洛中洛外 虫の眼 探訪

<洛中洛外虫の眼探訪 づしづくし>

づしづくし
1 出雲寺辻子廃印 2 かせが辻子 3 妙覚寺前辻子新発見 4 無学辻子再発見  10 かいやの辻子横でなく竪の辻子 11 後藤辻子  12 畠中つし改め 久齊辻子  13 道正辻子
<まとめ1>  上京区北東部=横道はすべて辻子=
14 柳之辻子 付「柿ぞの図子」 15 風呂の辻子「風呂」は「風炉」か?
番外 <突抜>考

 

づしづくし 15 風呂の辻子 「風呂」は「風炉」か?

 京町鑑に
 『▲室町頭 北半町南半町二町に分る此北半町東入る
  ○町は柳辻子也叉南半町西入町を
  ㋵風呂辻子 西半町東半町にわかる』

 室町頭町は明治元年に北半町と南半町が合わさってできた。北半町東入るのが柳辻子で、南半町西入るのが風呂辻子であるというから、北半町と南半町の境界が両辻子間にあったということである。実際、現在でも柳辻子と風呂辻子は、室町通で筋違いになっている。室町通の路面にある近接した2つのT字路マークが、そのことを如実に示している。
1筋違いの柳と風呂辻子

2洛中絵図(国会)風呂辻子 江戸時代の絵図ではこのことを明瞭に確認できる。右は国立国会図書館デジタルコレクションの洛中絵図の該当部分を複写したものである。
 風呂辻子自体も西半町と東半町の二町に分かれていた。その境界となっている衣棚通は、北側が木下突抜町で、信楽の辻子ともいった。南側は裏辻子町であった。これは延宝町鑑にはしばの辻子という名で出ているという(京都坊目誌上京第二學區「木下突抜町」の項)。
 この交差点もまた筋違いとなっている。風呂辻子西半町・東半町と裏辻子町の三町は明治2年に合併して、いまでは「裏風呂町」である。
3風呂辻子東・西半町

 風呂辻子の名の由来についてちょっと考えてみよう。

 「新京都坊目誌」と名打った「我が町の歴史と町名の由来」という本がある(木崎清之助編、京都町名の歴史調査会発行、1979)。その上京区(上)の「裏風呂町」の項に次のような馬鹿げた記述に出くわして驚いた。
『町名の由来がはっきりしない。
 それらしいものとして、古くはこのあたりを裏のつじと呼んでいた時代があった。うらのつじがふろのつじに転化したのではないか、という程度のものである。
 原形として裏という言葉が残っているが、いずれも決め手となるようなものはない。』
 合併町名であることは、ちょっと調べれば、分かることを…。絶句。
 上の京都坊目誌の「木下突抜町」の読み方も誤っている。
 『この町は延宝町鑑に、しばのずし、という名がつけられているし、別に信楽のずし、とも呼ばれていたこともあった』
と新京都坊目誌は記すが、本物の「旧」京都坊目誌の原文は、
『此町一に信楽の辻子と云ふ延寶町鑑に此南しばの辻子と書けり。』
である。
 閑話休題。本題に戻る。

 新屋隆夫「堺陶芸文化史」(同朋舎、1985)には「堺市史」を引いて
『西村宗全、通称善五郎、祖父宗印、父宗禅(宗善)大和西の京の人、土風炉及び春日社の祭器製造を業とした。宗禅に至って堺に移住、土風炉を業として世に用いられる。宗全上京し下京天神辻子に住む。細川三齊、小堀遠州に用いられ三齊の薦めにより室町頭に移った。今其地を俗に風呂辻子と称す。』
とある。京都坊目誌下京第廿一學區之部の「五條ノ陶磁器」の項には
『是より先西村保全出ず。其先土風爐師なり[奈良風呂と云う上京風呂辻子に住す]通稱善五郎陶鈎軒と號す。油小路一條に住す。専ら磁器を製す。殊に明の永楽年中に作りし錦襴様を好み、之に倣ふ。故に氏を永楽と號す。』
 保全は西村姓を廃し永楽家として、現在に続いている。「風爐」は「風呂」とも書かれることがわかる。となれば、風呂辻子の風呂は「おふろ」の風呂ではなく、「風爐」であり、「堺市史」にあるように「風爐師」が住していたからそう呼ばれていた、と云いたくなるが、ことはそう簡単ではなさそうだ。
 保全の先祖、西村善五郎家が奈良・堺から京へ居を移した時期と京での居住地の変遷についてもう少し子細に見る必要がありそうだ。その参考資料としては、中ノ堂一信「京都窯芸史」(淡交社、1984)の「永楽家の歴代 — 保全・和全を中心に —」の章中の(二)から(四)144頁から154頁が、要を得ている。
 永楽家の家伝「陶工永楽家累代系統記」によると、『宗全ハ泉州堺ヨリ京師二移り初メテ京師ニ住セシナリ 下京六条東洞院ノ辺ニ天神ノ図子卜云フ所アリ此ノ所ニ住ス』と記している。その後、細川三斎(1563〜1646)の取立により上京の風呂辻子に移ったという。
4法号と没年 ところが「京羽二重」(貞享2年版)に「奈良風炉屋 車屋町通五条上ル町」と出ているし、1697(元禄10)年刊の「茶湯評林大成」にも『奈良風炉細工人 京東洞院と高倉とあひ町五条より四町下ル町 奈良屋宗全親 同善五郎子』とあるという。五代宗栓(左表の法号と没年を参照)とその子の六代善五郎宗貞の代には、まだ下京に住んでいたということである。
 1745(延享2)年版の「京羽二重」に『奈良風炉所 上京古木町 善五郎』とみえることからすれば、善五郎家が上京に越したのは、六代善五郎宗貞の晩年か、七代宗順になってからと推定される。1762(宝曆12)年の京町鑑にも寺之内通の▲古木町の項に『此町に奈良風爐師善五郎居宅有宗全共云』とある。
 家伝に、三代宗全のときに小堀遠州より「宗全」の銅印を賜し、それ以来代々宗全所用の「宗全」の銅印を用いて土風炉に捺したというから、京町鑑に『宗全共云』としているのはうなずける。三代宗全の頃に古木町に住んでいたと云うわけではなかろう。
 寺之内新町東入の横町「古木町」というのは、1746(延享3)年刷の「増補再版京大絵図乾」に現れているが、その20年前の「京都明細大絵図」では「入江殿町」と記されている。それ以前の多くの資料でも入江殿町である。一方、「風呂辻子」というのは織豊期からの町名で、すでに「元亀二年御借米之記」や「上下御膳方御月賄米寄帳」に立売組十四町(寄町分廿九町)の一つとして現れている(秋山国三編纂「公同沿革史」上巻、72頁、1944)。時代的に見ても、「堺陶芸文化史」にあるように『風炉師が住むことから風呂辻子と俗に称するようになった』とは、到底云えない。
 むしろ、「入江殿町」といわれていた町が「古木町」に変わったことの方が、善五郎家が七代宗順の頃に越して来たことになにか関係がありそうだ。実際、平凡社の「京都市の地名」573頁中段の「古木町」の説明に
『風爐師善五郎の居宅があり、風炉から(古木町という)町名が起こったともいわれる』という推測記事が見られる。
 というわけで、残念ながら善五郎家の筋からは「風呂辻子」の名の由来を明らかにすることはできない。しかし「京都府地誌 京都市街誌料一 上京 自一区至五区」の「裏風爐町」の項に
『元和頃茶博士針屋宗春此所ニ風爐ヲ鋳造ス土人乃チ風爐圖子ト称ス東西ニ分レ又裏圖子ノ一町明治二年ニ合併ス』
とある。
 「京都府地誌」は、太政官の全国的な地誌編纂事業である『皇国地誌』の編纂にあたって 京都府が提出した稿本で、1881(明治14)年〜1891年にかけて作成されたもので、最近開館した「京都学・歴彩館」にその全コピーが製本されて開架されている。古木町の項には、町名の由来として『榎ノ僵樹久シク存セリヨツテ町名トス』と明快に書かれている。先述した「古木」が「風炉」に由来するという推定は成り立たないようだ。
 針屋宗春は、安土桃山時代の茶人で上立売町に住んでいた町人。関ヶ原の役当時、当町の年寄役であった。上京中宛の元亀4年の織田信長地子銭免除の文書も所有していた(京都坊目誌上京第二學區の「故家 針屋宗春ノ址」参照)。利休門下と伝えられている。善五郎とは違って、時代的には矛盾しない。
 風呂辻子の「風呂」は「風炉」を意味している可能性が大である。


 
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づしづくし 14 柳の辻子 付「柿ぞの図子」

 京町鑑の烏丸通の冒頭に、次のようなちょっと要領を得ない説明がなされている。

『上立賣上ル所
○柳之辻子 町側西半町此町の北の横町南半町といふ也但此町をも柳の辻子と云此の町東側稲荷社有叉婦人醫師北大路大膳助殿居宅有
○柳の辻子北の行當り
▲御所之内』

1柳の辻子・新撰増補京大絵図 1686(貞享3)年の新撰増補京大絵図に照らし合わせてみると、「柳之辻子」は鍵形の辻子で、北側の東西の辻子が「西半町」、この辻子の東の行き当たりから南下して上立売通に出る辻子が「南半町」である。「御所之内」は西半町の辻子から「ふろのづし」を抜けた一丁先の行き当りにある。従って、京町鑑の一文は次のように解釈せねばならない。
「上立賣上ル所が○柳之辻子で、町側西半町というのは、此町(上立賣上ル柳之辻子)の北の横道である。此町(上立賣上ル柳之辻子)は南半町という。『○柳の辻子北』というのは柳之辻子西半町のことで、この『行當り』が『▲御所之内』である」
というふうに解釈しなければ絵図とあわない。
 「京雀」の烏丸通りの項には、明快な記述がある。
『○烏丸通 
 かみだちうり通あがる
 ○柳のづし この町のよこ町をも柳の辻子といふ西を風呂の途子といふ只二町にしてゆきあたりは御所の内といふ』

 上の新撰増補京大絵図通りである。
 「親町要用亀鑑録」に
 『立売親八町組に、枝町十八町有。皆以古町なり。(中略)柳之図子町ハ、室町柳原の通りに当る故に、昔ハ此街通ずると見へたり。』
と出ているように、この辻子名はこの西側一帯の地名「柳原」に由来している。また「柳原」の地名は、同書に『上柳原・下柳原ハ、室町通上立売より一町過て北弐町に有。古しへ此所に道の左右ともに柳の木数本有し故に土地を柳原といへ』とあるとおりである。
「太平記」に
『執事師直の屋形へ馳加る人々には、山名伊豆守時氏(中略)常陸平氏・甲斐源氏・高家の一族は申に不及、畿内近国の兵、芳志恩顧の輩、我も我もと馳寄間、其勢無程五万余騎、一条大路・今出河・転法輪・柳が辻・出雲路河原に至るまで、無透間打込たる。』(「国民文庫刊行会「太平記 全」
と出てくる「柳が辻」がこの地であると考えられているが、当時は四つ辻だったのだろうか。
柳の辻子・寛永後万治前洛中絵図 たしかに、「寛永後万治前洛中絵図」をみてみると、西半町・南半町に分かれた鍵形の街路ではなく、それぞれから東と北へ通じる街路が描かれている。南半町には「柳ノつし」と見え、北へ伸びた袋小路には「柳図子」と見えが、筋違いで十字路ではない。
3柳ヶ辻・中昔亰師地圖 森幸安が作成した「中昔亰師地圖」では、もっと東の相国寺の裏手、出雲寺河原の西隣に「柳ヶ辻」が記載されている。この方が、太平記の記述に似つかわしいように思える。
 「親町要用亀鑑録」に記載されているように、この辻子は、柳原の地に通じる通りとして開通したのだろう。中世においては、中昔亰師地圖に見えるように、現在の4柳原・中昔亰師地圖上・下柳原町よりも南の一帯であって、寺ノ内通から上立売の間で、安楽小路を西の限りとする範囲を指していたようである。さすれば、柳の辻子はまさに柳原へ出るために開通し、早くから町通化して上立売組の枝町の一つ「柳之図子町」となっていた。
 安楽小路にあった「御所之内」が言及されている意味合いが理解できる。 


付「柿ぞの図子」
 京都市中にはもう一ヶ所「柳原」がある。芥川龍之介の「木曾義仲論」に
『東軍の旗幟既に雲霞の如く、七条八条法性寺柳原の天を掩ひ戦鼓を打ちて閧をつくる、声地を振つて震雷の如し。義仲の勢、死戦して之に当り、…』
と出てくる「法性寺柳原」。「源平盛衰記」では
『轡を並べて見渡せば、七條八條の河原、法性寺柳原の、白旗天にひらめきて、東国の武士隙を諍て馳来る』
と記す。
 鎌倉後期には、北は五条通、南は八条通、西は高倉通、東は泉涌寺の範囲の地名として定着していたようで、秀吉の時代には「大仏柳原」と称されていた。江戸時代は柳原庄(村)が成立していた。
 この地には「柿ぞの図子」があった。
『「江戸期には、今の一橋小学校(1014年4月より東山泉小・中学校西舎)北側と浄心寺との間の辺りに「柿ぞの図子」があり、当時有名であった歌人で、俳人の松永貞徳(1571〜1653)の邸宅があったと伝わっています。現在は図子はありませんが、同校の西北に松永貞徳の碑が建っており、毎年11月には、学校やPTAが中心になって「貞徳祭」が行われています。」(今村家文書史料集上巻 今村家の間き取り調査より)
 「松永貞徳柿園の跡」と彫られた小さな石の碑の傍にある説明では「このあたりは柿園の図子(路地の意)と呼ばれ、貞徳が柿の木を植えて楽しんだ地。大正初年に校地が拡張して図子が消滅した」という意味の昭和42年8月付の説明があるという(「貞徳先生の旧跡を歩く」より)。
 下右の地図は校地拡張されたと記されている大正初年後の1922(大正11)年の都市計画図である。同地図には浄心寺と小学校の間を本町10丁目から大和大路に抜ける通りがあるのは、上の説明と辻褄が合わない。これは,江戸時代以来変わっていない(下左)。この道が「柿園の図子」と呼ばれていたという。
5柿ぞの図子の位置

 この辻子の名の由来となった松永貞徳の「柿園」があった場所については二説ある。一説は碑の説明にいう所の「下池田町」。これは京町鑑の「○建仁寺町通」の項の「▲下池田町」の記述『此町西側に俳諧の祖松貞徳翁の好まれし梯園有り』によった説と思われる。
 他の一説は、「上池田町」。京都坊目誌の下京第卅一學區に『○松永貞徳ノ家ノ址 上池田町に在り。今瓦師某の家是なり。之を柿園と稱し、室を吟花廊と號す。』という説である。『今瓦師某の家是なり』と極めて具体的に記述しているだけに、その信頼性は高い。さらに古くは、都名所圖繪の「柿園」の項に次のように出ている。
『柿園は妙安寺の南にあり 松永貞徳住み給ひし遺跡なり。「貞徳家集」曰く 大和大路のひんがし、大仏殿の南に地を申し請けて、柿園と名づけ、…』 
 この文中の妙案寺は、坊目誌にあるように上池田町にあった普化宗の本寺、明治4年に廃寺となっている。坊目誌に『今近藤某の宅地是なり。故近藤芳介の居也』とこれまた具体的に記すところである。都名所圖繪では、『妙安寺は蓮華王院南の門外、池田町の端にあり。虚無僧の本寺とす』とあるから、大和大路の東側にあったと考えられる。『柿園は妙安寺の南』という記述とあわせて、「貞徳家集」にいう通り、大和大路の東側、三十三間堂の南門を出た先に「柿園」はあったということである。
 地元の人が「柿その図子」と呼んでいた道は、本町通(伏見街道)から柿園のあった大和大路へ抜ける街路ではあるが、柿園があった所よりかなり南に位置しているようだ。



 
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づしづくし <まとめ1> 上京区北東部
    =横道はすべて辻子=

 京都の上京区の北半分中央一帯は、辻子の集積地帯としてよく知られている。先ずその中の最北端部である寺之内通と鞍馬口通にはさまれた地域を取り上げ、江戸時代に知られていた辻子を逐一調べてきた。東は烏丸通、西は大宮通の一筋西の大宮西裏通(竪社通)の間に、13本(碓井の説に従えば15本)の辻子を数えることができた。それらの分布状態を見てみると。上京区南の一帯に比べると辻子の集積密度は少ないものの、中世を通じて平安京北郊の都市化が進展する過程で辻子が形成されていく原初的な形態が色濃く残している地域であることが分かる。
 実際に15本の辻子を、寛永後万治前洛中絵図の街路網上に復原した図を下に示す。
辻子比定地図・寛永後万治前洛中絵図
 上図に見えるように、当時この地域には南北の街路が6本あった。西から大宮通、堀川通、小川通、新町通、衣棚通、室町通の6本で、まだ烏丸通は、相国寺に遮られていて、このエリアまでは伸びていない。その北東には上御霊神社があった。
 このエリアを突き抜けている道は、大宮通、堀川通と新町通の3本で、堀川通(天神辻子)は今宮の御旅所の裏、雲林院の南側で大宮通と合流して、御土居を突抜け洛外に通じていた。新町通は清蔵口から妙覚寺の裏を北上し、御土居の北東部を突き抜けて賀茂川に出ていた。この二本の道は、当該のエリアが都市化する以前からの古い街道筋であった。
 それに対して残りの3本、小川通、衣棚通、室町通は、このエリアが都市化する過程で、南からしだいに北へ伸びてきた道である。小川通は上御霊前通まで、衣棚通は、その一筋北で後藤屋敷にぶつかって終わっている。室町通は鞍馬口通まで達して、最後の一丁は「かいやの辻子」とよばれ、「室町頭町」は寺之内に取り残されてしまった。上立売通止まりであった烏丸通の北進は、1910(明治43)年を待たねばならなかった。そのときに出雲寺辻子は廃道となっている。
 以上6本の南北街路が基本構造となって、このエリアの都市化が進んでいった。それに伴ってこれらを結ぶ東西の街路が適宜開通していく。袋小路の川勝辻子(神明辻子)を除く9本(碓井の説に従えば11本)の辻子が、そのことを如実に示している。当時このエリア内に存在する東西の横道は、すべて辻子に起源をもつ通りであった。しかも、この辻子が開かれた契機の多くが、社寺の移転や邸宅・屋敷の建設に伴うものであろうことが、この復原図から推測される。逐一、その関係を書き出せば

 清次郎辻子と正念寺
[宗忠辻子]と興聖寺、もしくは超勝寺
 かせが辻子と旧岩栖院跡後藤屋敷
 扇ノ辻子と本法寺
 妙覚寺前辻子と妙覚寺
[御霊の辻子]と継孝院
 川勝辻子(神明辻子)と榊大神宮
 後藤辻子と後藤屋敷
 久齊辻子(畠中辻子)と養林庵
 宗忠辻子[そうく辻子]と妙連院
 道正辻子と道正庵
 無学辻子と無学寺

となる。かように、このエリアの横道のすべてが、社寺の移転や邸宅・屋敷の建設にともなってできた辻子を起源とし、その後「町」化が進展するにつれて、辻子は町通に変貌していった。町名に辻子名を残すものは、かせが辻子の岩栖院町、扇ノ辻子の扇町、後藤辻子の後藤町、畠中辻子の畠中町、道正辻子の道正町がある。
 川勝辻子(神明辻子)は、その先の衣棚通に突き抜ける前に榊大神宮が消滅し、袋小路のまま路地として今も残っているが、宗忠辻子[そうく辻子]は、早くから堀川通に突き抜けて、鍵形の「妙蓮寺突抜」に変貌している。
 一方、竪(南北)の3つの辻子について考えてみると、北進してきた町通りの先端部の名称であった辻子の名前は、町通りに埋没し忘れ去られたものも多いのではないだろうか。「かいやの辻子」の例が、その一例と考えられる。
 先述したように、「出雲寺辻子」は、烏丸通が北進して廃道となった。
 「天神辻子」については、わずか一町に満たないこの区間に成立したにすぎないこの辻子の名称が、5町の長さの全街路区間(瑞光院前町・天神北町・上天神町・下天神・寺之内竪町)に拡大し、「通り名」として俗称されていた時代があったが、現代では、完全に堀川大通に埋没してしまった。

 以上、今さらどうでもいいことをこまごまと述べてきたが、実際にこのエリアの辻子巡りをしてみようという向きに参考になればと、15本の辻子を一筆書きで辿る道順(→は時計廻り)を描いててみた。一周5km弱の道のりである。
上京辻子・Google Map



 
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づしづくし 13 道正辻子

 京町鑑には「道正町」は記載されているが、道正辻子には言及されていない。しかし、江戸時代を通して、道正町を東西に貫通する街路は、「道正辻子」と称されていた節がある。「都名所図会」の後編として1787(天明7)年秋に刊行された秋里籬島の「拾遺都名所図会」には、次の如くその名が見える。
『道正罨稲荷社 同所[室町頭中木下町]の西道正辻子にあり。道正傅曰く、……』
 さらに、京羽根津にも
『道正辻子 寺の内通半町北 新町東へ入所なり』
1京羽津根・道正辻子
とあり、その通が、寺之内通の一筋北で、新町通から衣棚通まで道正町を、東西に貫通する街路だとわかる。
 この辻子の南側に、江戸時代以前から道正庵があったことは、応仁丁亥から天正年間(1467-1592)の京都を描いたとされている森幸安の「中昔京師地圖」にその名が見えることから知れる。北側には、稲葉丹後守呉服所伊勢屋治兵衛が居住していたことが、「京羽二重」に記されており、1686(貞享3)刊行の「新撰増補京絵図」には「イナバタンゴ」と記載されている。このようにこの辻子の南北両側には大きな屋敷があり、町通としての賑わいはどれほどだったのだろう。
2地図・道正辻子

 江戸前期には、西の新町通沿いのタテ町を「竪道正町」と呼び、この辻子は「道正東横道」と呼ばれていたという。京都坊目誌には、道正町の町名起原として次のように説明されている。
 『道正庵此町にあり故に名とする。維新前は竪道正町上組下組及び道正辻子、叉道正横町と呼ぶ三町たり。明治元年十二月合併して一町となる。』
 道正辻子は横町ではあったが人通りは多かったようである。それは道正庵の存在による。
  道正庵は、木下道正(藤原隆英)が道元禅師にしたがって1223年(貞応2年)に入宋したという因縁から、もともと曹洞宗に関係が深かったが、その関係が密接になったのは、幕府の寺院統制が行われるようになった慶長ないし元和 ・寛永年間頃からで、道正庵が主に曹洞宗の寺院住職に関わる出世・瑞世・転衣等、朝廷の寺社伝奏家である勧修寺家への請奏を取り次ぐ役職をしていたからである。曹洞宗の大寺 (永平寺や総持寺) の住職になるには、まず幕府の許可を得た後、上京し宿坊として道正庵に数日間滞在して、礼式作法を予修し、参内の準備をする。必然的に僧侶は道正庵に種々頼ることになり、必然的に大事にせざるを得なかったわけである。時代は多少下るが、延宝年間の頃、出世・瑞世等に関わらず永平寺僧が上洛した際には、宿所を道正庵を衆寮とすることが定められていた。
 一方、道正庵は、参内のため宿泊した僧を介して、秘伝薬を全国の曹洞宗寺院に独占的に販売していた。道正庵徳幽卜順が1639(寛永6年)に撰述した『道正庵元祖伝』には、道元が入宋した際、道正も入宋し、ある広野において高祖道元が身体困羸、魂魄を失いかけた時に白髪の老嫗(稲荷神)が出現し、「神仙解毒万病円」を与えられ蘇生した旨を述べている。これが同庵が全国に散在する曹洞宗に配置して販売していた秘伝薬であり、「本朝配置売薬事始」とさえいわれている。道元にまつわる多くの伝説の一つであるが、解毒丸の宣伝をかねて、道元禅師の遺徳を宣揚するための話でもある。
 拾遺都名所図会で見たように、道正庵には稲荷神が勧請されていて、道正稲荷社としてよく知られていた。
 かように、江戸時代を通じて、曹洞宗側、特に永平寺と道正庵の相方が互恵関係で結ばれていて、曹洞宗の僧侶や売薬商人たちの出入りも多く、道正辻子は早くから町通となっていたことだろう。
 ご維新を迎えて道正庵はどうなったのだろうか。
 『明治初年、御所が東京 へ移ったため、私の祖母(1852〜1922)は道正庵の西約一キロに今もある表千家から来た人であったが、それまで持っていた諸収入のもとを失って、生活の困難から土地を順次売り払った。このままでは木下家は消えてしまうということを永平寺が知って、残った約四百坪の土地は永平寺の所有となったが、一切 無償で使用を許した。ただし地租等の負担はすべて木下が持つことになり、今日 に及んでいる。今は私のおいが当主となっている。』(木下忠三「自分史」あるいは、「 Verkoj de veteranaj esperantistoj」/ 水道衛生工事会社社員であった木下忠三ただぞう氏は、昭和期の著名なエスペランティストして知られていた。1993年に亡くなられた。)
 道正庵の建物は、明治初年に柳原庄村(現在の崇仁地区)の役場として、地元に買い取られ移築されている。(柳原銀行紀年資料館第5回特別展チラシ裏「明治・大正 崇仁のまちづくり」)
 また、秘伝の処法による製薬は大正年間に越中の業者に委ねられたという(羽後町・僧職 柿崎隆興, 「先用後利」, あきた 通巻44号, 1966)。



 
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<洛中洛外虫の眼探訪 づしづくし 12> 

 
 
づしづくし 12  畠中つし改め 久齊辻子
 
 京町鑑に
『此後藤辻子の西町
 ㋵畠中町 ○一名久齊辻子ともいふ
 此町養林庵[註 筆者]といふ天台宗有寺領卅石』
とさらっと出ている。

[註]この寺が天台宗であったことはない。久齊辻子の北側にある本庵は、1585(天正13)年に建立されたと伝えられる禅宗尼寺で、近世においては比丘尼御所宝鏡寺の末寺として存続していたことが知られている。開庵後ほどなく一旦廃絶にいたり、寛永年間の再興にいたるまで「亡所」となっていた。山城国深草村三十一石を付与されていた(西口 順子, 佐藤 文子 「養林庵文書について--由緒と沿革の紹介をかねて」, 相愛大学研究論集, 第16巻, ps.214-182, 2000)

 寶曆京町鑑以前の京案内には、久齊辻子は出ていないが、幕末の京羽津根には、次のように記載されている。
『久齊辻子 後藤辻子の西丁なり。一名畠中町といふ』
1京羽津根・久齊辻子

2久齊丁・新撰増補京大絵図:1686 畠中町と久齊辻子の地位が逆転しているのは面白い。江戸時代の絵図類でも、当該位置(新町通と衣棚通の間)に久齊辻子と記載されているものは皆無である。かろうじて1686(貞享3)年の新撰増補京絵図に「久さい丁」と出ている。他はすべて畠(畑)中丁である。
 天正年間の「上京文書」には「畠中のつし」と出ているという(角川日本地名大辞典 旧地名編)。
 京都坊目誌に、畠中町の町名起原として『天正以前荒廃の時此地蔬圃たりしと云ふ』とあるから、地名の「畠中」はうなずけるが、久齊辻子の由来は、全く見当がつかない。
 京都案内人のブログの「辻子(今出川周辺-4)」で、久齊辻子の由来について、次のようなことが記載されているが、的外れとしかいいようがなかろう。
『確かなことは不明だが、この付近の道正町の名に関係がある。道正というのは、曹洞宗の開祖道元に従って入宋して漢方を学んで帰国。この地に庵を結んで漢方薬を拡げ、その子孫に久斎と号した人物がいたのではと推測される。』

3久齊辻子界隈地図

 道正町というのは、久齊辻子のある畠中町と町境を接した南側の横町(よこまち)で、この町を貫通している街路が、次回取り上げる「道正辻子」である(下の地図参照)。この辻子名は、南側にあった道正庵に由来している。その一つ上の辻子に、また、道正由来の名が冠せられるとは考え難い。
 さらに、道正庵の庵主には、代々「○順」と称した人物が多い。例えば、12世貞順、19世庵主ト順、23世省順、等々。曹洞宗僧侶に斎号を付ける事もなかろうし、道正の子孫に久斎と号した人物がいたとは考え難い。

 東隣の後藤町(辻子)は、明治元年に下木之下町に合併し、字名としてしばらくは知られていたようであるが、今は消えてしまった。また、久斎辻子の名も忘れ去られたが、畠中町だけは、市街化した現在もその名を残している。



 
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