがあっても、革を張ったりするのは村中の仕事になっているのです。村中の人が食っていける保証がある、それだけの助け合いがあるということです』(部落史連続講座 2008年講演記録 p.3)

 三条通りの通行人たちは、近江の商人や天部村の太鼓家業の住民達が、大きな筒状のものを二つ肩に掲げて、件の細い辻子を頻繁に出入りする姿が目にしていたことだろう。その光景を思い浮かべて、横ばいで歩く「蟹」の列が、ふと頭をよぎった。

4 馬屋辻子(正栄寺辻子)
9:京都竪横町通之事正徳五未年改 正栄寺は、和国町の南端、三丁目との境界北と西の一画を占有している。この寺の西側の三条通に出る道が正栄寺辻子あるいは馬屋辻子と呼ばれていた辻である。
 その具体的な情報は「京都御役所向大概覚書」の「京都竪横町通之事正徳五未年改」に書き留められている。その関連個所の写しを右上に掲げる。
 ここには南北六筋の名称の記載がない10:所替え道筋・京都明細大絵図が、その通名は、景観年代が正徳4~享保6,(1714~1721)年とされている下の京都明細大絵図に見られる。白枠で囲ったのが所替えでできた町の名である。道筋を東から書き上げると、
①新高倉、
②新間之町—新堺町、
③新東洞院—新楊柳馬場、
④新車屋町—新富小路、
⑤新麩屋町・新御幸町、
⑥新丸太町
11:所替え町通り地図(枠線入)の六筋である。両側町を形成しているのは、福本町・頭町・和国町。讃州寺町の四ヶ町、他の十二ヶ町は片側町となっている。現在の町名と町域の地図が右である。
 上述の如く正栄寺は和国町の孫橋通以南の一画にあり、寺門は西側の辻子に面している(京都明細大絵図では「七軒丁」と記載されているが正栄寺の南側は明治三年以来三丁目に編入されこの境界から北側は和国町である)。
 正栄寺がこの地に移って来たのは、京都府の行政文書「寺院明細書」によると天正三(1575)年のことであり、和国町ができたずっと以前である。従って、正栄寺前から三条通に抜ける道も岡崎村の畑道の延長としてすでに「所替え」以前から存在しており、この道は正栄寺辻子として知られていたことだろう。
 それを京町鑑なぜ「馬屋辻子」としているのだろうか。
 和国町の旧所在地について、坊目誌は、堺町丸太町上ル駒本町と称していたとするが、同地は宝永5年以前は「駒福町」(寛永14年洛中絵図)あるいは「こまひき丁」(新撰増補京大絵図)と称されている。
12:和国町旧所在地
 これからすれば、「京都御役所向大概覚書」に記載されている「駒引町」は、新堺町通の両側町、現在の「和国町」に移し、「駒薬師町」を新柳馬場通の両側町、現在の菊鉾町へ移すべきであろう。京都明細大絵図の記載も同様である。
移転後、両側町を形成したのは、福本町・頭町・和国町。讃州寺町に加えて、菊鉾町(旧駒薬師町)と和国町(旧駒引町)が存在した。
これでようやく、京町鑑の「馬屋辻子」の意味がわかった。

『○こまひき町 いにしへ望月の駒を禁中に引まいらせしを此町のわたりにて引つくろひけりとかや 今は世となへあやまりてこまふく町といふ』(浅井了意「京雀)

『あふさかの関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒[註]』(紀貫之、拾遺和歌集 秋)

[註]望月の駒
 望月の駒(こま)は信濃にあった望月牧から、毎年八月に朝廷に貢進されていた馬のこと。貫之の歌は年中行事を描いた月次(つきなみ)屏風に添えられていたもの。
 逢坂の関まで馬を出迎えにいくのを駒迎といい、使者には近衛の将が選ばれた。藤原高遠は実体験をこう詠んでいる。
『あふさかの関のいはかどふみならし 山たちいづるきりはらの駒』
(大弐高遠、拾遺和歌集 秋)


14:馬苦労辻子/森幸安「遷轉新地地図」1744 森幸安の歴史地図「遷轉新地地図」には、正栄寺の東側の小道(金台寺辻子)を「馬苦労辻子」としているのも馬屋辻子に一脈通じるものがある。逢坂の関を越え三条通を望月の駒を引いた博労(馬喰)がこの辺りで脚を止めていたことが目に浮かぶ。しかし、それは古代のことである。「博労」については、簡単には下の[註]を、中世の馬の流通・商取引については豊田武「增訂中世日本商業史の研究」( ps.180-190 )を参照)。

[註]博労(馬苦労、馬喰)は「伯楽」からきているが。伯楽は古代中国では馬相をみる者をさしていた。日本では馬薬師(うまくすし)、馬医もこうよんだ。13世紀には馬医のほか牛の牛医も現れた。16世紀に入ると、馬喰とは馬・牛の売買・仲介をする商人をいうこととなった。京都や鎌倉には伯楽座があり、また、都市周辺で馬市や牛市が開かれ数多くの馬牛商人の伯楽が集まった。馬・牛の需要はまだ特定の階層に限られていたが、17世紀からは駄送・耕作などに使役することが庶民の間にも広まるにつれて、各地の産地や市場町・宿場町に博労(馬喰)が生まれ、城下町などには馬喰の集住する馬喰町や、旅商人としての馬喰の宿泊する馬喰宿などができた。馬喰の多くは藩から鑑札を与えられていた。第二次世界大戦後は、家畜取引法の適用によって、北海道、岩手、熊本、宮崎、鹿児島の各道県の生産地市場や、栃木、岐阜、福岡各県の集散地市場の商品仲立人として、馬牛仲介人の役割をもつようになった。

4 金臺辻子(馬喰辻子)
15:堺石と金台寺辻子 華頂要略の附録「粟田地志漫録」中の「粟田口町家之明細 第貳 」に七軒町の町家図が収録されている。この絵図には、七軒町内の三つの辻子、綿屋ノ辻子・金臺寺ノ辻子・城安寺ノ辻子の位置とともにその道幅が明確に記載されている。
 金臺寺辻子は絵図の三条通西端から北へ通じており、粟田青蓮院ノ宮領の「境石」がこの辻子の三条通東角に描かれている。境石の位置からすると、この辻子自身は粟田青蓮院ノ宮領ではないことがしれる。

16:七軒町 七軒町(元禄以前は松原町)自身は、現在とは違いそれより西、現在の新堺町通まで伸びていた。右の現在の地図上に示したように、七軒町は、西は新堺町通(馬屋辻子)まで、正栄寺の南側の一画を含んでいた。明治4年来三町目に編入されたのである。
粟田地志漫録の七軒町の町家明細図は七軒町の西端部を欠いているということである。
 華頂要略本編巻五九の「粟田口村雑記一」に引用されている「粟田口圖子小路名目」と題する
舊記(不載年号)には、この金臺寺辻子は載っていないことと整合している。青蓮院領内の最西端の辻子は城安寺辻子である。
17:シタイシノツシ 辻子名が記載された、恐らく最初の絵図は、表紙裏に「己巳三月 近藤家」の墨書のある洛中洛外圖「四座雑色分担支配地繪図」であろう(この絵図の題名については洛中洛外古絵図探訪の[追記]参照)。これに「シ[コン?]タイシノツシ」と辻子名が記載されている。この絵図の内容年代からして、この「己巳」は寛延2(1749)である。

[註]例によって「京都市の地名」(日本歴史地名大系27. 平凡社, 1979)の七軒町のp.369の七軒町全体が青蓮院領としていることと、金台寺辻子のついての記述は誤りである。金台寺辻子を京町鑑の記述として三条通南側としている。「同」を「南」と読み違えているのか? それとも京都坊目誌が「南」と記しているのを、鵜呑みにしたものと思われる。この方は坊目誌の文脈から明らかに「北」の誤記と分かる。

 金台寺辻子の有り様は、正栄寺辻子の有り様と違わない。金台寺は慶長18(1613)年に創立された。その当時すでにあった三条通へ通じていた畑道の金台寺前から七軒町の町家に沿って三条通に出る部分を金台寺辻子と称するようになったのだろう。本稿の超勝寺辻子の冒頭にも記したように、三条通りにいくつか見られる畑道を起源に持つ、寺社名を冠した辻子の一つである。

<以下青蓮院領内の辻子に続く>

その前にちょっと、いっぷく
do not erase











づしづくし 68 名無しの辻子/ Part 6 三条川東 その19

づしづくし 68 名無しの辻子 4ヶ所

 青蓮院領だった粟田口界隈に、名を記さずにただ「圖子」と記された小径が、華頂要略附録廿巻 粟田口町家明細にいくつか見つかる。白川沿いに二ヶ所、三条通北裏に二ヶ所。いずれも、京町鑑や京都坊目誌にその記載は見られない辻子である。本稿では、同書の絵圖を手掛かりに、現在の地図上で比定をこころみると同時に、なぜ固有名がつかずに、単に小径を意味する「辻子」のままで残ったのかを考えてみる。
 
○高畑町の辻子
 高畑町自体は京町鑑の○三條通裏町之分として

『▲高畠町 此町稲荷町より北は細道に三條へ出る也』

下の町家明細の高畠町絵圖を見れば、京町鑑に云う三條へ出る細道は件の辻子ではない。この道は高畠通といい、北は進之町で行き止まりであるが、西に曲がって城安寺辻子を北へ行けば三条通には出られる。現在の地図で示せば,
その右の通りである。
1-11-2.jpg
 件の辻子は、上の高畠町絵圖(左が南)に見えるように、高畠町南端から知恩院領内の古門前通に抜ける小径である。
京都坊目誌の下京第八學區之部▲高畑町の項には

『進之[シンシ]町の西南にありて、南北一町の街なり。南は古門前に通じ、北は唐戸鼻町より西長光寺に通す。元禄十三年開地也』

さらに、町名起原に『開坊以前、高畑と云ふ耕地の字なりしと。』とある。
 古門前通は慶長八年開通したと坊目誌首巻の「竪通 賀茂川以東」の所に記載されており、その道筋に四町、石橋町・古西町・三吉町・元町の名が見られる。いずれの町も『寛永年中知恩院擴域の時、田圃を填め』開通したともある[註]。しかし寳永以前は道路の左右は田畠であったというから、高畑町南部から古門前通までの一帯は田園1-3:写真:高畑町ー古門前辻子菜圃だったことが窺い知れる。高畑町から古門前通に通じていた道は畑道で、古門前通開通にともなってぼつぼつ民家が建ち始めて、往来する人もでてきて「圖子」と称される小径となったのだろうが、町通にならないまま、今日に至ったようだ。
 右の写真に見えるように、現在もこの辻子の道巾は、高畑町通に比べて狭く、江戸時代と同じままに残ってきたようだ。京都市認定道路名も、高畑町通は「粟田経16号線」、辻子は「有済経2号線」と別名となっている。

[註]この古門前通りの開通年については「京都市の地名」(日本歴史地名大系27, 平凡社, 1979)では、上に引用したように坊目誌の首巻の『慶長八年開通』と云う記載と矛盾するというが、「慶長八年」は道路の開通であり、「寛永年中」は町の開通をいったものである。▲元町の町名起原に

『寛永新開の當時[町名を]新道と稱す。新門前通りを開くに及び、古門前前と稱し、寶永年中民坊を造る。近傍諸町に先立ち早く拓けしを以て元町の號あり』

とあり、この記載からすれば、「寛永年中」というのは町の開通年をいうものである。何の矛盾もない。
 「京都市の地名」にはこのよう類いの早とちりが所 々に見られるから、引用元の史料に直接あたって確認する手間ひまがいる。


○梅宮町の辻子
 前回庚申の辻子で取り上げた梅宮町並裏畑圖(「華頂要略附録廿二巻の粟田口町家明細巻四」)の中央部に町家(屋鋪)の間から下京畑(公儀御用地)へ通じている畑道が描かれている。この道の町家部分の屋鋪十一と十三に挟まれた十二には、『町中拝領地元裏畑作人道』とあり、天保3(1832)年に建屋願いが出て許可されていることが見える。
2-1:梅宮町並裏畑之圖
 華頂要略にはこの梅宮町並裏畑の絵圖が他にも3つみつかる。その中の二つに畑道に通じている町家間の道には「辻子(圖子)」の記載が見られる。
 「元文五[1740]年」の年記がある最も古い図(下図①)には、梅宮町内家敷間の道には「辻子」、裏畑部分は「道」とはっきりと使い分けられている。
2-2:梅宮町並裏畑之圖①
 二つ目の絵図(下図②)には、町家間の部分に『裏畑作人通圖子』とある。別図に朱線で溝筋を書き加えたとの記載もある。その下に「宝暦十[1760]年辰五月改」と書かれていることからすれば、別図とは、次の図③ではないかと思える。しかし、この絵図そのものの成立は、赤色の文字書き込みに『天保二年十二月』が見られることから、天保二(1831)年以降のものである。黒字の書き込みも、下京畑の書き込みに、図③の『小堀数馬』と違って単に『小堀』としか記載されていないことから推測すれば、図③の書き込みを後に改めたものであろう。
2-3:梅宮町並裏畑之圖②
 この道には町通からの入口と下京畑への入口に「スド」と「須戸」とかかれているが、これは。仮戸のことであろうか。いずれも仕切戸が描かれている。
 次の「年紀不詳」の絵図は、前述したように下京畑に京都代官小堀数馬の記載のあることなどからして、18世紀中頃、1760年前後の絵図(下図③)であろう。屋鋪間の道に辻子の記載は見られないが、裏畑部分は「裏畑道」とあり、町通からの入口に「入口 畑道木戸」、下京畑への入口には「スド」記載し、両方に仕切りが描かれているのは図②と同様である。文字の書き込み以外、土地の区画そのものは図②と全く同じと見てよい。いいかえれば、図②は図③に赤線で溝筋を書き加えたものである。
2-4:梅宮町並裏畑之圖③

 以上の四つの梅宮町・裏畑の絵図を眺めて、この辻子の有り様について考えてみると、梅宮町と下京畑を繋ぐ道の、町家間の小径を「圖子」と称していることがわかる。このような例は、三条通から北へ字東田中の畑地に続く道の東町・今道町に接する部分を源右衛門辻子(づしづくし64)と呼んでいたのと同様である。そこでは畑道全体は田中辻子と呼ばれていた。
 しかし、梅宮町のこの辻子と畑道とは、固有の名称をもっていなかった点で異なる。梅宮町が成立した頃には、旧来の畑道の町家が立ち並んだ間の部分は「辻子」と呼ばれるようになったが、この小径を通る人は、公儀御用地への耕作人以外になく、出入り口には木戸が設けられていた。冒頭の町家明細書の絵図にあったように町の拝領地となって、耕作人も通らなくなり、辻子そのものは消滅状態で幕末に至ったようだ。
 それに対して三条通から字田中に通じていた畑道は、南禅寺の松並木道に通じていおり、また粟田焼きの陶工たちが住するにつれ、この界隈以外からの人たちで賑わうようにもなり、単に「辻子」では不便で名が付けられたのである。一方、梅宮町の辻子は名前を付ける必要もないまま明治維新を迎えた。
 大正元年8月に刊行された京都地籍図で梅宮町を見ると、この辻子は完全に消えている(下)。 しかし不思議なことに、この小径は、現在は、得浄明院[註]と華頂大学・短大の間に取り残された10軒余の町家への路地として、場所は少し西側に移ったが、再開通した。それにいたる経緯を各時代の地図で追ってみる。
2-5:梅宮町地籍図

[註]得浄明院は信州善光寺大本願の京都別院の尼寺。1894年に、当時は関西から信州の善光寺まで参拝することが大変だったため、「関西で善光寺如来の縁が結ばれるように」との主旨で建立された。この地はもと知恩院入道親王の住坊であった華頂殿跡。

 まず、梅宮町並裏畑圖に記載されている屋鋪番号「壹から廿二」と梅宮町の地籍図の地番「四七二から四八九」の対応関係を、両図の各区画の形を見較べることによって探ってみると、下のような対応関係が見て取れる。地籍図上の赤色の西洋数字が、梅宮町並裏畑圖の屋鋪番号で、その右の表に屋鋪番号との対応示した。
 図中に茶色で書き入れた道筋が、梅宮町並裏畑圖の「元裏畑作人道」である。
2-6:絵圖の屋鋪番号と地籍図の地番との対応

 大正元年八月(1911)の地籍図に次いで、昭和二(1927)年の京都市明細図(縮尺1/1,200 長谷川家住宅所蔵)の梅宮町の部分をみる。一帯の再開発によって、多くの区画が細分され、多くの民家が軒を連ねているようになった。それにともなっていくつかの路地が通された。そのうちの一つに、「元裏畑作人道」の復活ともいえる小径も、旧道近くに新たに開通したことがわかる。 
2-7:梅宮町京都市明細図(長谷川家住宅蔵)

 次に、保険料率の算定のため、この京都明細図に昭和のはじめ頃から30年頃まで、家屋情報を現地調査し書入が行われた、いわゆる「火災保険図」の昭和26(1951)頃の版を見てみる。     
2-8:梅宮町昭和26年火災保険図

 梅宮町並裏畑圖の屋鋪番号で12と13が地籍図地番480として一筆となっていた区画が、再分割され屋鋪番号12の辻子であった部分が間口の狭い京町家に変貌している。
 最後に、現在の梅宮町を冷和5(2023)年の全国地価マップで見ると、屋鋪番号12と13は積水ハウスの賃貸住宅「シャーメゾン柊」とパーキングにかわり、その南の梅宮町は華頂大学の敷地に変貌してしまう。これで完全に、元辻子だった地は跡形もなく消滅した。
その様を航空写真で地図の下に掲げた。
2-9:梅宮町全国地価マップ(令和5年)

2-10:梅宮町辻子跡航空写真

 上の写真で見るように、シャーメゾン柊の北沿いの路地の奥には京町家のひしめく中には、京町屋の一棟貸の宿なども見られる。
2-11:③の「年紀不詳」絵圖の書き入れ この新しい辻子(抜け路地)の抜け先は得浄明院、昔の知恩院領である。その糸口となったのは、③の「年紀不詳」の絵図に記載されているように、知恩院が梅宮町に無断でこの道へ出る裏門を付けたことであろう。はからずもそのことが今日まで糸を引いているといえないだろうか。上掲の図③の赤色枠内の記載事項(右)に見えるように、この知恩院の裏門建設は宝暦2(1752)年のことである。

 以上くどくどと、今は無くなった辻子の来歴を延べてきたが、結論は次の通りである。
 慶安元(1648)年の開坊前には田畑が広がっていた梅宮町の地にあった畑道の一部分の両側にも町家が建ち始め、その部分が辻子と呼ばれるようになった。しかし、辻子の地は町拝領地となり、天保3(1832)年に建屋願いが出て許可され、下京畑(公儀御用地)に通じていたこの畑道も利用されなくなって明治維新となった。その後この辺り一帯は、大正から昭和にかけて再開発され、小さく分割された土地に民家が軒を並べ、その間にいくつかの路地も開通した。当該の辻子のあった側にも抜け路地が開通ている。抜け先は知恩院境内である。

○石泉院町の辻子
 石泉院町は、南北は三条通北裏より東山区の北端まで、西は東姉小路町、東は白川迄の範囲で、坊目誌によれば、開町は明和3(1766)年とされ、比較的新しい町である。名は、13世紀中頃〜15世紀中頃の文永以来応仁にいたるまで比叡山東塔の石泉院の別院がこの地にあったことによる。応仁の乱後に耕作地となり、石泉院が字名となった。開町にあたってもそれが町名となったとしている。

 宝暦12(1762)年の京都町鑑の末尾に、『○三條通の北裏東は南禪寺のまへ黒谷道より白川橋の西へ一町東西三町餘り新立の町』という項に『黑谷道寄り西へ ▲石泉院町』とその名だけが出ているが、これからすれば、石泉院町は、坊目誌に記す明和3(1766)年以前に開町したということになる。例によって「京都市の地名」(日本歴史地名大系27, 平凡社, 1979)が、明和再版の「京鑑」を引用して坊目誌に記す開町年と矛盾はないとするのは誤りであろう。
 それはともかく、例によって華頂要略附録24巻の石泉院町之絵圖[註1]を見てみると、この町は三条通北裏の両側に18ヶ所の屋敷地が南北に整然と並んだこじんまりとした町であることが分かる。全体図を下に示したが、三条通北裏の東端と西端の近くに二本の南北の道がついている。
3-2:石泉町全域絵圖(修正)

 東の一本は、づしづくし59で取り上げた三条通に抜ける紙屋辻子である。一方、西の一本は、岡崎村領畑際の溝筋[註2]南側の東西の細道に通じている。図中に「圖子道巾間半」とある。おそらく開町以前の畑道が屋敷間の通りに変貌して辻子と称されるようになったのだろう。屋敷十の説明冒頭に、『北ハ圖子』ともある。人通のない小径であることに変わりはなく、町通に変貌することなく現在に至っている。現在の地図を下に示したが、当該の小径に通称もなく、京都市の認定道路名は「粟田経14号線」とされている。因みに溝筋の道はこの辻子を境にして西が岡崎緯18号線。東が岡崎緯14号線である。辻子の現況の写真はその下に掲げる。
3-3:現在の石泉院町

3-4:現在の辻子写真

[註1]ここに掲げた下の石泉院町の絵図は、原図の東端の部分(下左)を、以下の理由で修正したものである。
 北東端の十八番の屋敷地の形状は図を一頁に納めるため変形されており、白川の流路も屈曲せず南西方向に一直線で描かれている。
 本文の十八番の町中持ちの地(下左)の説明には、下図の真ん中のようなより正確な見取り図が掲載されていた。この見取り図を参考にして、東隣の堀池町の町絵圖の西端部分(下右)を原図の東端部分に置き換えたものである。
3-5:絵図集成用資料

[註2]現在の白川の流れは石泉院町北東端を南西方向に通過し、三条通を縦断して、知恩院北西端で西へ向かい鴨川に流入している。しかし、江戸初期以前ではこの白川の本流は、石泉院町北東端を西へ孫橋から賀茂川に直接流入していた。現在の白川は「小川[こかわ]」と呼ばれた小河川であった。
 華頂要略57巻に古図の写しとして「中古白川之圖」というのを載せている。これと同書の華頂要略編者の進藤為善(為純)の描いた「當今之圖」を比較してみるとこの違いはは一目瞭然である。 
3-6:中古白川之圖

3-7:當今之圖

 森幸安の歴史地図「城池天府京師地圖」には、「こかわ」と「白川」両方の川筋が描かれ、なぜ「こかわ」が「白川」の名に変わったのかの説明が地図中に書き込まれている。
3-8:森幸安点天府京師地圖
『河東 賀茂川以東を河東と曰う。其の高燥の地を東山と呼ぶ。是舊白川と謂うは之地也。凡そ白川と曰は、其の境太廣。南北之稱あり。昔白川の水、西流して姉小路末に於いて賀茂川入る。この流れを限って北を北白川、南を南白川と云う。[割注]今三条以南白川の流れはその支流にして、昔は小川と云う。故に古記に小川の法師、信西の娘小督局等あり。是小川の地に住すをもって名づくもの也。豊太閤天正年中三条橋を造る。其の辺の地是より高燥と為す。一年の洪水に流勢小川筋に落ち、是に従い本流絶え、支流の小川、遂に白川と呼ぶもの也』(下線は筆者)


○柚之木町の辻子
 柚木町の町名は、 宝暦12(1762)年の京町鑑に、『○三條通の北裏東は南禪寺のまへ黒谷道より白川橋の西へ一町東西三町餘り新立の町』という項に『黑谷道寄り西へ ▲柚木町』と出ている。
 京都坊目誌には「柚之木町」としてあがっているが、簡単に『舊と耕作地にして柚之木と字す。開坊の日、採て町稱とす』とあるだけで、その年月は不詳としている。
 華頂要略附録24巻の柚木町之絵圖に三条通りの位置を書き加えたものを下に掲げる。
4-1:柚之木町絵図
 中之町との境界を三条通の一筋北のから東へ、定信院角までに通じている小径に『圖子道』と明記されているが名はない。
 元和二(1616)年開基の定信院は、柚之木町の北に食い込んだ中之町にあり、この近辺は早くから拓けていたと思われ、他の高畑町等のように畑道が辻子に成ったとは謂い難い。この辻子北側の借地に民家が建った際にでも付けられたものではなかろうか(土地番号十二から十四の地の説明文に『拝借地 田芝屋』とある)。
 中之町部分を含めたこの定信院の一画の建屋配置を示した図を右に載せる[蛇足]。赤色の破線が両町の境界である。定信院の表門・裏門ともに広道にあり、この辻子は定信院への小径ではない。なお、定信院の表門・裏門は中之町之絵圖には描かれていないが、柚之木町之絵圖に描かれていたのでこれを参考に書き加えたものである。
4-2:柚之木町と中之町
 この辻子以外に出入り口を持ってないのは、柚之木町の建屋十四だけである。辻子に接している他の町家はいずれもこれ以外にもより大きな道に接してしているから、辻子に出入り口があったとしても裏口であろう。行き止まりのこの辻子の主な用途は建屋十四の出入りだけに必要だったことは明らかである。町通にはなりえない袋小路である。この点が、ここで考察してきた他の名無しの辻子との大きな違いである。

現在の状況
 この辻子は幕末から維新にかけて、消滅したのだろう。その後のこの界隈(以下の地図で赤色の破線で示したエリア)の変わりようを、様々な地図から追ってみる。
 大正元(1911)年刊の地籍図には、辻子北側、定信院のあった西側の一画全体が辻子部分も含めては二筆の地(地番三五三と三五四)に統合されている。さらに昭和二(1927)年の京都明細図(長谷川家所蔵)では、それも一筆となり「山田邸」という大きなお屋敷に変貌していた。辻子の痕跡もない。ただ定信院の南西角の凹んだ部分が、辻子の先端部分に相当しているのかもしれない。
4-3:地籍図と明細図
 その後に、この地は再開発され、現在では中央に鍵形の路地が開通し、両側に多くの民家が軒を連ねている(下左の冷和五(2023)年全国地価マップ)。江戸時代は五軒、現在は十九軒。現在の路地様小道の開通は戦後すぐのことと思える。下右の地図は、上右の京都明細図を下敷きにして新しい家屋を描き加えた昭和26(1951)年頃の「火災保険図」であるが、ここにはすでに鍵形の路地が描かれている。
4-4:地価マップと火災保険図
 
最後に上空からの写真を掲げる。
4-5:上空からの写真

まとめ 
 4つの無名の辻子の有り様の違いをまとめ、そのそれぞれに行き先に因んだ名前を付けてみよう。

1高畠町の辻子 
 この南北の辻子は高畑町の南端から知恩院領内の古門前通に通じている。辻子そのものは青蓮院領にあるわけでないので、知恩院領からみた行き先として「高畠の辻子」とする。

2梅宮町の辻子
 梅宮町内の公儀御用地「下京畑」に通う耕作人のための辻子である。簡単に「下京畑の辻子」とする。

3石泉院町の辻子
 町内の2つの東西の道を繋ぐ辻子で、行き先の溝筋は岡崎村領に接しているが、辻子は岡崎村には通じおらず、溝筋で行き当たりである。この溝筋が旧白川の堰堤の残りだと思われるので「白川溝の辻子」とする。

4柚之木町の辻子
 町内の袋小路の辻子であり、北側に接している土地(柚之木町の項冒頭の絵圖に見える十二から十四の地)の拝借地の住人の名をとって「田芝屋の辻子」とする。

[蛇足]
 中之町の絵圖に描かれた柚之木町の北東部に食い込んでいる部分が定信院であるが、中之町の絵圖に描かれた定信院の境内部分に、境内に民家が四軒かあることが記されている。
 辻子とは直接関係はないことではあるが、何かの参考になるかと思って翻刻し、柚之木町の絵圖の赤の点線枠内,
定信院の境内にあったとされるの四軒の民家とともに書き入れた。
4-64-7.jpg

 柚之木町の絵圖には、中之町之繪圖には描かれていない表門と裏門とが描かれていて、説明文通りに三軒の民家と小庵を境内に比定することができたのである。いずれも東側の広道(岡崎通)に面している。辻子はここ迄は届かず行き止まりである。






づしづくし 67 庚申辻子 旧名山伏辻子/ Part 6 三条川東 その18

づしづくし 67 庚申辻子 旧名 山伏辻子

 京都坊目誌下京第八學區之部 ▲梅宮町の町名起原の項中に

 『此の町北方の小街を庚申ノ辻子、又は山伏ノ辻子とも呼ぶ』

と簡単に記す。一方、京町鑑では、梅宮町は川東[鴨川の東]の部の智恩院古門前通の項に出てくるが、『此の南の辻は知恩院黑門前へ石橋へ出る也』と記すのみである。
 梅宮町は、三条通の白川橋の南西、白川東岸沿いに、三条白川橋下る土居之内橋から、古門前上る一本橋までの細長い領域を占めている。
 華頂要略附録廿二巻の粟田口町家明細巻四の梅宮町の絵図を示す。この図の左下に「庚申橋」、左上に「庚申門」とあるが、この絵図には「庚申ノ辻」の記載はない。
1:梅宮丁全域

2:梅宮町町家廿二の説明 しかし、町家廿二番の説明に『北者庚申辻子限』と書かれていることから。梅宮町と五軒町の境の道が庚申辻子であることは明瞭である。左に絵図の該当個所の拡大図とともに町家廿二の説明文を示す。庚申橋は現在の土居之内橋のことである。
 京都坊目誌にあるように、この辻子が庚申の辻子、あるいは山伏の辻子と呼ばれていたのは、下に示したこの界隈の見取り図から容易に分かる。この見取り図は、華頂要略本巻57中の「當今の圖」から作成したものである。
3:庚申の辻子界隈 辻子名の由来を知るキーは、金蔵寺と尊勝院とにある。
 金蔵寺は明治初年に廃寺となり、尊勝院に合併したが、金蔵寺には庚申堂があリ、堂内には三猿の像を祀っていたので三猿堂ともいった。『俗に、金蔵寺とは唱えず粟田の庚申堂と呼んでいた。維新前には毎年庚申の日には都下の士女群衆せし』と京都坊目誌にある。廃寺に当たって庚申堂は無くなり、像は尊勝院の本堂内に移されたが、同書に『詣人稀なり』と書く。よって、往時は「庚申堂」に詣でる道として「庚申道」あるいは「庚申ノ辻子」と呼んで人通りの多い辻子であった。今では、尊勝寺も粟田神社の背後の山に移転して本堂に三猿像は祀られているものの、訪れる人は皆無であるといってよい。尊勝院の簡単な歴史については[註:尊勝院]を参照のこと。
 一方、「山伏ノ辻子」という呼び名は、比叡山の阿闍梨陽範の開創した尊勝院にある元三大師堂に、比叡山で千日回峰行を終えた行者が京の町に入る時、まずこの道を通って元三大師(良源)に報告したことによる。
4:御猿堂・元三大師(花洛名所図絵) 上の地図を景観図にしたものが花洛名所図絵にある。右に掲げる。
 當今圖の通り、庚申(山伏)の辻子から金蔵寺の門を潜って、奥の茶所の向かいにある「御猿堂」に向かう。その右前方に元三大師を祀る尊勝院の本堂が階段の上に描かれている(當今圖の南北を逆さにしてみると理解しやすい)。
 しかし、江戸時代以前では、そうではなかったようだ。16世紀中頃の洛中洛外の景観を描いた上杉本洛中洛外図屛風の右隻三扇に「見さるきかさる」と書かれた建物が「しやうれん院」の左下に描かれている。その続きの四扇に「あわた口」と書かれた下に門が描かれている。三条通からこの門(當今圖では「表門」と記載されている門?)を潜った先を右に折れれば、庚申堂(「見ざる聞かざる言わざる」の三猿堂)である。16世紀中頃には、三条通から庚申堂へのアクセスが存在していたのである。當今圖にもその道筋は存在しているが、今でもその痕跡ぐらいは残っていないだろうか。
5:上椙本洛中洛外屏風(金蔵寺)

 件の庚申の辻子は洛中洛外図屏風では金色の雲の下に隠れているのか、それともそもそもなかったのか不明である。しかし華頂要略附録拾八中の下に示した絵図「法皇寺境内並天部村知恩院境内等境目」に記載されている『庚申辻子旧名山伏辻子』は一つのヒントを与えてくれる。
6:庚申辻子旧名山伏辻子

「山伏ノ辻子」が旧名であったということは、そもそも白川から東へ入って庚申堂へ詣る道はなく、庚申堂へは三条通から詣っていたのである。
 下の1654 (承応3)年の「新板平安城東西南北町并洛外圖」がそのことを物語っている。「梅のミや丁」から「庚申」へ通じる道は描かれていないが、「西丁」から南に入り右折して庚申へ詣る道が明確に描かれている。
7:新板平安城東西南北町并洛外圖

 白川東岸からの道がいつ頃開通したか不明であるが、尊勝院にある元三大師堂に、千日回峰行を終えた行者が詣るためにの道で、当初は山伏の辻子であった。
 時代が下がるにつれ、三条通南側の西町の民家裏には青蓮院門下諸家が立ち並ぶようになり、三条通から庚申堂へ詣る道が使われにくくなり、山伏の辻子から8:西町之圖庚申堂に詣る庶民が増え出して、庚申の辻子と呼び慣わすようになったのではなかろうか。
 「華頂要略附録の「西町之絵圖」では、西の杓子屋辻子から東の青蓮院の「御門」までの道が描かれてい
ない。この部分を点線で書き入れた。
9:旧庚申辻子の東西部分(西並河家絵図より) 寛保2(1742)年、西之並河家が御門内に賜った宅地の絵図(右)を見ると、西の杓子屋辻子より東へは入れなくなった様子が窺える[註:梅宮町町家廿に番の説明中の上納地との関係]。
 過渡的に、三猿堂へは三条からの庚申道と白川からの庚申道(山伏の辻子)の二つが利用されていたこともあったろうが、18世紀末からは、「庚申の辻子」と呼び慣らわされた白川の土居之内橋からの道が、尊勝院と金蔵寺の両方に詣る道となったのである。
 當今圖に描かれていた三条通から庚申堂への道筋の跡は、三条通神宮道を下がり、三条通南裏で西に折れて杓子屋辻子の跡と推定したロイヤルマンションの西側を過ぎ、三条通南裏の西端への道筋として比定できる。その分かり易い地図として、尊勝院移転直後の大正11年の京都市都市計画図にみることができる。
 最後にこの図に、必要な説明項目を書き加えた図を掲げて終わる。
10:大正11年都市計画図

[註:尊勝院]尊勝院は平安時代の保延年間の1136年、陽範阿闍梨が、比叡山・横川に、尊勝坊を開創したことに始まり、鎌倉時代、正和年間(1312-1317)、三条白川橋東南一帯(青蓮院三条白川坊裏)に移されたという。室町時代、1476年、応仁・文明の乱(1467〜1477)により焼失し、その後、荒廃するしていたが、安土・桃山時代、文祿年間(1592-1595)、豊臣秀吉により本堂が再建され、以後江戸時代を通じて、青蓮院の院家(門跡寺院別院、本寺の補佐、法務を行う寺院)の一つとしてこの地で栄えた。
 上図に見えるのがこの地で、元三大師(良源)を祀ることから、「元三大師堂」、「元三堂」とも呼ばれた。
 境内に多賀社が見えるのは、江戸時代、1607年に、当時の住職・慈性入道親王が、徳川家康の命を受け、多賀大社別当職に就いて多賀大社の復興造営したこと関係したものであろう。
 梅宮は、往時祇園末社で、もとは梅宮町にあったが、人家が立ちこみ町地となっていたが、尊勝院内に移された。洛西の梅宮に対して東梅宮という。

[註:梅宮町町家廿二番の説明中の上納地との関係] 
 説明文の末尾に『但此屋鋪舊並河内近居屋敷 御赦免地之處元禄十三[1700]年辰七月ヨリ上納』とあるが、この記載事項からも、参拝者などの一般の通行が制限されたことが窺い知れよう。








づしづくし 66 酢屋の辻子/ Part 6 三条川東 その17

づしづくし 66 酢屋の辻子

 酢屋の辻子の名は、華頂要略の「粟田口圖子小路名目」に見られる以外の史料に見たことはない。このリストは「酢屋の図子 南
山道」で始まっていて、青蓮院領内の三条通沿いの辻子を東から西へ、順に掲げている。
 この配列順からすれば、酢屋の図子は、領内の最東端の谷川町を南へ行く小径であろう。前回にも記したように粟田東三1:當今之圖の酢屋の辻子町組といわれていた谷川町・東分木町・今道町の三町の粟田口町家明細の巻が欠損しており、その位置を確定できる手掛かりがないが、これも前回にすでに述べたように、領内全体図の「當今之圖」や「京都明細大絵図」でその位置は検討がつく。右に當今之圖の該当個所を再掲しておく。
 ここでは、御領内東部の三条通以南の華頂畑と称された3つの同じような絵図から、酢屋の図子と思われる道筋を見てみよう。
 華頂要略附録拾八御門跡領一の「○華頂畑」の谷川町東部の絵図を下に掲げる。
2:○華頂畑
 確かに三条通から南へ入る谷川町町家沿いの小径が百々橋の西に描かれている。町家を抜けた所に瓦師の居小屋、瓦干場、竃などがある。そこが「秋の山」の麓であることもわかる。
 この小径が出くわしている東西の道は、前回議論した夷ヶ坂である。
 次は華頂要略附録廿五御門跡領粟田口之部十一の「華頂畑之圖 年号不知」と題された絵図である。これにもまた、明瞭に三条通より町家を通り抜け、瓦師治右衛門の屋敷に通じた小径が描かれている。
3:華頂畑之圖 年号不知

 さらに絵図年代を記した「華頂畑圖 天保」が見つかる。これにも百々橋が描かれ、之より東に三条通から南に入る道はない。この小径が粟田口圖子小路名目に「酢屋の辻子」とし記載されている小径であることに間違いなさそうだ。
4:華頂畑圖 天保

 さらにこの上記の三つの絵図に描かれている小径が「圖子」であることを明瞭に示した史料が、同じ「華頂要略附録廿五御門跡領粟田口之部十一の末尾にあがっている「瓦師細工所之事 華頂畑之内」である。
 この史料に添付された見取り図では、件の小径を「圖子」と記載している。この願書が出された年は、宝暦4(1754)年戌の九月である。下にこの見取り図を掲げる。
5:瓦師細工所之事 華頂畑之内
 この図から見れば、この辻子は三条通から南へ畑道までの短い区間をいったものであろう。谷川町に属した部分には町家が、それより南は畑であったと想像できる。従って名前の「酢屋」は町家の一軒に由来したものとの推定も許されようが、確証はない。
 明治以降この小径はどうなったのか。付近一帯は琵琶湖疎水が完成し、さらに蹴上げの水道施設ができて一変したことからして、消滅したことは分かるが、その直前の信頼できる地図としては、今までに何回も引用してきた「従滋賀県近江国琵琶湖至京都通水路目論見実測図」がある。該当個所を目を凝らしてみると、杓子屋辻子辺の三条通の南に畑を挟んで、6:水路目論見実測図町家が並んでいる所があり、西側の町家境界線が太い実線で表現されている(青く網かけした部分)。この町家、あるいは東側の町家沿いに小径がまだ存在していたことは十分にありえる。
 次に、明治45年4月に琵琶湖第2疏水及び蹴上浄水場が竣工した直後の大正元年8月に刊行された京都地籍図の下京區之部で、「元八組ノ内 東分木町・西小物座町・東小物座町・谷川町」を見てみると、三条通南側の該当個所付近は、西側は水道用地と記された空地で、東に三軒の民家が残されている。水道用地と民家の間に道路がある。民家と民家の間の鍵形の道路は行き止まりである。
7:京都地籍図
 最後に、現在地図上でこの二つの道路の痕跡をさがす。その手掛かりは「スミトン」の地図にある。スミトンというのは、京都市上下水道局の公共下水道台帳管理システムの愛称である。その最終更新日は2023年3月29日、縮尺は1/500。
 スミトンには、付8:スミトン設下水管の流路が描かれており、該当個所を見ると、地籍図で見た民家沿いに、緑色の合流式下水道の管渠が二本付設されているように思える。
9:スミトンと地籍図の重ねあわせ 二つの地図を重ね合わしてみると、確かにこの2つの下水管は、地籍図の道路下に敷設されている(右)。
 このようにして、地籍図の道路図は信用に足るものであることが分かるのだが、地籍図の鍵形の袋小路ではなく、広い方の小径が「酢屋の辻子」の痕跡であったと見てよいだろう。
 地籍図の小路とスミトンの合流下水の暗渠を現在地図上に書き入れた図を下に示す。
10:現代地図上重ね合わせ図

 ウェスティン都ホテル京都や蹴上げ浄水場の下に消えてしまった夷ヶ坂の辻子や酢屋の辻子がどこまでをそう呼んでいたのか、現在の地図では明確にできないないその因は、三条通南裏が仏光寺より先で消滅しているからである。この道筋は、現在の三条通に付け替えられた旧東海道にあたっていた。以下、旧東海道の仏光寺より東の道筋の推定を試みる。
 手掛かりは、日向大神宮の一の鳥居にある。この鳥居は、三条通の蹴上浄水場直下の東小物座町内から日向大神宮へ向かう神明道の入口にある。日向大神宮は、前回の夷ヶ坂の辻子で引用した雍州府志巻2(貞享3,1686年)にある粟田口神明社のことであるが、古くは「康富記」の宝徳三(1451)年九月二十九日甲子の条に『粟田口ノ神明社有湯立参詣拝見了』と出てくる神社のことである。
 山城名勝志(正徳元年,1711・宝永二年序)巻十三の粟田口ノ神明の項の割注に『土人云う、當神者應仁亂中爲烏有而慶長十九年[1614年]九月朔日野呂左衛門尉宗光依靈夢再造』とある。この社が粟田口のどの地点にあったかを明らかにできる中世の史料はないが、瀬田勝哉「増補 洛中洛外の群像」(平凡社, 2009)のⅡ洛中洛外の時代「伊勢の神をめぐる病と信仰」の中に、旧東海道との関連について次のように書かれている部分がある。

『問題の日向神社は、現在蹴上浄水場のすぐ東側、京都三条から東へ向かう旧東海道が東西方向から大きくカーブし、山道にさしかかるまさにその地点に位置している。そして神社の一ノ鳥居の所が、かつての粟田口として弓屋・井筒屋・藤屋など有名な茶屋があったところだともいわれている。また社地は現在左京区・東山区・山科区の三行政区にまたがっている。これらのことに見られるように、この社はまさしく境の上に位置しているといってよい。とすれば、日向神社=粟田口神明社こそは、その前身が境の神=道祖神であった可能性が強くなる。粟田口神明社は「為 唱門等均」といわれているが、境の神を祀る唱門師(声聞師)らの存在を想定することはたやすくまことに合点のいくことといわねばならない。このように粟田口神明社の場合にも勧請された場には固有の意味があったのである。』(p.309)

 この引用文の後半部は、ここでは直接関係がないが、康富記の「湯立」記事や粟田口神明社が「為 唱門等均」の性格を持つ特殊な神社として伊勢の神明が勧請せられた「今神明」であることは、東海道の粟田口を考える上で大変興味深い視点であると思う。興味があれば、同書の「永享十年 洛中洛外神明」(p.300)全体を参照されたい。
 され本題に戻って、この日向大神宮の一ノ鳥居のある所は、神明道との分かれ道であり、この周辺以南の東海道は旧来の道筋のままである可能性は大である。
今道町: 新板平安城東西南北町并洛外圖 東海道の旧道に対する新道の意味で開町した「今道町」の名が見られる最も早い時期の地図の一つは承応3(1654)年「新板平安城東西南北町并洛外圖[刊記: 「承應三年甲子五月吉日 板元 北山 修学寺村 無庵」]」である。絵図中白丸で示したのが「今道丁」でその東側の「丸ヤ丁」は後の「中ノ町」である。
 文献としては延宝2(1674)年の「四方洛外町続之覚」に青蓮院御領分粟田口の一つとしてあがっている。
 粟田口神明社が再建された江戸時代初期前後に新道に付け替えられたと見てよいだろう。
 以下、神明道の少し北あたりで旧東海道が、現在の三条通(府道府道142号)につけかえられたと考えて、仏光寺先から東の旧東海道のここ迄の道筋を次のように推定してみた。
 ウェスティン都ホテル京都と蹴上浄水場が完成後の大正11(1922)年の京都市都市計画を用いた。この都市計画図には、20m間隔の等高線が詳細に書き入れてあるのを利用して、旧東海道の仏光寺さきの地点と神明道との間で回り道で無く、できるだけ昇り降りが容易であるルートを選定した。この区間で現在の東海道は華頂山の裾を迂回しているが、推定した旧東海道は中腹の76mの等高線をなぞったものとなる。そのため距離は短縮されているが、高度60mにある仏光寺から急坂が、今道町に該当する部分で続くことになる。一方、付け替えられた東海道は、道路上に記された高度の数値を見ると 55mから64mの蹴上直前までだらだら坂になっていることがわかる(東分木町の道路上に記載された青色で網かけした数値「79.88」は等高線から見ると誤記であろう)。
旧東海道推定図
 このように推定すると、なぜ「今道町」の名前がこの部分に付けられたかが、何とはなく分かる。
 結果、夷ヶ坂の辻子や酢屋の辻子の南端は、推定した旧東海道であったと思える。この二つの辻子を、現在の国土地理院の地図上に他の辻子と共に記載したものを下に示す。

辻子地図:神宮道より東

 酢屋の辻子は、三条通からの蹴上げの浄水場へのアクセス道路の敷地となって消えてしまったことが分かったが、その名の由来等、来歴は闇の中である。


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