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探訪記 「佐伯灯籠」祭りと「桜石」
今月の特集
写 真 集  巨樹を巡りて20 年
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亀岡稗田野「佐伯灯籠」祭と「桜石」見聞記

<以下の文中で、青色の単語や文章をクリックすると関連サイトが、小さな写真をクリックすると大きな写真が見られます>
 稗田野(本来「稗」には艸冠がつく「薭」である)は亀岡市外から、篠山街道を西へ 4kmほどいった、今でもまだのどかな田園地帯である。さらに西へいくと湯の花温泉に至る。
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 この集落でお盆の行事「佐伯灯籠」と呼ばれる祭りが毎年行われている。五穀豊穣を願う神事と盆の風流灯籠行事とが融合した珍しい祭りである。その沿革は古く、1229年朝廷より5個の神灯籠と1基の台燈籠を賜ったことに始まる。この台灯籠を背景にして、小型の京人形による人形浄瑠璃を演じ、徳川中期以降、丹波の大祭として全国に知られるようになった。現在では京都府の無形民俗文化財に指定されている。

 今年の春、小柳女史の植物方言調査に同行して、この地の御霊神社を訪れたおり、この夏祭りのことを知ってお盆のくるのを待っていが、こんなに暑い夏になるとは思いもしなかった。真昼の1時から始まる祭りに、京都を既に日の高い朝の10時に出発。お盆の最中の14日なのに以外と国道9号線が混んでいて、昼前にようやく現地の稗田野神社の前に到着。既に夜の出店や屋台の準備で車と道具類で神前はごった返していた。幸い大石酒造の大きな駐車場が一般に解放されていて、簡単に駐車することができた。大石酒造は元禄年間創業と伝えるこの地の造り酒屋である。その酒蔵は「酒の館」と称して酒蔵見学ができる。もう一つこの地で「宮本屋」という仕出し料理屋がある。こちらは昭和元年創業である。ここでは丹波の四季折々の料理が味わえる。松茸、ボタン鍋、夏には何故か鱧しゃぶを賞味できる。鯖や鱧の棒寿司も有名であるらしい。ちょうど昼時でもあり、ここしか食べるところ見当たらないので飛び込んだ。ざーっとメニューを見渡しても、お値段が手頃な地の食べ物は、夏はなさそうだ。壁の張り紙を見ると、「黒豆の釜飯」というのが目に入った。これこそ手頃な地の特産料理である。早速注文した。祭り太鼓も聞こえ始めたがなかなかありつけない。炊き上げるのに時間のかかるのは理解できるのだが……。待つこと半時以上、やっと釜が現れた。釜蓋を取ると、皮がはじけ、黒く光った目ほどもある大きな黒豆が目に飛び込む。炊きたてのご飯のいい香りが、ゆげを通して漂ってくる。ご飯は「銀シャリ」の白光りではなく、黒豆の紫っぽい灰色をしている。それだけである。豆以外の具は何もない。フウフウしながら、塩気が程よく効いたご飯を掻き込む。大きな豆も、硬すぎず、柔らかすぎず、私でさえ「豆って、おいしいものだ」と感じられた。やはり「丹波黒」は逸品である。


1. 稗田野神社
 閑話休題。食事を早々に終えて向かいの稗田野神社へ駆け込むと、ちょうど祭礼が始まったところであった。社殿の前に神輿がおかれ、周りを担ぎ手の男衆が取り巻く中、神輿に神を移す「御霊(みたま)移し」が営まれていた。神輿の他、1年間の農作業の様子を人形で表現した「風流灯籠」5基と、人形浄瑠璃の舞台となる「台灯籠」1基などが列をなして御霊神社への巡礼に向けて待機している。この祭りは稗田野町内の、稗田野、御霊、若宮、河阿(かわくま)四社の合同祭礼で、ここから出発した神輿は、途中、若宮、河阿の両社の行列と合流し御霊神社に向かう。ここの稗田野神社から出発した巡行の様子は、デジカメで動画に収めた。
my sweet home

 稗田野神社は大和朝廷の基礎が出来上がった和銅2(709)年、丹波国守大神朝臣狛磨が、朝廷の指示によって佐伯郷(宮前町狛倉、稗田野町全域、吉田、並河、宇津根)の産土神として創建したのが起こりである。境内にはヒノキの御神木、カシの古木がある。一般にカシの木には、悪病を吸い取る霊木だという言い伝えがあり、古来よりコブや吹き出物を取るなどと言われてきた。今日では癌(ガン)を吸い取ると信じられている。ここのカシの木も「癌封治瘤の木」として全国に知られていると言う。


2. 御霊神社
 一方、行き先の御霊神社にはとてつもなく大きなムクの古木がある。この神社も、石鳥居の前に水田が広がり、亀岡盆地を囲むなだらかな山並みが望まれる景勝の地にある古社である。大同5(806)年の創建で、女性の守り神、安産の神として信仰されてきた。9世紀中頃に始まったとされる佐伯灯籠の祭りは、稗田野神社を出た神輿が、この神社に「女神」を迎えにいくという神事ともいわれてきた。
 本殿の左手にあるムクノキgoryoumuku1は樹高28m、幹周6.8mの風格のある大木である。遠くよりの望まれるこの木を慕って、いつの間にか民家が集まり集落をなしたともいわれるほどの名goryoumuku2木である。昭和25(1950)年のジェーン台風によって高さ10mの大枝が折れ根元まで幹が裂け、幹が半分になったといわれている。その後も度々落雷に遭遇して、総身傷だらけという風情であるが、以前の雄姿を知らない者にとっては、今でも眼を見張る大木である。境内には、このムクノキ以外にも、ムクノキ、ケヤキ、アラカシ、タブ、オガタマ、イチョウ、トガが樹冠を競い合って、いつもなら昼なお鬱蒼とし、静まり返っているのだろうが、今日は蝉の声を圧倒するほどの音が境内に響き渡っている。四社から集まってきた太鼓とスピーカーから流れる雅楽の甲高い(騒)音である。
 さすがに神事が始まると、今度は蝉の鳴き声が耳をつんざく。taimatsu1taimatsu2神事がおわると境内に横たわっていた、直径1m、長さ7〜8mもあろう大松明に火が移され、その前を男衆の肩に担がれた神輿が何回も行き来する。真夏のま昼間の火祭りの暑いこととこの上もない。松明の竹がはじく音が境内にこだまする。小半時も続いた神輿の境内の練り歩きもようやく終り、今度は、稗田野の村々を練り回るというが、これはトラックに乗ってのこと。「風流灯籠」5基と、人形浄瑠璃の舞台となる「台灯籠」1基、四社の太鼓もトラックでの巡行である。日が暮れる頃、稗田野神社に戻ってきて、台灯籠を舞台にした人形浄瑠璃が催され、夜が更けると太鼓と神輿の掛け合いが始まり、夜半過ぎまで続くという。


3. トリガイ寿司
 私たちには人形浄瑠璃が始まるまで少々時間が空く。小柳女史が、亀岡市の教育委員会の樋口さんに、「トリガイ寿司」という天下の珍品を賞味できるお家を手配していただくようにお願いされていたところ、幸い、御霊神社のすぐ近くの茨木さんのお宅で御馳走になれた。「トリガイ寿司」というのは、今日の祭りの日だけ、村中の家々が造ったという寿司で、干したトリガイを戻して味付けし、四角錐に握ったすし飯(三角おむすびのちょっと細長い形)の先にトリガイを置いたものである。置くだけではうまく収まらないから、トリガイの真ん中に切れ目を入れて、その割れ目に三角おむすびの先端を差し込むのである。先端には胡麻が振りかけてある。torigaisushiどういうものか想像をたくましくしていただきたい。想像がつかぬ御仁は写真を見ていただきたい。現在では造る家も少なくなったが、一昔前まではどこの家でも造っていて、家々での味付けが微妙に違ったそうだ。味は淡白で、歯ごたえは十分。五穀豊穣を願う神事にうってつけ御馳走であった。

4. 神蔵寺
 夕暮れまでにまだ少々時間があるので近辺のめぼしい神社と寺を訪ねることにする。まずは、御霊神社から南西へ2km弱の山裾にある西国薬師霊場第四十三番札所の朝日山神蔵寺を訪ねた。この寺のブンゴウメ、イロハモミジ、コノテガシワの三本が亀岡の名木に指定されていると知ってのことである。車一台通れるなだらかな坂道を登っていったどんつまりにその寺はあった。今は標高460mの朝日山の裾野に山門を構えているが、かつては源氏一門の帰依篤く、山頂付近に仏堂伽藍を構え山麓一帯には26もの塔頭があったという。比叡山から望むと、常に紫雲たなびき朝日を映じて赤々と輝くところから、朝日山と号した。この山を比叡山から望んでいた伝教大師が自らこの地に就いて彫られた薬師如来を本尊として建立された寺である。治承4(1180)年に源頼政が以仁王を奉じて平家を倒すべく兵を挙げたが、甲斐なく頼政は宇治川に破れ自害し、その首は当寺に葬らんと持ち帰ったが果たせず、途中で葬られたのが、
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亀岡市篠町の頼政塚である。京都新聞に連載された「ふるさと昔語り」の(155)で詳しく紹介されていた。京都から国道9号線で亀岡市内に向かうときいつも目にする交通標識でお馴染みの地名である。平家により寺領は没収、荒れるにまかされていたが、その後嘉禎元(1235)年天台宗達玄僧都により再興、 (写真は「久延毘古 独言」より)
室町幕府管領細川頼元により修復された。それもつかの間、明智光秀が丹波に入国した際に、一宇残さず焼き払われた。本尊薬師仏は菰に巻き山中の岩下に隠し難を免れ、この山中から流れる谷川は「菰川」と呼ばれるようになった。承応2(1653)年に本堂、阿弥陀堂、鐘楼などが再興され、天台宗から浄土宗にかわるが、その後寺勢芳しからず、延宝元(1673)年亀山藩主松平忠昭が妙心寺か禅僧を招き再々興。本堂は浄土宗建築のままで今日まで臨済宗の禅寺として続いている。難を免れた本尊は、昭和25年に国の重要文化財に指定され、昭和47年に完成した鉄筋コンクリートの収蔵庫の厨子の中に収められていて、年に一度だけ開帳される秘仏である。奈良の薬師寺に始まり比叡山に結願する西国49霊場の第43番礼所となっている。薬師の両脇侍の日光、月光菩薩も端正なお姿で、本尊と同時代の作品と見られ、亀岡市の重要文化財となっている。
 菰川の赤い小橋を渡り山門をくぐった左手の母屋で案内を請うと若いお坊さんが出てこられ、本堂の裏にある収蔵庫を開けて、上記のような説明を丁寧にして下さった。一通りの見仏が終わって戻ってくると、お坊さんの母上が「お茶でもどうぞ、御ゆっくりしていって下さい」と縁側に腰掛けるようすすめて下さった。庭を見ながら、お坊さんも交えて四方山話が始まり、四季折々の庭の写真をたくさん見せていただいた。広い境内には、いろいろな樹木だけでなく、山野草があちこちに植えられ、四季を通じて散策できる庭となっている。特にモミジ時はいいですと、見事に紅葉したイロハモミジの写真irohamomiji1を見せていただいた。この木は本堂につながる石段の右手下にあり、幹周り2mの大木で、根元から2mのところで3つに分岐して、北と南の二枝は上に延びてさらに分岐し見事な自然樹形を見せている。イロハカエデはタカオカエデともいい、最も葉の小さい部類にはいる。紅葉の美しいことで知られている。
bunngoume1 山門をくぐってすぐ右手にはブンゴウメが大きく何本もの枝を広げている。幹にはこけがつき古木然とした名木である。幹周1.5m。開花した時の様子を知りたく、写真を探してもらったが、残念なことに見つからなかった。「亀岡の名木」によると、花は美しい淡紅紫色、大きさは普通のウメに比べてずいぶん小さい。本来ブンゴウメはウメとスモモの雑種で、花茎2.5〜4cmとずいぶん大きいことから、ここのウメはブンゴウメではないのではと疑問視されている。それはともかく枝先いっぱいに小さな淡紅紫色の花が開花した時は見事なことだろう。
 もうひとつの名木コノテガシワは石段を登った、konotegashiwa1
本堂前の左手に聳えている樹高15m、幹周1.6mの針葉樹である。根元には八幡大菩薩の小社が祀ってある。樹勢は芳しくない。老衰の感じがある。コノテガシワはヒノキ科の一種で、葉に表裏の区別がなく子供が手を上げる様子に似ていることからコノテガシワの名があるが、ここのコノテガシワはとてもそのようには見えない。おじいさんのコノテガシワである。通常見られる樹高高々10mほどの園芸種のコノテガシワとはずいぶん違った樹形である。葉は止血に用いられる。
 中国の陜西省黄陵県橋山の軒轅皇帝陵にあるコノテガシワはkonotegashiwa2「世界のコノテガシワの父」(右の写真は「世界の巨樹」より)と呼ばれているものである。軒轅皇帝が植えたもので、樹齢は五千年以上とされている。日本で最大級のコノテガシワは国分寺市の祥応寺にある。幹周2.7m、樹高15m。樹齢600年以上と言われている。また、山梨県西八代郡市川三郷町の宝寿院という寺にも同程度のコノテガシワの巨樹がある。


5. 苗秀寺ishinosanmon 来た道を引っ返して篠山街道の旧道を越えて国道372を西へ走るが、左手にあるはずの苗秀寺への道が見当たらない。柿花という交差点に桜石で有名な桜天満宮の標石が建っていた。とりあえず桜天満宮を見に行こうと細道に入るが、その桜天満宮も見つからず、また国道372に出でしまった。仕方なく国道を柿花まで戻り、小さな漬け物工場で働いている人に苗秀寺への道を尋ねる。本人は知らなかったが、親切にもお父さんに電話してくれた。結局、通り過ごしていた。神蔵寺から降りてきて旧篠山街道沿いに大きな看板が出ていた。見落とすのは難しいほど大きな「苗秀寺」と「霊園アショカ苑」と書かれた看板である。下り方向からはこの看板の裏だけしか見えず通り過ごしてしまったことが分かった。
 苗秀寺はとても不思議な雰囲気の曹洞宗の禅寺である。山門(上の写真:「亀岡の写真」より)は四国から運ばれた御影石の巨石を切り抜いて門としている。鐘楼の四本の柱の礎はzoutoshishiゾウとシシの臥した姿を彫った石の彫刻である。境内の宝篋印塔は府下で二番目に古いという。またモミジの名所でもある。
 モミの木momi1arakashi1アラカシが亀岡の名木として挙っている。モミは石の山門をくぐった先にあり、直立した幹が天を仰いでいる。樹高23m、幹周り3.8m。けっこうな大木である。モミの材は淡黄白色で美しく、彫刻、家具、建築によく用いられるが、京都では明治の頃から友禅の張り板として需要が多かったという。一方、アラカシは、山門をくぐった右手の広場に直立している。根元には小さな祠が祀ってある。幹周2.9m、樹高18m。根元から2mのところで2幹に分かれている。


カシとナラとオーク
 カシ(樫、橿、櫧)とは、ブナ科コナラ属の常緑高木の一群の総称である。一方、ナラ(楢、枹)とは、ブナ科コナラ属の木のうち、落葉性の広葉樹の総称。古くはハハソ(柞)ともいった。ヨーロッパでいうオークというのはブナ科コナラ属の総称でその多くが落葉樹だが、常緑樹も含めている。日本に自生している常緑のカシ(ブナ科コナラ属)は、イチイカシ、ハナガカシ、ツクバネカシ、アカガシ、シラカシ、ウラジロカシ、アラカシ、ウバメカシ。ナラ(落葉するうブナ科コナラ属)は、ミズナラ、コナラ、カシワ、ナラカシワ、クヌギである。

6. 桜天満宮と桜石
 粘板岩ホルンヘルツに含まれる菫青石仮晶が桜石である。稗田野の桜石は1922年に国の天然記念物にし指定されている。この採取地に桜天満宮がある。先ほど苗秀寺を探し回った道沿いにあるはずである。柿花の交差点に桜天満宮の標石が建っていたから間違いはなかろう。もう一度探しにいくことにした。標石に従って国道372からそれて細道に入るとすぐに小さな赤い鳥居が目に入る。鳥居をくぐって山に向かう道がついている。これかもしれないが天満宮の雰囲気ではない。夕暮れ近くになってき、無駄足は嫌なので、念のため向の民家で訪ねてみた。やっぱりここではなかった。「よく間違われますよ、もう少し先にある左手のお寺の脇です」という案内をいただいた。「積善寺」という名の寺の境内に接して桜天満宮が山の斜面に接して鎮座していた。狭い薄暗い境内をぐるりと一回りしてもそれらしいものは何も見当たらない。仕方なく、寺のインターホンのベルを押す。応対に出ていただいた女性のうれしい答え。「はい、ここにあるのが桜石です」。玄関先に見事な桜石の原石が飾ってあり、その中に大豆ぐらいの大きさの桜石が点々と混じっているではないか。
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(写真は「石の博物館」より)

 その横の浅い箱のなかには桜石がザクザクと入っていた。水を吹きかけると艶が出て輝く。奥さんが、手にされた小さな石片を半分に割られると、中から見事なうす銀色に輝いた模様が現れた。金太郎飴である。出てくるのは金太郎ではなく、六枚の花弁の桜花様の模様が現れた。「どうぞ。お守りにして下さい」といってくださった。現在は採掘禁止であるが、けっこう山に入れば見つけられるそうだ。但し「夏場はマムシが出るから…」と口を濁された。採りにいくつもりは毛頭ない。夕飯時突然飛び込んで、見せていただいただけで十分なのに、サンプルまでいただいて恐縮の至りである。
 帰ってから調べて見るとこの辺りの行者山一帯でまだまだ採れるようである。母岩は堆積岩で、マグマと接触することによって形成された変成岩の一種であるホルンフェルスと呼ばれているもので、当然大文字山でも見つかる。桜石というのは明らかに正式の鉱物名でなく、雲母と緑泥石の混合物の菫青石(アイオライト)が風化したもので、桜石の元となった菫青石の場合、3つの結晶が互いに貫通する双晶(貫入三連双晶)を形成して花びらのような形状が6つ存在している。正確を期すために京都府のレッドデータブックの説明を以下に掲げておく。
 「稗田野町行者山をほぼ中心とする3km四方の花崗閃緑岩が貫入時に周辺の泥質岩に熱変成作用を与え、ホルンフェルス化してその中に桜石を生じている(益富・内山、1940)。
菫青石は泥質岩中のAl、Mg、Si、Oが結合して生成したものと考えられ、斜方晶系の結晶形はそのままであるが実質は絹雲母と緑泥石の微粒集合体(ピナイト)に変化しており青緑色を示す。変質の原因は地下の熱水作用によるものらしい。桜石は六角短柱状で径1cm内外、長さは1〜3cmである。菫青石の結晶が三つ互いに120°で交叉した貫入双晶で擬六方結晶をなす。柱状結晶の横断面が六枚の花びら状を呈する。柱状結晶の長軸に平行な断面では錐状の結晶形が相対した砂時計構造が見られる。本地域の桜石は母岩の風化も進んでおり、他地域に比べて結晶が分離しやすい。」
 最後に桜石にまつわる伝説を2つ紹介する。

桜石鬼伝説
『昔むかし稗田野の山々を根城に,多くの鬼が住んでいた。
たまたま村を通りかかった高徳な行者が,ただならぬ妖気を感じ,これを祓うために,どこを切っても桜の花に似た模様が出てくる「桜石」と名づけられた神秘的な小石を妖気の方向に投げると,山が真二つに割れ,その深い穴に鬼が呑み込まれていった。
その後,山のふもとから,鬼の涙が温泉となって湧き出て,それに身を浸すと,あらゆる怪我や病がたちどころに快癒した。この温泉こそが,湯の花温泉の元祖である。』

 この伝説には落ちがある。温泉街関係者等が、この地のアピールの為に民話を作ったというのが事の真相らしい。温泉街を何とか売り込もうとする人たちの知恵が生んだ創作であるから、そんなに古い伝説ではない。
 しかし、桜石で山が真二つに割れたというあたりは、全く新しい創作でもないようだ。というのは「柿花」という地名は、昔は「開花」と書いたらしく、江戸時代に書かれた日本における最古の石の専門書「雲根志」(木内石亭)の後編61に次のように出ている。
『丹波国に桜花石というあり。予宝暦十一年(1761)八月十三日ここに至る。京都より十三里、亀山より五里ばかり西北に当り山口という里あり。この内に柿花村[かいばなむら]という小村ありて、山の麓に天神の小祠あり。当社の境内山中残らず桜石なり。よって桜の天神と号す。全体青し、砕く時は破れ肌に銀色にて、指頭の大いさなる花形石中にあり。また土中にあるもの軟らかなり。その山中すべて多し。』
kiuchi-sekitei「九州大学デジタル・アーカイブ」より)

 もうひとつは天満宮にまつわる伝説である。
『菅原道真の左遷にあたり隣村鹿谷村の高田正期が送別のために京に行き、道真より一株の桜をもらった。それを牛松山に植えたが、正期没後桜も枯れ、その下にあった小さい丸石に花紋がついた』という伝説である。桜天満宮の由緒については、トリガイ寿司を紹介していただいた教育委員会の樋口さんが書かれた記事がとても参考になる。その他にも桜石伝説異聞として湯の花温泉渓山閣のホムページにいくつか紹介されている。
 ようやく日も暮れ少しは暑さも和らいできた。人形浄瑠璃を見に、稗田野神社に戻る。


7. 人形浄瑠璃
 稗田野神社の大鳥居をくぐった右手に、昔の学校の木造の建物が残っており、そこが佐伯灯籠の資料館になっている。その建物の中に台灯籠をしつらえその前で人形浄瑠璃が演じられる。
 佐伯灯籠は国の無形民俗文化財で、室町時代に既に有名な祭として広く知られ、江戸時代中期に現在の祭の原形が確立したという。そのもとを辿ると平安時代中期貞観元(895)年5月に雪が降るという全国的な冷害の年に、清和天皇が稲の生育を祈って稗田野神社へ勅使を遣わし豊作を祈らせたこと、鎌倉時代中期の寛喜元(1229)年には、後堀河天皇が御所灯籠5基を下賜されたことが、佐伯灯籠祭の始まりとされている。
 佐伯灯籠には風流灯籠5基、台灯籠1基に切子灯籠などが加わって、神輿の渡御、巡行に供奉する。5基の風流灯籠にはそれぞれ年間の農作業を表した人形が飾られている。1番灯籠が「御能」、2番灯籠が「種まき」、3番灯籠が「田植え」、4番灯籠が「脱穀・臼摺り」、5番灯籠が「石場搗」となっている。祭に参加する台灯籠は1基で、間口1.38mの舞台の上で人形浄瑠璃が上演される。daitourou台灯籠で演じられる人形浄瑠璃の人形は、高さ30cmほどの小さな京雛の人形で、背中に刺した竹串で人形を操るjoururi-ningyou一人遣いの人形浄瑠璃である。この串人形による人形浄瑠璃は、文楽人形以前の古い形式とされ、これが貴重な存在となっている。佐伯灯籠保存会の人たちによりこの行事はずっと継承されてきたが、人形浄瑠璃を上演する義太夫、三味線、人形遣いの後継者不足に頭を痛めている。市からの補助で、といってもわずか数万円であるが、後継者育成に務めておられる。毎週土曜日の夜を練習日と定めて、子供たちに三味線などを教えられる。今年は3人の小学生の兄弟が前座に一曲演じてくれた。ちょっと恥ずかしそうであったが、なかなか堂にいったものであった。
 しかし、観客は始まった頃はともかく、時間が経つに連れて一人減り、又一人減りと少なくなっていった。上演の半ば頃には、長椅子に座ったまばらな観客の中を、大きなビデオカメラを抱えた、撮影専門のスタッフ達が我が物顔に動き回っているだけとなった。外の太鼓の音が大きくなってきた頃、あまりの暑さに私たちも退散した。人形浄瑠璃の担い手だけでなく、観客のいなくなってきたことが、一番の問題のように思えた。
 上演が終わった頃から、みこしと太鼓がぶつかり合う「太鼓がけ」や、みこしが灯籠を追う「灯籠追い」が行われるが
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(写真は「亀岡市情報ガイドの亀岡UP」より)
残念ながら今回は見なかった。家にたどり着いたのは夜の10時。朝の10時から夜の10時まで、30度を越す暑さの中で過ごした一日であった。


8. 佐伯という地名
 稗田野神社が鎮座している佐伯という地名についてその由来を調べてみた。「鹿屋野姫と隼人たち」というサイトにたいへん面白い話が記載されている。それによると、「稗田野神社が鎮座している亀岡市の佐伯という土地は、どうやら古代に隼人たちが住み付いていたらしい。佐伯は『和名抄』にある「佐伯郷」の遺称地とみられ、中世には佐伯庄という庄園があって、室町初期に中原康富という人が知行していた。彼の日誌である『康富記』には、応永27年8月3日条、同年11月10日条及び嘉吉2年12月4日条に、佐伯庄にあった「少所」(「氷所」の誤記とされる)に住む隼人たちのことが登場する。少所(氷所)は現在の亀岡市稗田野町佐伯から同町太田あたりに比定されており、どうやら佐伯は、上代において南九州から移り住んだ隼人たちの居住する地域で、康富の頃にもその子孫が生活していたらしいのだ。」
 京都で隼人と言えば田辺の大住を思い浮かべるが、佐伯も隼人と関係ある地名だった。その傍証として、「鹿屋野姫と隼人たち」には、次のようなことが書かれていた。
「稗田野神社に祀られている野椎命のことがある。野椎命は、伊邪那岐命の御子で野を司られた神である。またの名は鹿屋野比売という女神で、今の薩摩の阿多の郡に住んでいたが、夫神(大山津見命)に従い、日向から西海道を伊勢へと出られ淡海国の日枝の山に来られる道すがら、山野の物、甘菜辛菜に至るまで霊感を示された。そのために、邪神たちはそのお姿を見るや平伏し拝したと伝えられている女神である。全国的にみても、野椎命を祀る神社というのは比較的珍しい。ところが、亀岡市内には、稗田野神社以外にも、野椎命を祀る神社が2社もある。同市千代川町の藤越神社、および同市宮前町に鎮座する笹葉神社である。となると亀岡は一帯もかつては隼人の居住地であったということになる。」
 このことからも、この地が古くから大和朝廷と深い結び付きがあったことも理解できる。ただ、佐伯即隼人というのは少々不正確である。大和朝廷に使役された異人種の一つが佐伯族であった。『スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語』というサイトに、太田亮「姓氏家系大辞典」を引用して次のように記載されている。
「佐伯はもと種族名にして蝦夷族の一種たりしが如し。常陸國風土記茨城郡の條り『昔、國巣(俗語に云ふ、ツチクモ、又曰ふ、ヤツカハギ)なる山の佐伯、野の佐伯普く土窟を掘り置き、常に穴に居る』と。…
(佐伯部は)古今を通じて大族の一たるを失わず。最初は種族名にして、異人種と見做され、その勇猛粗野の性格は一般人の恐るる処なりき。その後その民団を以って伴部となす。佐伯部これ也。
而して其の勇悍なる性質を利用し、多く軍事に使役せしより、その名次第に高まり、その頭梁となりし。皇別、神別の諸氏は有力なる地位を占むるに至れり。即ち中央には佐伯の連あり。神代以来の名族大伴氏の族にして、大伴、佐伯の両族は長く禁廷の守衛たり。」
 また谷川健一「白鳥伝説」を引いて「伴氏(大伴氏)と佐伯氏が門をひらき、語り部を誘導する役目をし、隼人が吠声を発し、国栖が古風を奏するということである。佐伯も隼人も国栖も大和朝廷よりも先住する異族とみなされている。異族が大嘗祭に奉仕するということは大和朝廷の権威を強調するのに、大きな効果があると考えられたであろう。」
 このように、大和朝廷と深く結びついた蝦夷の流れをひいた人たちが、今の亀岡の一部に住み着いて、佐伯という地名を今日まで残したのではないか。
 「夏炉冬扇」に面白いエピソードが記されている。というより著者が佐伯にこだわった元の話がとても面白い。武笠 三(さん)(1871−1929)という人のことである。この人は一般的にはほとんど知られていないが、「雪やこんこん」で始る『雪』、「田圃の中の一本足の案山子」の『案山子』、「出て来い出て来い池の鯉」の『池の鯉』などの作詞をした人物である。文部省唱歌のため作詞者名も作曲者名も記されず歌われてきた、誰でも口ずさめる歌である。その彼の出自である武笠家は元佐伯家であった。なぜ改姓したのか。「夏炉冬扇」の著者は、佐伯というその蝦夷を髣髴とさせる名前を嫌い、武笠と改めたと考えられないだろうかと結んでいる。


 





























































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































2008年 葉 月

制作ノート 普請中の弁
今月の巻頭言
今月の虫の眼探訪記 亀岡の巨樹と砥石
今月の遊び drifts
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