洛中洛外 虫の眼 探訪

<洛中洛外虫の眼探訪 づしづくし 11 > 


づしづくし
1 出雲寺辻子廃印 2 かせが辻子 3 妙覚寺前辻子新発見 4 扇ノ辻子
5 天神辻子 6 宗仲辻子のちに妙蓮寺突抜 7 清次郎辻子廃印
8 川勝辻子神明辻子とも 9 無学辻子再発見 10 かいやの辻子横でなく竪の辻子 11 後藤辻子
番外 <突抜>考


 
 
づしづくし 11 後藤辻子

 京町鑑の室町通下柳原町の項に
『▲下柳原町 此町西側無量寺と云禪寺」あり
 ○此下柳原町の北西入町
 ㋵後藤辻子 此町南側に後藤四郎兵衛と云分銅屋有』
と出ている。
 江戸時代の絵図では、「後藤丁」と記す。地誌・京都案内の類いでは「後藤辻子」とあるも、絵図類には皆無といってよかろう。寛永後万治前洛中絵図には、南側ではなく、後藤辻子の北側に、後藤家の屋敷がずらりと並んでいる。よく知られているよう、後藤家がこの地を秀吉より賜って、屋敷を並べたのは、後藤祐乗より五代目徳乗のときである。それに先立って、徳乗の父光乗が、堺から京都に移居している。この辺りの経緯を、山田研治著「『後藤家譜』についての一考察」(計量史研究, 24 −2 [26] 2002)に掲載してある石島勇翻刻の後藤家家譜から抜き書留める。なお、この家譜は後藤演乗(1641-1693)の依頼で、江戸時代中期の臨済宗の僧侶祖縁別宗(1658-1714)が作成したものである。
 先ず、光乗の項に
 『…… 輿古法眼狩野元信同時。居亦相近。元信毎繪一圖、必使光乗評論之。其圖畫之氣韻格制。莫不能盡鑑閲之精玅也。光乗亦欲鐫刻人形花鳥 、則先使元信繪其圖而依其様也。寛永辛未冬十月十有三日 、壽八十四歳、終於家。』
(古法眼狩野元信と時を同じうす。居もまた相近し。元信一圖繪く毎に、必ず光乗をしてこれを評論せしむ 。その圖畫の氣韻格制 、能く鑑閲の精玅を盡くさざる莫し。光乗もまた人形花鳥を鐫刻せんと欲するときは、則ち先づ元信をしてその圖を繪かしめてその様に依るなり)

 づしづくし 4 「扇ノ辻子」で、元誓願寺通の小川通と新町通間の中程から奥の「狩野辻子」に狩野元信が住んでいたことを記したが、堺から引っ越してきた光乗もこの近くに住んでいたことが知れる。。息子の徳乗の代になって、

 『 徳乗 、號四郎兵衛。削髪後號徳乗 。務家学 、馳譽于時。後事秀吉・秀頼二君 、恩遇益渥 。秀吉公 、賜食邑二百五十斛於 城刕市原・中村・西 院之三村。又於洛之松木嶋 此地、松樹數株 、其陰繁茂。因或称木下 賜腴地、至今、世ヒ相繼領之。族類家茲矣。 是故 、世俗稱後藤辻子。……』
(徳乗 、四郎兵衛と號す 。削髪して後徳乗と號す。家学に務め、譽れを時に馳す。後秀吉・秀頼二君に事へ、恩遇益々渥し。秀吉公、食邑二百五十斛を城刕の市原・中村・西院の三村に賜ふ。また洛の松木嶋 この地 、松樹數株、その陰繁茂す。因りて或は木下と称す に於いて、腴地を賜はり 、今に至るも、世々相繼ぎてこれを領す。族類ここに 家す。この故 、世俗後藤辻子と稱す。 寛永 辛未冬十月十有三日 、壽八十四歳、家に終はる。)

 この記述から、木下町の由来とともに、後藤辻子が、徳乗が生まれた1550(天文19)年以降に開通したことが知れる。
 京町鑑では『後藤四郎兵衛と云分銅屋有』とさらりと書かれているが、その一方で、この所の北にある岩栖院町の後藤屋敷の地については、『▲後藤堪兵衛町』の一項を設けて後藤家について次のように記す。

『昔将軍足利義教公家臣に後藤堪兵衛祐乗(スケノリ)後に法名をすぐに祐乗(ユジョウ)と名乗彫物におゐて天下無双の名工たり狩野古法眼元信に寄て下繪を付させ武具等の錺を彫刻して名高し代々相續して祐乗より五代目徳乗天正九年太閤秀吉公より妙手によつて恩祿を給ふ夫より猶々相續して今に後藤家此所に絶ず居住す古老の曰此後藤の家に應仁年中足利家官領細川右京太夫勝元居館なりし申傳』

 この記述は、「後藤家譜」に照らすと甚だ不明瞭である。岩栖院町の後藤屋敷の地は、光乗の次男、徳乗の弟である長乗が、家康から付与されたものである。家譜に

『光乗、使長乗東照大神君。圍大阪城時、長乗亦幕下 大坂以金數十斤 、募之 。神君莞爾而笑曰 、「貴哉 、汝頸 。汝其自珎」 。後賜地於洛北巖栖辻子 。因家焉 巌栖辻子 、地名。辻子 、倭俗謂小路日辻子。細川勝元曽居此地 、勝元祖父滿元仁祠日岩栖院。為満元剏建 一寺 、因扁岩栖院 。初在東山 、後迂此地 。又迂今在瑞龍山下 。故號巖栖辻子 。』
(光乗、長乗をして東照大神君に使へしむ。大阪城を圍みし時、長乗もまた幕下に侍す。大坂金數十斤を以ってこれを募る。神君莞爾として笑ひて曰はく、「 貴きかな、汝が頸。汝それ自ら珎なり」と。後地を洛北の巖栖辻子に賜ふ。因ってここに家す。巖栖辻子は 、地名なり。辻子は倭俗に小路を謂ひて辻子と日ふ 。細川勝元曽つてこの地に居り、勝元の祖父満元の仁祠を岩栖院と日ふ 。満元の為に一寺を剏建し、因りて岩栖院と扁す。初め東山に在り、後にこの地に迂る。また迂りて今は瑞龍山下に在り。故に巖栖辻子と號す。)
1後藤家屋敷群地図 5代目徳乗は豊臣秀吉に仕えたが、父光乗の計らいで、次男の長乗は徳川家康に任用されていた。大阪城陥落後、長乗は家康に後藤本家の赦免を働きかけ、後藤本家は後に大判座を組織するなど、江戸幕府の金工史上大きな役割を果たしていくことになり、徳乗が秀吉から付与された木下の地もそのまま残され、後藤家本家筋(四郎兵衛家)や分家の屋敷が、後藤辻子の北側に軒を連ねていた。その様子は、寛永14年洛中絵図(1637)や寛永後万治前洛中絵図(1624〜1658)に描かれている。東から後藤八郎兵衛・権兵衛・理兵衛・休乗・顕乗、木之下通を越えて,喜右衛門・琢乗が屋敷を構えている。
 長乗が拝領した岩栖院町の地には、堪兵衛家の七郎兵衛・又左衛門・覚乗・甚兵衛・長乗の各屋敷が、東から順に西に連2後藤家の分家図なっている。
 寛永後万治前洛中絵図の屋敷図を上に示す。その下は後藤家分家の概略図である。
 京町鑑にあるように、江戸時代の絵図を見ると、後藤辻子の北側ではなく、南側に「後藤」と記したものがいくつか見られる。例として、1686年の新撰増補京大絵図と1868年の大成京細見絵図の該当個所を最後に載せておく。これが何を意味するのか、乞御教示。
 さらに奇妙なことは、維新後「後藤辻子」という名称が復活したようだ。その証として、明治時代前半の地図をいくつか挙げる事が出来る。これらすべてで「後藤圖子」と記載されている(最下部の図)。
 京都坊目誌にも、下木之下町の町名起源の中に次のように書かれている。3後藤辻子南側

後藤圖子『元と、北方中木之下町後藤辻子あり。明治元年十二月當町に合併す。北、東西の街を後藤辻子と字す。』
 さらに、畠中町の次に、新たに
『▲後藤ノ辻子 畠中町の東にありて室町木之下の間とす』
と記す。
 付け足しだが、後藤辻子には、一閑張塗師、初代飛来一閑の娘の婚家岸田家の出といわれている岸一閑(岸田宗二)通称喜右衛門が住んでいた(池田巖「茶の漆芸棗」淡交社, 1987)。この人物が、寛永後万治前洛中絵図中の西二軒目に見える喜右衛門のことではなかろうが、参考のために記しておく。



 
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<洛中洛外虫の眼探訪 づしづくし 10 > 


づしづくし
1 出雲寺辻子廃印 2 かせが辻子 3 妙覚寺前辻子新発見 4 扇ノ辻子
5 天神辻子 6 宗仲辻子のちに妙蓮寺突抜 7 清次郎辻子廃印
8 川勝辻子神明辻子とも 9 無学辻子再発見 10 かいやの辻子横でなく竪の辻子
番外 <突抜>考


 
 
づしづくし 10 かいやの辻子

 1762(寶曆12)年の京町鑑には記載されていない。しかし、すでに1705年の「宝永京羽二重」(左図①)には『かい屋辻子 室町とをりかしら町清蔵口』と出ている。ここでいう「室町とをりかしら町」は、現在の「室町頭町」を意味しているのではなさそうだ。それに続く「清蔵口」がそのことを示唆している。
 新町通鞍馬口の上ルところが上清蔵口町、下ルところが下清蔵口町で、このあたりが清蔵口で、応仁以前からの古い地名である。「室町頭町」は室町通上立売町から寺之内までをいう。室町通は、この頭町が開通した後に、北へ伸び鞍馬口通迄達したと考えられる。現在では、北大路通を越え今宮通り迄達している。
1諸本に見えるかいや辻子 「かしら町」に早合点し、巷では、「かい屋辻子」の位置を、寺之内通の衣棚から東へ、北行してきた室町通と交わる地点まで、納屋町を通貫している東西の通りとされている。例えば、足利健亮編「京都歴史アトラス」(中央公論社, 1994)の83頁の地図や、それを踏襲したと思われる酒瓮斎の京都カメラ散歩「辻子 —川勝辻子、かいや辻子—」などである。
 1715(正徳5)年刊の「都すゞめ案内者」の下巻では、『▲かい屋の辻子 室町ノ上 清蔵口』、としている。1811(文化8)年の「文化増補 京羽二重大全」(③)では、『㋟かいやの辻子 室町かしら』とだけある。1830(文政13)年の「都名所車」(④)では『かいやの辻子 室町の上清蔵口』とある。さらに、1863(文久3)年の「京羽津根」巻二(⑤)でも、『㋟かいやの辻子 室町かしら』である。
2まとめの表 これらを左の表にまとめる。これだけ揃えば、寺之内通にある辻子とは思えない。もっと北の鞍馬口通辺りにありそうだ。
 「室町かしら」と云う表現に少しこだわってみよう。京都坊目誌上京第二學區之部に
 『▲森之木町 室町通鞍馬口下ル町を云ふ。開通上に同じ[年月不詳]。
  室町通北の極端なれば室町頭と呼ぶ。』
 『▲上清蔵口町 新町通鞍馬口上ル町より、愛宕郡堺までを云ふ。京師七口の一則ち清蔵口也。此所新町通北の極端なるを以て新町頭と呼ぶ。應仁以前の開通也。』
とある。
 寶曆京町鑑の室町頭の認識も同じである。室町通の項に『●此通北は鞍馬口より東六條本願寺まで』と出ている。また、新町通の項には『●此通北くらま口より一町上より下は七條迄。○くらま口上ル▲上清蔵口』とある。
 一方、「室町頭町」は、天文15年11月18日付の足利義晴禁制の宛所に「上京室町頭一町」と見えることからして、室町頭町は室町通が寺之内通以北へ伸びる以前からの町名で、少なくとも、江戸時代の界隈の名称ととして使われている「室町かしら」とは、違ってしかるべきであろう。よって、江戸時代の諸書に見える、「室町かしら」は、「室町頭町」よりずっと北、鞍馬口通、清蔵口あたりの洛中の北端を指しているものと考えられる。
 寺之内通にかいや辻子を比定する説が誤りである決定的な証拠は、「文化増補 京羽二重大全」と「京羽二重」にある『㋟』の記号である。これは当該の辻子が竪通りであることを示すものであるから、東西の通りである寺之内通の一部ではあり得ない。
3かいやの辻子比定地図 それではいったい、「かいやの辻子」はどこに比定されるべきだろうか。新町通と室町通の間で、鞍馬口通に達している南北の竪の通りは、今では衣棚通があるが、この部分は維新後に開通したものであるから、南北の道は、西端の清蔵口のある新町通か、東の森之木町を貫いている室町通以外にない。右に「寛永後万治前洛中絵図」の街路網に関連地名と通名を記した地図を示す。
4増補再版京大絵図
               右上の地図に表示したように、私説は、室町通の北端、森之木町を貫通する部分を「かいやの辻子」とした。大した根拠はないが、もし新町頭を南下する辻子を指すなら、わざわざ「室町かしら」を出してくるわけはないと考える次第である。
 なお、森之木町は、寛永後万治前洛中絵図では「森ノ下町」、1746(延享3)年刷の「増補再版京大絵図」では「森木町」、「京雀」では「○もりもと町」と見える竪町である。


 
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<洛中洛外虫の眼探訪 づしづくし 9> 

 
 
づしづくし 無学辻子

 京町鑑に室町通の項に『▲下柳原町 此町西側無量寺と云禪寺あり』とあるが、「無量寺」は「無学寺」の誤りである。雍州府誌に
『○夢覺寺 在無學辻子元天台宗而本尊地蔵也寺僧傅言本尊地蔵有夢中之霊験故號夢覺寺案誤無學乎今浄土宗古斯邊景愛寺境内也景愛寺尼寺五山之随一而以無學祖元為開山故此町亦謂無學辻子』
<無学の辻子に在り。元、天台宗にして本尊は地蔵なり。寺僧、伝え言う、本尊地蔵、夢中の霊験有り。故に夢覺寺と號す、と。案ずるに、無学を誤るものか。今、浄土宗たり。古え、斯の辺、景愛寺の境内也。景愛寺は尼寺五山の随一にして、無学祖元を以って開山とす[註]。故に此の町も亦、無学の辻子と謂う>(宗政五十緒 校訂「雍州府誌 近世京都案内(上)、274頁、岩波文庫、2002)

(註)雍州府誌の景愛寺のこの部分は疑問である。中昔京師地図には千本通五辻の西北角に「景愛寺地」と記している。京師内外地圖では、東北角に「景愛尼寺」と記す。景愛寺は、無学祖元に従って出家した無外如大尼を開基とする尼寺五山の随一であったが、近世初頭に廃絶した。無学寺の裏、下木下町に門跡尼院の旧千代野御所寶慈院があるが、この寺は景愛寺の一支院である。本尊の阿弥陀如来座像は、景愛寺の遺仏と云われている。また、無学祖元と無外如大尼の肖像彫刻も収蔵している。

京羽津根、1863(文久3)年 雍州府誌に記されている「無学辻子」に言及した江戸時代の地誌・京都案内の類いは、雍州府誌以後、幕末の京羽津根までお目にかかれない。京羽津根には、洛中辻子の項に横、東西方向の辻子として次のように記している。

『㋵夢學辻子 後藤辻子の南うら木の下東入所なり』

 これで、無学辻子の位置がわかる。寺ノ内通衣棚の下木下町南端から納屋町を貫通し室町通までをいう。すなわち納屋町そのものである。京都坊目誌上京第二學區之部の納屋町の町名起原の所に
『相傅足利幕府の倉庫(筆者註:米・塩貯蔵のための倉庫)此地南側にありしと故に名とする。北野社家文書に納屋町とあり。雍州府誌に此町を無覺辻子とせり。北に無覺寺あり。』
 無学(覺)寺は、1279年、幕府執権・北条時宗の招きにより来日した宗の僧である無学(覺)祖元がこの地に創設した。当初は臨済宗であった。その後荒廃した。雍州府誌には天台宗とあるが、享保年中(1716〜36)に僧古巖が再興し曹洞宗に属し、天寧寺八世心海を請じて中興の祖とした。1788(天明8)年類焼、1811(文化8)年に再建された。
無学辻子の位置 江戸時代の絵図で「無学辻子」と記したものは見当たらない。すべて「納屋町」と記載されている。無学寺が創建された頃から足利幕府が開かれた頃までは、東の室町通に門を開く、「頬」を向ける無学寺の「頬」でない南側の塀が続く人通りの少ない小径は、「無学辻子」と称されていたであろうが、現在伝わっている町名起源からすれば、室町時代以降、「辻子」は「町」となり「納屋町」と称されたのであろう。
 足利説にいうように、辻子は町通りになり、名前を変えた。辻子名は長く忘れられていたが、突如、幕末に思い出され、またすぐに忘れ去られたようだ。現在この辻子名を取り上げた著作は皆無といってよい。ただ一つ、林屋辰三郎他編「京の道」(創元社、1974)に辻子名の一例として、次のような一文の中に掲げられている。
『辻子の多くは、その名を聞くだけでその由来に興味をいだかせるものがある。後藤辻子、無学辻子、常磐井殿辻子、一条殿辻子、革堂辻子、だいうす辻子、だいうすの辻子、本辻子、本阿弥辻子、風呂辻子、瓢簞辻子、竈辻子、膏薬辻子、市姫辻子等、その由来や辻子のもつ意味を、さらに深く尋ねてみたいところである。』(川嶋将生、同書 p.169)

追記
 「寺之内通 衣棚から東方へ、北行してきた室町通と交わる地点まで」を「かいや辻子」とする記述が見られるが典拠は示されていない。「京羽二重」には『室町通かしら町清蔵口』、「都すゞめ案内者」や「都名所車」には『室町ノ上清蔵口』とあり、「室町通の清蔵口」は、現在の室町頭町よりもっと北ではないのか。


 
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<洛中洛外虫の眼探訪 づしづくし8> 

 
 
づしづくし 8 川勝辻子 神明辻子とも

 1762(寶曆12)年の京町鑑の縦町室町通の上柳原町の項に、次のように記す。
『▲上柳原町 此町の西側に榊宮有此所いにしへ後光厳院の仙洞有し舊地にて楊木多くありしゆへ號す』

 ここに云う「榊宮」は江戸時代を通じて「神明廿一箇所参」の第六番としてよく知られていたようで、その所在地として「川勝辻子」あるいは「神明辻子」と地誌や京案内の書の類いでしばしば言及されている。具体的に見ていこう。
 最も早いのは、1682(天和2)年成立し、1684(貞享1)年の林信篤と人見竹洞の序をつけて、1686年に自費出版された儒医黒川道祐撰の「雍州府誌」である。巻二の榊宮の項に『榊宮 在柳原……』とあり、補遺の神明廿一社参詣のリストの中に『… 第六柳原川勝辻子 ……』と出ている。  
 1711(正徳元)年刊行の白慧撰「山州名跡志」の巻之二十二(1711)の中に以下のような記述がある。
『榊宮 在室町通柳原北人家間 此所云神明辻子 鳥居 西向木柱 無官榊ノ老木あり。巡に板瑞籬あり。所祭天照太神。此地初祭主何某宅地也。仍所祭也』
 ここでは、榊宮の所在地は「川勝辻子」でなく「神明辻子」と書かれている。
 京都案内の書では、1705(宝永2)年版の「京羽二重」に神明廿一箇所参の六番として『六番 柳原川勝の辻子』と明記されている。
 同書の洛中辻子の項に掲がっている川勝辻子の説明には『川勝辻子 室町通かしら町やなぎはら』とある。
 1715(正徳5)年の「都すゞめ案内者」には『六番 やなぎはら川勝のづし』と出ており、「洛中洛外辻子の異名」の項には『▲川勝辻子 室町の北 柳原』と記す。
 1768(明和5)年版の「京羽二重大全」にも『六 柳原川勝の辻子』とあり、洛中辻子の節には『川勝辻子 室町かしら町柳原』
 幕末の1863(文久3)年の「京羽津根」には、『榊の宮 室町頭柳原の北神明辻子にあり』と、川勝辻子の説明に『㋵川勝辻子 室町かしら柳原』とする。ここでは、山州名跡志と同様、榊の宮の所在地としては「神明辻子」と書いているいる。その一方で、洛中辻子のリストには同所に「川勝辻子」が上がっている。
 維新後、明治も半ばになっても神明廿一箇所巡りは存続していたようで、1887(明治20)年刊行された「京都名所案内図会」にも『六 柳原川勝の辻子』とある。
 以上の記載次項を表にまとめると、榊の宮の所在地から、室町柳原の北に、神明辻子とも称されていた川勝辻子があったことが明らかである。
1まとめの表
 ところが、川勝辻子の位置に記載された内容は、ちょっと誤解を招き易い記載が見られる。「室町(通)かしら」という表現である。そのためか、川勝辻子が、現在の「室町頭町」と「下柳原南半町」の境界を貫通しているとされている。例えば「酒瓮斎の京都カメラ散歩 辻子 ー川勝辻子、かいや辻子ー 」や足利健亮編「京都歴史アトラス」(中央公論社、1994)。
 しかし、榊の宮の所在地の記述からすれば、室町頭町より北、現在の上柳原町にあったと見るのが妥当ではなかろうか。
2京都區分一覽之圖(1876) 1876(明治9)年の「京都區分一覽之圖」で榊宮を探せば、「後藤圖子」の北に、そのものズバリ、「川カツスジ」と記された小径があり、その傍は「榊(柳?)大神宮」が描かれている。この地図は、京都の元学区一覧地図で、街区の縮尺が北部で寸詰まりで、街路図としてはかなり荒っぽい図である。室町頭の北、無学寺がある区画の北の「後藤圖子」と「小山丁」の間の一区画(絵図では後藤圖子の上に「上二」と記載されている緑色の学区内)中に「川カツスジ」がある。実際は、この区画は上御霊通りによって、上下二街区に分かれているのであるが、上下とも上京第二学区であることから分割されていない。
3京都明細大絵図 江戸時代の絵図はどうか。1714(正徳4)年から1721(享保6)年の、7年間の状況を表したとされる「京都明細大絵図」をみると、「川勝」の記載はないが、上柳原丁に「辻子」と標された室町通りから西に入る小径が、描かれている。おそらくこれが上記諸地誌・案内書類で云う所の「柳原川勝辻子」であろう。当時は神明辻子とも称されていたはずである。
4洛中洛外方内絵図 もう一つ、刊行年は不詳であるが1740年代から50年代の内容年代の洛中の街路を線で描いたちょっと変わった「洛中洛外方内絵図」がある(この絵図の時代検証に付いては、仮称「洛中洛外方内絵図」の時代探求」を参照)
 ここにも、辻子名は記載されていないが、該当個所に「辻子」と記載されている
 現在もこの辻子が残っているのかどうか、洛中洛外方内絵図の街路を、縦横の比率はそのままにして、南北の室町通と東西の寺之内通を現状の地図に合うように縮尺を適当に変えて重ねて見ると、ちょうど絵図記載の辻子と重なる袋小路の路地が存在する。この袋小路の路地が、かつての川勝辻子の跡とみて、ほぼ間違いないだろう。
5国土地理院地図による比定 下の写真は、路地奥から室町通を見たものである。その下の写真は、路地入り口正面の室町通に残る民家で、地蔵の祠の左手上方の軒下に、2012年に再発見された珍しい木製の仁丹製町名表示板[室町通/上御霊前下ル 上柳原町]が見られる。また、河田賢治神谷信之介の名が並んでいる名札が窓際に貼ってあるのは、西陣ならではである。
6川勝辻子跡の路地写真
7木製仁丹町名版・河田:神谷



 
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<洛中洛外虫の眼探訪 づしづくし7> 

 
 
づしづくし 7 清次郎辻子廃印

京町鑑の縦町大宮通の項の『廬山寺通上ル二丁目』に
『▲筋違橋町 此町南の辻東へ入所を
 ㋵安居院新町 叉一名○二階町とも云
 此町に超勝院と云淨土宗の寺有同町に西方寺と云西門徒有
 ○叉すじかひばし西入所を
 ㋵清次郎辻子 此町西の行當の竪町を
 ▲西若宮町 北半町南半町二丁にわかる
 此北半町に淨徳寺といふ東門徒有
 叉西若宮町の南町
 ▲竪社町 北半町南半町二丁にわかる此町に正念寺と云う東門徒有叉此北半町西入所を
 ㋵社突抜町 叉一名○山椒屋町とも云』

京は津根・清次郎辻子 この清次郎辻子を記した地誌・京案内の書は「京町鑑」以外にほとんどない。私見した唯一のものは1863(文久3)年版の「京羽津根」である。1762(宝曆12)年刊の「京町鑑」以前の京案内書である「都名所車」(1730)、都すずめ(1708)や京羽二重(1685)には清次郎辻子は掲載されていない。
 絵図類でも同様の傾向が認められる。1686(貞享3)年開版の「新撰増補京大絵図」には記載されていないが、その改版である寛保元(1742)年と称する「増補再版京大絵図」(延享3、1747年刷)では、名称も含めて清次郎辻子があらわれている。この絵図で、注目すべきは「京町鑑」の説明通りに、西若宮北半町に浄徳寺が現れ、その南、筋違橋町の北に清次郎次子が描かれ、その南の竪社北半町には、正念寺という寺がある。
 この辻子の南に、二階町(安居院新町)通り(前回の宗仲辻子の記事の追記に記したように、坊目誌にいう「宗忠辻子」のこと)があって、天神辻子通りに抜けている。
清次郎辻子の出現説明図

京都明細大絵図・清次郎辻子 江戸幕府京都大工頭中井家で作成された絵図の写しで、1714(正徳4)年から1721(享保6)年の、7年間の状況を表したとされる「京都明細大絵図」をみると、未だ清次郎辻子の名は現れていない。もちろん絵図に記載されていないということと、存在しなかったということとは同じではないが、このような状況証拠からみれば、どうも清次郎辻子と称された辻子が出現したのは、1830年代のように思える。
 現在、巷に流布している清次郎辻子は、下の地図に示したように、筋違橋町から西へ竪社北半町へ抜ける横道である。
しかし、増補再版京大絵図に見られる位置は、それより北、西若宮南半町と竪社北半町の境界を大宮通へ抜ける小径である。どちらも、大宮西裏通(坊目誌に云う竪社通)から大宮通に抜ける東西の横道である。
清次郎辻子の比定比定

後万治前洛中絵図の街路網 二階町通より南に横道が描かれている江戸時代の絵図でにお目にかかったことはないが、二階町通の北に大宮西裏通から大宮通に経抜ける横道を描いた絵図は、いくつかお目にかかる。その一例が上の京都明細大絵図である。その内でも時期の早いものとしては、寛永後万治前洛中絵図がある。参考のために、その街路網(赤茶色)を現在の地図上にオーバーラップさせた図を右に示す(縮尺は、今宮神社と超勝院の位置が合うように変更した)。
 これを見ると、ちょうど西若宮南半町と竪社北半町の境界上を東西に走る横道が寛永後万治前洛中絵図に描かれている。足利はこの横道を清次郎辻子と同定し、『淨とく寺と正倉寺の間』と記している(「中近世都市の歴史地理」p.24, 地人書房、1984)。
大成京細見繪圖 (1868) 淨徳寺は現在でも西若宮北半町にある。正念寺(足利の「正倉寺」は誤植であろう)は、この界隈に存在しない。坊目誌を紐解くと次のようにあった。
『正念寺 中立賣通新町西入南側二六番戸にあり。眞宗大谷派本願寺に屬す。慶長七年西陣竪社町に創建す。開基僧頓正とす。明治十七年現在の地に移る。』
 右の幕末の絵図には、清次郎辻子とともに西念寺がしっかりと描かれている。
結論らしきは、次の通りである。
 清次郎辻子は、大宮西裏通の西若宮南半町と竪社北半町との境界を東へ大宮通の筋違橋町へ抜ける横道である。これは現在通説となっている横道の北50m足らずのところである。この辻子は1830年代からその名が知られるようになったが、現存しない。



 
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